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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その5。東郷平八郎。やくしみち道標。荒川駅。

2020-05-26 20:42:10 | 沿線歩き

他にも戦中から戦後の写真が掲示されています。

商店街の賑わい。左は、小学校の通信簿。

少し寄り道をします。

東郷元帥の肖像画。「内海特殊鋼」さん。

工場の中にも特大の肖像画。

河合商店 『東郷ハガネ』

 それまでは大阪を通してしか、鉄・鋼を動かすことができなかった。日清戦争(1894~1895年)後、 洋鋼を全国的に普及していった新しい型の商人が河合佐兵衛である。河合佐兵衛は、これまでにない 新しい商法を示し、河合商店の名と洋鋼の名を全国の鉄問屋、金物屋、鍛冶屋に知らしめるべく さまざまな手法を駆使した。
 この新しいハガネ屋は商標、商品名、簡単な熱処理方法を印刷したカラフルな「ラベル」を用途別に ハガネに張った。さらに彼は洋銅の使用法、熱処理方法を印刷したカラフルな「ラベル」を用途別にハガネに貼った。
 そしてこの洋鋼屋が当時の業界にも仰天させた方法とは、東郷平八郎の大きな姿絵の看板である。 当時誰も知らぬ者のなかった海軍大将東郷平八郎の姿を商標として登録した。明治39年のことである。 大きな東郷平八郎の姿絵を描かれた日本橋にある河合商店の店舗や陳列館は近隣に異彩をはなったという。 その後、この黒漆塗りの地に金銀で縁取られた東郷元帥の姿絵の看板は各地の代理店にも見られるようになる。
 さらに彼は洋銅の使用法、熱処理法など体系的に解説した初めての書『洋鋼虎の巻』(2巻)、 『東郷ハガネ虎の巻』、『鋼域大観』を編著している。 大正14年にはヨーロッパの 製鋼所、取引先のイギリスのアンドリユー社、そしてクルップ製鋼所などを9か月間にわ たって見て回った。帰国後ヨーロッパの製鋼所事情の報告会にはそれを聞きに各地から鉄 問屋や鍛冶屋が集まったという。河合の動きは当時のハガネ屋の鉄の科学に対する知識の 高さ、時代を先駆けした鉄商いの方法をまわりに示した。 

 この看板は“東郷ハガネ”を取り扱う代理店に、発売元の日本橋「河合商店」(現:カワイスチール&カワイスチールホールディング)から与えられたそうです。

東郷平八郎海軍元帥

明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。 

(この項、「Wikipedia」参照)

交番の脇に道標。 

「やくしみち道標」。

この道標は、木下川薬師(きねがわやくし)への道しるべで、享保年間(1716~36)に八代将軍徳川吉宗が薬師参詣の際、大畑村(現八広周辺)の人々に道の要所に建てさせたものといわれています。現在の木根川橋のやや下流、川の中央辺りにありましたが、荒川開削に伴い、葛飾区東四つ木1丁目に移転しました。この道標も開削以前は、この場所ではなく、他の場所から移されてきたものと考えられます。向かって正面に「右 やくしみち」右面に「左えと(江戸)みち」、左面に「大畠村講中」と刻まれており、長い間、この道標が薬師参りの人々のために道案内の役割を果たしてきたことがわかります。薬師道のかつての道筋は、白鬚の渡し(堤通1丁目交差点の辺り)から東に向かい、曳舟川で薬師橋(現在の八広1・東向島6交差点)を東進し、この道標前を北上した辺りでゆるやかに右折して薬師堂に続いていました。

「今昔マップ」より)

Aが元の薬師堂、Bが現在のもの。

 

              誰かがマフラーをかけた。

「八広駅」に向かいます。昔からある居酒屋さん。「日の丸酒場」。

左手、「曳舟川通り」との交差点が、「更正橋」。歩道橋には更正橋と書かれています。「曳舟川」に架かっていた橋の名。
語源は? このもう少し西側には私娼の町・玉の井遊郭がありました。永井荷風の『墨東綺譚』に登場します。
そんな遊郭の帰り、川を渡るときに「更正して帰れ!」という意味だったとか? この角にある小学校の名前が「更正小学校」でした。現在は、「八広小学校」に。

