おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-05-31 20:49:56 | 甲州街道

(10:30)側道の左手に、小さな緑地があります。「長峰砦跡」記念の緑地です。


          

発掘調査された長峰砦跡
 長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城跡です。この付近は戦国時代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境を接するところで、当時こうした国境地帯によく見られる、「境目の城」と呼ばれるものの一つで、周辺のいくつかの城郭と結びつきを持ちながら、国境警護の役割を担ったものと考えられてきました。
 しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったのかなどについては不明な点が多く、また1960年代後半の中央自動車道建設工事などによる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。このような中で1990年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の計画区域に取り込まれたため、工事に先立ち平成7・9・10年度の三年にわたって発掘調査が実施されました。
 調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀(堀切)の跡、斜面を横に走る横堀の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土したことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正式には甲州道中)」に相当するものと見られるものでありました。
 長峰砦跡は、その歴史的な全体像を理解するには、すでに手がかりの多くが失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史をとられることができるものと思われます。
 この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。
 その後、江戸時代になって砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備され、ここを行き来する旅人は砦の時代を偲びながら通行して行きました。そうした歴史は現在の中央自動車道にひきつがれているものといえましょう。

                                 上野原町教育委員会

 二度に亘る中央道の拡幅工事の機会に大々的に発掘調査が行われ、砦があったことを後世に伝えようと作られたのが「長峰砦跡碑」と小さな公園です。また、拡幅工事中に旧甲州街道の傍らに埋もれていた「句碑」が見つかりました。それが説明板の傍らにある石碑。
 碑に刻まれている句は芭蕉と、蕉門十哲の一人、支考の句。
句碑。
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」芭蕉
 「あがりては さがりあけては 夕雲雀」支考

(注:実物の判読はなかなか難しいですが、幸いに「鶴川宿」入口にある解説板に句が載っていました。)

「長峰砦跡」碑。

 上の説明文にもあるように、この付近の旧道は「中央道」開通のためズタズタになり、ほとんどその跡は残されていません。中央道を何度か歩道橋で渡るのもそのせいです。また、街並みが分断されてしまった宿場もあるようです。



はるか遠くに住宅地。

振り返って望む。左手が中央道。

しばらく進むと、中央道を陸橋で越えます。左手に案内板あり。




陸橋を越えると、「野田尻宿」への道。

(10:42)右手に折れます。

切り通しを上り詰めると、

「野田尻宿」入口。振り返る。

この「野田尻宿」、実は「談合坂SAサービスエリア」に隣接しています。サービスエリアの照明灯などが間近に見えます。


「クマ出没注意」の看板! 

のどかな山村の家並み。

             



野田尻宿(のたじりじゅく)
 旧甲州街道、日本橋から数えて20番目の宿場。上野原市内。
 上野原市は山梨県東部の郡内地方に位置し、東は神奈川県(相模国)に接する。郡内地方は大部分を急峻な山地が占める地域であるが中世から武蔵国・関東方面に通じる交通路が存在し、江戸時代には甲州道中が整備される。
 甲州道中は鶴川、仲間川に沿いながら横断し、江戸から発して同道中の甲斐国の初宿である上野原とともに、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿の各宿が設けられた。1713年(正徳3年)集落が形成される。1842年(天保14年)には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は大2軒、中3軒、小4軒からなる小規模な宿場町であった。万屋、蔦屋、中田屋、鶴屋、紺屋、酒屋といった当時の屋号を今も残す。本陣跡は明治19年の大火で焼失した。現在も開発されず落ち着いたたたずまいを見せる。上野原宿からは、野田尻宿を経て犬目宿へ至る。(以上、「Wikipedia」より)

かつては屋敷があったのでしょうか、跡が畑地になっています。


屋号「魚久」。

静かな通りに軽トラの音。「夏みかん」の販売車。1,500円で12,3個の大きな甘夏。おばあさんが買いに出てきました。この集落にはお店はまったくありません。食糧や日常品はどこまで買いに行くのでしょうか?


車が去ったあとは、また静寂さを取り戻します。穏やか日差しの下。


「野田尻宿」という石碑。隣には解説板。


             

 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の状態で宿を構成した。
 天保14年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の小さな宿場であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。
 お玉ヶ井にまつわる伝説は、その昔、旅籠「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足に悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと沸き出させたと言う。なんとお玉の正体は「竜」で長峰の池の主「竜神」と結ばれたと言われている。
 熊埜山西光寺は、天長元年(824)真言宗として創立した歴史ある寺院である。鎌倉時代に建長寺第9世管長智覚禅師を勧請開山として、臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。

                                   上野原町教育委員会
向かいの空地の隅に「明治天皇小休所跡」碑。


駐在所脇にも「野田尻宿」案内板。

この付近に「本陣」があったようですが。

簡易郵便局。古い郵便ポスト。
                      「このポストには郵便は出せません」とあります。


(10:58)宿内を振り返る。

      

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~... | トップ | 鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

甲州街道」カテゴリの最新記事