震災被害が大きかった岩手県釜石市。
その釜石市で震災当日にある奇跡が起きていた。
■釜石市の情報
(2010年時)
人口:39,578人
世帯数:16,095人
(震災被害:4/25現在)
死者数:714人
行方不明者数:978人
合計:1,692人
建物被害(全壊数+半壊数):3,723件
■小中学生の死者・行方不明者数
合計:5人
病気で学校を休んでいた子を含めて、5人を除いてほとんどの小中学生が生き残ったのだ。
小学生1927人、中学生999人、生存率は99.8%。
釜石市街の港近くにある釜石小学校では、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいたが、ここでも児童全員が津波から生き残った。
一体、釜石で何が起こったのか。
小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない
「想定外」を生き抜く力 (片田敏孝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312
今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。
だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。
日本最大、世界一の堤防を作るといったハードの力によってではなく、不測の事態にどう対応するかというソフト「社会対応力」の強化によって生存率99.8%という奇跡を起こしたのだ。
想定される全てに対応することはできないし、全てを想定し切る事もできない。
しかし、非常時には不測の事態は起こる。
どう対応するべきか。
答えはない。
強いて言うなら、健全な「多様性」と臨機応変な「柔軟性」だろう。
1つの答えに固執したり過信したりしないことだ。
それを担保するために、基礎的な部分についてはハードの力を存分に使い対応し、それ以上のところはソフトの力で対応する。
そういった姿勢が重要だ。
科学技術の発展は、便利とともに過信を生み出した。
それを、知恵(ソフト)の力でどう克服するか、そういったことを次の部分で述べている。
[中略]
2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見ればこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさを感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。
住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。
[中略]
こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子どもへのアンケートだ。
「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだった。
私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。
大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。
この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(4月5日現在)と、釜石市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波及効果もあったのではないか。
この話のクライマックスは最終章にある。
これこそが、我々に足りないものではないか。
ハザードマップを信じるな
知識と実践を組み合わせたのは、災害文化の醸成が目的だったからだ。どれだけ知識を植えつけても、時間がたてば人間はその記憶を失ってしまう。いざというときに無意識に行動できるようになるには、実践によって知識を定着させることが必要だ。釜石市の小中学校では年間5時間から十数時間を、津波防災教育に費やした。
防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオにすぎない。最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法があると伝えた。それが逃げることだ。
もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでばらばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げという教訓である。私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配をするなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」と伝えた。
どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。私は、今回の震災で命を落とした少女たちの声に耳を傾け、防災教育の広がりに微力を尽くしていきたいと、あらためて思いを強くしている。
不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。
昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。
現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。
3.11当日、多くの同僚たちが会社に留まらずに帰宅した。
テレビでは「翌日が休日だからみんな帰りたかった。」などと言っていたが、少なくても私の周りの者は、家族の安否を心配して帰宅していった。
一方で私は家が遠いこともあったが、当初家族と連絡が取れないタイミングで会社に留まる決断をした。
震災時に帰宅難民が混乱を大きくすると、以前から警告されていたことを知っていたし、TVもネットも通じる会社に留まった方がより多くの情報が得られ、冷静な対応ができると思ったからだった。
そして、私は普段から家族にいざという時の「覚悟」を求めていたこともある。
痩せ我慢かもしれない。
結果として問題がなかったから言えることかもしれない。
私ひとり痩せ我慢したところで何も変わらないかもしれない。
しかし、私は、当日「家族は必ず無事でいる」と信じていたし、家族も私が無事でいると信じていると考えた。
このことによって、私は気持ちを強く持てたのだ。
非常事態に「信頼」を保ち得るものは、ハードではなくソフトの力なのではないか。
それは一日にして成るものではなく、日ごろの訓練の賜物である。
その釜石市で震災当日にある奇跡が起きていた。
■釜石市の情報
(2010年時)
人口:39,578人
世帯数:16,095人
(震災被害:4/25現在)
死者数:714人
行方不明者数:978人
合計:1,692人
建物被害(全壊数+半壊数):3,723件
■小中学生の死者・行方不明者数
合計:5人
病気で学校を休んでいた子を含めて、5人を除いてほとんどの小中学生が生き残ったのだ。
小学生1927人、中学生999人、生存率は99.8%。
