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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その1。旧道。県道20号(大網街道)。シャインベリー(いちご狩り・直売農園)。跨線橋。(「房総東往還」を歩く。第2日。)

2023-11-09 18:41:36 | 房総東往還

「誉田駅」。

今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。

前回歩かなかった旧道を振り返る。

それに続く旧道を歩くことに。

        誉田駅を望む。

住宅地を進む。  

「県道20号(大網街道)」に合流。 

跨線橋を渡る。

           外房線に沿って進む。

「誉田IC」。

               

千葉県道67号生実本納線(おゆみほんのうせん)

千葉市緑区から茂原市に至る、主要地方道である。かつては、一部区間が千葉県道路公社が管理していた有料道路の千葉外房有料道路であったが、2023年令和5年)2月1日に全線無料開放された。

東京千葉方面と外房方面を連絡する道路のうち、千葉県道20号千葉大網線(大網街道)の慢性的な交通渋滞緩和のために建設された。事業費は、約234億円。(「Wikipedia」より)

左右に畑地が広がる。

              

大きなおうちが目立つ。

                 

「大網街道」。けっこう車の交通量が多い。

シャインベリー(いちご狩り・直売農園)」。

​味にこだわり有機肥料で育てた 美味しいイチゴで 皆様をお迎えいたします。

       (「じゃらんネット」より)

再び外房線を越えます。「大網」方向。

               

竹林。

誉田から大網への道のりの今昔。

                                   (「今昔マップ」より)

   ほとんど変化はなさそうです。右図で、「誉田」駅が「野田」駅になっています。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その4。鎌取駅。「大木戸」。野田十字路。大網街道。五日堂。誉田(ほんだ)駅・誉田のいわれ。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日。)

2023-11-07 20:37:01 | 房総東往還

鎌取駅前の賑やかな通り。

「房総東往還」(大網街道)は、駅の反対側を進みますが、当方は、この道を「誉田駅」に向かいます。                 

線路方向を望む。

         「大木戸」。

※「木戸」=人間や物品の出入りを管理するのが目的で、城下や宿場内外の境界に設置された関所。

道の反対側に「都川防災調整池」が広がります。

      

住宅が続く直線道路をけっこう歩き、やっとここで「大網街道」に出会います。

         野田十字路。「野田」はこの地域の地名。

                        ※千葉県内では、交差点を「十字路」と呼ぶことが多い印象。

旧道に復帰。

大きなおうちが目立つ。

               

      

「中宿」バス停。

旧道らしい道筋。

土蔵。

左手に「五日堂」。

                  日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊地。

日浄は折伏布教して家康に弾圧された日経の弟子で、日経亡き後、関東一円の法華経の普及に努めましたが、幕府の弾圧を受けて信徒と共に斬首に処されました。この五輪塔は、高田村の源右衛門が日浄の供養のために造り、当時幕府の目を恐れて土中に埋めていましたが、明治11年に掘り出されたものです。明治13年、信者が浄財を集めて精舎を建立し、日浄の命日である9月5日をもって五日堂と名づけました。なお、現在の五日堂は、公会堂として後年新たに建てられたものです。

(この項、「」HPより)

この先、GSのところから右手に入るのが旧道。

           

ですが、「大網街道」をそのまま進み、誉田(ほんだ)駅に向かいます。

左手に「千葉市立誉田小学校」。

来た道を振り返る。

「誉田駅」。

              

案内板。

             右(西)から左(東)へ歩いてきたわけです。

大網駅方向を望む。

誉田駅は明治29年1月20日房総鉄道株式会社による蘇我-大網間の鉄道開通に伴い「野田」駅として開業しました。 房総鉄道は明治40年に鉄道国有法により国有化され、その後に駅名も大正3年12月1日より誉田駅に改称されました。

誉田(ほんだ)の由来

このあたりは古くから千葉氏の領地で、千葉郡山家郷といわれていたのではないかと言われています。天正年間になって徳川氏の領地になりました。
慶長・元和年間(約400年前)には幕府の支配領として代官を置いて治めました。
その後、藩の領地になったり、旗本の知行地になり、領主は変り、また村によって支配もちがっていました。明治の廃藩置県によって、葛飾県・曽我県・印旛県・木更津県となったのですが、明治六年に現在の千葉県になりました。その頃は、野田村・遍田村・高田村・平川村・平山村・東山科村の六村に分れていました。明治14年10月野田村他5か村が連合しました。戸町を石田権右門が努めました。
明治17年8月には戸町役場を野田村に置きました。明治22年町村制公布と共に合併して「誉田村」と改称しました。初代の村長に野田の三枝八十郎氏がなりました。
誉田の村名は野田村をはじめ各村にある八幡宮の祭神、誉田別命の名からとって、村名にしたと言うことです。

(この項、「」HPより)

