おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

箱根の関所。(湯河原・箱根路。その3。)

2014-04-13 17:09:57 | 旧東海道
 これまで箱根には何度も来たことがありますが、「箱根関所」を見学したのは初めて。遅ればせながらぐるりと一回り。
でも、こんな風になっていたんだっけ? 海賊船に乗ったり、旧東海道の杉並木を歩いたりしましたが、この関所の印象はほとんどなかったので。
 そこで、「箱根関所」HPを開いて納得! 2007(平成19)年春に復元工事が完成し、一般公開されたという。なるほどここに来たのはそのずっと前だったから、こういう風になっているはずはなかったわけです。

《箱根町 箱根関所『よみがえった箱根関所』》に「復元整備までのいきさつ」や関所の歴史、調度品など詳細な解説がありました。

 江戸時代末期に行われた箱根関所の解体修理の詳細な報告書である『相州御関所御修復出来形帳(慶応元年:1865)』が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、昭和58年(1983)に発見されました。箱根町でこの資料の解読を行った結果、当時の箱根関所の建物や構造物などの全貌が明らかになりました。そこで、平成19年(2007)春の完成をめざして発掘調査を行ない、その成果や資料の分析結果に基づき、建物の復元や関所周辺の環境整備を行うことになったのです。
 平成11年度から平成13年度にかけて、箱根関所の跡地一帯の発掘調査を行ない、資料との整合性や遺構の残存状況の確認を行った上で、大番所・上番休息所、厩、雪隠、京口御門などの建物や生垣、石段などの構造物の復元を行ない、平成16年(2004)4月から、これらの建物の公開を始めました。
 平成16年度からは屏風山側の整備を進め、遠見番所や足軽番所、江戸口御門や足軽番所雪隠、京口御門から芦ノ湖へと続く石垣や京口千人溜斜面の石垣の復元工事を行ない、さらに周辺環境整備として電線類の地中化の準備や杉並木の保全を行ない、平成19年春の全面公開に至りました。

(以上、「」HPより)

御触書。高札。
背後の丘の上にある「遠見番所」への石段から。

 江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。
 箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。
 これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。
 貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
 箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられた。(いじょう、「Wikipedia」参照)

 復元された「箱根関所」の見学コースには、ほぼ上記の内容に沿った解説がなされています。
しっかりした造り。かつての建物通りの再現ではなさそうだが。
 以前からある、隣の「資料館」の裏手の屋根は、老朽化し崩れ落ちているのに比べ、どの建物も組み立てが、がっしりしている。


「遠見番所」。中にいるのは、役人の人形。
 随所に、役人の姿が「シルエット展示」(衣服の色、模様、顔つきなど淡い色で表現されている)されている。






復活した井戸。

京口御門を望む。

京口御門。

京口御門付近から東を望む(江戸方向)。

説明板。
明治初年の頃の「箱根宿」のようす。

復元された東海道・杉並木。道幅は当時と同じらしい。


これから花粉が飛びそうな雰囲気。この写真を見ただけで鼻がむずむずする人がいそう。

「箱根八里」碑。

 鳥居忱(まこと)作詞、滝廉太郎作曲。

箱根の山は、天下の嶮
函谷關も ものならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳え、後にささふ
 雲は山を巡り 
 霧は谷を閉ざす
昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士
大刀腰に足駄がけ
八里の岩根踏みならす
斯くこそありしか、往時の武士

 さて、いっさい仮名を振っていない歌詞。リズムも合わせて間違わずに歌えるかどうか、我々の世代はおそらく皆歌えるでしょうが、若者にははたして?

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