元荒川歩きを再開します。
カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。
葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。
※伏越(ふせごし)
用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)
振り返る。右が葛西用水。
「新宮前橋」。
「宮前橋」。
「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。
東の方に「久伊豆神社」があります。※「くいず(クイズ)」ではありません。
埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。
(この項、「Wikipedia」より)
緑道から橋を望む。
この先、左手の高台に、「越ヶ谷御殿跡」碑。
越谷市には「御殿町」と呼ばれる地名があります。これは、慶長9年(1604)に徳川家康が放鷹時の宿泊所などのために、現在の御殿町地内に御殿を設営したことによるとされています。御殿に関する詳細は不明ですが、その広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されています。越谷市教育委員会では、昭和47年に御殿町一帯を「越ヶ谷御殿跡」(こしがやごてんあと)として市の旧跡に指定し、昭和61年には埋蔵文化財包蔵地として周知し、保護を図っています。
もともと御殿町には越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。その後、明暦の大火(1657)で江戸城が消失した際に越ヶ谷御殿を江戸城二の丸に移すため解体されたと伝えられています。江戸城二の丸に移されるまでの約50年の間に、徳川家康、徳川秀忠(2代将軍)、徳川家綱(4代将軍)が度々訪れたとの記録も残されています。その跡地は畑地として開発され、現在に至っています。
(この項、「越谷市」HPより)
ちょうどこの場所の、元荒川の左岸から右岸のところに葛西用水との伏越があります。
(現在)「伏越」付近。
北から南に流れるのが葛西用水(逆川)。東武線鉄橋の下流の橋が旧日光街道に架かる「大沢橋」。北に「北越谷駅」。
(1880年代)。
注目すべきは、現在のような瀬割堤はない。さらに、自然堤防があり、瓦曽根溜井がかなり大きいものであったことがわかる。
※現在の越谷市役所、市民会館付近も溜井の中にあった。
(現在)◎が市役所。
(1880年代)○付近も瓦曽根溜井になっていた。
「元荒川橋」。
「しらこばと」のモニュメント。
大沢橋(旧日光街道)のたもとに、「元荒川緑道(中流部)散策案内」。
大沢橋から東武線鉄橋を望む。
鉄橋と併設された人道橋。
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