おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

旧小松川閘門。荒川ロックゲート。

2012-09-08 23:06:15 | 歴史・痕跡
 小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。大島小松川大島公園南のブロック「風の広場」の丘の上。
説明板。
 
 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
 閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
 ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
 この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
 また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。

 この遺構は、旧中川側のもの。かつては、今の「荒川ロックゲート」付近にも「小名木川水門」があり、また、対岸の船堀側には荒川(放水路)と中川(放水路)を結ぶ「船堀閘門」がありました。これらによって、隅田川~小名木川~荒川~中川~新川という水運が開かれていました。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」。
 もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
 地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左のは、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右のは、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
 現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されている、とのこと。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
閘門遺構から西側を見る。正面は、旧中川と小名木川との合流点。小名木川は「塩の道」とも呼ばれていた。遠くに見えるのはスカイツリー。
旧中川の流れ。ずいぶんと浄化されています。
「荒川ロックゲート」旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川側のゲート。
旧中川側。
ゲート間の水路。
ゲートから荒川を望む。対岸が船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。首都高・橋脚下あたり。
説明板。開いている時間帯には施設内を見学できる。
「大島小松川公園」。広大な敷地。多目的広場や遊具アスレチック、ジョギング・サイクリングロードなどあり。
旧中川と荒川にはさまれた地域。かつては工場があり、船の接岸施設などもあった。この地域の北西側一帯(写真上では左側地域)は、昭和20(1945)年3月10日・東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。
遠くに見えるのはスカイツリー。

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