好太王碑(広開土王碑)
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料である。
碑文によると、この碑は高句麗の第19代の王である好太王の業績を称えるために、息子の長寿王が414年旧暦9月29日(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉)に建てたものである。
のち1880年(明治13年・光緒6年)頃、清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1884年(明治17年)には陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰り解読した(「酒匂本」)。
碑は、高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。
碑文のうち、倭に関する記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。
以下、該当部分を通説により校訂し訳す。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
〈百残(百済の蔑称か?)・新羅はそもそも(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされる。
その後の歴史は碑文によれば、
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
しかし、韓国の学会では異説もある。
碑文の一部辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者が、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民
(百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。)
「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。
また、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。
その後、2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨が報道された。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は否定された。しかし韓国ではいまだに主語を高句麗にする説が一般的、かつ支配的である。(以上、Wikipediaによる)
この好太王碑が独立記念館の庭に置かれてあった。勿論レプリカではあったが。大変大きな立派な石碑である。同行の方といわゆる「改ざん」されたとされる箇所を仰ぎ見るようにして探したが分からなかった。かなり全体的には風化している。(中国の本物はそのため、ガラスケースで覆われているようだ。)
独立記念館のエントランス。広大な敷地に建設されている。正面がモニュメント。
正面の建物。この奥に8つの展示館がある。
ハルピン駅で安重根が伊藤博文を暗殺する場面。
1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。
この人形による場面設定は、安重根を英雄視するあまり、人混みなど他の群衆を省略してあるなど、不自然な位置関係になっている。(同行の方も苦笑いしていたほど)
4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料である。
碑文によると、この碑は高句麗の第19代の王である好太王の業績を称えるために、息子の長寿王が414年旧暦9月29日(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉)に建てたものである。
のち1880年(明治13年・光緒6年)頃、清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1884年(明治17年)には陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰り解読した(「酒匂本」)。
碑は、高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっている。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。
碑文のうち、倭に関する記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。
以下、該当部分を通説により校訂し訳す。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
〈百残(百済の蔑称か?)・新羅はそもそも(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされる。
その後の歴史は碑文によれば、
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
しかし、韓国の学会では異説もある。
碑文の一部辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者が、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民
(百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。)
「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。
しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。
また、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。
その後、2005年6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨が報道された。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は否定された。しかし韓国ではいまだに主語を高句麗にする説が一般的、かつ支配的である。(以上、Wikipediaによる)
この好太王碑が独立記念館の庭に置かれてあった。勿論レプリカではあったが。大変大きな立派な石碑である。同行の方といわゆる「改ざん」されたとされる箇所を仰ぎ見るようにして探したが分からなかった。かなり全体的には風化している。(中国の本物はそのため、ガラスケースで覆われているようだ。)
独立記念館のエントランス。広大な敷地に建設されている。正面がモニュメント。
正面の建物。この奥に8つの展示館がある。
ハルピン駅で安重根が伊藤博文を暗殺する場面。
1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。
この人形による場面設定は、安重根を英雄視するあまり、人混みなど他の群衆を省略してあるなど、不自然な位置関係になっている。(同行の方も苦笑いしていたほど)