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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-22 20:50:44 | 青梅街道
                        (10:00)「延命寺」。早咲きのヒカンザクラ。

 延命寺の門前にある嘉永3年(1850)建立の庚申塔。

そのすぐ先には「FC東京パーク」。サッカーにはあまり興味なくスルー。

 春の草木がそろそろ花を咲かせてきます。この先、沿道のおうちの庭も花々が。
 

       手入れの行き届いたおうち。

梅。

竹林。保存地区になっています。

 (10:18)右手にあるのが「なかまちテラス」。去年開館したばかりのようです。


          

なかまちテラス(小平市立仲町公民館・仲町図書館)
地域と育てる人と情報の出会いの場
全景。

語り手:中村 和幸(小平市立仲町公民館 館長)
    上田 滋 (小平市立仲町図書館 館長) 
聞き手:永沼 麻子(金剛株式会社 社長室)

―なかまちテラスは仲町公民館と仲町図書館が合築された複合施設との事ですが、複合化しリニューアルオープンに至った経緯を教えてください。
 元々この場所は、昭和50年から小平市立図書館があり、その後、市立中央図書館が新しく移設され仲町図書館となった場所でした。この近くにあった仲町公民館も老朽化しておりましたので、両館を建て替える話が持ち上がりました。そこで、両館を合築する事で建物の管理の合理化もでき、そこに新しく生まれる可能性を地域に活かすという考えから、平成18年度から庁内で検討が始まったのがきっかけです。
 建物は世界的建築家の妹島和世さんの設計で、まちのシンボルとなる様なデザイン性の高い建物になっています。住民説明会を数回行い、地域住民の意見や要望を伺いながら進め、平成27年3月14日にリニューアルオープンしました。 

―開館に向けてどの様な取り組みをされたのでしょうか。
 『みんなでつくる、みんなのなかまちテラス』をコンセプトに、“なかまちテラスLiNKSプロジェクト”を開館に向け活動する場として立ち上げました。地域住民や地元小中学校・大学生・地元商店会の方々と平成26年7月から開館までの約8ヶ月をかけて活動をしました。
 LiNKSとはL(Library)=図書館、i(i)=私、N(Nakamachi)=仲町、K(Kominkan)=公民館、S(School)=学校を意味し、地域づくりの拠点となる施設にしたいという想いで名付けられています。
 具体的な取り組みとしては、大きく3つあります。1つ目は「キックオフ!なかまちテラスの未来づくりワークショップ」、2つ目は「この指とまれ!なかまちテラスでやりたいこと大募集」、3つ目は「武蔵野美術大学との連携事業」です。
・・・
HPより)

「小平消防署」の西付近から「小川宿」。
 人馬の継立業務に便利なように道が広くなっているところも残っていて、現在も1車線分道路の幅が広くなっています。小平市の名前の「小」は、小川宿から来ているそうです。

(10:31)西武多摩湖線「青梅街道」駅。

駅前にある「なかまちテラス」周辺案内図(上が東)。

駅の裏手にこんもりした林に囲まれたおうち。

その先には大きな切り株が二つ。

 しばらく進んで、右手にあるおうちの屋根の向こうに真っ白な花がたわわに。

 家の方に断って中に入ってパチリ。「何という名の木ですか? 」「ハクレンです。一週間くらいが見頃で、そのあとは邪魔でね・・・」と言いながらもけっこう大切にしているようです。

注:「ハクレン」=「ハクモクレン(白木蓮)」。普通「モクレン」というのは、紫色の花を咲かせる「シモクレン(紫木蓮)」を指す。

見事にスクッと伸びたケヤキ。剪定も大変そう。

 こうした大木が街路樹ではなく、沿道のおうちの庭にあるというのに、驚き。市としても「保存」活動を行っているようです。

青梅街道」解説板。
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開き、同11年(1606)には江戸城の大改築を開始しました。これに伴い、当時重要な建築資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城にに運搬するため、青梅から江戸の半蔵門まで武蔵野の荒野30数㎞を一直線に切り開いてつくられた道が青梅街道で、成木道とも呼ばれました。
 途中、馬匹の中継所である馬継場が箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所置かれましたが、小川村の開発者小川九郎兵衛も、明暦3年(1657)にこの地に馬継場を開設しました。
 小川町2丁目の旧小川六番組から八番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継場の跡地です。
 
土蔵造りの建物がある大きなおうち。

来た道を振り返る。

(10:43)しばらく進むと、JR武蔵野線「新小平」駅(地下)。
駅前の案内図(上が南)。↓が「青梅街道」。

小平市内の探訪案内図。見所がたくさんあります。

春を告げる花木が咲き始めています。

土蔵造りの建物が目立つ。

その先で「旧鎌倉街道」と交差します。鎌倉街道は各地と鎌倉を結んでいた旧道の総称で、ここはその内の「上道」と呼ばれる道が通っていました。
北方向。

                              南方向。

(10:52)鎌倉街道」解説板。
鎌倉街道(小平市小川東町~津田町)
 小川村が開発される前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野でした。この原に天平の昔(730年頃)から府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道(東山道武蔵路)が通っていました。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとこの道は鎌倉街道と呼ばれるようになりました。
 小平市域での道程はわずか2キロメートルに過ぎませんが、千数百年の歴史を有するこの道筋には「二つ塚」「石塔が窪」」「九道の辻」などの地名や史跡が残り、また場所は明らかではありませんが2か所の「まいまいず井戸」があったと伝えられています。