八幡神

清和源氏桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた誉田別命(ほむたわけのみこと・ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その3。落ち着いた町家。北生実上宿。生実城(おゆみじょう)・北小弓城 大手口跡。大網街道。外房線「鎌取」。。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日。)

2023-11-06 20:39:28 | 房総東往還

上がってきた道を振り返る。

旧家の雰囲気。

一方でモダンなおうちも。

落ち着いた家並み。

「北生実上宿」信号を右折。

      実は、この付近、「北小弓城下の町」ということに。

生実城(おゆみじょう)は、千葉市中央区生実町にあった日本の城北生実城北小弓城(きたおゆみじょう)とも言われる。近世以降は生実藩陣屋(生実陣屋)がおかれた。

千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城(南生実城)を築き、重臣原氏に守らせていたが、1517年永正14年)に足利義明小弓公方)にこれを奪われた。その後、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦に勝利した後北条氏方の原氏は、敗死した足利義明から領地を取り戻し、新たに北に2キロメートルほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられていた。

しかし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。・・・

16世紀に中頃に原氏は臼井城に進出して拠点を移すが、生実城は依然として原氏の重要な支城であり、千葉氏・後北条氏の勢力にとって里見氏に対抗する最前線の城であった。永禄4年(1561年)と元亀2年(1571年)の2度、里見氏によって攻め落とされているが、そのたびに原氏が奪い返している

1590年(天正18年)に後北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入部すると、生実城にも徳川家の家臣が入った。最初に城主となったのは西郷家員である。その後、1627年(寛永4年)に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩藩庁とした。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。

城の西側には曹洞宗寺院の重俊院があり、森川氏累代の墓碑がある。

《規模》

(京成千原線)「学園前駅」入口から蘇我インターチェンジに抜ける県道沿いに位置する。標高20メートル前後の台地上に広がり、700-800メートル四方の規模である。

城の東部には、南北に掘られた空堀によって区画された大手口があり、県道の傍らに石碑が立っている。主郭は、北西部の角栄団地と呼ばれる住宅街の中にあったが、昭和40年代(1966年-1975年)の宅地開発により破壊されており、遺構は残っていない。角栄団地内にある本城公園にかつての小字名が残り、千葉市の案内板が立てられている。

城内には、かつて御霊神社と呼ばれた生実神社があり、その西側に空堀が残っている。神社に隣接する飲食店のあたりが、近世生実陣屋が置かれた郭である。

北生実上宿の交差点から南に入る道がかつてのバス通りで、森川藩の陣屋前に当たる。近世には町場が形成されており「町並」の小字がある。

(この項、「Wikipedia」より)

通りの向こう、左手奥の森には「生実陣屋跡(森川陣屋跡)」、「生実城空堀・土塁」等がある。

また、通りの向こう正面には、「北小弓城 大手口跡」碑がある。

(「Wikipedia」より)

しばらく進むと、右に旧道が少し残されています。

                        旧道から通りの向こうに続く旧道を望む。

外房線に近づきます。

               

                この付近手前で半地下化した「京成千原線」を越えます。

      (「ジョルダン」より)

この付近では、「おゆみ(台)」とひらがな表示が目立ちます。たしかに「生実」では読めませんから。

しばらく線路沿いに進みます。

変わった建物が。

広いアンダーパスと交差。

線路をくぐり反対側に。

旧(らしき)道へ出ます。

住宅地の中の道。

「鎌取十字路」。

                   現在の「大網街道」と合流します。

                

「房総東往還」道はしばらく鎌取駅の北側を進みますが、JR外房線「鎌取駅」南口に向かい、小休止します。

とあるおうちの門の横には、愛らしいフクロウ?

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田」。その2。旧生浜(濱)町役場庁舎。西雷(にしらい)踏切。生実(おゆみ)町。本満寺。(「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日目。)

2023-11-05 20:03:48 | 房総東往還

歩き始めると、すぐ左手に古い建物。

「旧生浜(濱)町役場庁舎」。

解説板。

旧生浜(おいはま)町は、現在の中央区から緑区にまたがる地域にあった町です。1889(明治22)年に北生実(おゆみ)・南生実・浜野・村田・有吉(ありよし)の5か村が合併して生実浜野村となり、1925(大正14)年に生浜村に改称しました。1928(昭和3)年の町制施行により生浜町が生まれました。生浜町の誕生を機に、1932(昭和7)年に建てられたのがこの旧生浜町役場庁舎です。生浜町は1955(昭和30)年に千葉市へ編入されましたが、この建物は生浜支所・生浜地区市民センターとして1992(平成4)年まで使用され、長く地域の人々に親しまれてきました。木造2階建てフランス瓦葺き、市内に残る昭和初期の洋風建築で、1階は役場、2階は議場になっていました。玄関ポーチ上のバルコニーは明治初期から大正期の郡役所建築によく見られるもので、この建物の大きな特徴です。

                    