 

     「向島更正尋常小学校」とあります。

 

「八広駅」は、かつては「荒川駅」と称していました。

(下に見える写真は、王さんが荒川土手に来たときのものらしい)

「荒川駅」1,994年。

(「You Tube」より)

 荒川橋梁の架け替え工事前]は青砥寄り、荒川堤防上の道路(都道449号)沿いに駅舎および改札があり、構内踏切も設置されていた。架け替え工事により線路が付け替えられたことに伴い、2001年9月15日のダイヤ改正から新駅舎での営業を開始した。コンコースも高架下の中央に移転するとともに下り線に追い抜き設備が設置され、使用を開始した。 (この項「Wikipedia」参照)

高架線になった「八広駅」。

高架線下から振り返る。遠くにスカイツリー。

荒川で行き止まり。迂回して下流に架かる「木根川橋」を渡ります。途中のおうちの真っ赤なバラ。

荒川土手から。

京成線の橋梁。

普段は、河川敷ではサッカーや野球に興ずる姿が。

 自粛解除で一斉に外出しはじめ、電車も混んできました。近所の飲み屋さんもボーリング場も・・・活気を取り戻したのはいいのですが。第二波、第三波が心配です。

 

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その4。「南龍館」、「キラキラ橘」。「生きる」、「七人の侍」・・・。

2020-05-25 20:13:13 | 沿線歩き

「八広はなみずき 高齢者支援センター」。

そのガラス窓に昔懐かしい写真が掲示されいます。それらを紹介します。かつて映画館がいくつかある街だったようです。映画のポスターも。

「南龍館」、「橘館」、「電気館」、「松竹館」、「吾嬬富士館」、「向島映画劇場」・・・。当時、近所の工場で働く工員、庶民の娯楽の殿堂だったわけです。などがあり大いに賑わっていたそうだ。

 向島駅周辺は、東側に映画館「南龍館」、商店街「南龍館通り(現「八広新中通り商店会」)」、西側にミツワ石鹸の工場などがあって、大いに賑わっていたそうです。映画館は昭和30年頃廃業となり、商店街は営業中。

が、商店よりも住宅が多くなっているようです。

        

橘館 

主な活動/プロフィール
かつては30以上の映画館があった墨田区ですが、現在、墨東エリアには映画館がありません。そんな中、私たち橘館は、「まちを映画館に」をコンセプトに、特定の拠点は持たず、廃校、教会、カフェなど映画を映せる環境を探し出し、不定期に映画の上映会を行っています。

(この項、「」HPより)

向島橘銀座商店街

 東京都墨田区の京成押上線京成曳舟駅から明治通りの南東約500mに位置する、南東に伸びる約450mの商店街である。 
一般にはキラキラ橘商店街と通称で呼ばれることが多く、商店街の看板にも「キラキラ橘」と表示されており、惣菜・乾物等の商店が多いのが特色で、墨田区内でも1〜2番手にあげられる有力な商店街。 
 商店街の名称は、昭和6年に映画館の橘館がこの通りにできたことに由来し、戦前から「橘館通り」として地域住民に親しまれてきた。戦時中は物資の不足、戦災等で商業活動も中断したが、戦後は周辺地区の人口の過密化とともに、商店街も復興して戦前をしのぐ勢いとなり、発展を続けた。 昭和35年には「商業協同組合」を設立した。 しかしながら同区に存在する錦糸町や隣区の江東区にある亀戸の副都心化による発展などもあり、大規模な人口流出が起こり、徐々に衰退している。 そこで、商店街を地域の特性である「下町コミュニティ」の核として改めて位置づけ、近代化を進めることによって再生を図るべく、平成元年度の東京都コミュニティ商店街事業の申請を行った。そして、指定を機に、ハード・ソフト両面にわたる意欲的な活性化事業に着手した。 
 商店街の町並みは総じてレトロチックに構成され、戦前の町並みを彷彿とさせる。コンビニエンスストア等は商店街内には設立されていないが、その反面でスーパーマーケットのグルメシティやチェーン店の薬局も垣間見る。