その先には派手な看板のお店「富士ノ山食堂」。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-20 18:59:45 | 青梅街道
                            (9:00)「田無駅北口」交差点。

 青梅街道歩き2日目。

 3月17日(土)。快晴。汗ばむような陽気。
 「青梅駅」まで歩くつもりでしたが、時間切れで、その二つ手前にて終了。

田無宿「上宿」バス停。特に宿場の面影なし。

(9:11)「橋場」交差点。「東京街道」。

 ここが「青梅街道」と「東京街道」との分岐。「東京街道」は、ここから東大和市の東京街道入口交差点(「新青梅街道」交点)までの区間。「江戸街道」とも呼ばれています。ほぼ真西に続く道が「青梅街道」。ただし、この先、「江戸街道」という道が旧「青梅街道」と重複するように出てきます。

 この付近の今昔。

1880年代のようす。

2010年代のようす。

 (9:16)右側に電波塔「スカイタワー西東京」が見えてきます。

何の鉄塔なの?
 スカイタワー西東京は、各種通信事業者や放送事業者などが共同で利用できる電波塔で、郵政省(現、総務省)から「マルチメディアタワー(多目的電波利用基盤施設)」として認定を受けた最初の施設です。
 主に、防災行政無線、タクシー無線、携帯電話、コミュニティエフエム放送のアンテナが取り付けられており、これらの基地局、中継基地局になっています。
 また、風力など気象変化を測定する実験局としての役割も担っており、観測機器の設置も可能です。

高さはどのくらい?
 鉄塔の高さは195mになります。平成元年の完成当時、日本国内の自立鉄塔としては3番目の高さでした。
 特徴としては、全方位にアンテナを取り付けられるように八角形の構造で、様々な形状のアンテナを効率よく配置できます。


鉄塔照明は平成7年に開始しました。
 周辺地域における翌日午前中(9時前後)の天気予報を色分けで表しており、“天気予報のタワー”として親しまれています。
  
      雨                曇り              晴れ

(以上「スカイタワー西東京をもっと詳しく知ろう」HPより)

                

沿道には「ケヤキ」の巨木が目につきます。

(9:32)やがて「小平市」に入ります。

右に進むと「スカイタワー西東京」に隣接する「多摩六都科学館」へ。

ここは「プラネタリウム」が世界一を誇るらしい。以下、HPより。

世界一に認定されたプラネタリウム
 2012年7月にリニューアルで導入された投映機「CHIRONⅡ(ケイロンⅡ)」は1億4000万個を超える星々を投映し、最も多くの星を投映するプラネタリウムとして世界一に認定されています。直径27.5mの大型ドームスクリーンに、微細な星の輝きが広がり、奥行き感のあるリアルな星空をお楽しみいただけます。
 当館のプラネタリウムは専門のスタッフによる生解説も特徴です。季節ごとに移り変わる明るい星々や星座のお話を当日の星空を投映しながらご紹介。宇宙に関する旬な話題をお伝えできるのも生解説ならでは。約2か月ごとに入れ替えるテーマ解説と組み合わせて、新しい発見をお届けします。
 「CHIRONⅡ」は、東京都府中市にある(株)五藤光学研究所が開発したプラネタリウム投映機です。23m以上の大型ドームでは世界初となる高輝度LED光源を採用しました。
本物の星空により近づけることを目指し、観測された数十億の恒星データをもとに、天の川を構成する恒星や星雲、星団を全て星で表現しています。また、星像が一段とシャープになり、まるで実物のように光輝く星として映し出すことができます。
 全天周デジタル映像システム“バーチャリウムⅡ”では、4台の高精細(4K)プロジェクターを採用し、個々の映像を正確に重ね合わせるデュアルプロジェクション方式により、鮮明で迫力あるデジタル映像の投映を実現。まるで異空間に飛び出したような没入感をもたらします。
デジタルプラネタリウム機能も持つバーチャリウムⅡと光学式投映機CHIRONⅡを組み合わせることで、多彩な表現が可能になり、ハイブリッドプラネタリウムを生かしたプログラムを展開しています。大きなスクリーンで映像をお楽しみください!作品によっては英語音声で聞くことができます。
      

(9:38)「花小金井」交差点。

沿道には土蔵造りのあるおうちも。

ケヤキ並木。

サクラの古木。

 (9:48)西武新宿線の踏切が見えてきます。


                      

