粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

野田前総理の発言とカチカチ山

2014-01-14 14:43:31 | 厄介な隣国

報道によると野田佳彦前首相が名指しを避けながらも、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領について「米欧に行っては女学生のような『言いつけ外交』をやって日本を批判している」と語ったことに、韓国メディアが猛反発している、という。

特に朝鮮日報は「外交的失礼のみならず、日本という国の性差別への認識レベルを反映させた」とこの「女学生」という言葉に敏感に反応している。つまり、女学生が話す言葉=告げ口と決めつけることは女性差別に繋がるというわけだ。

野田前首相は朴槿恵氏が女性大統領で独身である事を意識しておそらく発言したと思われる。女学生がするような政治などというのは確かに発言には問題があって、日本のフェミニストからも批判がでてきそうだ。ただ、潔癖趣味で夢想的に現実の政治を語る人々に対してはよく否定的な意味で揶揄されることは確かだと思える。

ところでこの野田発言で自分自身、昔読んだ小説の事を思い出した。太宰治の「お伽草子」の3番目に出てくる「カチカチ山」だ。「お伽草子」は太宰が戦時中、5歳の娘に語り聞かせたおとぎ話から着想を得て新たな文学的解釈で小説風にしたものだ。

その中でこの「カチカチ山」に最も鋭い人間観察が向けられている。山で罠にかかった狸を老夫婦が家で煮て調理をしようとする。狸を必死で逃げようとして暴れておばさんを殺めて逃げる。これに怒った兎が仕返しをして最後は泥舟で狸を溺死させてしまう。

この物語を聞いた娘が「狸さん、可愛そうね」が思わず発したのを太宰は意外に思った。よくよく考えてみると確かに、このやり方が執拗すぎると太宰自身もはたと感じる。

一撃のもとに倒すといふやうな颯爽たる仇討ちではない。生殺しにして、なぶつて、なぶつて、さうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段は、一から十まで詭計である。これは日本の武士道の作法ではない。

彼自身このやり方は「男らしくない」と疑念を覚えるのだ。そして、太宰が思い至った結論はこうだ。

安心し給へ。私もそれに就いて、考へた。さうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だといふ事がわかつた。この兎は男ぢやないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。

60も過ぎた朴槿恵大統領をこの兎に例えるのは不謹慎かもしれない。ただ相手側に直接文句を言わないで海外の政治家やマスコミばかりに告げ口をするのは日本からすれば「武士道の作法」に反して男らしくない。野田元首相が武士らしいかどうかわからないが、彼から見ると朴氏はプライドだけは強く潔癖過ぎる16歳の処女のように映ったのだろう。

朴槿恵大統領がしばしば問題にする慰安婦問題、ソウルでは毎週水曜日に女子大生たちが手をつなぎ合って日本大使館を囲んで抗議する集会が22年も続いているという。この女子大生たちもまるでカチカチ山の兎の集団のように思える。

太宰はこの兎をギリシャ神話に登場するアルテミスという処女になぞらえている。ヴイナスのやうな「女らしさ」が無く、乳房も小さい。気にいらぬ者には平気で残酷な事をする。…けれども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。さうして、その結果(悲惨)は、たいていきまつてゐるのである。

カチカチ山の狸も結局、純白な少女に見える兎に横恋慕し、その弱みから兎の奸計にまんまと貶められた。くれぐれも日本の政治家がこんな愚鈍な狸であって欲しくないと切に願うばかりだ。