(この項、「Wikipedia」参照)

 (京成線の東側にあります。)

この項、「」HPより

コロナの影響か閉まっている店が目立ちます。

 

 

 

懐かしい映画のポスター。

 

『生きる』

 1952年(昭和27年)10月9日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬。モノクロ、スタンダード、143分。東宝創立20周年記念映画。 
 無為に日々を過ごしていた市役所の課長が、ガンで余命幾何もないことを知り、己の「生きる」意味を市民公園の整備に注ぐという物語。黒澤作品の中でも、そのヒューマニズムが頂点に達したと評価される名作で、その題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判している。劇中で志村演じる主人公が「ゴンドラの唄」を口ずさみながらブランコをこぐシーンは、名シーンとしてよく知られている。海外でも黒澤の代表作の一つとして高く評価されており、第4回ベルリン国際映画祭でベルリン市政府特別賞を受賞した[注釈 2]。第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位。昭和27年度芸術祭文部大臣賞。 

ストーリー
 市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。 
 ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。 
 その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具会社の工場内作業員に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。 
 それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。 
 通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。

ゴンドラの唄

 

                 

                

                  (「You Tube」より)

『七人の侍』

 1954年(昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。モノクロ、スタンダード・サイズ、207分。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。 
 当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。黒澤明が初めてマルチカム方式(英語版)(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーン等迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、脚本、綿密な時代考証等により、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇から影響を受けており、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。アメリカでは1960年に『荒野の七人』として、2016年に『マグニフィセント・セブン』としてリメイクされている。 
 『七人の侍』は世界で最も有名な日本映画の一つであり、海外の多くの最高の映画のリスト(英語版)に選ばれるなど高い評価を受けている。Rotten Tomatoesでは61件のレビューで批評家支持率は100%を保持、平均点は9.35/10となった[4]。また同サイトにおける「アートハウス&国際映画のトップ100」では第6位にランクインされている。2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では第1位に選ばれた。 ・・・

(この項、「Wikipedia」参照)

 

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その3。向島駅。白鬚線。「八広ふれあい通り」。

2020-05-22 21:49:16 | 沿線歩き

曳舟駅脇の道路。地上を走っていた、かつての線路跡を含む。「八広ふれあい通り」

                             「八広」駅の手前まで通じています。

この付近の今昔。かつての密集地域が解消されるかたちに。(「農業環境閲覧システム」より)

1970年代のようす。密集した家並み。曳舟川通りの整備中。

 

2010年代のようす。整地され、現イトーヨーカ堂など建設中。

「長浦児童遊園」。小さな公園。高架下にも遊具があります。

「長浦」という地名も海にちなんだ名のようです。ここから南西に下ったところにある「地蔵坂通り(「水戸街道」を越えると「曳舟たから通り」)が大昔の海岸線だった、という話をうかがったことがあります。

この付近から「白鬚線」が分岐していた?

(「今昔マップ」より)

「玉の井」を経由して「白鬚橋」までの路線。

以下、2,009年5月、9月と3回に亘って、線路跡をたどった記事を再掲。

・・・

 いつだったか墨田区立緑図書館の展示コーナーの資料で、大正から昭和のはじめにかけての墨田区(戦後、本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。したがって、当時は、まだ「向島区」)の地図を貰ったことがあった。その時に、向島から白髭橋までの京成線があったことを知った。
 その後、何回か周辺地域を自転車や徒歩で歩き回ったが、その痕跡を見つけることはまったく出来なかった。
 さらに今、八広駅から押上駅までの高架線工事が始まっていて(これは、曳舟駅付近の明治通りの踏切で大きな死傷事故が発生、それを機縁として念願だった、高架工事が本格化したものである。)、そのために沿線の家屋などが移転され、すでに線路の敷設までが行われている状況では、なおさら困難である。
 まして、街中においては、戦争でほとんど消失するような大きな被害を受け、敗戦後の復興のため、線路の痕跡は消失してしまっている。それでも、唯一、京成線の線路際に、何とかその痕跡はないだろうか。
 昭和22年の航空写真(goo)では、曳舟駅(現在地よりも、当時はもうちょっと押上寄りだった)と八広駅(当時は荒川駅)との間の線路脇には、少し空間が残っていて、京成の土地のようになっている。その後、昭和38年の航空写真では、その少し北側に車両基地のような建物が出来ている。これは、開業したばかりの都営地下鉄1号線(現都営浅草線)の「向島検修場」の姿である。現在の八広5丁目都営住宅が線路と接する辺りである。
 写真は、曳舟と八広の間の踏切から北側を撮ったもの。すでに高架工事のための仮設線路が敷かれている。

