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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「虎ノ門駅」~「五反田駅」。番外編。坂歩き。「魚籃坂」。「伊皿子坂」。「聖坂」。「幽霊坂」。「潮見坂」。「蛇坂」。「安全寺坂」(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-10 18:55:12 | 中原街道

坂道歩きの記録。再掲。

旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。



 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。

 突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。

      (いさらござか)

 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。

「魚籃坂」 (ぎょらんざか)。
 
 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
 注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。

 こちらの坂が「旧伊皿子坂」。

 「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。

      (ゆうれいざか)

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

 お寺の塀越しに「東京タワー」。

 しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
                           公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
 
「三田の坂めぐり案内図」。

     
               「聖坂」。「区立三田中学校」の前。(ひじりざか)

 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。

 「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。 (しおみざか)

            
 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。

今は海は見えないが、かつては。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。

 普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。

     振り返って望む。

 (へびざか)

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

 来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。

    
                                    斜面には菜の花が。
 
 右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。

一気に下って行きます。 (あんぜんじざか)

 坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。

    
 坂を下りきると、正面は慶應大学。

振り返って望む。

 以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その3。「聖坂」。「ちぃまっぷ」。「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」。「伊皿子坂」。「魚籃坂」。「歯科医学教育発祥之地」碑。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-09 20:20:38 | 中原街道

けっこう長い上り道が続きます。国道から1本、西側の道になります。  

「ちぃまっぷ」。

聖坂。

古代・中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。

振り返り、坂下を望む。

 「亀塚公園」。 

亀塚の名称の由来は複数伝えられている。

  • 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
  • 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

縄文時代の住居跡が発掘されている。

円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。

(この項、「Wikipedia」より)

※坂の途中、左に「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」という奇抜なビルがありますが、見逃し。

港区旧町名由来板。  

「伊皿子」交差点。左の坂が「伊皿子坂」正面が「二本榎通り、右が「魚籃坂」。

「歯科医学教育発祥之地」碑。

伊皿子交差点付近(三田四丁目18番地)に高山歯科医学院東京歯科大学の前身)が存在した。同所には「歯科医学教育発祥之地」が東京歯科大学によって設置されている。

「伊良子坂」。

泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。

およそ1600年頃に、来日した人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。明国人「伊皿子」の墓所は高輪浄土真宗本願寺派正源寺にある。

この坂を左に下り、国道1号線に出ます。

  

日本橋方向。再び坂を上がります。

途中、左に「泉岳寺」。赤穂浪士と主君のお墓があります。

「周辺開発状況」。変貌著しい。 

 西に下る魚籃坂。

魚籃坂(ぎょらんざか)

港区三田四丁目と高輪一丁目の境に存在するである。なお、魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」である。また「魚籃(ぎょらん)」とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことである。「魚らん坂」とも表記される。

魚籃坂下交差点から登り、頂上から伊皿子坂に至る(すなわち麻布側からの登りが魚籃坂、頂上から海側に降りる坂が伊皿子坂である)。

名称の由来

坂の中腹に魚籃寺が存在することから付けられた。

※この付近の坂は、以前歩いたことがあります。

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虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。赤羽橋・渋谷川・古川。慶應大学東門。「聖坂」。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-06 19:09:40 | 中原街道

今日の東京地方、久々の雨模様。

「びっくり屋」。地元の買い物客が。

「赤羽橋」にさしかかります。

  

下の流れは、渋谷川・古川          「旧赤羽橋」親柱。

渋谷川→古川。

この付近の今昔。

                             1880年代。上に「古川」。

                             現在。古川は首都高の橋脚下。

慶応大学並びの菓子屋。

慶応大東門。

                 

その先で、国道から離れ、「聖坂」を上がっていきます。                             

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1月5日。「小寒」。寒波が日本列島を覆うようですが。♪おおさむこさむ 山から小僧が泣いてきた。春の七草・七草粥。寒仕込み。

