語りたいことがあるので、その準備のために2年半前に書いたエントリをリメイクします。
世に正義が存在すると信じる偽善、だがそれは人間の性
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/12bfa6e2ac8b076fc35ee5a7c81fd773
◆◆◆◆◆◆
まず、最初に明確にしておくが、「何を信じるか」は個人の自由だ。
(ここでの「個人」に特に意味はない。「ひとりの人」と置き換えてもらってもよい。)
なぜ自由なのか?
答えは簡単だ。
厳密に言って、人に何かを信じ込ませることはできないからだ。
「洗脳」や「強制」はできる。
しかし、それでも最後に何を信じるかを決めることは、その人自身にしかできない。
ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』は、そのことを実に説得力をもって語る事例の一つだ。

彼はアウシュビッツの極限状態においても、最終決定権は他者にはないことを説明している。
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
「信教の自由」の権利があるとかないとか、そんな次元の話ではない。
単純に、人に信じ込ませることはできないのだから、「何を信じるかは個人の自由」なのである。
秀吉がキリシタンに対して行った踏み絵にしてもだ。
踏むか、踏まずに死を選ぶかという選択は、本人にしかできないのである。
時の権力者が、絶世の美女の心を奪えるとは限らない。
いかに富と地位と名誉と名声があったとしても、人の心を奪うことはできない。
どのような説得力ある合理的説明を持ってしても、人を止められないことは腐るほどある。
重要なことは「人は人にわからせること、理解させること、信じさせること、これらはできない。」ということを理解することだ。
権利章典や何かで、「信教の自由」を宣言するのはいい。
だが、その本来の意味は「そもそも不可能だから強制すべきではない。」なのである。
◆◆◆◆◆◆
さて、いつも通り前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入ろう。
当Blog開設初期にかなりこの辺りを攻め込んだが、再度ここで私見を述べる。
まず、この2つを読んで欲しい。
エコロジーという自民族中心主義(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51388955.html
これは偽善だ!(映画『オーシャンズ』を観て)(俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100214/p1
池田信夫氏が述べているように、キリスト教では人間の長年の悩みに一つの答えを与えている。
「あらゆるものが人間のためにある。」と。
博愛主義とは、所詮人間同士の話で、その他動物が含まれるわけではない。
そもそも、なぜ宗教がこのようなことを定義する必要があったのか考えてみよう。
(説明するまでもないが)
誰もが子供時代に考えたことであろうし、大人になれば子供に聞かれることが次だ。
例えば「なんで人を殺してはダメなのに、豚はいいの?」と。
仏教の寺院では殺生はダメなので精進料理に肉は使われないから、余計に気になるはずだ。
「犬や猫が虐待されていると大問題になるのに、なんで保健所で何十万頭と犬が殺されているの?」と。
もし、この問いに答えられるなら、あなたはキリスト教のお世話になる必要がない。
だが、この問いに答えられない人はどうすればいいだろう。
困るだろう。
「なんで?なんで?」と子供が聞いてくる。
あなたは困る。
この問いに答えなければ、しかも「動物は必要なら殺してもいいんだよ。」と答えなければ、あなたはとんでもない罪を犯していることになる。
殺人ならぬ、殺動物犯だ。
ここに便利なツールがある。
「宗教」である。
宗教は教えてくれる。
「神は人間のために必要な動物や植物を用意してくれたのだよ。」と。
「だから、人間が生きるためには殺してもいいのだ。」と。
あなたは救われる。
これで何も悩まなくていいのだ。
なぜなら、神様がお墨付きを与えてくれたのだから。
子供に胸を張って言えばいい。