 このあたりに「向島駅」があったと思われる。この踏切の通りが、駅の入り口につながっていたかもしれない。
 一方、永井荷風の「濹東奇譚」(昭和11年11月)には、その年の1月に廃止された「京成玉の井」駅のようすが描かれている。当時、玉の井(現在の「玉の井いろは通り」北西側一帯)は、私娼たちの町として大いに繁盛していた。

「線路(注:東武線・玉の井駅付近の線路のこと)に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取り払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城跡のような趣をなしている。わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空き地と新開の町とが低く見渡されるが……」

とあって、京成電車は、東武線を鉄橋で越えていて、駅舎は土手の上にあったようだ。荷風の登った土手や鉄橋が、戦前までは残っていたとか。今は、まったく痕跡もない。
 また、終点の「白髭」駅は、今の「白髭橋病院」(墨堤通りと明治通りの交差点付近)あたりだったらしい。
 「長浦」駅は、曳舟川(現在は埋め立てられ、「曳舟川通り」となっているが、当時はまだ用水が流れ、両側は道となっていた)を渡った所にあったらしい。現在の長浦神社の北西? これも痕跡はない、(と思う)。 
 京成電車(当時の社名:京成電気軌道株式会社)は、1928(昭和3)年に白鬚線(向島 - 白鬚間1.4㌔)を開業。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、1936(昭和11)年2月末に廃止された。その後、「向島」駅も、1947(昭和22)年に廃止となった。 
 白髭線開通当時、向島駅周辺には、南竜館という映画館や商店街(南竜館商栄会)があり、現在、線路沿いにある大きな団地(八広5丁目都営住宅)の所には、ミツワ石鹸の工場があり大い賑わっていたとのこと(緑図書館の資料にもあった)。
 現在、映画館はなく、西側はほとんど商店もなくなり、京成の線路を越えた東側にある商店街も当時の面影はなく、普通の民家も増えて、寂しい街並みになっている。
 なお、駅廃止後の跡地は、京成電鉄の所有地であるため、直接・子会社を含め、たびたび利用されている。
1959(昭和34)年頃、改軌工事に伴う車両の台車交換基地として。 
1960(昭和35)年~1968(昭和43)年  向島信号場を設置(都営浅草線向島検修場への信号場) 
1991(平成3)年~2001(平成13)年 押上線荒川橋梁架け替えに伴う作業基地として。
現在は、八広~押上の高架線工事区間。おそらくこれで、向島駅の痕跡もまったくなくなる。

写真は、白髭線の終点「白髭駅」跡のようす。

「墨堤通り」から見たもの。中央の道が駅入り口の道。奥の車が停まっている辺りが駅入り口。中央奥の高い建物が駅の場所に当たります。

・・・

高架線工事の前には、線路脇(天理教会の裏手付近)に旧向島駅のホーム擁壁が線路脇に残っていましたが、今は撤去されています。

高架下。京成トーンの建物。

この先、左手の敷地は京成の資材置き場。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その2。曳舟。再開発。資生堂。曳舟湯。亀戸線。

2020-05-21 19:40:32 | 沿線歩き

                        地上に出てくる京成線。

線路脇を進みます。下に京成線。奥にスカイツリー。

踏切付近。遠くに曳舟駅手前の高層住宅

                             (左:「URイーストコア曳舟」、右:「アトラスタワー曳舟」)

すぐ脇を電車が通過します。線路際にはちょっとした緑の空間。

 

