原発事故の実態が次第に明らかになりつつあるが、これほどまでに危険なものを運転しながら、
その危険さが全く認識されていなかったような気がしてならない。
原子炉が冷却水系統の電源を失って間もなく炉内は異常温度上昇を始め、瞬く間にメルトダウンへ
と進んだ。その結果、燃料棒の被覆が溶け水素ガスが大量に発生した。
本来なら水素ガス発生による内圧が高まれば、当然ながら圧力に耐えきれなくなって大爆発をする
ところであった。関係者はぎりぎりのところでベントと呼ばれている設備のバルブを開け、内圧を
下げる作業を行った。
ところが開放したはずのベントは大気放出とはならず建家の中へ放出された。その水素ガスに何ら
かの原因で火がつき建家を吹き飛ばすほどの大爆発となった。
ベントの開放は人力で行われたのであろうか。電源もなく制御設備も地震と大津波で壊れていたで
あろう。作業員はいつ爆発するかも分からないと言う恐怖と闘いながらの作業であったに違いない。
ベントの開放は最後の手段であった。これを行えば内圧を下げることは出来ても水素ガスと共に
大量の核物質が大気中に放出されるからである。だから設備はあっても絶対に捜査してはならない
ものであった。
こうした一連の経緯を報道で知り、私は私の在職中の事を思い出した。化学工場にも同じような
設備が設置されているからだ。それは合成樹脂を作る重合という工程にある。反応缶に圧力を掛けて
いるものもあれば大気圧で行われるものもある。
いずれにせよ通常の場合、何ら心配するようなことはない。しかし、反応中に電源を失ったときは
直ちに非常電源に切り替わり運転が続けられるようにしている。
私は新しい設備の設計時、ことのほか反応缶の電源喪失時に関し、こうした設備はどのような経過
をたどるのか事故防止に付いて考えたことがあった。電源を失うことは致命的な事故になりかねない
からである。
専門家やオペレーターに何度と無く、そうした状態に対処すべき方法について問いただしたことを
今は懐かしく思い出す。最終的には内圧を下げるために大気放出しか無いという事であった。 その
設備が使うようなことがあってはならないベントという大気放出のための設備であった。
運転現場では、原子炉が作られた当時の人は非常に少なくなっているのではないだろうか。大半は
職場を変わり、中には定年退職をした人もいるだろう。
設備は20年、30年前を経過したものであるが運転している世代は次々と変わり、設計思想が
どの程度受け継がれて来たのか、危険性がどの程度認識されていたのか、多くの疑問が残る。
恐らく、この原子炉を作った人達の多くは様々な経験の中から危険きわまりないものだという認識
があったに違いない。だから試運転時など緊張の連続だったのではないだろうか。しかし、その緊張
は次々に引き継がれていく世代に、どの程度認識されていたのだろうか。
原子炉の爆発は化学工場の爆発とは本質的に異なる。被害の度合いが根底から異なるからである。
にもかかわらず電源が失われたとき、原子炉が万が一暴走を始めたとき、そのような不測の事態を
どの程度認識していたのであろうか。
原子炉建家周辺の排水口のあちらこちらから汚染水が洩れだし、それが海に流れ込んでいるという
報道がなされていたとき、ああここも老朽化が進んでいたのだな、それにも関わらず一般の工場と
同じように修理のための投資も行われず、コスト面だけが追求されていたのだなと思った。
原子炉は本来コストを考えてはいけない設備であった。にもかかわらず経済効率のみが重視され
それ相応の投資がなされてこなかったのではないだろうか。実は、これが我が国の経済の実態であり
世界の経済の実態である。
全てが経済効率というものの考え方で行われてきた。そして人の世は移ろいやすい。先輩達が緊張
の中で運転を始めた頃の思いは次第に薄れ、後輩達には伝わっていなかったのではないだろうか。
今回の事故は起こるべくして起こったと言っても過言ではない。神ならぬ人間が行うことである。
