しつこいですが、今日も恋愛禁止条例の話。
「努力と結果」と「マジ」から恋愛禁止条例を捉えなおす ~アイドル教AKB48派~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/06274a88e4fb6eb09fdaa1c1cb125590
↑前回のエントリを書いていたら、ふと日本理化学工業の会長、大山泰弘さんのことを思い出した。
恋愛禁止条例の是非に関する議論に欠けている論点が、この日本理化学工業にはあると思ったからだ。
今回は、私がいつも述べる「理念」だとか「生き様」だとかとは少しだけ違う視点から、恋愛禁止条例について考えを述べたい。
--------------
日本理化学工業株式会社
http://www.rikagaku.co.jp/
いろんなメディアで取り上げられた企業なので知ってる人もいると思うが、日本理化学工業は、1937年(昭和12年)に設立された老舗チョークメーカーである。
(最新の情報が手元にないので少し前の情報になるが、2008年当時は社員数が73人、売上は5億3900万円、純利益が1600万円、売り上げの7割をチョークが占め、国内シェア30%)
日本理化学工業が注目される理由は、社員の7割が知的障害者だからである。
しかし、同社は障害者のために設立された会社ではなく、あくまでも営利企業である。
そんな日本理化学工業が障害者を雇うきっかけはなんであったのか。
1959年、ある養護学校の教員が同社に訪れ、その施設の子供の採用を懇願してきた。
当時、2代目社長として経営を引き継いだばかりであった大山さんは、「障害者は足手まといになる」と断った。
経営者として当然の判断かもしれない。
しかし、その教員は諦めずに何度も何度も大山さんに懇願した。
何度目かの時、教員はついに諦めた。
ただし、採用は諦めるが、施設の子供たちに働く体験をさせて欲しいと願い出た。
期間は2週間。
大山さんは、2週間で済むならという気持ちで引き受けることにした。
こうして、日本理化学工業は2人の15歳の少女を2週間だけ受け入れ、彼女らができそうな単純な仕事を形式的に与えた。
すると、2人は毎朝誰よりも早く会社に来て、声をかけるまで手を止めないほど真面目に働き続けた。
約束の2週間が終わろうという頃、大山さんに2人の雇用継続を願い出たのは、なんと現場の社員たちだった。
「この子たちを採用してください。私たちが面倒を見ますから。」という。
小さなチョーク製造会社に余裕があるはずがなかったが、一生懸命に働く彼女らの姿と、それを支援する社員たちのことを想うと、大山さんは彼らを採用したいという感情が込み上げた。
悩んだ大山さんの背中を押したのは、創業者である父が病床でつぶやいた言葉だったという。
「知的障害者が働く会社が、ひとつくらい日本にあってもいいだろう。やってみたらいい。」
この2人の少女は、その後定年退社を超えてまで同社で働くことになる。
社員の7割が知的障害者で、業界トップの業績を上げるようになるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
まずもって、知的障害者を雇用することは、効率性の面では決してよいこととは言えない。
普通であれば、一度で済む指示や説明を、何度も繰り返さなければならない。
また、一般社員は自分の仕事だけではなく、障害者のケアまでしなければならない。
事実、そうした不満が社内に充満したこともあったという。
金融機関からも、「なぜ障害者を雇用するのか」と疑問の声があがった。
しかし、大山さんは障害者雇用を優先する理念を貫いた。
大山さんはこう説明する。
(これは、非常に重要な論点なので、噛みしめて読んでもらいたい。)
障害者を雇うようになって数年たっても、彼らがなぜ喜んで工場に通ってくるのか、私は不思議でなりませんでした。工場で働くよりも施設で暮らした方が幸せではないかと思っていました。言うことを聞かないため「施設に帰すよ」と言うと、泣きながら嫌がる障害者の気持ちがわかりませんでした。
そんな時、ある法事で禅寺のお坊さんと席が隣り合わせになり、その疑問をぶつけたことがありました。するとそのお坊さんは即座に、
