百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百島 女男石

2011年09月13日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島の軍殿山の北側の麓に、女男石(みょうといし)という岩があります。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、瀬戸内海の島々からも、多くの男達が戦さに出兵しました。

桃島から出陣した男の一人が、加藤清正の軍に加わり、その清正軍の一部が、蔚山(うるさん)という土地に残りました。

そして、その男は、運悪く、そのまま蔚山で亡くなったとのこと。

ほかの桃島の男たちは運良く帰国しましたが、その男だけが帰らないので、妻は深く悲しみました。

そして、その妻は、陰暦七月十三日の夜半、夫を追いかけて、その岩から海に身を投げたようです。

それ以後、その岩を、女男石と呼ぶようになったとのこと。

また、毎年七月十三日の夜になると、波間の音が、女のすすり泣く声に変わるようです。

ところで、百島の最南端の泊地区には、だんご岩があります。

とてもシンプルな名勝地で、昭和の時代までは、ほんとうに団子が積み重なった形をしていました。

そこから、弘法大師 空海が、百島に上陸したという伝説があります。

そうなると、だんご岩のほうが、女男石よりも歴史的に古くなります。

百島の南北にある・・不思議なパワーストーンの伝説話でした。

因みに、百島が、桃島だった頃・・桃島二島(磯島と五十島)、浦崎二島,戸崎一島、田島三島、横島、加島、向島数島、さらに礁も多く、あの界隈の島々を総称して百島と呼ばれていたようで、その真ん中にあった桃島が、そのまま文字代表して百島とも呼ぶようになったかもしれません。(沼隈郡誌を参照再考しました。)

さらに、沼隈郡誌を読んでいると、大変興味深いことを発見できます。

近隣の地域や他島の生活、人柄等々を・・怠け者などとストレートに批判揶揄した紹介を記載されており、現在では人権侵害、侮辱罪で裁判沙汰になるかのような過激な表現もあります。

しかし、百島に関しては、非常に高く評価されています。

百島の人々に関しても、大変人柄もよく、勤勉であることを紹介しているのです。

今、考えるのは、日本全国に散らばる「百島」という苗字(姓)を持つ方々のタイアップが面白いかもしれません。

百島 軍殿山

2011年09月13日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島には、十文字山と並び較べられる軍殿(いくさんど)という石山がある。

誰が、名付けたのやら、不思議な名前である。

むかし、昔、大昔・・中秋の満月の日。

神功皇后(じんぐうこうごう)が、朝鮮半島(当時は、新羅、高句麗、百済の群雄割拠時代)へ出征する際、瀬戸内海の桃島にも立ち寄ったという伝説。

神功皇后は、その桃島の山の麓にある大きな岩を見るやいなや、天の神に祈ったそうである。

「この戦いに勝たせてくれるならば、この岩を切らせたまえ」と竹刀を打ちおろした。

そして、その岩は、見事に真っ二つに亀裂が出来たそうである。

今日まで、この岩の亀裂の切れ目には、苔がつかないそうである。

そして、千年以上の歳月が流れて、安土桃山時代になる。

再度、豊臣秀吉が、朝鮮出兵を行った。

秀吉は、小早川家家臣の百島村上一党から、この神功皇后伝説を聞き及んだという。

そして、その縁起を担ぎ、この山に戦さの神・・「軍殿さま」を旧暦六月一日に祀ったとのこと。

百島では、今尚、六月一日は、軍殿さまの祭礼になっているという。

ところで、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の百島村上の水師大将は、村上高吉・・。

桃山時代の建築様式を備える百島 西林寺に眠る、その戒名は「安養院殿春紅桃林大居士」。

山なのに、「桜島」もあるが。

桃山時代・・かつての百島は、春紅桃林の風情を持つ「桃島」だったのかもしれない。

今宵、十五夜の満月が、軍殿山の上に浮かんでいる。