写真師の「新カメラ日記」

JRP会員の橘が日々の事、撮影日記などを記録していきます。

大きな錨

2010年08月31日 | 写真
更新遅れのお詫びから・・・
「今月の一枚」に書いた「いしかわピース9フェスティバル2010」の展示部門事務局兼記録係としての多忙な日々で新カメラ日記の更新が大幅に遅れてしまいました。
今日の写真は七尾湾に浮かぶ能登島の寂れた港で見た大錨です。七尾市と能登島を行き交うフェリーが発着した能登島佐波の寂れた港に大きく立ち上がっていました。
この港は能登島大橋の開通までは最大の港として能登島交通の要として港の人たちや観光客のよりどころとして栄えた港です。
いまはフェリーの廃止からの長い年月で寂れてしまっていますが、大きな船が出入りしていた頃を思い出させるような錨の存在感は強烈でした。
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唐松岳周辺らの日の出

2010年08月26日 | 写真
前日に引き続いて医王山の国見展望台から見た北アルプスからの日の出です。
陽光の中で輪郭が薄れかかってきた右側にある特徴ある峰が標高2998.44メートル(2009年測量)の剣岳です。
このあと太陽が高くなるにつれて立山など北アルプスの峰々は輪郭がぼやけて空の色に同化するように消えて行きます。
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国見展望台から北アルプスを写す

2010年08月25日 | 写真
8月23日未明に新カメラ日記でおなじみの医王山見上げ峠から夕霧峠をクルマで国見展望台まで行き、北アルプスの峰々の夜明けの眺望を楽しんできました。
夜明け前の国見展望台にカメラを据えて眺めると雲も霧も少なくて北は朝日岳から南は穂高までが目の前に広がっていました。
写真のカメラの先の中央部分に空に鋭く突き出ているのが槍が岳で、その下の平野部は散居村で有名な砺波平野です。
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日没30分前ー大乗寺山からー

2010年08月24日 | 写真
連日のように30度を超える日が続いていますが、日没から夜明けにかけて虫は鳴き丘陵ではススキが白い穂を見せて自然は確実に秋の到来を知らせています。
金沢市南部丘陵の入り口あたりの大乗寺山から金沢市の向こうに沈む夕陽を見てきました。この季節の夕陽を見ると「あかあかと日はつれなくも秋の風」という芭蕉の句を思い浮かべます。
厳しい残暑の北国街道をたどってようやく加賀金沢に着いた芭蕉が金沢の向こうの日本海に落ちる夕陽を見て詠んだ句だといわれていますが・・・、赤く染まった夕陽が艶やかな金沢特有の黒瓦の屋根が連なる町を照らしながら日本海に没する光景を見ての感動が伝わってきます。
黒瓦の屋根の連なる町はほとんどなくなってしまいましたが、いまも夏から秋にかけて気象条件のよい日に見られる真っ赤な大きい夕陽が町や海面を染めながら日本海に落ち込む光景は感動的です。
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作られる農村風景

2010年08月22日 | 写真
この写真は金沢市の奥座敷といわれる温泉街近くの山間の農家の庭のようすです。
現在の農村では日本人のイメージの中の農村風景を見ることは本当に珍しいことになっています。
そこで「村おこし」「町おこし」イベントの一環として懐かしい風景を創り出したりすることが多くなりました。
この写真の人形がそういうものかどうかはわかりませんが・・・、そのリアルさは目を見張る出来栄えです。ことに置かれている畑や納屋などの環境との調和がそのリアルさをさらに増幅していて、すぐ前の街道を走りすぎる車からはその光景が創られたものだと気づいた人はほとんど居ないようです。
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八十五番札所 八栗寺

2010年08月21日 | 写真
四国高松市牟礼に四国霊場85番札所「八栗寺」があります。巡礼たちはこのあと疲れきった身をふるいたたせてかつては東讃地方と呼ばれた地域を志度寺(86番)、長尾寺(87番)、そして結願札所の大窪寺(88番)まで歩きました。
その八栗寺は弘法大師が鋭い剣のように突き出でた五剣山の五つの峰に八つの焼き栗を埋めたことから「八栗寺」と呼ばれいまもたくさんの信者がお参りしています。
私も小さい頃からその特異な形の五剣山、そしてその近くに並んで見える屋島をながめて育ちましたが、なぜか行く機会が無くてようやくこの夏の帰省を機に「八栗寺」にお参りしてきました。
この寺はなぜか本堂よりも弘法大師作といわれる黄金の歓喜天が収められている建物が立派で、そちらを本堂と間違う人も多いそうです。
写真は八栗寺の背後に聳える五剣山です。
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故郷の墓ー東支那海のいずこに?ー

