人生の最期に後悔するのは、やったことよりもやらなかったこと
この言葉は、「最後の授業」で有名なランディ・パウシュ博士のカーネギー・メロン大学の卒業式のスピーチで知りました。余命を宣告された博士の言葉だけに、重みが違います。
ランディ・パウシュ博士のカーネギー・メロン大学の卒業式のスピーチ
人は突然死を宣告された時に、「生きたい」と思うと同時に、やらなかったことを後悔するのでしょうか?
父のあまりにも早い死に思いを馳せた時に、この言葉は実感を持って戻ってきました。
博士はこのスピーチの後、2008年7月に亡くなってしまいましたが、このスピーチは秀逸で何度見ても感動します。
陶芸体験!というと轆轤を回して、おっかなそーな先生にダメ出しされながらやるものっていう感じがしていたのですが、週末の体験は「陶芸」というよりも「粘土工作」に近いものでした。
飯能釜の窯元の虎澤英雄先生は、30年前に飯能に移り住んで、忘れ去られる運命にあった飯能焼きを復興させた先生です。数々の名誉ある賞も受賞していて、陶芸家としてのステータスもかなり高い人だと思うのですが、そんな素振りを微塵も感じさせない人でした。
先生曰く、
「焼き物なんていうのは、その辺の土を集めてきて粘土にして焼けば、立派なお茶碗になるんです。それでいいんですよ。光悦(だったかな?)は、最初はお茶碗がうまく焼けなくて割れちゃったんです。その割れたところをくっつけるために1本の線を引いたら、その線が素晴らしいっていうことで、評価を受けたんですよ。だから何かに捉われる必要はなくて、皆さんの独創性から新しいものが生まれることだってあるのです。」
評価される作品というのは、作ろうと思って作れるものではなくて、何かそこから抜けた時に生まれるのかもしれないですよね。深い話だなと思いました。
先生は「伝承は受け継がれなければならないけれど、伝統は時代と共に変わるべきである」とも言っていました。伝承と伝統って区別して考えたことってなかったのですが、基本の型は変わらなくても、伝統に捉われることなく自由な発想で時代の流れに沿って変わることが求められる、ということを言っているのだろうなと思いました。
ところで一番右手前にあるのが私の初体験作品です。ちゃんとお茶碗の形になっているでしょ!この粘土細工に塗薬が塗られて、6月にお茶碗としてブログに登場しますので、こうご期待下さい。(えっ、誰も期待していないって?)
飯能駅から車で10分ぐらい走ると、道路沿いの土手に片栗の花の群生地帯が現れます。
この可憐な花の根っこの部分から片栗粉が作られます。そうです、あんかけのとろみを作る時の片栗粉です。いまだに片栗粉がこの植物から作られているのかどうかは、片栗粉メーカーに聞いてみなければ分りませんが、願わくば食用なんかにせずに、可憐な花としての人生を全うしてもらいたいものです。球根から花が咲くまでに8年もかかるらしいです。だからこんなに可憐なのですね。
片栗の花にばかり気を取られていて、写真を見て初めて気づいたのですが、隣につくしが生えているのを発見。
つくしと言えば、毎年の恒例行事を思い出します。テーブルの上に広げた新聞紙の上に、母があっちこっちの堤防沿いで取ってきたつくしが山のように積まれ、問答無用で爪が真っ黒になるまで袴を取り続けたっけ。
「つくしを食べると春が来たー、って感じがして幸せよね」、って言ってはしゃいでいるのは母一人であって、子供たちは「迷惑なんですけど。。。。。」、って毎年思っていたあの頃を思い出しました。
今年もきっと作っているのよね、お母さん。