その先の表示板。

 
                          (9:54)「多摩湖自転車道」。

 西東京市から東大和市までを直線に貫く水道導水路上と首都圏の水がめである多摩湖(村山貯水池)のほぼ全周にわたって設置された多摩湖自転車道。
ひんぱんに出くわすクルマ止めが目障りとなるものの自転車道を覆う濃密な緑は、ここが都心に近いことを忘れさせてくれる。
・・・
 犬を連れて散歩をする人、ジョギングを楽しむ人、傍らのベンチに腰掛けて世間話をする人などなど、人々のたたずまいはのんびりとしたもの。そのリズムに合わせてペダルを漕ぎ続けると、こちらの気持ちもなんだかスローダウンしてきた。
 ただし都市部であることに加え、この自転車道が縦横に行き交う一般道を斜めに貫いているせいか、100mにも満たない間隔で一般道の横断がある。お察しの通りそこにはクルマ止めが設置され、走りにくいことこのうえない。ごていねいに「おりてわたりましょう」と記したところもあるけれど、いちいち降りていたらサイクリングの楽しみが台無しだ。事故が心配というのなら、せめて自転車道が優先となる交差部(一般道に「止まれ」の標識がある)には、クルマがスピードを落とすよう、一般道の側に障害(クランクなど)を設けるべきではないだろうか。
 やがて自転車道は西武新宿線に沿うようになり、花小金井駅前を通過。ここから1・3km進んだ小平ふるさと村(開園時間:10時~16時、休園日:月曜・第3火曜※祝日の場合は翌日、入園料:無料、・042-345-8155)は、近在の農家を移築復元した場所で、見学がてらひと息つくのにちょうどいい。
 小平駅駅前で自転車道は姿を消すが、心配する必要はない。そのまま直進100mの駅の外れに、再開する自転車道が現われる。
 萩山駅を過ぎたあたりから、目障りだったクルマ止めの数がようやく減少。それに合わせてアベレージスピードも上がり、快走モードに入っていく。
 八坂駅脇の陸橋で都道16号線(府中街道)を越え、武蔵大和駅西交差点を渡ると、目指す多摩湖はすぐ先。多摩湖南岸を西に向かって進む道は、アップダウンのある上り基調となる。平坦な道が続き、少々飽きてきたところなので、このアップダウンはうれしい。ただし樹木に遮られ、ほとんど湖面を見ることができないのは残念だ。
 進んだ鹿島橋手前の分岐は立体構造で、左を選ぶと村山貯水池を分断する堰堤上の道となり、対岸の多摩湖橋西詰で自転車道に合流する。時間や体力に制約がある場合は、ショートカットとなるこちらがベター。また、右を選べば鹿島橋、さらにつつじ橋を渡って鹿島休憩所へと至る。こちらは上り基調が続く。
 銀色の屋根が印象的な西武ドーム球場を左に見て、かつては遊園地のおとぎ列車だったという西武山口線と並行。2km進んだ多摩湖堰堤のたもとが、自転車道の終点となる。なお右手の都立狭山公園は、'09年3月までの予定で工事を行なっており、利用できるのは一部のみとなる。

●区間
   関前5丁目交差点-(0:15)3.08km→花小金井駅-(0:08)1.45km→小平ふるさと村-(0:08)1.68km→小平駅-(0:17)4.68km→武蔵大和駅西交差点-(0:14)3.79km→鹿島休憩所-(0:12)3.79km→都県境-(0:17)4.86km→自転車道終点
・・・
(以上、HPより) 

注:上図で自転車道と交差して、ほぼまっすぐ西(上)に進む道が「青梅街道」。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その5。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-19 19:40:55 | 青梅街道
                      道路が拡張、整備され、かつての街道の面影はなさそうです。

(14:09)右手に旧道が残っているようです。車が停車しています。

かなり拡幅された青梅街道をゆるやかに下っていきます。

(14:14)下った先の交差点。右手奥には「東伏見稲荷神社」。

来た道を振り返って望む。

(14:21)「石神井川」と交差します。



 「石神井川」が流れているとは思いませんでした。

 石神井川は、都立小金井公園付近にその源を発し、小平市・西東京市・練馬区・板橋区・北区を流れ、北区堀船で隅田川に合流する延長25.2キロメートル、流域面積61.6平方キロメートルの荒川水系の一級河川です。
 最上流部に小金井公園、中流部には城北中央公園、また下流部では旧河川を利用した音無親水公園など多くの公園・緑地と接し、都市部を流れる中小河川としては、沿川に貴重な緑を有する河川となっています。



HPより)

 石神井川は、小平市・西東京市では「悪水」、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」と呼ばれていた。「滝野川」という別称は北区滝野川の地名にも残っており、近藤勇の墓所がある。かつて、この地域の石神井川が「滝の様に勢いよく川の流れが激しかった」ことに由来する。
(この項、「Wikipedia」参照。)

 下流、JR王子駅付近の「石神井川」(かつては音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていました。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっています。
(「日光御成道」を歩いた時のもの)

(上流、西東京市・「青梅街道」沿い)