釜石市街の港近くにある釜石小学校では、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいたが、ここでも児童全員が津波から生き残った。
一体、釜石で何が起こったのか。
小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない
「想定外」を生き抜く力 (片田敏孝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312
今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。
だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。
日本最大、世界一の堤防を作るといったハードの力によってではなく、不測の事態にどう対応するかというソフト「社会対応力」の強化によって生存率99.8%という奇跡を起こしたのだ。
想定される全てに対応することはできないし、全てを想定し切る事もできない。
しかし、非常時には不測の事態は起こる。
どう対応するべきか。
答えはない。
強いて言うなら、健全な「多様性」と臨機応変な「柔軟性」だろう。
1つの答えに固執したり過信したりしないことだ。
それを担保するために、基礎的な部分についてはハードの力を存分に使い対応し、それ以上のところはソフトの力で対応する。
そういった姿勢が重要だ。
科学技術の発展は、便利とともに過信を生み出した。
それを、知恵(ソフト)の力でどう克服するか、そういったことを次の部分で述べている。
[中略]
2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見ればこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさを感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。
住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。
[中略]
こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子どもへのアンケートだ。
「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだった。
私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。
大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。
この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(4月5日現在)と、釜石市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波及効果もあったのではないか。
この話のクライマックスは最終章にある。
これこそが、我々に足りないものではないか。
ハザードマップを信じるな
知識と実践を組み合わせたのは、災害文化の醸成が目的だったからだ。どれだけ知識を植えつけても、時間がたてば人間はその記憶を失ってしまう。いざというときに無意識に行動できるようになるには、実践によって知識を定着させることが必要だ。釜石市の小中学校では年間5時間から十数時間を、津波防災教育に費やした。
防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオにすぎない。最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法があると伝えた。それが逃げることだ。
もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでばらばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げという教訓である。私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配をするなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」と伝えた。
どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。私は、今回の震災で命を落とした少女たちの声に耳を傾け、防災教育の広がりに微力を尽くしていきたいと、あらためて思いを強くしている。
不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。
昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。
現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。
3.11当日、多くの同僚たちが会社に留まらずに帰宅した。
テレビでは「翌日が休日だからみんな帰りたかった。」などと言っていたが、少なくても私の周りの者は、家族の安否を心配して帰宅していった。
一方で私は家が遠いこともあったが、当初家族と連絡が取れないタイミングで会社に留まる決断をした。
震災時に帰宅難民が混乱を大きくすると、以前から警告されていたことを知っていたし、TVもネットも通じる会社に留まった方がより多くの情報が得られ、冷静な対応ができると思ったからだった。
そして、私は普段から家族にいざという時の「覚悟」を求めていたこともある。
痩せ我慢かもしれない。
結果として問題がなかったから言えることかもしれない。
私ひとり痩せ我慢したところで何も変わらないかもしれない。
しかし、私は、当日「家族は必ず無事でいる」と信じていたし、家族も私が無事でいると信じていると考えた。
このことによって、私は気持ちを強く持てたのだ。
非常事態に「信頼」を保ち得るものは、ハードではなくソフトの力なのではないか。
それは一日にして成るものではなく、日ごろの訓練の賜物である。
コメントありがとうございます。
ずいぶんとハイな感じになっているようですね。
智太郎さんは冷静さが売りですか?
ハイな中で落ち着きを保とうとする心の動きを感じるようなコメントですね。
過激すぎるのは困りますが、落ち着いたコメントなら歓迎です。
よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。
返信が遅くなりまして申し訳ありあせん。
釜石Jrさんは、釜石の方なのですか?
筋肉じゃないですが超回復できるとよいですよね。
言うだけなら簡単ですけど・・。
今回の出来事を前向きに捉えて、これまで気づかなかった我々の行動を制約しているミエナイチカラと連動して、そのチカラを自分たちの望む方向へ変えていく、そんなことを日本に先駆けて考えていければ、きっと明日は変わっていく。
のかなと、簡単に言うなって感じですけど。
金もモノも出す程のものは持っておりませんが、知恵なら協力するので、これからもよろしくお願いいたします。