来た道を振り返る。

線路脇の小道を進みますが、途中で行き止まり。回り道して線路に近づこうとしますが、・・・。

「URイーストコア曳舟」が遠くに。

ここも線路に阻まれ、行き止まり。

実は京成線、東武亀戸線を高架で越えていきます。迂回して東武線の踏切を渡ります。奥が京成線の高架。

 

 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。

〔主な年表〕(「Wipedia」による)

1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。 
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となるも、乗り入れは継続。 
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。 
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。 
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。 
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。 
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。 
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。 
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。 
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。 

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。

 その後、隅田川に架橋して現在の「浅草」駅が完成、東武鉄道は都心に乗り入れることになりました。そうなる以前、今の「東京スカイツリー」駅(その前は「業平橋」駅)が、「浅草」駅となっていた時代もありました。
 こうして、亀戸線はローカル線として存続することになります。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。一方で、曳舟付近の低層住宅(亀戸線以北地域)は偶然にも類火を免れました。亀戸線が防火線になったようです。gooの1946年(昭和21年)当時の航空写真を見ても歴然としています。

 亀戸線は、現在、「曳舟」~「小村井」~「東あずま」~「亀戸水神」~「亀戸」の駅がありますが、今も東京・下町の大事な足として、地域とのつながりも深い路線となっています。

 年表にもあるように、かつては「曳舟」と「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)の間に、「虎橋通」駅と「十間橋通」駅があり、「亀戸」と「東あずま」(旧「平井街道」)との間に「北十間」駅がありました。
 また、「Wikipedia」には、「天神」駅という駅名もありますが、「小村井駅」から曳舟方に進んで1つ目の踏切付近に天神駅があった、とされています。

(この項、2015年4月投稿「東武・亀戸線再訪〈廃駅跡をたずねて〉」より)

 

うろうろしているうちに高架線の下に。

東武・京成「曳舟」、曳舟通りを挟んだ地域は大きく変貌を遂げています。

曳舟エリアの歴史
京成の東武も「曳舟」駅ですが、「曳舟」という住居表示は現在存在しません。・・・
曳舟を含む墨東エリアは日本の1880年代から1920年代まで工業で日本の近代化を支えた地域です。この頃に曳舟でも大小様々な工場とその工場で働く従業員向けの長屋が多く建設されました。曳舟界隈は第二次大戦の空襲で焼け残った街区も多く、戦後もその区画割りを残したままになっていました。
そのため現在も多くの街区で低層の木造家屋が密集したままになっています。防災上もリスクが高く、行政も道路の拡張や防災公園の建設に力を入れて来ましたが、部分的な改良だけでは限界がありました。
住民からわき上がった開発計画
その様な状況の中、住環境の改善と災害に強い街づくりを指向し、大規模な開発を求める声が住民から起こりました。対処療法ではなく、根本的の解決策として大規模な再開発を選択したのです。
資生堂東京工場跡地に建設された公団住宅を核にして開発を進めるようになりました。1980年代後半には民間業者と事業を進めましたが、バブル崩壊で話は潰れたようです。平成7年準備組合が住宅・都市整備公団(現=都市再生機構)と協議。昭和62年4月 住宅・都市整備公団(現「都市再生機構」)賃貸住宅「曳舟駅前プラザ」完成。
平成5年4月「曳舟駅前地区市街地再開発準備組合」設立。平成10年「曳舟駅前地区」に京島1の1(永柳工業)が加わり、現在の範囲(2.8ha)になりました。
平成11年7月「京成曳舟駅前東第一地区市街地再開発準備組合」設立。平成12年 押上駅-八広駅間の京成押上線都市計画事業認可事業着手。平成13年「曳舟周辺地区」地区計画の方針区域を決定。京島1丁目の11.2haまで拡大というような経緯を経て現在の曳舟再開発が進んできました。

(この項、「」HPより)

※曳舟川沿いにあった主な工場は、ミツワ石鹸、資生堂、鳥井陶器、共和レザー、富士革布、永柳コルク、帝国発条、大同製鋼、菊美酒造 (現合同酒精)、日本鋼釘、等。
 山田洋次監督の 映画『下町の太陽』は、曳舟駅付近にあった資生堂の石鹸工場とその周辺を舞台にした映画で、主人公・倍賞千恵子は、資生堂で働いている。