「幸せとは、(1)人に愛されること、(2)人に褒められること、(3)人の役に立つこと、(4)人に必要とされることです。愛はともかく、あとの3つは仕事で得られることですよ。」
とおっしゃったのです。私のその言葉に深く納得しました。人が働くことは、自分のためであるが、人のためでもある。企業が利益を追求するのは当然ですが、同時に社員が幸せを求める場であると考えるようになりました。
49年前、知的障害者の受け入れを始めたのはほんの偶然でしたが、健常者・障害者を問わず、働けることは幸せなことであり、その幸せを与える場が企業なのだと考えるようになった私は、障害者雇用にこれまで以上に積極的になりました。
もちろん、理想ばかり高くても飯が食えねばならない。
当然のことながら、日本理化学工業は「知的障害者の戦力化」のための様々な工夫をしている。
「人間を工程に合わせるのではなく、工程を人間に合わせる」という発想のもと、1人ひとりの特性に合わせて最も効果的な作業を考案しているのだが、その点を語りだすと長くなるので、詳細は他を参考して欲しい。
----------------
私は、この話の中に、恋愛禁止条例に関する議論の混乱を解決する糸口があると思っている。
それは、お坊さんが語ったとされる人間の幸せについての部分だ。
(こういう時に便利な)「マズローの欲求段階説」を使って、この話題について考えてみよう。

人生は(狭義の意味での)「恋愛」だけで構成されているわけではない。
「恋愛」は偉大ではあるが、あくまでも人生を構成する重要な要素の1つだ。
その他にも重要な要素は数多ある。
それを「仕事」という媒体を通して得られるのだとしたら?
(もちろん仕事以外によってでも得られるだろうけれども。相対的に仕事が得やすいという話。)
そして、人はそれらの要素を総動員して、「自分という存在」を確かめようとする。
人生は、ありたい自己を確立するための、そのありたい自己というものが何なのかを知るための旅だ。
「人」と「仕事」を繋ぐ「チャネル」、最終的には「自己存在」を探求するための「チャネル」として『AKB48』を捉え直した時、「恋愛禁止条例」が持つ意味を理解できるのではないだろうか。
(芸能界予備校という概念ではこれを説明づけられない。早急に古臭くなったフレームワークから脱却しよう。)
大山さんの言葉を、読み替えてみよう。
企業をAKB48に、知的障害者をメンバーに置き換えてみれば、きっと感じるものがあるに違いない。
「努力と結果」と「マジ」から恋愛禁止条例を捉えなおす ~アイドル教AKB48派~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/06274a88e4fb6eb09fdaa1c1cb125590
↑前回のエントリを書いていたら、ふと日本理化学工業の会長、大山泰弘さんのことを思い出した。
恋愛禁止条例の是非に関する議論に欠けている論点が、この日本理化学工業にはあると思ったからだ。
今回は、私がいつも述べる「理念」だとか「生き様」だとかとは少しだけ違う視点から、恋愛禁止条例について考えを述べたい。
--------------
日本理化学工業株式会社
http://www.rikagaku.co.jp/
いろんなメディアで取り上げられた企業なので知ってる人もいると思うが、日本理化学工業は、1937年(昭和12年)に設立された老舗チョークメーカーである。
(最新の情報が手元にないので少し前の情報になるが、2008年当時は社員数が73人、売上は5億3900万円、純利益が1600万円、売り上げの7割をチョークが占め、国内シェア30%)
日本理化学工業が注目される理由は、社員の7割が知的障害者だからである。
しかし、同社は障害者のために設立された会社ではなく、あくまでも営利企業である。
そんな日本理化学工業が障害者を雇うきっかけはなんであったのか。
1959年、ある養護学校の教員が同社に訪れ、その施設の子供の採用を懇願してきた。
当時、2代目社長として経営を引き継いだばかりであった大山さんは、「障害者は足手まといになる」と断った。
経営者として当然の判断かもしれない。
しかし、その教員は諦めずに何度も何度も大山さんに懇願した。
何度目かの時、教員はついに諦めた。