「それがこの世なんだよ。神様のおかげで我々は生きれるんだ。聖書のどこどこに書いてある。感謝しなきゃね。」と。
同じ宗教を信じている限り、その宗教内では悩まなくていいことが増える。
この宇宙にはわからないことばかりだ。
我々が知っている世界はほんの限られた宇宙の一部だけでしかない。
そんなわからないことだらけの世界で生きるのはとても不安なことだ。
知らないことだらけの世界に生きるのは、暗闇の中を歩くのと同じで、恐ろしいことだ。
神様が善悪を決めてくれて、それを共有している限り、同じ価値観を共有して、安定した社会に住むことができる。
宗教(に限らずあらゆる主義思想も同じだが)を信じれば、わからないことだらけの宇宙が、非常に見通しのよいものになる。
これほど力強いものはない。
「信じることはあなたの道を照らす灯火」なのである。
(「信じること」を「信仰」に置き換えてみれば、それが宗教なのがわかるだろう。)
人間が全知全能なら、何かを信じる必要がない。
全てがわかるから。
何かを信じる(信じたい)のは、人間が本態的な意味で弱いからである。
(ここでいう「弱さ」は不完全な知性しか持っていないという意味)
ただ、弱くないなら、そもそも我々人間は存在しない。
ここにいる必要がないし、存在価値がないのである。
(ここは高度に形而上学的なので細かい議論は避けるが)
不完全知で「全知全能」は想像できないと思うので、こう考えたらわかる。
まず、全てがわかるなら、死なない。
怪我しない。
困らない。
悩まない。
考える必要もない。
何かをする必要もない。
つまり、存在しない。
存在する必要がないから。
我々は、不完全ゆえに、今ここに存在する。
だから、我々が「何かを信じること」は避けられない。
そして、それは罪などでもない。
そこで、当ブログの主張に繋がる。
我々は不完全だ。
それを認めよう。
そして、その上で、信じよう。
「もっと自覚的に信じよう」
信じることは悪いことではない。
誰かと信じていることが違うからといって、それに善悪はない。
重要なことは「自分も相手も信じている」ということを自覚することだ。
「自分は信じている」という発想から、新しい知見への柔軟性が生まれる。
私は、そう信じている。
世に正義が存在すると信じる偽善、だがそれは人間の性
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/12bfa6e2ac8b076fc35ee5a7c81fd773
◆◆◆◆◆◆
まず、最初に明確にしておくが、「何を信じるか」は個人の自由だ。
(ここでの「個人」に特に意味はない。「ひとりの人」と置き換えてもらってもよい。)
なぜ自由なのか?
答えは簡単だ。
厳密に言って、人に何かを信じ込ませることはできないからだ。
「洗脳」や「強制」はできる。
しかし、それでも最後に何を信じるかを決めることは、その人自身にしかできない。
ヴィクトール・E・フランクルの名著『夜と霧』は、そのことを実に説得力をもって語る事例の一つだ。

彼はアウシュビッツの極限状態においても、最終決定権は他者にはないことを説明している。
人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。
「信教の自由」の権利があるとかないとか、そんな次元の話ではない。
単純に、人に信じ込ませることはできないのだから、「何を信じるかは個人の自由」なのである。
秀吉がキリシタンに対して行った踏み絵にしてもだ。
踏むか、踏まずに死を選ぶかという選択は、本人にしかできないのである。
時の権力者が、絶世の美女の心を奪えるとは限らない。
いかに富と地位と名誉と名声があったとしても、人の心を奪うことはできない。
どのような説得力ある合理的説明を持ってしても、人を止められないことは腐るほどある。
重要なことは「人は人にわからせること、理解させること、信じさせること、これらはできない。」ということを理解することだ。
権利章典や何かで、「信教の自由」を宣言するのはいい。
だが、その本来の意味は「そもそも不可能だから強制すべきではない。」なのである。
◆◆◆◆◆◆
さて、いつも通り前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入ろう。
当Blog開設初期にかなりこの辺りを攻め込んだが、再度ここで私見を述べる。
