おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

蒲原宿。東木戸。広重「蒲原夜之雪」。・・・(富士から新蒲原まで。その4。)

2015-01-06 21:46:01 | 旧東海道

 静岡市蒲原宿の町並み
 (清水区蒲原二丁目・清水区蒲原三丁目)

 慶長6年(1601)に東海道の宿駅に指定された蒲原宿は江戸から数えて15宿目に当たる。
・・・
 江戸時代の蒲原宿は富士川を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わったという。
元禄12年(1699)大津波に襲われ、壊滅的な打撃を受けた。そのため現在のJR新蒲原駅の南側にあった宿を、北側の山裾に宿替えが行われた。
 元禄16年(1703)の蒲原宿明細書上帳によると家数307・人数2,379である。天保14年(1843)の宿村大概帳によると家数509・人数2,480。本陣1(本町)・脇本陣3(本町1・天王町2)。旅籠屋42・問屋場一ヶ所であった。文久年間(1861~64)頃作成されたと思われる蒲原宿町並軒別帳によると、宿家数455のうち往来稼ぎ78・旅籠屋47・馬持22・茶屋17・菓子屋などの商人が57であった。
 江戸時代初期に富士川の舟運が開かれ、甲州から岩淵(旧富士川町、東海道の間宿、川湊)まで川下された荷が陸路で蒲原まで運ばれ、そこから清水湊などへ船で運ばれ、蒲原は廻船業でも栄え、廻船の基地でもあった。
 また、蒲原は製塩業も盛んで多くの農家が塩田を持っていたし、漁業も重要な産業であった。
 明治5年には灌漑用を兼ねた運河が掘られて岩淵から蒲原まで、水路で運ばれるようになると、荷を直接甲州から蒲原に運べるようになり蒲原の堀川溜りは大変賑わった。しかし、明治22年の東海道線の開通、次いで中央線・身延線の開通などにより、江戸時代初期にはじまった富士川水運もその役割を終えた。
 蒲原宿には当時を偲ぶ伝統的な家屋は少なくなっていて、連続した町並とは云えないが、今でも宿場当時の面影が色濃く残っている。黒板塀の本陣跡建物も健在で、なまこ壁の商家の建物もある。この町並を歩いていて好印象を与えるのは、この町がこの宿場町の保存に取り組み、案内表示板や説明板を各所に設置していたり、町並保存のための講演会なども企画されている努力の賜物だろう。

matinami.o.oo7.jp/tyubu-tokai1/sizuoka-kanbara.htmHPより)

 さて、「一里塚」からしばらく進むと、いよいよこの先が「蒲原宿」入口。
 車も(ついでに人も)ほとんど通らず、喧噪とは無縁の世界の落ち着いた、静かな街道筋の雰囲気。訪れた方々の「blog」などを拝見すると、この宿場の雰囲気に魅了されるようだ。はたしてどうか?

来た道(東方)を振り返る。

宿方向を望む(西方向)。

 「一里塚」のすぐ向かい・右手に「北条新三郎の墓」という案内表示。

 蒲原城主だった「北条新三郎氏信」の墓碑がある。永禄12年(1569)武田軍に攻められ自刃した。蒲原城は、蒲原宿を見下ろす道城山の上に建つ要衝の城であったが、大軍で勢いのある武田軍に敗れてしまった、とのこと。ただし、三島のお寺にも遺骨があるそうだ。 
 なお、敵の武田軍の総大将は、信玄の4男勝頼。北条新三郎は、北条早雲の孫にあたる。
  
「蒲原宿東木戸」。

 神奈川県内で見かけた、それぞれの宿場の東西の入口(江戸方、京方)にあった「見附」 という形態ではなかったようだ。

説明板と蒲原宿案内図。

 江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
 また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政13年(1831)のものと考えられています。

 静岡県

                    


少しカーブした桝型から東を望む。
 ここまでは、「蒲原1丁目」。この先から「蒲原2丁目」となり、厳密に宿場の内側となる。

 宿内に入ってすぐの公園のところに大きな案内版。

 その右手には巨大な4本の導水管。 
        日本軽金属・第2発電所。

 山の上から水を落として発電させて、アルミの精錬に用いている。JR東海道線を挟んで海側に、日本軽金属の蒲原製作所とグループ技術センターが設立されている。
  
  

