おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

好太王碑(広開土王碑)

2010-09-08 22:55:07 | つかのまの旅人
好太王碑(広開土王碑)
 4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料である。
 碑文によると、この碑は高句麗の第19代の王である好太王の業績を称えるために、息子の長寿王が414年旧暦9月29日(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉)に建てたものである。
 のち1880年(明治13年・光緒6年)頃、清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1884年(明治17年)には陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰り解読した(「酒匂本」)。
 碑は、高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。
 碑文のうち、倭に関する記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。
以下、該当部分を通説により校訂し訳す。

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
〈百残(百済の蔑称か?)・新羅はそもそも(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされる。

 その後の歴史は碑文によれば、
 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
 しかし、韓国の学会では異説もある。
 碑文の一部辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者が、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は

百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民

(百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。)
 「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。
 しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。
 また、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。
 その後、2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨が報道された。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は否定された。しかし韓国ではいまだに主語を高句麗にする説が一般的、かつ支配的である。(以上、Wikipediaによる)
 この好太王碑が独立記念館の庭に置かれてあった。勿論レプリカではあったが。大変大きな立派な石碑である。同行の方といわゆる「改ざん」されたとされる箇所を仰ぎ見るようにして探したが分からなかった。かなり全体的には風化している。(中国の本物はそのため、ガラスケースで覆われているようだ。)
独立記念館のエントランス。広大な敷地に建設されている。正面がモニュメント。
正面の建物。この奥に8つの展示館がある。
ハルピン駅で安重根が伊藤博文を暗殺する場面。
 1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。
 この人形による場面設定は、安重根を英雄視するあまり、人混みなど他の群衆を省略してあるなど、不自然な位置関係になっている。(同行の方も苦笑いしていたほど)
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旧朝鮮総督府庁舎

2010-09-07 23:58:29 | つかのまの旅人
 旧朝鮮総督府庁舎は景福宮の宮殿正面に1926年(大正15年)につくられました。ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させた。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っています。
 朝鮮総督府は、宮殿正門の光化門を移築の上、保存し、朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却しましたが(一説に8割以上とも)、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物の大部分は保存されることとなりました。しかし、宮殿の前面には朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後、ここが朝鮮における行政の中核地としての朝鮮総督府庁舎が完成すると、街から宮殿はみえなくなり、これらにより、朝鮮民族(韓国・朝鮮人)にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになりました。これも現在まで続く反日感情の一因であるとみられているようです。
 1948年8月、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は、政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれました。大韓民国の成立宣言も、ここでおこなわれました。
 その後、韓国内でも旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり議論がおこなわれましたが、韓国の国立中央博物館として利用されることになった。しかし、国民にとっては、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃しました。
 最終的には、かつての王宮をふさぐかたちで建てられていることから、撤去が決まりました。1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体され、現在、尖塔部分は天安市郊外の「独立記念館」に展示されています。写真が、それです。この展示の仕方には、崩壊・犠牲・鎮魂・再生などのさまざまで深い意義が込められているように感じました。
 植民地政策の基本は主に同化主義であり、朝鮮と日本内地の制度的、文化的差異を縮小し、最終的には植民地から本国の一部に昇格させ、国家としての完全な一体化を目指すことを建前としていました。
 そこで行われた、軍事的圧力を背景としたさまざまな政策の是非が、日本の中でも今もなお賛否両論が交わされています。しかし大事なのは、民族として屈辱的な歴史を味わった相手の立場、植民地化されていった側からの視点も持ちながら、歴史を正しく認識していくこと、これは日本人としての近代史観ともからまって、真摯に考えなくてはいけないことだと思います。
 
