おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

下栗原~石和~甲府。その2。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-01 19:36:26 | 甲州街道
 橋を渡って行くと、左手に松並木が見えてきます。あの松並木は旧甲州街道当時の? 橋詰めから左に折れて、松並木の下の道を進みます。本来の旧道はもう少し川沿いだったようです。松並木も笛吹川改修時に植えられたもののようです。


                  (10:36)松並木は300㍍ほど。木陰もあり、ホッとひと息。


 しばらく進むと、道は、笛吹川から離れて右に進みます。旧道はもっと土手沿いの道だと思いますが・・・。
笛吹川上流を望む。

 国道と分岐する小広場に「笛吹権三郎之像」や道祖神などの石碑がいくつかまとまってあります。比較的新しい石像なので、笛吹川改修時にちなんでつくられたものと思われます。




                        
笛吹権三郎の事
 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。
 彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
 変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
 これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
     昭和六十年五月吉日
             山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)


 笛吹川
 最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつである富士川水系の一級河川。
 山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、鰍沢町で釜無川と合流し富士川となり、静岡県で駿河湾に注いでいる。流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園は、ブドウなどの果実栽培が盛んである。
 笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」(もしくは「笛吹川」)と呼ばれる民話に語られている。 江戸時代には甲斐国の鮎が名産として知られ、宝暦2年(1752年)の『裏見寒話』や嘉永3年(1850年)の『甲斐廼手振』には荒川・釜無川とともに笛吹川の鮎が名産として記されている。笛吹市石和町では石和鵜飼も行われている。
 笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整する努力が払われている。
 中でも1907年(明治40年)8月22日からの大雨で発生した明治40年の大水害は笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化した。それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、温泉旅館、観光ホテルなどが立ち並ぶ現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる(現在の)平等川を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかった。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この付近の地名は「川中島」。笛吹川の氾濫原だったのでしょう。
 

静かで落ち着いた住宅街。道ばたには水路。


        振り返って望む。

秋葉山の常夜燈。

Y字路を左へ進みます。

ここでも球形道祖神をいくつか見かけます。

よく手入れされた庭木のあるお屋敷。

 (10:55)その先、左手に「テアトル石和」という映画館があります。まさかこんなところに!


              

 人の出入りもなさそうだし、開業しているのかどうか、ちょっと不安になりそうな映画館。でも、HPを開くとバリバリの現役。


HPより)

 上映する作品もそれぞれなかなか凝ったものが多いようです。

新しいそうな球形道祖神。けっこうあちこちにあります。

しばらく進むと先ほどの国道411号線に合流。

その手前にすてきな板塀のおうち。

来た道を振り返って望む。

 (11:01)道路もぐっと広くなり、ここから石和温泉(「石和宿」)の中心部に入って行きます。

石和温泉

 アルカリ性単純泉の無色無臭であり、pHは8.5~9.5程度とされている。 また、源泉は主に山梨県企業局が管理しており、パイプを使って各温泉宿に供給している。

歴史
 1961年(昭和36年)に「いすみ荘」で温泉掘削を行った際、毎分2,000L、泉温49℃の温泉が湧出し、周辺の川や田畑に流れ出した。その後即席の露天風呂が作られ、「青空温泉」と称したのがはじまりである。その後山梨県企業局や地域内の温泉宿によって掘削が行われ現在に至る。最初に温泉が湧出した場所は現在日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所「ウインズ石和」になっており、入口付近に発祥の地の碑が建っている。
 高度経済成長時代になってから出来た温泉であるが、新宿駅から特急「あずさ」「かいじ」で1時間半前後と近く、また中央自動車道開通などアクセスが容易になったことから京浜地区の奥座敷として発展。団体客向けの歓楽温泉として知られ、コンパニオンを配置した温泉旅館が作られたほか、スナックやバーなどの酒場、さらにはストリップ劇場などの大規模な風俗街も作られた。しかし風俗街というイメージ低下の懸念に加え、団体旅行の低迷により需要が落ち込んだため、近年では個人客や外国人向けに力を入れるようになり、風俗店の取り締まりを強化する一方で笛吹川の鵜飼いや八幡神社の太鼓演奏など歴史、文化を強調したイベントを開催している。また周辺が果樹園であることから特産物のブドウやモモとも結びつけて、ワイナリーが至る所に点在する。
 石和温泉駅から笛吹川まで近津用水路を中央に東西約1kmにわたり温泉街が伸びており、全盛期の宿泊施設は大小合わせて120軒超とその規模は熱海に次ぐともいわれていたが、現在は50程度の温泉旅館が営業している。宿泊施設は団体客向けの大型施設から家族向けの旅館、純和風の高級旅館など様々である。以前は宿泊前提であったが日帰り旅行向けの施設も増えてきており、健康ランドをはじめ有料の「石和源泉足湯ひろば」という足湯及び手湯も存在する。
(以上、「Wikipedia」参照)

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