路傍に満開の紅梅が一本。

「保谷市」と記された下水蓋。

 注:「西東京市」は、2001年(平成13年)1月21日、旧・田無市と保谷市が合併して発足しました。   

(14:29)西武新宿線の高架ををくぐります。

「富士街道」という標識。祠は「弘法大師標柱」。

 この「富士街道」は「中山道」の志村坂上・清水坂から西に分岐する道とつながっているようです。「大山詣」の道。

(14:31)「柳沢庚申塔」。
 慶長11年(1606)の江戸城の大改修以来、城の壁材である石灰を運ぶ道として青梅街道がひらかれました。青梅街道の成立とともにその人馬継ぎ立てを行う宿として、田無村柳沢宿は発展しました。
 享保8年(1723)この付近の住民23人によって庚申講が組織され、来世安楽を祈願してこの庚申塔が建立されました。・・・
 当時の田無村は交通の要路にあり、青梅道と所沢道などの分岐点(元田丸屋商店の角)は田丸屋旅館もあり、田無を印象づける著名地点でした。ここに庚申塔を建て、道しるべの役目を持たせたもので、この地域ではとても古いものです。
 平成18年1月、所沢街道拡幅のため、この場所に移設されました。
 


(14:33)この交差点を左折します。

 交差点の角にあるビルは「田丸屋」。

この付近の今昔。○が「所沢街道」との追分。
  

1880年代のようす。下方の流れは「石神井川」。途中、東に向かう道は「富士街道」。



2010年代のようす。中央右は西武新宿線「柳沢」駅。

 

 「田無神社」、「総持寺」を過ぎ、「田無(宿)」へ入ります。

(14:42)商家の面影。

人通りの多い商店街を進み、左折して「田無駅」に向かいます。

 今回はここまで。思ったよりも新宿から近いので驚きました。ただし、帰路は西武新宿線で高田馬場まで出てJRに乗り換えて、と意外に距離がありました。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-16 22:27:26 | 青梅街道
                             (11:25)「杉並区役所」前にある皀莢(サイカチ)の木。                          
皀莢(さいかち)の由来
 かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。その樹は江戸時代に青梅街道の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生まれたのは、その樹が街道の目印として人々に広く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。当初植えられていた皀莢は手話14年に枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく、新たに植えられたものです。
                          

(11:38)「天沼陸橋」交差点を左折し、旧道へ。

実は地下鉄もこの地下を通っています。

 しばらく進んだ先の藤沢ビル裏側には「長屋門」が見えます。


                 
 
裏手に回ると(道路側に出ると)「明治天皇荻窪御小休所碑」があります。

 その奥に瀟洒な日本家屋がみえます。

 解説板がなくて詳細不明ですが、長屋門も小休所も荻窪の名主、中川家の屋敷跡。徳川第11代将軍家斉が、鷹狩の際に休憩に寄った場所であったようで、明治に入っては、明治天皇が二度立ち寄って休憩した屋敷跡で、以来、明治末まで毎年、小金井に花見に行く際に、必ず訪れていたとか。

 「長屋門」には潜り戸があって、自由に行き来できます。

 (11:48)旧青梅街道はこの先でJR中央線とぶつかります。横断地下道を通ってJR荻窪駅前に出ます。


                        

「青梅街道」新宿方向。右手の道が旧道。

青梅方向。

「青梅」の文字が。

 さてお昼時ですが、「荻窪といえばラーメン」というのも芸のない話しなので、もう少し先へ進みます。

(12:08)「四面道」交差点。
                        「環八」との交差点。 かつては、上荻窪村・下荻窪村 ・下井草村・天沼村の四村の境界にあたっていました。
 「大勝軒」の看板があります。お客さんが並んでいます。
 (12:20)しばらく進み、右手の日本そば屋さんに入ります。「桃蕎(とうきょう)庵こばやし」。
店内のようす。

                             
 日本酒とつまみとお蕎麦を食べます。たっぷり昼食休憩。

 (12:52)一杯機嫌で再開。

井荻町役場跡」解説板。
 ・・・明治22年市制・町村制の施行に伴い「上井草村」・「下井草村」・「上荻窪村」・
「下荻窪村」の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生しました。井荻町役場の前身となる井荻村役場は・・・明治32年12月にこの地に移転しました。
 誕生当時の井荻村は、人口2,925人の農業を中心とした典型的な西郊の一農村でした。しかしその後交通機関の発達もあり、大正12年の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、大正15年7月1日、村は町制を布き井荻町となり、同年10月には二階建ての新庁舎が完成しました。この年の人口は13,514人でした。
 人口の流入によって、村から町へと発展する中で、都市でも有数の大規模な土地区画整理が行われました。また、町営水道の敷設、西武線の誘致などが行われ、現在のこの地域の基礎が築かれました。
 区になる直前の人口は、25,968人になっていました。
 昭和7年10月、町は「和田堀町」・「杉並町」・「高井戸町」と共に杉並区として東京市に編入され、井荻町役場はその役割を終えました。
この時期、街路樹も刈られて殺風景なのが残念。そんな中に。

 沿道には緑豊かな木々に囲まれた大きな神社やお屋敷が見られます。


                     



「江戸向き地蔵」。

そこから江戸(新宿)方向を望む。

(13:23)練馬区に入ります。

青梅街道と稲荷神社」。
 青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長11年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸幕府に搬入するために開かれたと伝えられています。
 石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
 この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。・・・