「曳舟川」とこの近辺は何回か投稿しています。

  

現在の埼玉県の越谷(東武越谷駅の東)付近、利根川の支流・中川(元荒川)から取水し、江戸の本所・向島や亀戸への上水道として流れていた川が、今の曳舟川の前身。古くは、亀有上水(葛西用水とも)と呼ばれ、葛飾区内では、近年まで、川の中に瀬が続いて、二本のけっこう広い流れになっていた。
 途中(現在の葛飾区内の荒川放水路の手前)で、亀戸・中居堀への水路(正しくは、現在「向島警察署前」という信号機、明治通りとの交差点を八広から来る道。)と、向島へ向かう水路に分かれていく。
 もともとは、明暦の振袖火事(1658年)によって、江戸城の天守閣が焼け落ちる(その後、天守閣は二度と再建されなかった)などの江戸市中が大火災に遭った後、隅田川(荒川の下流)以東の地(それまでは、下総の地であった)を江戸市中として開発するために行った上水道計画で、本所、深川、向島、亀戸付近に水を供給したのである。
 この時には、「本所奉行」が新設され、大横川、横十間川、北十間川、小名木川(おなぎがわ)、竪川(たてかわ)などの人工水路が縦横に掘削され、物資や人の交流が盛んになっていった。
 その水路は、今でも錦糸町駅の北側に大きな伽藍を構える法恩寺付近までつながっていたという。この地域の水路は、享保7年(1722年)に廃止され、現在の北十間川以北が、水路として残され、「曳舟川」という名称となった。
 曳舟川のいわれは、舟を両岸から引っ張っていたことからだという。客を乗せたり、米、肥料、日用品などを運んでいた。(水戸街道・四つ木橋北詰にある「四つ木めだかの・・」と名付けられた親水公園に、このへんのいきさつが書かれた碑があるが、ちょっとおおざっぱすぎる。)
 そのうち、最近まで、葛飾区内には、そのままの流れが残っていたが、近年の下水道工事の進展などで、長い親水公園や駐輪場になっている。
 一方、荒川放水路を越えた、墨田区側は、かなり前にすでに道路となって、「曳舟川通り」と名付けられている。新四つ木橋から東武線業平駅付近、言問橋から来る通りとの丁字路まで。
 京成線の駅の数にして3つほどの距離。信号が多い通りなのは、かつての橋が架かっていた名残なのか。昭和20年後半頃までは、まだ川が流れていたような気がする。情緒豊かな川なんていうものではなく、周辺の町工場の排水や生活排水などがそのまま流れ込んでいて、まさにどぶ川であったような・・・。(隅田川も真っ黒で悪臭やら何やら、魚が生息できるような川ではなかった。下水道が完備される前の下町の河川は、どこも同じような状況であった。)
 実は、曳舟川通りの交差点の先、小さな公園と路地までが、曳舟川の痕跡。
 写真は、その元の曳舟川が、北十間川と合流する辺りから、曳舟川通りの北方を写したもの。右の植え込み部分が、もとは川筋だった。
 東武(京成)曳舟駅付近は、再開発の真っ最中。京成と東武に挟まれた、かなり広い敷地が高層マンションやショッピングモールに大きく変わろうとしている。
 東武線の線路を挟んだ向こう側には、「スカイツリー」という600㍍タワーが建設中。すでに5階くらいまでの骨組みが完成している。
 あと数年で、この辺りも大きく変貌するに違いない。

(2009年3月投稿)

写真は、かつてあった「曳舟湯」。レトロな味わいのあるお風呂屋さんでした。

  その後、このお風呂屋さんは戦前からの80年という長い歴史を閉じて、廃業しました。
 この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。
 京成線の西側は行き帰りで通り、その町並みの大きな変化も身近に感じますが、東南側は「ひきふね図書館」以外、あまり歩く機会がなくなりました。
 そこで、久々にかつてあった「曳舟湯」付近をちょっと歩いてみました。実に様変わり。「曳舟湯」がどこにあったのか、皆目見当がつかないほど。建物だけでなく路地もなくなり、道路も付け替えられ、広くなって・・・。
写真の奥付近? 