千葉市のマンホール。汚水用。

中央に千葉氏の家紋「月星紋」と千葉の「千」を配した市章、周囲に市の鳥「コアジサシ」、市の木「ケヤキ」を描いている。フチに沿って配置されているのは市の花「オオガハス」。

※「オオガハス」=故大賀一郎博士が千葉市検見川で発掘した実をもとに発芽・育成に成功した古代のハスで、千葉県の天然記念物にも指定されている。2000年前のハスの実3粒のうち1粒が発芽に成功した。

※以前、「千葉公園」の大賀ハスを見に行ったときの記録。

  

  

・・・
これはその先にあったマンホール。雨水用。

市の花・大賀ハス、市の木・ケヤキ、市のシンボル鳥・コアジサシのデザイン。 中央のマークは、千葉市のコミュニケーションマーク。弧を描く円は6つの区を表し、千葉に集まる人、もの、情報の活発な交流とコミュニケーションを表している。

内房線「西雷(にしらい)踏切」。

踏切脇のススキの群れ。

先に進みます。

             振り返る。

前方に「東関東自動車道」高架。下は国道16号線。

     交差点名は「生実(おゆみ)」。

※「生実」は難解地名の一つ。生実町は、かなり古い町で、実は幕府の藩があった町。元々は『小弓城』だったのが、後に『生実』と改められ、それが地名となったようです。

千葉市立生浜小学校。

       「祝 創立150周年記念」。            ↑「チーバ君」

       田畑が広がる。

「生実町五差路」を左折。

             

左手には「本満寺」。

本満寺は本行寺を開山した日泰上人が開基となり、文明5年(1474)4月に創建したといいます。江戸時代には「不受不施派寺請禁止令」により衰亡したものの、第14世日諌が再興、數ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。

         

※この地には、「顕本法華宗」、また、徳川幕府によって禁制・弾圧された「不受不施派」系の寺院が多くあるようです。

※不受不施派

日蓮宗の一派。京都妙覚寺住持の日奥(にちおう)を派祖とし,江戸幕府に禁教されたので〈禁教不受不施〉の名で有名。不受とは寺や僧侶が謗法(ほうぼう)(他宗)からの布施供養を拒否すること。不施とは謗法の寺社や僧侶に日蓮宗の信者は布施供養をしないこと。法華信仰だけを正しい仏法とした日蓮宗の立場からみると、謗法からの布施供養はその邪を正すべき相手からの施物であり、受容すると,邪を正す〈折伏(しやくぶく)〉の根拠は失われる、とする。 

この先を左折し、上り坂を進みます。

                     

この付近の今昔。

                     (現在)「生実町」。寺を右折する道が旧道。

                     (1880年代)家並みが続く。

          房総東往還道は、突き当たりを右折して進む。

上がりきると、落ち着いた家並みが続く。かつての宿場(間の宿)のような雰囲気に。

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JR内房線「浜野」~外房線「誉田(ほんだ)」。その1。大網街道。房総往還(内房沿い)との分岐。「房総東往還・伊南房州通往還」を歩く。第1日目。)

2023-11-04 20:16:18 | 房総東往還

JR内房線「浜野駅」

今回から「房総東往還」を歩くことにします。正しくは、「伊南房州通往還」のようです。

伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。

千葉県外房の大部分を通っており、現在は県道14号国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震関東地震関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震慶長地震などの房総沖地震千葉県東方沖地震などにより隆起沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立しており、内房の房総往還、外房の伊南房州通往還、銚子街道成田街道(佐倉道)と共に多くの生活路・輸送路として役割を果たした。

主な地名(市・町)をつなげると、

浜野~大網~茂原~一宮~大原~御宿~勝浦~安房小湊~鴨川~和田~館山 

《浜野から館山までの約132km+α》

鉄道だと主に「JR外房線」沿い、となります。

赤い線が「房総東往還」、青い線が「房総往還」     

浜野付近の今昔

1880年代)赤↓:茂原街道、青↑:大網街道

蛇行して進んでいるのが「房総往還」。この頃には、茂原街道ルートが主流になってきているようです。

(現在)茂原街道ルートは線路のため迂回。

・茂原街道ルート

千葉市中央区「浜野」交差点の房総往還から分岐する。「高師」交差点で国道128号大網街道ルート)と合流する。

「浜野」。

房総往還と分岐する。手前の道が茂原街道、正面が房総往還。

茂原街道は大きく右に曲がり、浜野駅付近からほぼ東を進む。

→茂原街道へ。

・大網街道ルート

房総往還「塩浜橋」交差点から分岐し、北東に進み、外房線沿いをたどる。             

         塩浜橋。

房総往還(船橋方向)。

「房総往還」(JR内房線沿い)を歩いたとき、この地も通りました。

 

                 房総往還は、突き当りを左折。

今回、歩く順路は、大網街道ルートにし、茂原で茂原街道ルートと合流します。

ということで、まずは、2日間かけて大網まで歩きました。

しばらく房総往還を歩きます。

塩浜橋から分岐。

住宅地を進みます。

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