 車の行き来する広い青梅街道を進みます。歩道があるので安心!
沿道にはもと農家らしいおうち。

「青梅街道」の表示。

(14:01)西東京市に入ります。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-15 22:25:19 | 青梅街道
                                  「蚕糸の森公園」

 ここにはかつて農林省の蚕糸試験場がありました。その跡地が大きな公園となっています。


                  

地元の人々にとって憩いの場。小休止。

「案内図」。

名残の桑畑。
 かつては、関東一円に桑畑がたくさんありました。桑の緑で大きな葉っぱ、初夏の頃に実を食べたことも思い出します。
 今、「中山道」を歩いても「日光街道」を歩いても、車窓からももうほんの少ししか目につきません。養蚕農家の面影を残す建物は散見しますが。
 

クワ(桑)
 クワ科クワ属の総称。カイコの餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用される。
 落葉性の高木で、大きいものは15mに達するが、普段見かけるのは数m程度のものが多い。樹皮は灰色を帯びる。葉は薄く、つやのある黄緑色で、縁にはあらい鋸歯がある。大きい木では、葉の形はハート形に近い楕円形だが、若い木では、葉にあらい切れ込みが入る場合がある。葉には直径25-100μmほどのプラント・オパールが不均一に分布する。
 雌雄異株だが、同株のものがある。春に開花する。雄花は茎の先端から房状に垂れ下がり、雌花は枝の基部の方につく。果実は初夏に熟す。キイチゴのような、柔らかい粒が集まった形で、やや長くなる。熟すと赤黒くなり、甘くて美味しい。

クワの実。そのままでも甘酸っぱくて美味。ジャム・果実酒などにも。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」参照。)

