近頃、アドバイスしようとして自分の考えを述べる時、いつも説教くさくなるような気がするので自省しなきゃいけないなぁと思いながら、それでもここでも書いてしまいます。
今日の話題は「サプライズ」について。
前に「サプライズは喜んでもらうためにやるもの」と書いたことがあるのですが、言葉足らずでした。
(簡単に書いただけなので)
サプライズというのは喜んでもらうためにやるもの
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/8ccdcfd42b1ba6af03335377ec84dada
ある人が言うのです。
喜んでもらおうと思って、自分の想いを伝えるためにサプライズをしたい。
そう思う気持ちや行動を否定する気は全くないのですし、たとえ否定するとしても他人の私が意見するのは余計なお世話というものです。
ただ、それだけでは不十分であり、ほとんど無意味だと伝えたいのです。
ここに宮城県女川町立女川第一中学校2年生一同による「津波の被害を最小限にする方法」の提言があります。
ここでは1000年後の命を守るために、3つのコトを実現する必要があると提案されています。
さて、ここで問題です。
この3つに共通するものは何でしょうか?
女川中学生の訴え(朝日新聞:宮城県女川町立女川第一中学校2年生一同)
私たちは、社会の授業でふるさとの地理的な特徴を調べ、「津波の被害を最小限にする方法」を考えました。
「大地震の時は一人ひとりがとにかく逃げる」
あるグループで、こう結論が出た瞬間です。
「逃げよう!と言っても逃げない人がいるんだよ。それはどうするの?」
友達が涙ながらに訴えました。友達の祖父は、高台への避難を呼びかけ多くの命を救いました。しかし、逃げようとしなかった方の家に3度目に向かい、流されてしまったのです。
「あの過酷な体験をした私たちにしか言えないことを出し合おう」と話し合いを最初からやり直しました。
私たちはまだ中学生ですが、あの大震災の中で大切な命を、家族や先生、町の人など、たくさんの方々が守ってくれました。今度は、再びやってくるといわれる千年後の命を守るため、ぜひ実現したいことが三つあるのです。
一つ目は、「互いの絆を深める」ことです。非常時に一人一人の命を守るためには、ふだんから互いの絆を深めることが必要だと、大震災での体験で感じました。もっと絆を強くしておけば、避難を呼びかけて亡くなってしまった、友達の大切な祖父や多くの人たちの尊い命を守れたはずです。
第2は、「高台へ避難できる町づくり」です。住宅や病院、学校などは、津波が絶対に来ない高台に移します。でも、女川では漁師さんや加工場の人たちは海沿いで働くことになります。そこで、夜でも、初めて来た観光客にも分かるように、太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への広い避難路を整備しておくのです。
そして、何より大切であり、私たちがぜひ実現したいと願っているのは、この大震災の出来事を「記録に残す」ことです。
わかりましたか?
これがわからない人はきっとサプライズ下手な人でしょう。
正解は「日常のコト」であるということです。
釜石の奇跡 信頼が生み出す希望
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/19e5c128b52b0dd9b2ebda6cd6fba210
不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。
昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。
現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。
では、続けて問題です。
なぜ「日常のコト」が重要なのでしょうか?
考えたことがありますか?
正解は「人は人に理解させることはできない」からです。
世に正義が存在すると信じる偽善、だがそれは人間の性 【リメイク】
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ac8cd9dbee06389b1a672c076d7cd0b8
彼はアウシュビッツの極限状態においても、最終決定権は他者にはないことを説明している。
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
「信教の自由」の権利があるとかないとか、そんな次元の話ではない。
単純に、人に信じ込ませることはできないのだから、「何を信じるかは個人の自由」なのである。
よく「教える」と言いますが、何人たりとも「理解させる」ことはできません。
人間には、「自分で理解する」以外に、理解する方法は与えられていないのです。
ですから「理解する」素地のない人に、いくら教えようと、諭そうと、理解させようと努力することは無駄です。
(厳密には、その努力が後々に繋がるので無駄とは言い切れませんが、その場で結果を得られることはまずない、という意味で無駄です。)
理解というのは日常的に作り込んでいくものなのです。
入山杏奈の素敵なクイズ投稿を支持する。みんなでファンの理解を引き出す方法論を探求するべき
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e4337029ed5bbe32ab7b48e2ec9f96c2
「伝える」ではなく、「伝わる」努力
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/7fc6b6a9239f3f30c6e5084a6cf0a85e
伝える技術や道具は世に溢れている
しかし、人は人に理解させることはできない。
人は人に理解を与えることはできないし、与えてもらうこともできない。
想いに実態も形もないから、取って渡すわけにもいかない。
最後は自分で理解するしかない。
だから本質的に人は孤独なんだ。
完全な伝える技術や道具を持たない。
本態的に人は弱い。
独りだから。
伝わるのだと、信じるしかない。
人は自分で理解するから。
想いは伝わるもの。
伝わっていくもの。
伝える努力、ではなく
伝わる努力
サプライズが相手の心に響くとき、相手の心の中で何が起きているのでしょうか?
