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575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

韓国船水難救護の記録 ① ー漂着船にまつわる話 ー竹中敬一

2017年03月10日 | Weblog
日本列島の日本海側で、ただ一つくぼんだ部分が若狭湾です。
その中央部に内外海 (うちとみ)半島があります。
この半島には14の集落が、それぞれ内海、外海に面して点在しています。
これらの14ヶ村は昭和26年 (1951) 、福井県小浜市に合併されるまでは、
遠敷郡(おにゅうぐん) 内外海 村 (うちとみむら) と呼ばれていました。

私は現在、名古屋市近郊に住んでいますが、生まれた家は半島の付け根、
内海に面した阿納尻 (あのじり) にあります。
因みに、北朝鮮による拉致被害者の一人、地村(旧姓 浜本)富貴恵さんは、
阿納尻の集落から、山一つ超えた阿納(あの) 地区が出身地です。

若狭湾に面した内海外半島の浦々には、古くから漂着船にまつわる物語が
数多く残されています。
対馬暖流は日本海の西から東へ若狭湾の沿岸を洗って流れ、リマン寒流は
シベリヤ東岸を一部南下して、若狭湾でこの暖流と交わります。
朝鮮半島から早い潮に乗れば若狭湾まで3、4日で着くといいます。

古い例では奈良時代、矢代(やしろ)地区に唐船が漂着した時の物語を伝える
「手杵(てきね) 祭り」が毎年4月3日に行われていました。
子供の頃、私もこの村の加茂神社の神主をしていた父のお供をして、例祭の後
行われる奉納行事を何回か見に行きました。
天平宝字6年(763) 2月、矢代の浜に漂着した唐船めがけて、シダの葉を頭にかぶり、
杵を持った村人が襲いかかりました。そして、財宝を奪った上、貴婦人をはじめ
乗組員を殺害してしまいました。
この事件の後、疫病が流行したため、平安初期に観音堂を建て、殺害当時の様子を
再現し、舞を奉納したのが「手杵祭り」の始まりとされています。

(地元の知り合いの話によると、祭は、後継者不足で平成17年を最後に休止、
平成26年に9年ぶりに復活したものの、その後、また休止とのこと。
福井県指定の民族無形文化財に指定されていますが、残念です 。)

よほど、内外海半島の浦々には、難破船が漂着したようで、そうした場合に
どう対処すべきか、江戸時代、小浜藩主が徳川幕府の命を受けて、各浦々の庄屋に
出した通達書も残されています。
幾つかの漂着船にまつわる物語の中で、はっきりした史料が残っているのが、
明治33年(1900) 、泊村に漂着した韓国船救護の記録です。
次回からこの話に絞ってお伝えしていきたいと思います。

写真は内外海半島(福井県小浜市)と矢代(やしろ) 地区に伝わる「手杵祭り」
(昭和40年代)です。「内外海誌 昭和44年刊より」

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