おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

須雲川。「女転ばし坂」。「割石坂」。紅葉の。・・・(箱根路。その4。)

2014-11-24 19:44:05 | 旧東海道

 久々の箱根路。連休初日に行ってきました。「箱根湯本」駅はごった返し。紅葉も見頃。大勢の観光客で大賑わい。その脇を通り抜け、温泉宿周遊バスに乗せてもらい、前回の所まで。宿の正面に着いたので、そこから坂を上っていくことに。

 夫婦連れで同じ方向に目指すようす。他にも何人か同じような目的で歩いている人が前方に、後方に。

 中には、日本橋から京都までを目指しているというご夫婦。けっこう同好の士がいることに、安心。抜きつ抜かれつで芦ノ湖まで行くことに。こちらは、「箱根関所」、出来たらもう少し先まで。
 畑宿のおそば屋さんで一緒になったご夫婦は、何とか今日中に「三島」までと張り切っていました。

 「元箱根」まで9.5㎞。

バス停「奥の茶屋」。
 
 しばらくは舗装道路を上っていきます。

  
 遠くには箱根連山。                                  「葛原坂」。

ホテル「はつはな」付近。「須雲川」インター。

  
「初花の滝」の説明碑。「須雲川」の対岸の山の中腹に初花の滝があるのだが・・・。

  
 道は下り坂になって、「須雲川」の集落に入る。

 この周辺の集落を須雲川といいます。むかしは、川端とも呼ばれていました。この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永の頃です。
 天下の街道となった箱根道を往来する人々のためまた、道を維持管理するために、一定の間隔を置いて集落をつくる必要があったのです。

 集落に入ると県道の幅が狭くなります。江戸時代から? の道幅。まっすぐに伸びている。「須雲川」は江戸期においては立場(休憩所)として栄えたところだが、今は一軒の商店も無い静かな集落。
 集落を抜けると、県道は緩やかな上り坂に。左側には、立派な公衆トイレ。須雲川橋の手前から左に道が入っていく。実は、この道は旧街道ではない。

「女転ばし坂」碑。以前あった場所から移設されたもの。

「須雲川自然探勝歩道」。

 この道標に導かれて私たちもこの歩道に歩みを進めることになるが、旧街道は須雲川橋を渡っていき、橋の向こう側からが「女転ばし坂」だった。

 この坂にはその名が示すとおり、「馬でこの坂を上ろうとした女性が急坂のあまり落馬して死亡した」という言い伝えがあることが寛文十二年(一六七二)の『須雲川村明細帳』に記載されている。当時の坂は現在、須雲川橋向こうの樹木の中に隠れ、歩くことはできない。(「国土交通省 関東地方整備局」東海道を歩く~宿場案内~」HPより) 

  
                     よく整備された遊歩道。

岩がごろごろした「須雲川」を木橋で渡る。

発電所の向こうに二子山。

 バス停「発電所」のところから県道に合流してしばらく進む。

「割石坂」。

 曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨岩を真二つに切り割ったところと伝えられています。

  
                           「江戸時代の石畳」。
                     

「須雲川自然探勝歩道」説明板。

 そこには、この石畳は明治、大正時代、元の巣雲川小学校の通学路として一部整備したもの、と記されている。この道が当時の小学生の「通学路」であったわけです。

「箱根路のうつりかわり」説明板。

 「碓氷道」(最も古代)→「足柄道」(奈良・平安時代)→「湯坂道」(鎌倉・室町時代)→「旧東海道」(江戸時代)→国道1号線(現在)

「接待茶屋」跡。「割石坂」にあった。

 県道に合流してすぐに道の反対側には、「大澤坂」。

 江戸時代の石畳が一番よく残っているところだそうで、急坂で石畳が苔むしている。携帯では感度不足。これはほとんどが鬱蒼とした木々に覆われた旧道(特に石畳・坂道)に共通する。携帯写真の限界かもしれない。

  

        
 県道との合流点(畑宿側)。

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