 この付近の今昔。


1880年代のようす。


2010年代のようす。中央右にある公園が「蚕糸の森公園」。

門前、青梅街道沿いに大きな「妙法寺灯籠」が建っています。堀之内の御祖師様として名高いお寺。南にある。
  

 (11:04)「環七」を過ぎ、地下鉄の「新高円寺駅」近くの交差点には「五日市街道」の標示。実際はもう少し進んだ左手の道のようです。


ここにも昔風の商家の建物。

 (11:22)だんだん人通りが激しくなってきます。「杉並区役所」の手前、右手の通りがすてきなアーチのある「パールセンター商店街」。
                 

 何となく興味深いネーミングなので。ちょっと長い引用ですが。
パールセンター商店街と、その街路の歴史
HPより)
 おそらく荒れ野と湿地ばかりであったろう上古の阿佐ヶ谷に、いつのころからからか、ささやかな街道が整備されました。
 現在パールセンター商店街となっているこの道は、鎌倉と北関東地域を結ぶ「鎌倉街道」の一部としておよそ800年前に現れたようです。
 関東平野は江戸時代に大規模な開墾がなされましたが、それ以前は広大な湿地帯が広がる中に集落が点在するような過疎地で、農業生産の中心地域は現在の群馬県、栃木県、埼玉県北部、千葉県北部にまたがる北関東にありました。
 そういった北関東地域と政治の都、鎌倉を結ぶ道路網が鎌倉時代に整備されています。
 それよりも前は記録が無いので良くは分かりませんが、松ノ木に古代の住居群があったことや、大和武尊が東北遠征の帰路に神明宮付近に立ち寄ったことからも現在の阿佐ヶ谷一帯は、古代の頃から人が居住するには向いた地域ではあったようです。 
 南北朝の頃には「あさかや」殿という江戸氏の流れをくむ土豪が文献に現れ、この時期にはこの一帯がすでに「あさがや」と呼ばれていたことが分かります。
 中世の周辺一帯は現在の石神井公園を本拠地(発祥は現在の北区)とする豊島氏と、現在の東京駅周辺に城を構えていた江戸氏が勢力争いを繰り広げていました。
 荻窪の旧家に豊島氏の支配下にあった記録が残ることから、阿佐ヶ谷は両者の勢力が拮抗する最前線であったのかもしれません。
 その後長く江戸氏と豊島氏の勢力争いは続きますが、江戸氏の支配を受け継いだ太田道灌と、豊島泰経・泰明兄弟が1477年に現在中野区の江古田・沼袋で激突します。合戦は激しい戦いとなりますが、足軽(歩兵)戦術に優れた道灌が数で勝る豊島勢を圧倒し、石神井城に追い詰められた豊島一族は滅亡。阿佐ヶ谷を含む一帯は太田道灌による支配が確立されます。
 しかし続く戦乱と北条氏(小田原を本拠地とし北条早雲を祖とする)の進出により阿佐谷一族は歴史の渦の中に飲み込まれ、1540年代に記録された「阿佐谷二郎」の名を最後に歴史の舞台から消えてゆきます。
 その後、北条氏が滅亡して徳川家康が江戸に入府したため、阿佐ヶ谷一帯も「阿佐ヶ谷村」として幕末まで徳川氏の支配下に入ることとなります。
 江戸幕府の成立と豊臣氏の敗亡により戦乱の時代も終わり、現在のパールセンターにあたるこの道は、練馬の貫井弁天から堀の内の妙法寺へ通じる「参詣の道」として親しまれるようになります。
 パールセンターの中ほどに残る青面金剛像と地蔵菩薩像はその頃の名残で、記録によるとおよそ300年前の元禄年間(1688~1704年)に建立されたそうです。
 江戸時代の阿佐ヶ谷村は農村として、特筆されることもなく平穏に発展していきますが、唯一の出来事として善福寺川から桃園川に用水路を掘削したことが記録に残っています。
 それまでの荒れ地を開墾して新田として開発を進めた結果桃園川の用水が不足し、それを補うために善福寺川から用水路を掘削したようです。現在の荻窪団地付近から溝を掘り杉並高校前を通って、そこからパールセンターのサブドーム付近までトンネルを掘って水を通すという中々の大事業でした。
 サブドーム周辺には現在も暗渠が残りますが、もしかするとこの用水路事業に由来するものかもしれません。
 明治新政府により阿佐ヶ谷村は新設の杉並村に統合されることとなります。東京府豊多摩郡杉並村の阿佐ヶ谷となったこの地区を大きく変えたのが大正11年の阿佐ヶ谷駅開業でした。
 開業当初は駅から青梅街道まで民家が数件ある程度(!)でしたが、同じ年に発生した関東大震災により住処を失った人々が続々と移住してきたこともあり阿佐ヶ谷に住む人々も急激に増えていきます。
 それに伴い道の左右に商店も立ち並ぶようになり現在の商店街の原形が形作られました。
 青梅街道に路面電車が走り始め、杉並村が杉並町になったのもこの頃です。
 昭和になると2年に井伏鱒二が荻窪に移住したのを始まりに、鱒二を相談相手と慕った太宰治をはじめとする若い作家や、評論家といった文筆家が阿佐ヶ谷から荻窪にかけて多く移り住むようになりました。
 界隈には与謝野晶子、太宰治、青柳瑞穂、伊馬春部、三好達治、火野葦平、徳川夢声といった錚々たる顔ぶれが住んでいたそうです。
 彼らが顔を合わせる際にお決まりにしていた店(ピノチオ)が阿佐ヶ谷駅の北口駅前にあったこともあって、いつしか阿佐ヶ谷は「文士村」と呼ばれるようになりました。
 昭和7年には杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町と合わせて杉並区が発足します。
 そういった新興住宅地としての発展もあってこの商店街は、戦前には商店の数が120件を超える区内有数の商店街となっていました。
 しかし太平洋戦争の激化により商店の多くも閉店を余儀なくされて商店街は衰退します。
 昭和20年3月には商店街の西側の約半分が疎開を命じられ退去してしまいました。疎開したベルト状の地域は更地同然となり、そのまま終戦を迎えたそうです。
 終戦直後は闇市同然の混沌とした商業地になっていましたが商店もじきに復活し、次第に元の商店街の賑わいを取り戻していきました。
 数年後には地元有志たちの運動により、更地となった疎開地を利用して道路が整備されました。これが現在の「中杉通り」に当たります。
 それに合わせて「商店街を歩行者専用道に」との要望が盛り上がり、昭和29年、商店街が歩行者専用道路に指定され”歩行者天国”都内第1号の栄誉に輝きました。また中杉通りには地元有志により欅が植樹され、今日の「けやき並木」の礎となりました。
 昭和29年には「街の核となるお祭りを」ということで仙台や平塚の七夕まつりを意識した「阿佐谷七夕まつり」が始まり、これは東京7大祭りの一つとして現在にも受け継がれています。先行していた仙台、平塚のクス玉や吹流しによる飾りを真似ていたものの、第1回目よりハリボテのような造形物を吊り上げる志向が見受けられ、その後はクス玉と吹流しに、手作り感あふれる個性的な造形物を組み合わせる阿佐谷独自のスタイルを確立して現在に至っています。
 こうして街の賑わいも盛んになってきますと、(この商店街に愛称を公募しよう)ということになりました。当選商品がルノーの小型乗用車(!)ということもあってか、多数の応募が寄せられました。
 そして応募の中から、(真珠の首飾りのように結び合って繁栄していこう)というわけで、「パールセンター」が選ばれました。
 昭和37年の年の瀬にはアーケード(先代)が完成し、都内有数の屋根つき商店街になりました。
 地下鉄丸の内線が開通したり、阿佐ヶ谷住宅が出来るなどして、都心への通勤に便利なベットタウンとして脚光をあびることになりました。
 時代は空前の高度成長期、経済発展の波に乗りながら住む人もどんどん増えていき、パールセンターも買い回りに便利な商店街として、ますます賑わってゆきます。
 昭和42年には路面をカラータイルで舗装して、現在のパールセンターに通じる近代的な商店街になりました。
その後、阪神淡路大震災の教訓から(防災機能に優れたアーケードに改築しよう)ということになり、平成11年には現在の2代目アーケードが完成しました。
 白とピンクを基調にした独特のデザインもさることながら、火災に備えて屋根が電動で開くようになっているなど、火事災害への工夫も施されています。
また、これを機会に(新たなスタイルのお祭りを)ということで、平成13年にジャズ&ハロウィンフェスタが始まり、阿佐谷ジャズストリートと同時期に開催される仮装コンテストは、異色のミックスカルチャーイベントとして定着しつつあります。
         