ただし、採用は諦めるが、施設の子供たちに働く体験をさせて欲しいと願い出た。
期間は2週間。
大山さんは、2週間で済むならという気持ちで引き受けることにした。
こうして、日本理化学工業は2人の15歳の少女を2週間だけ受け入れ、彼女らができそうな単純な仕事を形式的に与えた。
すると、2人は毎朝誰よりも早く会社に来て、声をかけるまで手を止めないほど真面目に働き続けた。
約束の2週間が終わろうという頃、大山さんに2人の雇用継続を願い出たのは、なんと現場の社員たちだった。
「この子たちを採用してください。私たちが面倒を見ますから。」という。
小さなチョーク製造会社に余裕があるはずがなかったが、一生懸命に働く彼女らの姿と、それを支援する社員たちのことを想うと、大山さんは彼らを採用したいという感情が込み上げた。
悩んだ大山さんの背中を押したのは、創業者である父が病床でつぶやいた言葉だったという。
「知的障害者が働く会社が、ひとつくらい日本にあってもいいだろう。やってみたらいい。」
この2人の少女は、その後定年退社を超えてまで同社で働くことになる。
社員の7割が知的障害者で、業界トップの業績を上げるようになるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
まずもって、知的障害者を雇用することは、効率性の面では決してよいこととは言えない。
普通であれば、一度で済む指示や説明を、何度も繰り返さなければならない。
また、一般社員は自分の仕事だけではなく、障害者のケアまでしなければならない。
事実、そうした不満が社内に充満したこともあったという。
金融機関からも、「なぜ障害者を雇用するのか」と疑問の声があがった。
しかし、大山さんは障害者雇用を優先する理念を貫いた。
大山さんはこう説明する。
(これは、非常に重要な論点なので、噛みしめて読んでもらいたい。)
障害者を雇うようになって数年たっても、彼らがなぜ喜んで工場に通ってくるのか、私は不思議でなりませんでした。工場で働くよりも施設で暮らした方が幸せではないかと思っていました。言うことを聞かないため「施設に帰すよ」と言うと、泣きながら嫌がる障害者の気持ちがわかりませんでした。
そんな時、ある法事で禅寺のお坊さんと席が隣り合わせになり、その疑問をぶつけたことがありました。するとそのお坊さんは即座に、
「幸せとは、(1)人に愛されること、(2)人に褒められること、(3)人の役に立つこと、(4)人に必要とされることです。愛はともかく、あとの3つは仕事で得られることですよ。」
とおっしゃったのです。私のその言葉に深く納得しました。人が働くことは、自分のためであるが、人のためでもある。企業が利益を追求するのは当然ですが、同時に社員が幸せを求める場であると考えるようになりました。
49年前、知的障害者の受け入れを始めたのはほんの偶然でしたが、健常者・障害者を問わず、働けることは幸せなことであり、その幸せを与える場が企業なのだと考えるようになった私は、障害者雇用にこれまで以上に積極的になりました。
もちろん、理想ばかり高くても飯が食えねばならない。
当然のことながら、日本理化学工業は「知的障害者の戦力化」のための様々な工夫をしている。
「人間を工程に合わせるのではなく、工程を人間に合わせる」という発想のもと、1人ひとりの特性に合わせて最も効果的な作業を考案しているのだが、その点を語りだすと長くなるので、詳細は他を参考して欲しい。
----------------
私は、この話の中に、恋愛禁止条例に関する議論の混乱を解決する糸口があると思っている。
それは、お坊さんが語ったとされる人間の幸せについての部分だ。
「幸せとは、�人に愛されること、�人に褒められること、�人の役に立つこと、�人に必要とされることです。愛はともなく、あとの3つは仕事で得られることですよ。」
(こういう時に便利な)「マズローの欲求段階説」を使って、この話題について考えてみよう。

人生は(狭義の意味での)「恋愛」だけで構成されているわけではない。
「恋愛」は偉大ではあるが、あくまでも人生を構成する重要な要素の1つだ。
その他にも重要な要素は数多ある。
それを「仕事」という媒体を通して得られるのだとしたら?