この付近にあったはずですが。

「スカイツリー」。

 一帯は再開発され、「アトラスタワー曳舟」という大きなマンションになっています。一部が「曳舟湯」にかかっているようです。
○付近が「曳舟湯」跡? 

かつての町並み。密集した家々。

 実はその「曳舟湯」さん。「アトラスタワー」の1Fで喫茶店を開いていました。ご主人もそのまま。店名は「1010CAFEいちまるカフェ」。


               

 ちょうどかつて「曳舟湯」があったところなのです。何だかホッとしました。そういえば、チェーン店ばかり営業している中で、当時の中華そば屋さんや床屋さんなどもマンションの一角で営業していました。

そこから京成曳舟駅方向を望む。

この奥の方はかつてのまま。

児童公園。

 そういえばやはりこの付近に「三佑酒場」という飲み屋がありましたが、そのお店もありません。
 (2017年8月投稿)


現在の京成曳舟駅入口。

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都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その1。スカイツリー。生コン。業平・押上。

2020-05-20 21:16:16 | 沿線歩き

                          本所吾妻橋交差点。

時折、目にするTV番組。ひたすら鉄道線路に沿って歩く、という企画。

都内から他県へは自粛せよ! というお達し。街道歩きも出来ず、いささか退屈。運動不足も加わって・・・。

そこで、TV番組にあやかって、都内の線路伝い(当面、京成電車)をしてみようと。さっそく、本所吾妻橋駅から青砥駅まで。約14,000歩。

かつて、東京の下町・墨東地区。家々の軒先をかすめるように走っていた京成電車。「押上(地下駅)」から「四つ木」までは高架線になり、さらに「四つ木」から「青砥」までは高架線すべく工事が進んでいます。

さて、その変貌ぶりは?

左手に「スカイツリー」が見えてきます。

「大横川親水公園」。「業平橋」から。

「業平橋」付近の今昔。○が「業平橋」。かつての橋は少し上流に。

         

1880年代のようす。              2010年代のようす。 

 

「浅草通り」の下を進む都営地下鉄浅草線は、この先で、左に折れ、押上駅に進みます。

○の付近から北東へ。下方の線路は、浅草駅に向かう東武線。

このビルの下辺りを進むか? 

「浅草通り」。

 昔からのお店や新規開店のお店など。頭上に電柱がないので、すっきりした印象。一方で、何となく寂れた街並みに。スカイツリーにお客を取られたのか、歩く人もまばら。

「北十間川」。左奥に見える建物がかつての京成電鉄の本社ビル。

左に「スカイツリー」。外出自粛で、外国人も日本人もほとんど見かけない。かつての賑わいをいつ取り戻せるか?

かつて、川沿いの一画は大きな「生コン」の工場があり、ミキサー車などがたくさん出入りしていました。

「生コンクリート工場発祥の地」記念碑。

 戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年(1949)11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。

 それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路、鉄道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。

 ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。 

写真は、もとあった大きな二つの「セメント工場」(「東京エスオーシー」「日立コンクリート」、・・・)がすっかり整地され、その向こうに工事現場をのぞんだもの。はるか遠く中央奥にかすかに見えるのは、アサヒビール本社ビル。左は、高層住宅。右手の奥に、墨田区役所の高層ビルがある。

 東京エスオーシー(「住友大阪セメント」の直系生コンメーカー)の業平橋工場は、日本初の生コン工場として1949(昭和24)年に操業し、主に大型建築物へのコンクリートを供給していましたが、2007(平成19)年10月に操業休止。同じように、製造・販売していた日立コンクリートも、ほぼ同時に操業をやめました。
 ここは、見上げるような大きな設備と、ひっきりなしにミキサー車が出入し、いつもほこりでもうもうとしているような地域でした。

(2009年4月投稿の記事より) 

「押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業」記念碑。

    この地域の歴史と発展が記されている。

東武の「業平橋」駅は、「東京スカイツリー」駅になっています。『伊勢物語』「在原業平東下り伝説」にちなんだ駅名だったのですが。(この駅は、「吾妻橋」、「浅草」、「業平橋」と、3回も名を変えています。今回で4度目の改名。)

