おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

池之端。不忍池。駅伝。・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その4。

2013-08-28 21:48:41 | 河川痕跡
 このあたりになると、旧藍染川の痕跡は見当たりません。

台東区と文京区との区界は、右手のマンションから中央奥へとなっていきます。ここから南は、台東区ということになります。道の曲がり方がかつての水路(左奥が上流)。明治中期の古地図(「goo地図」)ではこのあたりで二つの流れ(「藍染川」ともう一つ)が合わさって不忍池方向に流れています。また、上野の山をかすめるように南に流れる川もありました。「藍染川」は、「不忍池」に流れ込んでいる水路と不忍池の西から南にかけて流れていた水路があったようで、上流・北側から「蓮見橋」、「花見橋」、「中ノ橋」、「日見橋」、「龍門橋」と「不忍池」に行くための橋が架かっていました。
「池之端児童公園」。かつての都電の停留所跡。
 不忍池の西北に広がる地名「池之端」は、「不忍池」の近くにあることから名づけられました。
「解説板」。
「今昔マップ」より。が、かつての停留所。都電(市電)は道なりに右にカーブし、「不忍池」の縁を通って「上野広小路」方向に進んでいきました。中央が「不忍池」。
「上野動物園」の池之端口入場門。「不忍通り」沿い。
 こうして横道をしながら、やっと「不忍池」に到着しました。「不忍池」は上野公園(東京都台東区)の中にある自然にできた池。
 周囲は約2km、全体で約11万㎡。北は、上野動物園西園、東は、京成上野駅、南と西は、「不忍通り」に接し、池の中央に弁天島(中之島)があり、池は、蓮池、ボート池、上野動物園の中にある鵜の池と三つに分かれています。
 「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことですが、異説もあるようです。江戸時代以前より既に「不忍池」という名で呼ばれていた、とのこと。
 縄文時代には、この辺り一帯からずっと南方まで東京湾の入り江だったと言われ、上野台地、本郷台地の南東のへりがかつての海岸線だったようです。その後、海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろには池になっていたと考えられます。上野公園には、古墳時代の遺跡が残されています。(「不忍池」の標高は5㍍、上野公園の標高は「東京文化会館」付近で16㍍。「今昔マップ」による。)

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)「藍染川」の一部が、「不忍池」には流れ込まず、西側、そして南側を流れ、広小路付近に向かうようすが分かります。(まだ鉄道が上野に開通していない頃)
拡大図。池の中央に「弁天島」がすでにあります。現在、ここにユニークな石碑が多いことで知られています。
同。
上野の山では、「博覧会」がたびたび行われていました。
「案内図」。上が広小路方向。
広々とした池。ボート場になっています。1931(昭和6)年に、現在まで続く貸しボートの営業が開始されました。
カップルで乗ると、別れることになるとか、いや、この池じゃなかったでしたか?
蓮の池。蓮の花が咲いていました。
びっしりと蓮の花が。
池畔にある「駅伝の碑」(2002年 財団法人日本陸上競技連盟)。博覧会開催の時に始まったそうです。スタートは京都・三条大橋。ゴールが博覧会正面。3日間に及ぶ長丁場の駅伝。


 明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なり、池の北側は今よりもかなり広くなっていました。(注1)

 1884(明治17)年、戸山が原の競馬場が移され、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がりました。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、さらに、1892(明治25)年まで春と秋に競馬が行われました。(注2)

 戦後の一時期、水が抜かれて水田(不忍田圃)となったこともありました(昭和22年の航空写真で確認できます)。

 現在、池への流出入河川がありません。水源は、若干の自然湧出地下水のほかは、以前は井戸水および近接する京成電鉄京成上野駅地下ホームからの湧出地下水を人工的に汲み上げ放流したものでした。
 これだけでは水質保持・水量保持が難しいことから、2003(平成15)年よりJR上野駅新幹線地下ホームからの湧出地下水の汲み上げ放流も始まりました。これにより、水量は一応の安定を見ている。JR、京成とも湧出水を提供することで、そのまま下水に排出した場合にかかる下水道料金を免除されている、とか。(以上、「Wikipedia」参照)

注1:「ginjo.fc2web.com/198okubyou_genbei/sinobazunoike_map.htm」‎には、地図による変遷の詳細な記録があります。
その中で、江戸末期の絵図をお借りしました。(右が北)
注2:(「homepage2.nifty.com/keibastamp/newpage125.html」)には、不忍池競馬場のことが貴重な写真・絵はがきなどで実に詳しく紹介されています。その中から、1枚お借りしました。
「第100回天皇賞競走記念切手発行記念台紙:浮世絵 武蔵府中郵便局作成」(平成元.10.29)
このカーブ。
この辺りは、直線コース? 競馬場時代のコーナーのままの道? 何だかそう想像するだけで、楽しくなります。

「上野公園」下。秋葉原方向を望む。




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