575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

父、竹中皆二の短歌から 〜山川登美子〜 ① 竹中敬一

2017年09月13日 | Weblog

 ああ時は過ぐ生誕百年目の三人 登美子・廉太郎・河上肇 (昭和54年)

 小浜城かたへの川を眺め居て山川登美子をおもふ何故 (昭和42年)

父は滝廉太郎 作曲の「荒城の月」をよく歌っていたし、マルクス経済学者・河上肇
の思想にかぶれていた時期がありました。
薄幸の歌人、山川登美子の生家は、我が家から1里 (約3、3キロ) ほど離れた小浜の
竹原地区にあり、私はいつもその生家近くの道を徒歩で旧制中学へ通っていました。
そんなわけで、山川登美子が明治時代の明星派の歌人で、与謝野鉄幹をめぐって
晶子のライバルとして、悲恋の末、29歳という若さで亡くなったことは知っていました。

父が以前に、登美子について何か調べていたことを思い出し、父が創刊した短歌誌
「風」を見てみたところ、昭和37年第11号に「山川登美子ノート」と題する話が
載っていました。
「私が登美子の歌に親しむようになったのは、昭和24・5年の頃、山川登美子の幼少の
友であった故 土田数雄氏 (退役海軍大佐で、小浜町長をしたことがある)という人の
来訪を受け、二冊の未刊の原稿を示された事に始まる。その原稿は山川登美子の死後、
病床の下から発見されたといふノートを基として編んだものであった。」

山川登美子と土田数雄との関係について調べた人がいます。私の高校時代の同級生で
母校、若狭高校の教諭だった四方吉郎君 (故人)で、自著「若狭余禄」(平成15年、
洛西書院)の中で次のように述べています。

土田数雄は登美子より4歳年下。彼女と同じ旧士族の出身でお互い家が近く、土田は
幼い頃、登美子の家へはよく出入りしていたようです。
土田は70歳近くになって、才女で美人だった登美子のことが忘れられず、登美子の
研究を思いたったそうです。
土田は「恋衣」などに発表された登美子の歌の他に、未発表の作品があるのではと思い、
登美子の末弟で、当時、茨城県に住んでいた山川亨蔵に、遺品の有無を問合せました。

亨蔵は登美子より八歳 年下。プロレタリア文学運動に参加するなど共産党員として活躍。
妻の実家に身を寄せていました。明治42年、登美子が肺結核で亡くなった時、遺族は
登美子の遺品をすべて焼却しようとしましたが、亨蔵は病床に隠されていた三冊の
ノートなどの遺品を拾い上げ、手元に保管していました。
土田数雄は、三冊のノートを借り受けました。そこには、びっしり登美子の歌が書き
込まれていました。

経緯が長くなりましたが、父の話に戻すと、父が土田氏から見せてもらった「二冊の
未刊の原稿」には、土田氏が三冊のノートから抄出した登美子の未発表の歌が書かれて
いました。
父の回想によると、土田氏の手書きの原稿には誤字や漢字と仮名の使い分けも間違って
いたりして、読みにくいようでしたが、その中から登美子の歌 二十首を妙出し、登美子
の簡単な履歴を付けて、30部程ガリ版で刷って知人に進呈しました。
これが、登美子の歌が広く世に出るきっかけともなりました。    (つづく)

                 

写真は、父が創刊した短歌誌「風」の山川登美子に関する話(昭和37年)を再録した
「若狭人物叢書」(昭和46年 刊 )と山川登美子


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