昨年末からの続きです。
「一里塚」を道なりに曲がり、「富士川第一小学校」を過ぎると、道は南下していく。しばらく進むと、右手の角に案内図。そこを右に曲がる。
わかりにくいので、地元の方が取り付けてくれた感じ。
ただし、旧東海道時代、先ほどの「一里塚」で道が直角に曲がっていたとは考えにくい。河岸段丘の縁をそのまま南下していたのではないか。少し曲がりくねりながら、この道に続いていたように思える。途中にある「常夜燈」も道の整備によって本来の位置から今の場所に移されたのではないか、と。宿場でもないのに、これほど短い距離で三箇所も直角に折れていたとは思えない。
今、旧道は住宅地に組み込まれたか、細い道として残っているような気がする。ことによると「市立富士川民俗資料館」前の道?
ここまで来る間にも、道路の整備、宅地化、土地の改良、開拓等によってかつての東海道が不明になったり、消滅したケースはたくさんあった。
現在の道路事情に基づく案内に従って歩いているのは、やむをえないことではある。なにしろ「東海道」。江戸時代以前からの一大幹線道路として活躍している長い歴史の中で、その後、明治までにはなかった、架橋、鉄道、新幹線、高速道路、道路拡張、付け替え、舗装などが激しく行われたのだから。
旧道「マニア」が遠慮もなく、勝手に私有地や私道に入り込み、写真を撮ったり、あれこれ詮索されたのでは、迷惑そのもの。まさに、現在に即応した「東海道」歩き、ということでいいのだろう。
おそらく箱根路のほんの一部の「石畳」などに残るのみで、旧東海道の道そのものは、ほとんどないはず。「蒲原宿」など、街道沿いの街並みは大きく変化していても、道筋そのものが残っているのは、救いだが。
東海道から目にする富士山も、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永の大噴火によって、東南斜面が一変し、江戸初期の東海道から見た富士山の姿とはまるで異なっている。さらに今や、「大沢崩れ」の進行で、20年前、30年前に比べても頂上付近の姿が変わってしまっているようなのだが・・・。これで、大噴火でも起きたら、景観は一変するだろう。
こう言い出すと、きりがなさそう。この先、東名の下をくぐる道も本来の道かどうか、東名高架橋を越えて左に曲がり、東名沿いの直線道路も付け替えられた道。分岐点に大きな石碑があるが、その脇をゆるやかに左に曲がっていたような、あるいは、石碑は東海道とは無縁であったか。
その先の分岐点では「右行き止まり 左蒲原」という道標によって左の道を進むことになるが、本来はまっすぐ右の道を進んでいたのではないか(右の道は新幹線によって阻まれる? )。
注:ネットで調べたら、やはり右の道が旧道だった。車は進入禁止という意味で「行き止まり」とあったのだ。新幹線の高架下には人道用の地下道がつくられていて通り抜けられ、先ほどの左へ向かった道と合流することになるらしい。左の道は新幹線敷設のためにできた迂回路だった。・・・
JRの変電所脇を過ぎた先、石碑と常夜燈のある一角あたりもあやしい。しばらくして、先ほどの(新幹線によって、車行き止まりになった)道(本来の東海道)と合流し、その先はしばらく旧道を進むことになる。今度は、東名を陸橋で越えるが、ここも大幅に付け替えられている。
また、その先は、直線の長い下り坂になるが、これも江戸幕府によって整備された初期の「東海道」ではない。坂を下りきったところで、左から下ってくる道が当初の東海道のはず(現在、「日本軽金属グループ研究センター」敷地南方を通っていたと思われる)。