「これだ!これだ!」「そうだよね!そうだよね!」となっているのです。
何かを理解する喜びです。
日常的なバックグラウンドがあるから、サプライズを機会にして相手のコンテキストを発火することができます。
準備もなしにサプライズだけで何かを理解しろというのは無理です。
中には、ちょっとしたサプライズに喜びを感じる安上がりな人もいることでしょう。
たとえば、普段は全く見向きもされずひどいことばかりされていても、年に1回くらい優しさを見せられると「あの人は気持ちを表現することは苦手だけど、やっぱり私のことを本当のところでは大切に思っている。」などというパターン。
しかし、その場合何が起きているかというと、その人は日常的に「あの人は本当はこういう人」と理解したいと思っているわけです。
で、優しくされた時に「やっぱりそうだ!」と思うと。
(それが幸せな人生なのか不幸な人生なのかは知りません・・)
そして、さらにいうと、理想的にはサプライズ後の「ストーリー」が見えるといいですね。
これまで述べたのは、「現在のサプライズ」が「過去をモノゴト」に対する理解を深めるというお話でしたが、よりいい理解というのは「将来」をも理解できるものだと思います。
現在のサプライズを機会に、その先にどういう世界があるのか、どういう経験(理解)が待っているのかを理解できると。
「ビジョン」とも言いますが。
過去、現在、未来をつなぐ方法論として「サプライズ」を考えてみてはいかがでしょうか。
ちょっと最後端折っちゃいましたが・・時間内に書く技術がなくて・・
今日の話題は「サプライズ」について。
前に「サプライズは喜んでもらうためにやるもの」と書いたことがあるのですが、言葉足らずでした。
(簡単に書いただけなので)
サプライズというのは喜んでもらうためにやるもの
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/8ccdcfd42b1ba6af03335377ec84dada
ある人が言うのです。
喜んでもらおうと思って、自分の想いを伝えるためにサプライズをしたい。
そう思う気持ちや行動を否定する気は全くないのですし、たとえ否定するとしても他人の私が意見するのは余計なお世話というものです。
ただ、それだけでは不十分であり、ほとんど無意味だと伝えたいのです。
ここに宮城県女川町立女川第一中学校2年生一同による「津波の被害を最小限にする方法」の提言があります。
ここでは1000年後の命を守るために、3つのコトを実現する必要があると提案されています。
さて、ここで問題です。
この3つに共通するものは何でしょうか?
女川中学生の訴え(朝日新聞:宮城県女川町立女川第一中学校2年生一同)
私たちは、社会の授業でふるさとの地理的な特徴を調べ、「津波の被害を最小限にする方法」を考えました。
「大地震の時は一人ひとりがとにかく逃げる」
あるグループで、こう結論が出た瞬間です。
「逃げよう!と言っても逃げない人がいるんだよ。それはどうするの?」
友達が涙ながらに訴えました。友達の祖父は、高台への避難を呼びかけ多くの命を救いました。しかし、逃げようとしなかった方の家に3度目に向かい、流されてしまったのです。
「あの過酷な体験をした私たちにしか言えないことを出し合おう」と話し合いを最初からやり直しました。
私たちはまだ中学生ですが、あの大震災の中で大切な命を、家族や先生、町の人など、たくさんの方々が守ってくれました。今度は、再びやってくるといわれる千年後の命を守るため、ぜひ実現したいことが三つあるのです。
一つ目は、「互いの絆を深める」ことです。非常時に一人一人の命を守るためには、ふだんから互いの絆を深めることが必要だと、大震災での体験で感じました。もっと絆を強くしておけば、避難を呼びかけて亡くなってしまった、友達の大切な祖父や多くの人たちの尊い命を守れたはずです。
第2は、「高台へ避難できる町づくり」です。住宅や病院、学校などは、津波が絶対に来ない高台に移します。でも、女川では漁師さんや加工場の人たちは海沿いで働くことになります。そこで、夜でも、初めて来た観光客にも分かるように、太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への広い避難路を整備しておくのです。
そして、何より大切であり、私たちがぜひ実現したいと願っているのは、この大震災の出来事を「記録に残す」ことです。
わかりましたか?