そこには目に見えぬほころびが至るところに垣間見えるのである。そして核汚染は偏西風に乗って
瞬く間に世界中へと拡散していった。そして海も汚染された。
しかし、同じような核物質による汚染は50数年近く前にもあった。それは繰り返し行われていた
大気圏内の核実験である。競うように繰り返し行われていた核実験により大量の核物質が情け容赦
なく私達の上に降り注いでいた。
その核汚染の紛れもない目撃者の一人が私である。その頃、今のように放射能測定器は一般的に
知られていなかった。わずかにガイガーカウンターという奇妙な名前の測定器が放射能を計るもの
だと認識されているに過ぎなかった。その測定器を使って降下してきた放射能を測っていた。
今にして思えば恐るべき放射能の量であった。地球人は一様にモルモット状態であった。そして
核実験場近くの住民達は、もっとひどい被爆者であった。一般の人が放射能の怖さを知ったのは
ソ連時代のチェルノブイリ原発事故の時からであった。
事故発生後、周辺住民は数日間何も知らされないまま被爆し続けたのであった。その結果、多くの
子ども達に放射性ヨウ素による甲状腺異常が生じた。そして今も多くの人が後遺症に苦しんでいる。
原子炉という人間の制御が出来ないものを残しておくべきではない。今こそ本気になって省エネ
に取り組むべき時ではないだろうか。私には遅々として進まない二酸化炭素の削減に、いらだった
神が与えた警告のような気がしてならないのである。
このまま運転を続けるならば第二、第三の原発事故は、いつ生ずるか予測も付かない。ましてや
活断層が原発の下にもあり地震国日本に於いてである。
経済一辺倒の考えを改めると共に、本気で地球温暖化による気象変動に目を向けるべきである。
神は人の手で解決出来ないような試練は与えないと言われている。であるならば今こそ真剣に省エネ
と二酸化炭素の削減に取り組むべき時ではないだろうか。そして一日も早く脱原発を行うべきである。
次回は放射能被害と健康について考えてみたい。
その危険さが全く認識されていなかったような気がしてならない。
原子炉が冷却水系統の電源を失って間もなく炉内は異常温度上昇を始め、瞬く間にメルトダウンへ
と進んだ。その結果、燃料棒の被覆が溶け水素ガスが大量に発生した。
本来なら水素ガス発生による内圧が高まれば、当然ながら圧力に耐えきれなくなって大爆発をする
ところであった。関係者はぎりぎりのところでベントと呼ばれている設備のバルブを開け、内圧を
下げる作業を行った。
ところが開放したはずのベントは大気放出とはならず建家の中へ放出された。その水素ガスに何ら
かの原因で火がつき建家を吹き飛ばすほどの大爆発となった。
ベントの開放は人力で行われたのであろうか。電源もなく制御設備も地震と大津波で壊れていたで
あろう。作業員はいつ爆発するかも分からないと言う恐怖と闘いながらの作業であったに違いない。
ベントの開放は最後の手段であった。これを行えば内圧を下げることは出来ても水素ガスと共に
大量の核物質が大気中に放出されるからである。だから設備はあっても絶対に捜査してはならない
ものであった。
こうした一連の経緯を報道で知り、私は私の在職中の事を思い出した。化学工場にも同じような
設備が設置されているからだ。それは合成樹脂を作る重合という工程にある。反応缶に圧力を掛けて
いるものもあれば大気圧で行われるものもある。
いずれにせよ通常の場合、何ら心配するようなことはない。しかし、反応中に電源を失ったときは
直ちに非常電源に切り替わり運転が続けられるようにしている。
私は新しい設備の設計時、ことのほか反応缶の電源喪失時に関し、こうした設備はどのような経過
をたどるのか事故防止に付いて考えたことがあった。電源を失うことは致命的な事故になりかねない
からである。
専門家やオペレーターに何度と無く、そうした状態に対処すべき方法について問いただしたことを
今は懐かしく思い出す。最終的には内圧を下げるために大気放出しか無いという事であった。 その