(もちろん仕事以外によってでも得られるだろうけれども。相対的に仕事が得やすいという話。)
そして、人はそれらの要素を総動員して、「自分という存在」を確かめようとする。
人生は、ありたい自己を確立するための、そのありたい自己というものが何なのかを知るための旅だ。
「人」と「仕事」を繋ぐ「チャネル」、最終的には「自己存在」を探求するための「チャネル」として『AKB48』を捉え直した時、「恋愛禁止条例」が持つ意味を理解できるのではないだろうか。
(芸能界予備校という概念ではこれを説明づけられない。早急に古臭くなったフレームワークから脱却しよう。)
大山さんの言葉を、読み替えてみよう。
49年前、知的障害者の受け入れを始めたのはほんの偶然でしたが、健常者・障害者を問わず、働けることは幸せなことであり、その幸せを与える場が企業なのだと考えるようになった私は、障害者雇用にこれまで以上に積極的になりました。
企業をAKB48に、知的障害者をメンバーに置き換えてみれば、きっと感じるものがあるに違いない。
自分はもともと恋愛禁止条例の意義もわかるし、趣旨に賛同しているので主さんに立場が近いと思うのですが。
でも、こんな条例必要ないと思ってるヲタから見れば(もしかすればメンバーの一部も?)、
・恋愛しながら48としての仕事をして何が悪い。
・恋愛してファンが減るのは自己責任。していようといなかろうと、芸能人としての圧倒的な魅力や美貌、パフォーマンスやキャラでファンの心を掴んでいる限り、何ら問題はない。
・多数のファンが構わないと言っているのに、恋愛したからといって、解雇したり、辞退を強いたり、左遷したり処分するのはファン軽視でおかしい
・ ヘタに恋愛禁止条例とか解釈も不透明で恣意的な悪法があるから、形式犯であれこれ責められる元凶になる。
と思っているはずです(特に、OさんやSさん支持層は)。
そういう人にとっては、日本理化学工業の障害者の事例で仕事の有難み・価値を説いても理解できず、「恋愛しても仕事できるように、条例改正しろ」としかならないのではないかと思いました。
擬似恋愛対象として、時間も心も金銭もヲタに捧げさせる以上、恋人であるかのようにピュアであれ、それが顧客への信頼を得て維持する前提であるということが、条例の立法趣旨だと思うのですが、もともと擬似恋愛対象ではなく楽しんでいるファンにとっては、それが信頼の条件ではないはず。
※ 菊地彩香が条例の元凶のような気がしますが、解雇されたのは条例違反が原因でもなく、元カレとその一派がネット上でヲタを侮辱したこととか、肉体関係の存在がほのめかされた生々しさ等がショックを与え、大混乱を引き起こしたからじゃなかったでしょうか。
その後、早乙女美樹とか西川七海、SKEの「いつメン」4人、森杏奈、NMBの「ホテル4」に島田玲奈、米沢瑠美、平嶋夏海、HKT5人等とその違反として処分されたと解される者もいますが、秋元才加は恋愛じゃないはずなのにキャプテンやめてマラソンを走らされている。指原のように重罪にも関わらず実質何も処分されていない者もいれば、大島優子仲川遥香一派のようにうやむやに終わるものもある。石黒貴己、大場美奈あたりは入団前の過去で処分されたように見える。
「こんな不透明で恣意的なら、こんなルールない方がよっぽどマシ」と思うヲタがいれば、それもそうかなと共感する次第。
管理人さんがおっしゃる理念としての恋愛禁止条例に関してはおおよそ理解できました。
宗教的な側面をみればそのような理念も理解できます。
おそらく管理人さんと私の意見が違うのはおそらく恋愛禁止条例に関する部分だと思います。
古参ファンの友人などに聞いてみると、当初は恋愛禁止という理念はなく、数々のトラブル対処が積み重なって既成事実のようになった感じです。友人の話によると恋愛禁止と明確に言われるようになったのは2010年頃らしいです。
ネットなどの情報を総合するとAKBのファン層のうち複数買いをするコアなファンは三割ぐらいであとの七割はライトファンみたいです。
実際のところライトファンにとっては恋愛禁止条例はどうでもいいかんじです。極端なことを言えば曲と話題などを提供してくれればいい感じです。
またコアなファンにとっても恋愛禁止条例を気にしない人も数多くいます。
実際、恋愛禁止条例を気にしているファンはそこまで多くないかもしれません。
また、恋愛禁止条例は処分の不透明性、事後法による遡及処罰のような問題、特定のメンバーのアンチが政争の具として利用しているなど、一般的な法解釈から見れば大きく逸脱して法律上の問題を生む状態にもなりうる可能性があります。
恋愛は女優や歌手としての表現力を上げるには非常に有効な面があります。
恋愛をしていても支持してくれるファンを掴めれば多様性を認めるという観点からみればそれはそれでいいと思います。
以前、書いたことに少し補足するとファン層の構成などを考えると恋愛を解禁した場合に得られるアドバンテージなどと恋愛禁止条例を継続した場合のリスクなどを天秤にかけると解禁した方がアドバンテージが大きいと思います。
世の中には絶対的なものは存在せず、ビジネスにおける意思決定はリスクとアドバンテージなどを天秤にかけて相対的にどちらがアドバンテージが大きいかで判断すると思います。
そう考えると私は恋愛を解禁した方がいいと思います。
主さんが仰ってるのはAKB側がどう考えるかで、ファンがどう考えるかは規定してないのでは?