概要
 蒲原製造所は、日本軽金属の各事業部門の複合組織です。 この組織には、
・各工場に電力を供給する水力発電所
・純度99.99%のアルミニウムを生産する蒲原鋳造工場(偏析部門)
・あらゆるアルミニウム製品素材の供給基地である蒲原鋳造工場(鋳造部門)
・各種押出製品を生産する日軽蒲原(株)押出工場
・コンデンサー用電極箔を化成加工する蒲原電極箔工場
・平行流方式のカーエアコンコンデンサーを生産する蒲原熱交製品工場
・苛性ソーダをはじめ各種化学製品を生産する蒲原ケミカル工場

 および新規事業・開発製品等の生産をおこなう工場があります。また、この地区には、日軽グループの技術開発を担うグループ技術センターを始め、日軽グループの関係会社が活動しています。 テクノロジーカンパニーをめざす日本軽金属グループの、アルミニウム地金から各種加工製品にいたる、複合事業を担う蒲原製造所は、長期にわたって蓄積された技術力を最大に発揮し、自家用水力発電設備を擁するアルミニウムの総合工場として、お客様のさまざまなニーズにお応えしていきます。

水力発電設備
 蒲原製造所の工場群を動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給され、一部不足分は買電に依っています。 自家用水力発電設備は富士川の中・下流域にわたって、雨畑ダム・柿元ダムの高堰堤、槫坪・波木井川・塩之沢・十島の低堰堤、導水路および6ヵ所の発電所からなっており、合計で142,500KWの出力があります。 全発電所が蒲原製造所内の制御室で、一括監視制御されています。

HPより)

 その先の左手の空き地には、「帰省客専用駐車場」の張り紙。
                             期間は、「12月27日~1月5日」とあった。こうした配慮がうれしい。

 このように、この地には訪問者への配慮がされている感じがします。

   
                          写真による紹介もたっぷり、詳しく。

木屋の土蔵「渡邊家土蔵(三階文庫)」。

 左手の奥に珍しい三階建ての土蔵がある。渡邊家土蔵で三階文庫と呼ばれ、町指定の文化財となっている。



 渡邊家は江戸時代末期に問屋(といや)職を代々務めてきた旧家です。また、材木を商っていたことから「木屋」の屋号で呼ばれていました。
 「渡邊家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上に行くにつれて少しずつ狭まる「四方具」(四方転び)という耐震性に優れた方法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から、天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、町内最古の土蔵であると考えられます。この土蔵の中には、江戸時代の資料が多く保管されています。平成13年8月29日、町指定有形文化財に指定されました。

     静岡市

 平日の午後ということもあるせいか、人の姿がほとんど見えず、車も通らない。

  

その先にある「馬頭観音」供養石碑。

  
                        なまこ壁に「塗り家造り」の家(佐藤家)。

 当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。
 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果は大きく、昔から贅沢普請といわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。
 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。
     静岡市

                              

商家の面影を残す「塗り家造り」。

問屋場跡。 

 行く先の右手には旅籠跡の「和泉屋」。

 その手前の小川を左折すると 「蒲原夜之雪」記念碑がある。蒲原宿のほぼ中央に位置するところ。その前に原画を。 

         

 濃墨と薄墨の見事な調子によって更けてゆく雪の夜の静けさと雪明りを表現している。寒さの中を蓑を着た人や、傘をさした人が雪の積もった道を一歩一歩、歩いていく。五十三次中、優れた作品の一つであるといわれているが、この地は特に雪深いというわけでもない。絵師の想像力の豊かさが楽しめる。


 大正期の蒲原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より

                 (「」HPより)。

 注:上の大正期の写真は、背景から、蒲原宿の西のはずれから東方向を撮ったものと思われる。一方、広重の絵は、新坂(それ以前の七難坂)を下り、宿場の手前まで来たところを描いていると思われる。 

 当時(以前)に、蒲原にこれほどの雪深い景色があったのか? そもそも広重は本当に東海道を旅してスケッチしたのか? 
 こうした疑問が生じて、さまざまな議論がされているようだ。

 「Wikipedia」では、以下のようになっているが、・・・。
 
 1832年、広重は江戸から京都へと、御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として、東海道を旅している。馬は将軍からの象徴的な贈り物であり、天皇の神としての立場を尊重して、毎年贈られていた。
 旅の風景は、広重に強い印象を残した。彼は旅の途上でも、同じ道を戻った帰途でも、数多くのスケッチを描いた。家に帰りつくと、広重はすぐに『東海道五十三次』の作製に取り掛かり、第1回目の版を出した。最終的に、このシリーズは55枚の印刷となった。53の宿場に、出発地と到着地を足したものである。

 様々な観点から見てかなり疑問符がつく内容のようで、いろいろな方々が上記とは異なる説を展開している。 
コメント
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