 ソウルから南へバスやタクシーを使って2時間以上かかりましたが、天安郊外にある「独立記念館」に行ってきました。日本人観光客はほとんど訪れないところのようです。
 韓国(朝鮮民族)の長く古い歴史を八館に分けて展開してありますが、名前の通り、特に近代100年の歴史が実物や模型、映像を用いて詳しく展示されています。日本の植民地政策の実態、3.1独立運動を中心とする朝鮮民族の抵抗の有様など・・・。一緒に行った方(ソウル市検察庁検事の方で、かつて日本に留学していた)も初めてだということで、4時間近くかけてもまだ3分の2。まだまだ時間が足りないくらいでしたが、何とか見て回りました。
 日本人としては一方的かなと思われる展示内容もありましたが、私にとって身近な存在の国の人々が、どのように近代100年を捉えているか、とても興味深いものがありました。
 連れの方も、日本の植民地政策への厳しい批判を持ってはいますが、それ以前の鎖国政策によって科学(特に西洋医学)的発展に後れを取ったこと、それによっての近代化の遅れが植民地化されていく一因にもなったことなど客観的な歴史観を持っていて、展示品を見ながら二人で議論できたことが最大の収穫でした(初めてお会いした方ですが)。

1910年(明治43年)8月22日 - 韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)調印
1910年(明治43年)8月29日 - 朝鮮総督府設置
1911年(明治44年)8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。
1912年(明治45年)1月1日 - 標準時を韓国標準時から日本標準時に変更
1912年(明治45年)4月 - 普通学校用諺文綴字法が確定
1914年(大正3年)3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制)
1919年(大正8年)1月21日 - 高宗死去
1919年(大正8年)3月1日 - 三・一独立運動始まる
1919年(大正8年)8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任
1919年(大正8年)8月20日 - 憲兵警察制度廃止
1919年(大正8年)10月5日 - 金性洙、京城紡織株式会社設立
1920年(大正9年)3月5日 - 朝鮮日報創刊
1920年(大正9年)4月1日 - 東亜日報創刊
1920年(大正9年)12月27日 - 総督府、産米増産計画立案
1926年(大正15年)4月1日 - 京城帝国大学開設
1927年(昭和2年)2月16日 - 社団法人京城放送局、ラジオ放送開始
1927年(昭和2年)5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立
1929年(昭和4年)11月3日 - 光州学生事件( - 1930年3月)
1930年(昭和5年)5月30日 - 間島5・30事件
1930年(昭和5年)    - 諺文綴字法制定
1931年(昭和6年)7月2日 - 万宝山事件
1931年(昭和6年)9月18日 - 満州事変勃発
1931年(昭和6年)1月8日 - 愛国団員・李奉昌、東京で天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)
1931(昭和6年)年4月29日 - 愛国団員・尹奉吉、上海爆弾テロ事件(上海天長節爆弾事件)
1936年(昭和11年)8月9日 - 孫基禎、ベルリンオリンピックマラソンで優勝
1937年(昭和12年)6月1日 - 金日成、普天堡襲撃事件を起こす
1937年(昭和12年)7月7日 - 日中戦争勃発
1937年(昭和12年)10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。
1938年(昭和13年)2月26日 - 陸軍特別志願令公布
1938年(昭和13年)3月4日 - 朝鮮教育令改正、朝鮮語の授業必須から外す
1940年(昭和15年)2月11日 - 創氏改名実施
1941年(昭和16年)3月31日 - 国民学校規定改正、朝鮮語の授業廃止
1941年(昭和16年)12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)勃発
1942年(昭和17年)10月1日 - 朝鮮語学会事件
1944年(昭和19年)4月1日 - 第1回徴兵検査開始
1944年(昭和19年)8月23日 - 女子挺身隊勤労令公布
1945年(昭和20年)8月9日 - ソ連対日参戦、豆満江を越える。
1945年(昭和20年)8月15日 - 日本政府、ポツダム宣言受諾。呂運亨、朝鮮建国準備委員会結成
1945年(昭和20年)8月21日 - ソ連軍、平壌進駐
1945年(昭和20年)8月25日 - アメリカ軍、仁川上陸
1945年(昭和20年)9月6日 - 呂運亨らは朝鮮人民共和国の樹立を宣言
1945年(昭和20年)9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における軍政を宣言(即時独立否認)
1945年(昭和20年)9月9日 - 総督府、降伏文書に調印