まず、この2つを読んで欲しい。
エコロジーという自民族中心主義(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51388955.html
これは偽善だ!(映画『オーシャンズ』を観て)(俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100214/p1
池田信夫氏が述べているように、キリスト教では人間の長年の悩みに一つの答えを与えている。
「あらゆるものが人間のためにある。」と。
博愛主義とは、所詮人間同士の話で、その他動物が含まれるわけではない。
そもそも、なぜ宗教がこのようなことを定義する必要があったのか考えてみよう。
(説明するまでもないが)
誰もが子供時代に考えたことであろうし、大人になれば子供に聞かれることが次だ。
例えば「なんで人を殺してはダメなのに、豚はいいの?」と。
仏教の寺院では殺生はダメなので精進料理に肉は使われないから、余計に気になるはずだ。
「犬や猫が虐待されていると大問題になるのに、なんで保健所で何十万頭と犬が殺されているの?」と。
もし、この問いに答えられるなら、あなたはキリスト教のお世話になる必要がない。
だが、この問いに答えられない人はどうすればいいだろう。
困るだろう。
「なんで?なんで?」と子供が聞いてくる。
あなたは困る。
この問いに答えなければ、しかも「動物は必要なら殺してもいいんだよ。」と答えなければ、あなたはとんでもない罪を犯していることになる。
殺人ならぬ、殺動物犯だ。
ここに便利なツールがある。
「宗教」である。
宗教は教えてくれる。
「神は人間のために必要な動物や植物を用意してくれたのだよ。」と。
「だから、人間が生きるためには殺してもいいのだ。」と。
あなたは救われる。
これで何も悩まなくていいのだ。
なぜなら、神様がお墨付きを与えてくれたのだから。
子供に胸を張って言えばいい。
「それがこの世なんだよ。神様のおかげで我々は生きれるんだ。聖書のどこどこに書いてある。感謝しなきゃね。」と。
同じ宗教を信じている限り、その宗教内では悩まなくていいことが増える。
この宇宙にはわからないことばかりだ。
我々が知っている世界はほんの限られた宇宙の一部だけでしかない。
そんなわからないことだらけの世界で生きるのはとても不安なことだ。
知らないことだらけの世界に生きるのは、暗闇の中を歩くのと同じで、恐ろしいことだ。
神様が善悪を決めてくれて、それを共有している限り、同じ価値観を共有して、安定した社会に住むことができる。
宗教(に限らずあらゆる主義思想も同じだが)を信じれば、わからないことだらけの宇宙が、非常に見通しのよいものになる。
これほど力強いものはない。
「信じることはあなたの道を照らす灯火」なのである。
(「信じること」を「信仰」に置き換えてみれば、それが宗教なのがわかるだろう。)
人間が全知全能なら、何かを信じる必要がない。
全てがわかるから。
何かを信じる(信じたい)のは、人間が本態的な意味で弱いからである。
(ここでいう「弱さ」は不完全な知性しか持っていないという意味)
ただ、弱くないなら、そもそも我々人間は存在しない。
ここにいる必要がないし、存在価値がないのである。
(ここは高度に形而上学的なので細かい議論は避けるが)
不完全知で「全知全能」は想像できないと思うので、こう考えたらわかる。
まず、全てがわかるなら、死なない。
怪我しない。
困らない。
悩まない。
考える必要もない。
何かをする必要もない。
つまり、存在しない。
存在する必要がないから。
我々は、不完全ゆえに、今ここに存在する。
だから、我々が「何かを信じること」は避けられない。
そして、それは罪などでもない。
そこで、当ブログの主張に繋がる。
我々は不完全だ。
それを認めよう。
そして、その上で、信じよう。
「もっと自覚的に信じよう」
信じることは悪いことではない。
誰かと信じていることが違うからといって、それに善悪はない。
重要なことは「自分も相手も信じている」ということを自覚することだ。
「自分は信じている」という発想から、新しい知見への柔軟性が生まれる。
私は、そう信じている。
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