AKB側が理念として持っていれば、ファン側にルールとして見せる必要がないという話なのかと思いましたよ。
そういうことですか…
コメントありがとうございます。
返信が遅くなりましたが、恋愛禁止条例を「コモンロー」として捉えるのが良いのではないかという意見をエントリ化いたしましたので、是非ご覧になってください。
恋愛禁止条例を、ルールではなく、理念や生き様といったものを規定するものだと理解するには、制定法ではなく慣習法として考えた方がよい、という内容です。
AKB市民をどう醸成していくかが本丸 ~ 恋愛禁止条例は「コモン・ロー」である ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/55a577149d152112419717d55ea7a760
コメントありがとうございます。
>古参ファンの友人などに聞いてみると、当初は恋愛禁止という理念はなく、数々のトラブル対処が積み重なって既成事実のようになった感じです。友人の話によると恋愛禁止と明確に言われるようになったのは2010年頃らしいです。
返信が遅くなりましたが、仰る通りで、恋愛禁止条例を「コモンロー」として捉えるのが良いのではないかという意見をエントリ化いたしましたので、是非ご覧になってください。
恋愛禁止条例を、ルールではなく、理念や生き様といったものを規定するものだと理解するには、制定法ではなく慣習法として考えた方がよい、という内容です。
AKB市民をどう醸成していくかが本丸 ~ 恋愛禁止条例は「コモン・ロー」である ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/55a577149d152112419717d55ea7a760
>以前、書いたことに少し補足するとファン層の構成などを考えると恋愛を解禁した場合に得られるアドバンテージなどと恋愛禁止条例を継続した場合のリスクなどを天秤にかけると解禁した方がアドバンテージが大きいと思います。
私は恋愛解禁に対して懐疑的です。
私は、AKB48にとって重要なのはファンからの「自分があの子を支えなければ」「あの子を応援したい」という使命感にも恋心にも似た想いだと思います。
これは疑似恋愛ではなく、上質な恋愛観の想起なのです。
メンバーのことを友人や恋人、家族のように考えること、これは基本的に余計なお世話です。
普通は、友人関係や恋人関係という契約を相互に結んでいないと、なかなかこういう余計なお世話ができません。
「所有」が前提なのです。
AKB48の革新性の一つは、「所有」を「利用」に変えたことです。
(レンタルやクラウドによるトレンドの変化と同じ)
つまり、これまでは友人や恋人でなければできなかったことが、AKB48なら「所有」せずとも「利用」することができます。
心地よく「利用」できること、これが非常に重要です。
単純に、私は、恋愛に一生懸命になる人を、応援はできますが、自分を投げ打ってまで応援できません。
(ある程度に成長したメンバーなら、メンバー次第で可能な気もしますので、コモンローのエントリを参照願します。どちらにせよメンバー次第)
ライト層を重視するなら、恋愛解禁をしてもよいのかもしれません。
しかし、私はライト層を重視するようになったらAKB48は長期的には衰退するだけだと思っています。
なので、私は恋愛解禁に懐疑的です。
私の感じ方が全てではないので、みんなに押し付ける気はありません。
コメントありがとうございます。
>AKB側が理念として持っていれば、ファン側にルールとして見せる必要がないという話なのかと思いましたよ。
仰る通りで、AKB48側が恋愛禁止条例についてどう考えるか、という点が非常に重要だと思っています。
ファンが認めるとか認めないとかの前に、AKB48としてどう考えているのか、という点が意識統一されていないなと思うわけです。
コメントありがとうございます。
理解して頂けたなら嬉しいです。
またコメント頂けると嬉しいです。