韓国の国花・ムクゲ(無窮花)。
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汽車と電車と地下鉄と

2010-09-06 22:51:39 | 歴史・痕跡
 インチョン(仁川)空港からソウル市内のホテルまで送ってくれた方が、漢江にかかる鉄橋の一つ一つを指さしては「これは汽車、あれは電車」「これは地下鉄」という具合に説明してくれました。地下鉄は、それぞれ鉄橋も色分けをしてあって分かりやすくなっているそうです。ソウル市内は地下鉄網が整備されています。しかし、地方へ行くとなると、車、バスか、鉄道。
 さて、汽車というのは、蒸気機関車ではなく、ディーゼル車。電車は、もちろん電車。この他にKTX(韓国高速鉄道)。鉄道は、KORAIL一社のみ。あとは地下鉄。ソウルから南下して天安(CHEONAN)まで行きました。往きは、高速バス。帰りは電車。天安は大きな駅です。繁華街から少し南に下がったところに、たくさんのホームがあり、乗り降りでごった返していました。日本人はもちろん外国人の姿は、ほとんど見当たりませんでした。
 その駅に、もう使われていない転車台がありました。すぐにパチリ! 日本ではすでにほとんどなくなってしまっています。韓国で見つけるとは思いも寄らない収穫でした。
 帰りは、特急電車に乗って約1時間20分。ソウルに着きました。それから地下鉄に乗り換えて、ミョンドン(明洞)まで。ソウル一の繁華街です。ここは、日本人もいっぱいいました。
 今の韓国は、どこもかしこも、皆、ハングル表記。かつてのように少し漢字が(特に地名など)混じっていると、少しは類推できますが、まったく読むことはもちろん意味も理解できません。同行してくれた方が、日本に留学して日本語が話せるので大助かりでした。
駅のコンコースから見たもの。
汽車
特急電車
 

 
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駆け足のソウル

2010-09-05 23:49:38 | つかのまの旅人
 3日の昼過ぎに成田を出発して、5日の夕方には成田に帰ってきました。成田空港~インチョン(仁川)空港。慌ただしい旅でしたが、収穫も多かった旅行でした。時差がないのが楽。行きも帰りも2時間30分ほど。天気にも恵まれた3日でした。前日の台風の被害でソウルは街路樹が倒れていたり大変でしたが、行っている間は快晴。東京並みの暑さでした。ソウルは、明日からまた台風の影響が出て来るようですが。帰ってきた東京は相変わらずの灼熱地獄です。
 写真は、ソウルの東の外れ、漢江にかかる広津橋からの眺め。自動車専用道路が幅広い漢江の上に突きだして建設されています。しかし、朝夕の車の渋滞はひどく、こうした自動車専用道路でも混んでいて、それでも飛ばす車が多く、タクシーに乗っても命がけでした。
 バスにも乗りましたが、これもつり革につかまっていないと振り落とされそう。幸いに学生が席を譲ってくれて助かりました。
 今回は、タクシー、バス、地下鉄、電車(汽車)とさまざまな交通手段でソウルを堪能しました。
漢江両岸には自動車専用道路。これは、右岸にせり出した自動車専用道路。
韓国は自動車は左ハンドルで右側通行。つい日本の感覚で横断歩道を渡るときには走ってくる車への意識がずれてしまい、ちょっとひやっとします。
泊まったホテル。超一流とは言えませんが、そこそこ。ちょうど高校生の日韓(韓日)友好のソフトボール大会が開催されていて、日本代表の宿舎になっていました。
漢江の左岸(南側)のようす。朝7時頃のようす。韓国は日本と同じ明石標準時を採用していますが、西にある分、日の出、日の入りが東京よりも遅い。
千戸大橋の向こうに見えるのは、オリンピック大橋。オリンピック公園につながっています。橋の中央部には、聖火台をかたどったモニュメントがそびえています。
 いずれも、朝、ホテルから目の前の橋を往復したときの写真です。1㌔くらいの川幅がありました。
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松江市内の競馬場跡