 「杉並区役所」「パールセンター商店街」付近の今昔。
    
    
1880年代のようす。               2010年代のようす。上方に「JR阿佐ヶ谷駅」。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-13 20:43:25 | 青梅街道
                            緩やかな上り坂。中野坂下から中野坂上へ。

 「中野宿」に入っていきます。
 「中野」は幕府直轄であったことや鷹狩りの指定地であったことから徳川家との関わりが深く、三代将軍家光は7年間の間に29回も中野で鷹狩りを行ったといいます。また五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」に伴う犬小屋が中野に造られ、8万頭もの犬が保護されていました。その犬小屋の跡が残っているそうです。

途中に「中野坂」の解説碑。
 武蔵野の中央にあるので「中野」と呼ばれました。坂上には「弁慶」という菓子屋と「大団子」と称する団子屋があり、この先の妙法寺への参詣者に好評でした・・・

路傍には「淀橋」の柱と同じものが埋め込まれています。


 (10:03)そば粉用の石臼〔直径約1.8m〕。石森製粉ビル玄関前。

 江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。
豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。
 明治になって造られた浅田ビールは内国博覧会で一等賞を得ました。その後、ビール醸造業は合併吸収が繰り返され、浅田ビールは最終的にはキリンビールの傘下に入りました。
 また、江戸の信州そばの中身は中野の蕎麦粉という話もあります。当時、信州の蕎麦粉は中仙道を辿りながら江戸に入ってきました。御存じのとおり中仙道には沢山の宿場があります。中継地点が多いほど運ばれる物資の価格は高くなります。一方、深大寺そばで有名な多摩地域でも蕎麦粉の生産が行われていました。ここでおわかりの通り、道筋が短く宿場の少ない青梅街道の蕎麦粉は安いのです。
 しかし、悔しいかな江戸っ子達は、中野(多摩)の蕎麦粉を使いながらも、信州・更科・戸隠などとブランド名をつけて大いに儲けたのでした。

(この項、「中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁」さんの文章を引用させていただきました。)

「中野坂上」交差点。


 右手に珍しい? お店が。「天然記念物・甲斐犬」との看板。

甲斐犬(かいけん)
 山梨県原産のイヌの品種。
 日本犬種の1つで、昭和4年(1929年)に当時甲府地方検察庁に赴任した安達太助が発見し、昭和6年(1931年)に「甲斐日本犬愛護会」を創立、昭和7年(1932年)日本犬保存会の初代会長斎藤弘吉、獣医師の小林承吉等が中巨摩郡芦安村(現南アルプス市)や奈良田村(後の西山村、現南巨摩郡早川町)に群生していた虎毛、立耳の地犬を調査し、発見した地方に因んで「甲斐犬(かいけん)」と命名、保存活動を開始した。 また、本来、日本犬の名は「◯◯犬(いぬ)」という呼称になるが、甲斐犬の場合は「◯◯犬(いぬ)」と呼ぶと「飼い犬(かいいぬ)」と誤解される可能性がある為、例外的に「甲斐犬(かいけん)」と命名される事となった。
 毛色は黒虎毛と中虎毛と赤虎毛とに分かれる。年齢を重ねるに従って虎毛がはっきりしてくることもある。虎毛は山野で狩りをするときの保護色となる。
虎毛部分の色がビール瓶を太陽に透かした様な美しい赤い色素を持つ個体を赤虎毛とするが、赤の色素の無い褐色の縞の黒虎毛も勇壮な虎模様を特徴とするため、「虎毛犬(とらげいぬ)」の別名をもつ。

※昨今黒一色で虎模様の無い甲斐犬が多数存在し、近親交配の弊害が心配されている。
※中虎毛を、赤虎毛とも黒虎毛とも呼べない虎柄として低く評価するのは間違いで、赤も、黒もいずれも綺麗で艶のある個体が中虎毛で、色の抜けたハイエナの様な色合いの個体は中虎毛とは呼べない。
体高は、オスは47~53cm、メスは42~48cmで、日本犬種のなかでは中型犬に分類される。
 また、体型より、「鹿犬型」(鹿型犬)と「猪犬型」(猪型犬)のタイプがあったが、現存する甲斐犬は、「鹿犬型」(鹿型犬)であり、猪の他、カモシカも追っていたとされ、細身で体が長めで、岩場に適応して垂直に飛び上がる力に優れている。
 北海道犬や琉球犬、中国のチャウチャウなどと同様、舌斑を持つ等、弥生時代以前からの特徴を有している。太く長い毛と、細くてやわらかい短毛が密集している。尾は差し尾、または巻尾。
甲斐犬の評価ポイントは、三角形の肉厚な耳の角度、三角目の形、尾っぽの巻き方、足の開き方のバランス、飛節の角度などがある。