設備が使うようなことがあってはならないベントという大気放出のための設備であった。
運転現場では、原子炉が作られた当時の人は非常に少なくなっているのではないだろうか。大半は
職場を変わり、中には定年退職をした人もいるだろう。
設備は20年、30年前を経過したものであるが運転している世代は次々と変わり、設計思想が
どの程度受け継がれて来たのか、危険性がどの程度認識されていたのか、多くの疑問が残る。
恐らく、この原子炉を作った人達の多くは様々な経験の中から危険きわまりないものだという認識
があったに違いない。だから試運転時など緊張の連続だったのではないだろうか。しかし、その緊張
は次々に引き継がれていく世代に、どの程度認識されていたのだろうか。
原子炉の爆発は化学工場の爆発とは本質的に異なる。被害の度合いが根底から異なるからである。
にもかかわらず電源が失われたとき、原子炉が万が一暴走を始めたとき、そのような不測の事態を
どの程度認識していたのであろうか。
原子炉建家周辺の排水口のあちらこちらから汚染水が洩れだし、それが海に流れ込んでいるという
報道がなされていたとき、ああここも老朽化が進んでいたのだな、それにも関わらず一般の工場と
同じように修理のための投資も行われず、コスト面だけが追求されていたのだなと思った。
原子炉は本来コストを考えてはいけない設備であった。にもかかわらず経済効率のみが重視され
それ相応の投資がなされてこなかったのではないだろうか。実は、これが我が国の経済の実態であり
世界の経済の実態である。
全てが経済効率というものの考え方で行われてきた。そして人の世は移ろいやすい。先輩達が緊張
の中で運転を始めた頃の思いは次第に薄れ、後輩達には伝わっていなかったのではないだろうか。
今回の事故は起こるべくして起こったと言っても過言ではない。神ならぬ人間が行うことである。
そこには目に見えぬほころびが至るところに垣間見えるのである。そして核汚染は偏西風に乗って
瞬く間に世界中へと拡散していった。そして海も汚染された。
しかし、同じような核物質による汚染は50数年近く前にもあった。それは繰り返し行われていた
大気圏内の核実験である。競うように繰り返し行われていた核実験により大量の核物質が情け容赦
なく私達の上に降り注いでいた。
その核汚染の紛れもない目撃者の一人が私である。その頃、今のように放射能測定器は一般的に
知られていなかった。わずかにガイガーカウンターという奇妙な名前の測定器が放射能を計るもの
だと認識されているに過ぎなかった。その測定器を使って降下してきた放射能を測っていた。
今にして思えば恐るべき放射能の量であった。地球人は一様にモルモット状態であった。そして
核実験場近くの住民達は、もっとひどい被爆者であった。一般の人が放射能の怖さを知ったのは
ソ連時代のチェルノブイリ原発事故の時からであった。
事故発生後、周辺住民は数日間何も知らされないまま被爆し続けたのであった。その結果、多くの
子ども達に放射性ヨウ素による甲状腺異常が生じた。そして今も多くの人が後遺症に苦しんでいる。
原子炉という人間の制御が出来ないものを残しておくべきではない。今こそ本気になって省エネ
に取り組むべき時ではないだろうか。私には遅々として進まない二酸化炭素の削減に、いらだった
神が与えた警告のような気がしてならないのである。
このまま運転を続けるならば第二、第三の原発事故は、いつ生ずるか予測も付かない。ましてや
活断層が原発の下にもあり地震国日本に於いてである。
経済一辺倒の考えを改めると共に、本気で地球温暖化による気象変動に目を向けるべきである。
神は人の手で解決出来ないような試練は与えないと言われている。であるならば今こそ真剣に省エネ
と二酸化炭素の削減に取り組むべき時ではないだろうか。そして一日も早く脱原発を行うべきである。
次回は放射能被害と健康について考えてみたい。
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