2010年08月18日 | 写真
数年ぶりに故郷の母方の祖母と叔父の墓に参ってきました。
墓地は山と海の挟まれた小さな集落から少し山道を登ると漁師たちの墓らしく、海が見える山の斜面に張り付くように小さな古い墓地があります。
祖母と叔父の墓は祖母が存命中に自分と昭和19年11月14日東支那海の海に没した息子(27才)のために建てていたもので、いまは山の斜面にへばり付くようにして瀬戸内の海を見ています。
インターネットで調べてみると11月14日に東支那海で沈没した海軍の艦艇は運送艦の「鞍崎」のみだから、おそらくこの艦艇と運命をともにしたものであろうと思えます。
その最後については誰も知る由が無いままになっている。遺族の元へは「昭和19年11月14日東支那海にて戦死」との知らせがあったのみでもちろん遺骨も無い。
その墓の前に立ち海を眺めていると、おそらくここから海を眺めながらその場所の特定も出来ない海で27歳で戦死した息子を思い出しつつ立ち尽くしたであろう祖母の無念を思わざるを得ない一日でした。
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帰省、墓参り

2010年08月14日 | 写真
金沢の墓参は新盆が多いのですが旧盆のいまも市内一番の墓地、野田山は7月ほどではないが混雑しています。
お地蔵さんも新しい菅笠をかぶって墓参りの人たちを見守っています。
当ブログ管理人も明日から数年ぶりに生まれ故郷の四国讃岐に帰省して墓参りをしてまいります。
と言うことで3日間ほど当ブログ「新カメラ日記」を含むホームページ「ぎゃらりーたちばな」全体の更新はお待ちください。
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身近な闘いを支援する

2010年08月13日 | 写真
一昨日の「剣岳・別山燃ゆ」を見た方からもう少し広い範囲の朝焼けを見たいとの要望があったので今日の写真は「北アルプス燃ゆ」として砺波平野・越中の向こうに広がる朝焼けの写真をアップしました。
話題は変わりますがいまとても気になる「絹川商事に損害賠償を求める」民事裁判に少しかかわりを持っています。その根源には深刻な不当労働行為とパワーハラスメントを内包する賠償請求裁判です。
原告は住宅建築、販売会社の元社員で被告はその会社です。原告は1994年からその会社で働き06年~08年にかけては役員として、統括責任者として会社に貢献してきました。
ところが08年から会社は受注した工事について25パーセントの利益確保をノルマ化してそれを確保できない場合は不足分を担当者が損失補填を求められるようになりました。
原告はしばしば追加工事等の会社が決めている予算超過分の支払いを会社首脳から実質的に強要され、ときには借金して会社への支払いにあて最終的にはそれでも足りない分を有無を言わせず退職金から支払わせられ、実質解雇されることになりました。
原告はこんな会社の優位的な立場を利用しての卑劣な行為は許せないとして、無理やり支払わせられた金を賠償せよと裁判に訴えました。
建設業界ではしばしばこんな事例があり、大手の大東建託では損失負担を押し付けられた従業員の自殺者まで出ています
建設業界だけでなくいわゆる営業関係の職種の現場では以前からこれに類した不当労働行為の蔓延は知られていましたが、労働環境の悪化の中でもっとひどくなっていることも考えられます。
労働組合などの組織も無く、裁判資金も十分でない原告がこの裁判闘争に立ち上がったことの意義はかりしれないものがあると思います。
関心のある方、原告を応援したいという方は「泣き寝入りはしない!「絹川商事に賠償を求める裁判を支援する会」(金沢市昭和町5-18 日本国民救援会石川県本部内 TEL076-262-3447)までご連絡ください。
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砺波散居村の夜明け

2010年08月12日 | 写真
富山県の砺波平野はかつて屋敷林に囲まれ、各戸が田に囲まれて点在するという「散居村」。日本農村の原風景とも言われる美しい景観で知られていましたが、現在はかなり屋敷林のある農家も少なくなり広域道路や工場開発などでかつての景観とは変わってきました。
それでも戦中から戦後にかけて疎開して来ていた版画家の棟方志巧の描く農村の雰囲気も残っています。
その砺波平野の一部、現在の南砺市を医王山の国見ヒュッテから見た早朝の光景です。
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