これがわからない人はきっとサプライズ下手な人でしょう。
正解は「日常のコト」であるということです。
釜石の奇跡 信頼が生み出す希望
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/19e5c128b52b0dd9b2ebda6cd6fba210
不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。
昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。
現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。
では、続けて問題です。
なぜ「日常のコト」が重要なのでしょうか?
考えたことがありますか?
正解は「人は人に理解させることはできない」からです。
世に正義が存在すると信じる偽善、だがそれは人間の性 【リメイク】
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ac8cd9dbee06389b1a672c076d7cd0b8
彼はアウシュビッツの極限状態においても、最終決定権は他者にはないことを説明している。
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
「信教の自由」の権利があるとかないとか、そんな次元の話ではない。
単純に、人に信じ込ませることはできないのだから、「何を信じるかは個人の自由」なのである。
よく「教える」と言いますが、何人たりとも「理解させる」ことはできません。
人間には、「自分で理解する」以外に、理解する方法は与えられていないのです。
ですから「理解する」素地のない人に、いくら教えようと、諭そうと、理解させようと努力することは無駄です。
(厳密には、その努力が後々に繋がるので無駄とは言い切れませんが、その場で結果を得られることはまずない、という意味で無駄です。)
理解というのは日常的に作り込んでいくものなのです。
入山杏奈の素敵なクイズ投稿を支持する。みんなでファンの理解を引き出す方法論を探求するべき
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e4337029ed5bbe32ab7b48e2ec9f96c2
よって、「ファンの理解を引き出す」ことが重要だ。
「伝える」ではなく、「伝わる」努力
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/7fc6b6a9239f3f30c6e5084a6cf0a85e
伝える技術や道具は世に溢れている
しかし、人は人に理解させることはできない。
人は人に理解を与えることはできないし、与えてもらうこともできない。
想いに実態も形もないから、取って渡すわけにもいかない。
最後は自分で理解するしかない。
だから本質的に人は孤独なんだ。
完全な伝える技術や道具を持たない。
本態的に人は弱い。
独りだから。
伝わるのだと、信じるしかない。
人は自分で理解するから。
想いは伝わるもの。
伝わっていくもの。
伝える努力、ではなく
伝わる努力
サプライズが相手の心に響くとき、相手の心の中で何が起きているのでしょうか?
「これだ!これだ!」「そうだよね!そうだよね!」となっているのです。
何かを理解する喜びです。
日常的なバックグラウンドがあるから、サプライズを機会にして相手のコンテキストを発火することができます。
準備もなしにサプライズだけで何かを理解しろというのは無理です。
中には、ちょっとしたサプライズに喜びを感じる安上がりな人もいることでしょう。
たとえば、普段は全く見向きもされずひどいことばかりされていても、年に1回くらい優しさを見せられると「あの人は気持ちを表現することは苦手だけど、やっぱり私のことを本当のところでは大切に思っている。」などというパターン。
しかし、その場合何が起きているかというと、その人は日常的に「あの人は本当はこういう人」と理解したいと思っているわけです。
で、優しくされた時に「やっぱりそうだ!」と思うと。
(それが幸せな人生なのか不幸な人生なのかは知りません・・)
そして、さらにいうと、理想的にはサプライズ後の「ストーリー」が見えるといいですね。
これまで述べたのは、「現在のサプライズ」が「過去をモノゴト」に対する理解を深めるというお話でしたが、よりいい理解というのは「将来」をも理解できるものだと思います。
現在のサプライズを機会に、その先にどういう世界があるのか、どういう経験(理解)が待っているのかを理解できると。
「ビジョン」とも言いますが。
過去、現在、未来をつなぐ方法論として「サプライズ」を考えてみてはいかがでしょうか。
ちょっと最後端折っちゃいましたが・・時間内に書く技術がなくて・・