2010-09-02 23:06:58 | 歴史・痕跡
 夕方、出雲空港まで車で送ってもらう道すがら、痕跡マニアであることをもらしたところ、(実は行く先々で旧大社駅を熱心にみたり、鉄道写真を撮っているので、少しはばれていたのですが・・・)
 「松江駅の近くにかつて競馬場があったが、もうなくなって、その跡地には住宅が建ち並んでいますよ」と。「えっ!」驚きました。「浜乃木1丁目あたりですよ。トラックがそのまま道路になって、家がぐるりと取り囲んでいて、ちょっと変わっています。パドックだったところにも家が出来て・・・、ほとんど分かりませんが」「そこにこれから戻れますか」時間を見たら「ちょっと無理ですね」。がっくりしました。
 東京の目黒競馬場の跡地、トラックがそのまま一部道路になって残っているが有名です。楕円形に道がそのまま残っているのです。それと比べてはたしてどうか?
 松江には、競馬場がいったいどのような姿で残っているのでしょうか。
 松江城の天守閣が、お堀の奥にちょこんとすてきな趣で見えるし、お堀の北側には、小泉八雲の旧居が残り、城下町らしいたたずまいが残っています。また、堀割を進む船・・・。どれもすばらしい景観でした。
 宍道湖と中海を結ぶ川をはさんで発展した城下町、松江。中海の北東には、「ゲゲゲの女房」の舞台となった境港(これは鳥取県)があります。水木しげる先生の生家やら安来(これは島根県)の奥さんの生家と、なかなか興味深い観光地が続きます。
 八雲の「怪談」と水木しげるの「妖怪」と、実に取り合わせがおもしろい、この付近。今度は中海の方へぜひ来てみたいと思いました。
 あちこち、わがままを聞いてくれて案内してくれた知人に感謝・感謝です。
 家に帰ってきてさっそくgooの航空地図で確認しました、競馬場の跡。びっくりしました! 知人の言うとおり、楕円形のトラックのまま道路が円周を描き、その外側を家並みがまたぐるっと円周を描くように、建てられているではありませんか。
 これだけ見事に残っているのは、初めてお目にかかりました。目黒競馬場跡では、まったく太刀打ちできないほどです。これは、我が目でぜひともしっかり確かめて見なければ、ぜひまた来るぞと誓いを新たにしました(かなり大げさですね)。
お堀をはさんで、天守閣がちょこんと顔をのぞかせています。お堀には、亀がたくさんいました。
 ところで、気がついたら、この島根県で日本の47都道府県をすべて訪れたことになりました。この年になってようやっと、という感じですが。
 いよいよこれからは海外にでもということで、期せずして、明日から韓国・ソウルに出かけます。   
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宍道湖

2010-09-01 23:18:02 | つかのまの旅人
 山陰というイメージは、山陽と対比されるように何か暗いじめじめした印象を持っていました。南に中国地方を横断する山に遮られ、北には日本海が迫っている。山間の狭い土地に人々の生活がある、というような・・・。それが全くの誤解(もちろん、島根でも南の山間の生活は厳しいものがあるでしょうが)でした。
 広々と平地が広がっている。宍道湖の大きな湖水にもびっくり! 出雲の国が歴史と伝統を持つ、その背景として、古代からの鉄の生産や豊かな暮らし、文化が根付いていたことをここに来てみて初めて知りました。
 大和朝廷に敵対していた地方支配豪族、という歴史。豊かな神話の世界ともからまって圧倒された感じです。出雲大社は、縁結びの神様などと言う「俗」な神様として今はありますが・・・。荒神谷の多くの銅鐸の発見、たたら技術によるさまざまな鉄器生産。良質の砂鉄が取れる(その伝統を受け継いで、今でも「日立金属」が操業されている、とのこと。)
 シジミの産地としても有名な宍道湖。俗っぽい遊覧船やボート、釣り船などなく(目立たず)遙か彼方まで豊かな水を湛えていました。
 宍道湖の水面に輝く、西に日が沈む夕景が最高だということでした。
湖岸に打ち寄せられたシジミの貝殻。
宍道湖のほとりにある出雲ドーム。木造で造られたドーム型の野球場。集積材を用いています。
その内部。ちょうど少年野球大会をやっていました。
夕景、といっても出雲空港からの眺め。
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