2025-01-05 19:50:15 | 世間世界

朝晩はぐっと冷え込み、少しずつ寒さも極まってきているように思います。

寒は別名「寒中・寒の内」ともいい、武道や芸事の「寒稽古」や「寒中水泳」なども寒に行われます。

今日は、二十四節気の「小寒」。

「小寒」の一つ前の節気は「冬至」(12月22日)、一つ後の節気は「大寒」(1月20日)。

この日から「節分」(2月4日頃の「立春の前日)までの約30日間を「寒(かん)」または「寒中」「寒の内」という。この日は「寒の入り(かんのいり)」ともいい、寒さの始まりを意味する。ただし、実際にはすでに寒さの厳しい時期である。

江戸時代の暦の解説書『暦便覧』では「冬至より一陽起こる故に陰気に逆らふ故、益々冷える也」と説明している。この日から「寒中見舞い」を出し始める。

おおさむこさむ
山から小僧が泣いてきた

※この「泣いてきた」の歌詞については、「やってきた」、「飛んできた」など、微妙に異なる歌われ方が存在するようです。

また、お天気用語では、「大寒」、「小寒」は、「だいかん」「しょうかん」と読みます。

関東地方。「小寒」とは裏腹の、暖かく晴れた日が続きます。明日は雨のようですが。

初候 1月5日〜1月9日頃

芹乃栄 せりすなわちさかう

芹が生え始める頃。芹は春の七草のひとつで、冷たい水辺で育ちます。一箇所から競り合って生えていることから、芹(セリ)という名前になりました。

次候 1月10日〜1月14日頃

水泉動 しみずあたたかをふくむ

地中で凍った泉の水が溶け、動き始める頃。まだまだ空気は冷たく、寒い時期ですが、春に向けて少しずつ動き出しています。

末候 1月15日〜1月19日頃

雉始雊 きじはじめてなく

雉が鳴き始める頃。雄が雌への求愛のしるしとして「ケーンケーン」と甲高い声で鳴きます。足の裏で震動を敏感に察知することができ、数秒早く地震を知らせることができます。

のもの

蝋梅ろうばい

寒さに強く、花の少ない冬に咲く貴重な花です。甘い香りが特徴的で、ろう細工のような花びらと、梅に似ていることから蝋梅という名前になりました。

柊ひいらぎ

葉の鋭いトゲによって、邪気を払う木とされています。しかし、鋭いトゲは老樹になると、トゲをなくし丸い葉になってしまいます。

河豚ふぐ

この時期の河豚は、産卵前で脂がのっています。刺身で食べる場合は「てっさ」と呼ばれ、普通の魚よりも弾力があり噛み切れないため、薄く切り、ポン酢につけて食べるのが一般的です。

野菜

七草粥ななくさがゆ

1月7日は人日の節句で七草粥の日でもあります。お正月のご馳走を食べたあと、この七草のお粥は体に沁みます。ぜひ、七日の朝には七草を刻み、お粥をつくって食しましょう。

             (「向島百花園」にて)

 『せり・なずな ごぎょう・はこべら・ほとけのざ すずな・すずしろ はるのななくさ』

1月11日(木)は、「鏡開き」。

次の写真は、3年前の1月6日。けっこうな雪模様に。

午後4時過ぎの「スカイツリー」のようすをまとめて。

   

    

        

本格的な寒さが今年は? さらに雪は・・・。

東京地方。今日、明日は、雨。しかし、寒中らしい寒さが続かず、火曜以降は、日本海側の雪に対して、乾いた晴れ間が続きそうです。 

大学入試、高校入試も始まる時期。受験生にとっても「試練の冬」がやってくる頃になり、・・・とは言うのも以前の話。

今は、前年の10月頃から、指定校推薦、公募などと大学入試の形態も様変わり。

もうすでに行き先が決まっている学生も多いようです。

「試練の冬」は、中学受験を控える小学6年生にこそ当てはまる? 