この地域に限ってこのように記したのは、しだいに山が海側に迫ってきて、ここまでそれぞれ離れて進んでいた東海道、国道1号線、県道(旧国道1号線)、JR東海道線、新幹線、東名などの交通機関、幹線道路網が南西方向に向きを変え、だんだんと接近してくる地点。そうした交通機関の新設・開発による地元の生活道路の確保も重要。さらに自然災害への防備、・・・。
そのために、旧東海道は、付け替えられるところが増えてきたのだと思う。おそらくこの先、次の難所・「薩埵(さった)峠」付近も大きく変貌しているに違いない。
「常夜燈」。
振り返ると、富士山。
「中之郷」地区。「車坂」付近。
ゆるい上りで、東名の下をくぐり、東名に沿った道を行く。
正面に大きな石碑「野田山不動明王」。左へ。
しばらくは、山沿いの、旧道らしいのんびりとした雰囲気の道がつづく。
正面左手に「ツル屋菓子店」の看板。
この付近には、名物の「栗の粉餅」を売る茶店が立ち並んでいたらしい。 近年、この餅を現代風にして復活させたお店が「ツル家菓子店」さん。このお店は和洋の菓子を扱っている。買い物客が車を駐めていた。
振り返れば、富士山が。
分岐点を左(旧東海道ではなく、新設の道路)に進んで、新幹線のガードをくぐる。JR変電所の向こうに富士山。
「聳岳雄飛」の碑と常夜灯。
左手に、古い常夜灯と並んで「聳岳雄飛」と刻まれた碑がある。昭和45年の区画整理事業を記念して建てられたもの。
しばらく進むと、右手からの旧東海道の道に合流して、旧道を進むことに。
坂道を上ると、東名高速道路が左手に。
「東名」上の橋を越えると、静岡市。
当然、この橋は東海道ではない。
橋の上からの東名と富士山。
東名を越えると、直線の坂道を一気に駿河湾目指して下って行く。周囲は整然とした住宅街。その途中の住宅の門前に説明板。
「新坂」。
この峠道は天保14年(1843)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した
旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った
坂を下りきったところから振り返る。
38番目の一里塚。
東海道一里塚跡
一里塚は慶長9年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約4㎞)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
一里塚は、道路をはさんで両側に約2㍍ほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
静岡市
「一里塚」を道なりに曲がり、「富士川第一小学校」を過ぎると、道は南下していく。しばらく進むと、右手の角に案内図。そこを右に曲がる。
わかりにくいので、地元の方が取り付けてくれた感じ。
ただし、旧東海道時代、先ほどの「一里塚」で道が直角に曲がっていたとは考えにくい。河岸段丘の縁をそのまま南下していたのではないか。少し曲がりくねりながら、この道に続いていたように思える。途中にある「常夜燈」も道の整備によって本来の位置から今の場所に移されたのではないか、と。宿場でもないのに、これほど短い距離で三箇所も直角に折れていたとは思えない。
今、旧道は住宅地に組み込まれたか、細い道として残っているような気がする。ことによると「市立富士川民俗資料館」前の道?
