HARD HEAD

旅行 社寺

小諸城跡

2014-02-11 10:37:02 | 
 2014.01.30 上田城を後にし、しなの鉄道で20分小諸駅に着きました。城跡は三の丸跡に

       しなの鉄道の線路が走っているので線路の北にある大手門から見学を始める。









  小諸城跡 日本百名城 国指定重要文化財(大手門と三の門)武田信玄の軍師 知将山本勘介、

         信濃を治める重要拠点として小諸城を大城に。その後秀吉に従う武将仙石秀久が

         城主となって二の丸、黒門、大手門などが整備された。



  小諸城、懐古園 案内図



  大手門 国指定重要文化財 小諸城の正門で本丸から数えて4番目の門に当たるので「四の門」

       とも呼ばれる。1612年藩主仙石秀久の時代の建築。二層入母屋造瓦葺の櫓門。



  こ線橋から三の丸跡と大手門を眺める。(線路の左側が小諸城、懐古園)。



  三の門 (国指定重要文化財) 懐古園の正門(旧二ノ丸表門)。二層寄棟造瓦葺の城門で、

       1615年創建。1742年の大洪水で流出し、1765年再建。両塀に矢狭間、鉄砲狭間が

       附けられた戦闘式な建物。正面の「懐古園」の扁額は徳川家達(いえさと)の筆。



  二の門跡の枡形 二層切妻造の枡形門で南面していたが、今は礎石のみが残る。

             二の丸と南丸をつなぐ渡櫓となっていた。



  中仕切門跡 北丸と南丸を結び本格郭との仕切の役目を果たしていた。

            左は番所跡、奥石段上は二の丸跡、右石垣南丸上より写す。



  二の丸跡 二の門をくぐって右側の石段を上がった高台で、小諸城の城域では一番先に城

       (白鶴城)が設けられた場所。後の仙石秀久のときに屋形が構えられ1600年の

       関ヶ原合戦のため中山道を西下した徳川秀忠の宿所にあてられた。



  南丸跡  石垣上部で武器庫などがあった所。



  北丸跡  隠居所の跡。



  黒門橋 算盤のように多数の車輪が橋の下部に付いていたことから別名算盤橋という。

       敵が攻めて来た際には短時間に橋を城内に曳きこむという戦略上の橋だった。



  黒門跡 一の門で本丸御殿の入口にあった黒塗りの門。



  本丸跡 敷地いっぱいに本丸御殿があった。現在は懐古神社が祀られている。



  本丸跡にある鏡石 小諸城築城の時に山本勘介が研磨し、この石に向かって

                      朝夕清鑑したと伝えられている。



  天守台石垣 仙石氏時代に築かれた石垣。野面積で、角の算木積も古城らしい風情がある。

        かっては三層の天守閣がそびえていたという(1626年の落雷で焼失)。



  本丸西虎口跡石垣と馬場(左)



  本丸石垣上には天守台から続く帯曲輪あった。 見下ろす平地は馬場跡。



  馬場跡 往復するだけの鉄砲馬場といわれ、桜の名所になっている。



  富士見台 天気が良い日には富士山が眺望できる。



  本丸の南の深く広い谷(木谷)を利用した堀。



  本丸の北側の地獄谷。 酔月橋より左崖上に水の手展望台の四阿が見える。



  西谷の先には千曲川が見える。この城は千曲川に向かって傾斜した深い浸食谷に突き出た

        台地を活用している。このため、城下町、三の丸、二の丸、本丸の順に低く

        なっており、「穴城」とも呼ばれている。(水の手展望台よりの眺望)



  不開(あかず)門跡 水の手展望台の下には、落城の時に逃げ道として開けられる不開門が

        あったが、徳川三百年天下は泰平とあって結局開けられないまま明治となった。



  藤村詩碑 島崎藤村の小諸時代の作「千曲川旅情のうた」の詩碑で、詩面は藤村自筆のもの。



  藤村記念館 建築家谷口吉郎氏の設計。藤村の小諸時代を中心とした作品等展示されている。



  武器庫 1807年に牧野康長によって建てられたもの。



  荒神井戸 寛保の大洪水後(1742年)に掘られたもので、城中唯一の井戸。



  本丸南側の谷。粘土質の壁が垂直に切り立ち、まさしく天然の要害。