ところで、

※日本の最低気温:1902年(明治35年)1月25日、北海道上川地方旭川市で観測した「-41.0℃」。

※世界の最低気温:2010年(平成22年)8月10日、南極大陸の東部のドームA付近で観測した「-93.2℃」。

※日本の最高気温:2018年7月23日(埼玉県熊谷市)と2020年8月17日(静岡県浜松市)で観測した「41.1℃」。

温暖化の影響も大いにある昨今です。

当方としては「寒仕込み」ということに興味が。そこで、

冬場に造る酒はうまい

日本酒で「寒仕込み」という言葉をよく聞く。「寒造り」とも呼び、冬場の寒い時期に仕込むのが、日本酒伝統の製法である。

なぜ、冬場に仕込むのか? 

まずは、原料である米が秋に収穫されることと関係している。米がとれてからでないと、酒造りはできないからだ。

そして、寒い時期だと雑菌が繁殖しにくいこと挙げられる。日本酒の仕込みは、温度管理がとても重要なのだ。低温だと、余計な雑菌の繁殖を抑え、お酒をつくる微生物が、よい働きをしてくれるのである。冬場の低い気温の中で、もろみをゆっくりと時間をかけて発酵させると、きめ細やかで良質な酒に仕上ると言われ、昔は「寒酒」と呼ばれた。

日本酒はそもそも、四季醸造といって、1年中造られるものだった。ただ、暑い時期だと急速に発酵してしまい、発酵途中のもろみが腐ってしまう難点も。

寒仕込みは、江戸時代に最も酒造技術が進んでいたといわれる伊丹(兵庫)で確立されたという。江戸幕府も、寒造り以外の醸造を禁止し、寒仕込みが清酒造りの主流となっていったという。

閑散期の冬場の収入源として、農家が出稼ぎで杜氏になり、日本各地に“杜氏集団”ができるようになっていったのも、寒仕込みと関係している。福岡では「芥屋(けや)杜氏」などが有名で、いまだに冬場限定で酒造りに携わる蔵人がいる。

現代では、空調設備が整った酒蔵では、1年中酒造りをする「四季醸造」が一般化している。冬場が「旬」だった酒が、今や四季を通して、楽しめるようになったのである。

(この項、「」HPより)

   (いずみ市大原にて)。 

今夜は「寒仕込み」の旨いお酒を飲むことにしましょうか。

次は「大寒」(1月20日)。

※二十四節気は、「立春」から始まり「大寒」で終わります。      

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「虎ノ門駅」~「五反田駅」。その2。踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。「TORAMONHILES」「AZABUDAIHILLS」。芝地区旧町名由来板。東京タワー。野田岩。(「中原街道」をゆく。第1日目)

2025-01-04 18:55:10 | 中原街道

踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。

今度は、暮れの30日からインフルに。3日まで外出禁止。家でもジッと。

地下鉄の新駅をつくるための大工事中。

 「TORANOMONHILLS」。

芝地区旧町名由来板

西久保巴町 愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長13年(1608)に天徳寺門前、および元禄年間(1688~1699)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町、西久保車坂町と唱えました。明治5年(1872)、浜田藩松平右近将監屋敷、西久保新下谷町、西久保車坂町、天徳寺地、同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形に似ていることに由来します。

葺手町 西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄4年(1691)用地に召し上げられ、西久保の土取り場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場いい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来は明らかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。 

西久保城山町 西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内にかけてを俗に城山と呼び、むかし、熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城塞を築いたという伝承があります。明治5年(1872)に池田甲斐守、小堀大膳、大久保隼人等諸幕士の屋敷を合併して、新たに西久保城山町としました。

その後の変容は驚くべきものがあります。

「キッチンDADA」。ビル街にあります。クラッシックなたたづまい

 「西島眼鏡店」。大正時代から営業している、とか。お店を開けていたご主人と立ち話。   

八百屋さんがあります。「芝八百宗商店」

  高層ビルが乱立する中で、街道筋には昔からのお店などがあります。

z年末年始で人通りも少ない。外国人の姿が目につきます。

坂の階段の脇にはエスカレーターが。

「AZABUDAIHILLS」。

  車の量も格段に少ない。

       「東京タワー」が目に入ってきます。 

ユニークな建物「ノアビル」。

 「野田岩」。

一度、立ち寄ったことがあります。歴史を感じさせる雰囲気のある店構え。美味でした。

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