《特性》
 北海道犬、琉球犬など他の日本犬に似た遺伝子構成を持つ。
 山岳地帯での激しい狩猟に耐えうる体力や、ガレ場で鍛えられた独特の飛節を持つ。
 元来、山梨県南アルプスの山岳地帯でイノシシやカモシカ、などの獣猟、キジなどの鳥猟や、小動物の五目猟、それに伴う諸作業に使用されていた敏捷な犬。
 「甲斐犬は気性が荒い等のため、グループ猟より一銃一狗の単独猟でこそ、この犬種の猟性能が発揮されるという。
 飼い主以外の人間には心を開かず、唯一人の飼い主に一生忠誠をつくすことから一代一主の犬とも評される。
最長寿記録 クロ号・黒虎毛・差尾・♀28歳7ヶ月・昭和13年(1938).1月生

《歴史》
 戦国時代には、「門西家文書」によれば永禄3年(1560年)11月3日に甲斐河内領の国衆・穴山信君が湯之奥郷(身延町湯之奥)の土豪で家臣である佐野縫殿右衛門尉が所有する犬3匹の保護を命じている。これは、穴山氏が佐野縫殿右衛門尉が飼育する猟犬を保護する政策で、縫殿右衛門尉の所有する犬は甲斐犬であった可能性が考えられている。
 昭和9年(1934年)、天然記念物に指定された。昭和期には甲府市横近習町(現在の甲府市中央)の呉服商・大木喬策(八代目当主)が甲斐犬を飼育しており、喬策の愛犬「ケン号」は1932年(昭和7年)の第一回日本犬展覧会で山梨県知事賞を受賞している。昭和9年に甲斐犬が天然記念物に指定されると、喬策は「ケン号」を北白川宮に献上している。

(以上、「Wikipedia」参照。)

(10:18)その先に「鍋屋横丁」バス停。



                     
                                 「青梅街道」という標示。

鍋屋横丁の由来」。 
 ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が、青梅街道から分かれているところである。
 妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると、沿道は参詣人で大いに賑わい商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁昌したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。
 鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに庭に梅香芳しく参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。
 鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして文久2年奉献された東中野氷川神社の鳥居と、平成14年に妙法寺に移設した明治11年建立の道しるべにその銘が刻まれている。

鍋横道しるべ」。
 此処に明治11年建立された「ほりのうちへ一八丁十間」と、妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。
 江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道の入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載るほど、貴重なものでした。
 建立以来125年の永きにわたり、まちの変遷を見つづけてきたこの道標が、平成14年3月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺に移設されました。


中央の直線道路が「青梅街道」。

(10:29)「中野通り」との交差点左手角に「杉山公園」。

     

杉山公園の由来
 杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。
 この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、25歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこやかに育つように祈願されました。
 大正14年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和6年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和9年3月、東京市より杉山公園として開園されました。
 現在は中野区に移管され、日毎(ひごと)に増す交通事故から子供達を守り、またよき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。
                    中野区

街道筋に残された商家。「尾張屋商店」。隣には「尾張屋」ビルが建っています。

(10:39)しばらく進むと、杉並区に入ります。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-12 20:38:44 | 青梅街道
                            新宿三丁目。追分交番前。甲州街道と青梅街道の分岐点。

 今回から「青梅街道」を歩くことにします。新宿追分から青梅、そして大菩薩峠を越えて甲州・酒折で再び「甲州街道」と合流するまで。約167㎞。

 3月10日(土)。曇りのち晴れ。午前中はかなり肌寒い。9:26に出発。今回通過するのは新宿区→中野区→杉並区→練馬区→西東京市(保谷・田無)の予定。
「新宿元標 ここが追分」。

「伊勢丹」。

            「青梅街道」。

(9:33)新宿駅東口広場にある「馬水槽」。

 19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品でイギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。
            

東口広場から地下道を通って西口側に。地下道入口には「旧青梅街道」の標識。

 地下道に沿って「旧青梅街道」や「新宿駅」にちなんだ掲示が。
宿場は9ヶ所のよう。

「淀橋」付近。

新宿駅周辺。

 みな、懐かしい写真ばかりです。ガード沿いには「青梅街道」の絵図。なかなか先に進みません。


              やはり「酒折」まで歩くことに。


「甲州街道」との追分、「内藤新宿」の宿並み。

 追分付近の今昔。○が追分。↑が「青梅街道」。

1880年代のようす。


現在のようす。

 ガードを抜けると新宿駅西口に。そこにも「旧青梅街道」の標識。
  

進む方向には超高層ビル街。

振り返って望む。

歩道橋から「青梅街道」を望む。

商業高層ビルに囲まれたお寺。

「成子坂」。

振り返って望む。

(9:58)「淀橋」。
 

 東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。
 元々は青梅街道の南側に広がる農村であったが、新宿駅の発展とともに、駅周辺を中心とする繁華街が形成された。さらに、1960年代後半以降の淀橋浄水場跡の開発(新宿副都心計画)により超高層ビルが林立する街となった。1990年、東京都庁もこの地に移転し、現在では副都心と呼ばれる。

名称の由来
 淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
 ・姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
 ・放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから  淀橋と改名した。
 ・豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となっ  た。
 ・柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。

(以上、「Wikipedia」参照。)
「神田川」の流れ。


1880年代のようす。○が「淀橋」。

現在のようす。

ここを越えると、中野区になります。
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