ここまで来る間にも、道路の整備、宅地化、土地の改良、開拓等によってかつての東海道が不明になったり、消滅したケースはたくさんあった。
現在の道路事情に基づく案内に従って歩いているのは、やむをえないことではある。なにしろ「東海道」。江戸時代以前からの一大幹線道路として活躍している長い歴史の中で、その後、明治までにはなかった、架橋、鉄道、新幹線、高速道路、道路拡張、付け替え、舗装などが激しく行われたのだから。
旧道「マニア」が遠慮もなく、勝手に私有地や私道に入り込み、写真を撮ったり、あれこれ詮索されたのでは、迷惑そのもの。まさに、現在に即応した「東海道」歩き、ということでいいのだろう。
おそらく箱根路のほんの一部の「石畳」などに残るのみで、旧東海道の道そのものは、ほとんどないはず。「蒲原宿」など、街道沿いの街並みは大きく変化していても、道筋そのものが残っているのは、救いだが。
東海道から目にする富士山も、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永の大噴火によって、東南斜面が一変し、江戸初期の東海道から見た富士山の姿とはまるで異なっている。さらに今や、「大沢崩れ」の進行で、20年前、30年前に比べても頂上付近の姿が変わってしまっているようなのだが・・・。これで、大噴火でも起きたら、景観は一変するだろう。
こう言い出すと、きりがなさそう。この先、東名の下をくぐる道も本来の道かどうか、東名高架橋を越えて左に曲がり、東名沿いの直線道路も付け替えられた道。分岐点に大きな石碑があるが、その脇をゆるやかに左に曲がっていたような、あるいは、石碑は東海道とは無縁であったか。
その先の分岐点では「右行き止まり 左蒲原」という道標によって左の道を進むことになるが、本来はまっすぐ右の道を進んでいたのではないか(右の道は新幹線によって阻まれる? )。
注:ネットで調べたら、やはり右の道が旧道だった。車は進入禁止という意味で「行き止まり」とあったのだ。新幹線の高架下には人道用の地下道がつくられていて通り抜けられ、先ほどの左へ向かった道と合流することになるらしい。左の道は新幹線敷設のためにできた迂回路だった。・・・
JRの変電所脇を過ぎた先、石碑と常夜燈のある一角あたりもあやしい。しばらくして、先ほどの(新幹線によって、車行き止まりになった)道(本来の東海道)と合流し、その先はしばらく旧道を進むことになる。今度は、東名を陸橋で越えるが、ここも大幅に付け替えられている。
また、その先は、直線の長い下り坂になるが、これも江戸幕府によって整備された初期の「東海道」ではない。坂を下りきったところで、左から下ってくる道が当初の東海道のはず(現在、「日本軽金属グループ研究センター」敷地南方を通っていたと思われる)。
この地域に限ってこのように記したのは、しだいに山が海側に迫ってきて、ここまでそれぞれ離れて進んでいた東海道、国道1号線、県道(旧国道1号線)、JR東海道線、新幹線、東名などの交通機関、幹線道路網が南西方向に向きを変え、だんだんと接近してくる地点。そうした交通機関の新設・開発による地元の生活道路の確保も重要。さらに自然災害への防備、・・・。
そのために、旧東海道は、付け替えられるところが増えてきたのだと思う。おそらくこの先、次の難所・「薩埵(さった)峠」付近も大きく変貌しているに違いない。
「常夜燈」。
振り返ると、富士山。
「中之郷」地区。「車坂」付近。
ゆるい上りで、東名の下をくぐり、東名に沿った道を行く。
正面に大きな石碑「野田山不動明王」。左へ。
しばらくは、山沿いの、旧道らしいのんびりとした雰囲気の道がつづく。
正面左手に「ツル屋菓子店」の看板。
この付近には、名物の「栗の粉餅」を売る茶店が立ち並んでいたらしい。 近年、この餅を現代風にして復活させたお店が「ツル家菓子店」さん。このお店は和洋の菓子を扱っている。買い物客が車を駐めていた。
振り返れば、富士山が。
分岐点を左(旧東海道ではなく、新設の道路)に進んで、新幹線のガードをくぐる。JR変電所の向こうに富士山。
「聳岳雄飛」の碑と常夜灯。
左手に、古い常夜灯と並んで「聳岳雄飛」と刻まれた碑がある。昭和45年の区画整理事業を記念して建てられたもの。
しばらく進むと、右手からの旧東海道の道に合流して、旧道を進むことに。
坂道を上ると、東名高速道路が左手に。
「東名」上の橋を越えると、静岡市。
当然、この橋は東海道ではない。
橋の上からの東名と富士山。
東名を越えると、直線の坂道を一気に駿河湾目指して下って行く。周囲は整然とした住宅街。その途中の住宅の門前に説明板。
「新坂」。
この峠道は天保14年(1843)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した
旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った
坂を下りきったところから振り返る。
38番目の一里塚。
東海道一里塚跡
一里塚は慶長9年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約4㎞)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
一里塚は、道路をはさんで両側に約2㍍ほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
静岡市