 

「京成橋」。地上駅だった「押上」駅を出ると、正面にこの橋がありました。

・・・

写真③は、1957(昭和32)年頃の写真です。都営地下鉄浅草線が開通するまで、押上駅は、戦後まもなく建てられたバラック建ての駅舎でした。京成橋の欄干もまだ木造ではなかったかと記憶しています。

左が「京成本社」。

・・・

1952(昭和27)年5月、上野公園?押上駅前経由?今井橋間に都営のトロリーバスが開通しました。
 経済発展と共に交通量が増大し、都内の交通機関の拡充が求められていました。しかし、当時はガソリンが不足しており、価格も高価であったため、まだバスの普及は困難でした。トロリーバスは都電にくらべて、レールの敷設が不要であり、容易に施工が出来たこともあったため、都電に替っての普及が期待されました。
 上野公園~今井橋間の開通に続いて、1957(昭和32)年1月、明治通りを走る池袋駅~福神橋経由?亀戸駅間が開通します。料金は全線15円でしたが値上げが重なり昭和42年には30円になりました。(「墨田区の昭和史」より)
 その後、ガソリンも充足し、大型バスの普及により、都電の廃止と共に、1968(昭和43)年9月、トロリーバスは廃止されました。わずか16年間という短かい期間の運行でした。
 トロリーバス・都電が廃止された同じ年の1968(昭和43)年11月、都営地下鉄浅草線が全線開通しました。

(この項、「押上一丁目仲町会」HPより)

トロリーバスのモニュメント(今井橋)上がトロリーバス、下が城東電車。

かつての本社ビルの今。現在は、ホテルなどの複合施設に。

「押上駅(スカイツリー前)」入口。

「押上」の地名の由来としては、

①海岸線(東京湾=江戸湾)が今の北十間川・現在の京成橋あたりの所まであり、そこへ常に潮が押寄せ、押上げた所からこの地名が興った。

②東京湾に注ぐ隅田川(他の河川も含め)が作った土砂が少しずつ堆積し、押し上げられて陸地化したことに由来する。

という2つの説があるようです。海の土砂か川の土砂か? その両方か? 

 近辺には「向島」「請地(浮き地?)」「小梅(小埋め?)」「中ノ郷」「柳嶋」「京島」「寺島」「牛島」などという地名があり、河口付近(海岸の浅瀬付近)の湿地帯に島のように少し盛り上がった土地があったようです。現在の様子からでは考えられませんが、今でも「向島百花園」付近は、海抜ゼロ㍍地帯です。

ついでに「業平」に関しては、

 業平という町名の起源は中ノ郷八軒町(現在の浅草通り伊北の吾妻橋三丁目)に「業平天神」が祀られていたためで、この「業平天神」は明治初年迄「在原神社」の名で中ノ郷八軒町の「南蔵院」にあった。平安時代の歌人在原業平を祀ったといわれるのが、この「在原神社」である。「江戸名所図記」と云う本に「在原業平が京に上がろうとして、この地で舟がこわれ、死なれたのを塚にしてとむらい。地名も業平村と云う」という意味の事が書かれていると土地の古老は伝えている。何れにしても在原業平か又は、その名に関係する塚にして、この地に「業平天神」が建てられたのもごく自然の縁起といってよい。「南蔵院」は山号を業平山と称し、大岡政談の「しばられ地蔵」で古くから有名な寺であったが、区画整理で葛飾区へ移転した。このように業平の地名の起こりはまことに由緒深いものである。
 なお、業平橋は寛文2年(1662年)に、当時の奉行伊奈半十郎によって「南蔵院」から東方約百メートルの地点に作られた。長さ7間、幅2間の板橋で、「業平天神」にちなんで命名された。現在の洋式鉄橋は昭和5年3月に架設された。
 業平の中心を東西に走る浅草通りは、区画整理にともなって現在の広さに拡張された。

(この項、「おしなり商店街振興組合oshinari.jp」HP参照)

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