あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自分ではない自分が生み出した欲望をかなえるために生きている。(自我その311)

2020-01-30 19:51:08 | 思想
人間にとって、欲求と欲望を区別することは難しい。しかし、心理学では明確に分けている。欲求は、食欲、睡眠欲、性欲などであり、生命を維持し、子孫を残すために、存在するものである。それは、他の動物にも、共通して、存在している。しかし、欲望は、名誉欲、支配欲、愛欲などであり、それ自体が目的であり、生命を維持し、子孫を残すためには、不可欠とは言えないものである。だから、それらは、他の動物には、存在しない。しかし、人間にとって、食欲と言えども、食糧を支配したいという欲望であり、性欲は異性を支配したいという欲望であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという安らぎを求める欲望である。すると、食欲も、睡眠欲も、性欲も、欲望の範疇に属することになる。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は、全て、欲望に形を変えていることになる。確かに、人間にとって、単に、食欲を満たすという行為は存在しない。食材を生のまま食べることはほとんど無い。刺身と言えども、きちんと調理され、形を整えられ、他の調理した物と共に食される。人間は、一般に、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してこそ食欲が湧いてくる。そこが他の動物と著しく異なっている。他の動物たち、例えば、馬が人参を、猫が魚を、犬が肉を洗うことさえしないで、生のままに食べるのと大いに異なっている。それは、人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためのものではなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配することだからである。また、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができないのである。体調や精神状態に安定性を求めることができなければ、眠ることができないのである。また、人間にとって、単に、性欲を満たすという行為も存在しない。それは、他の動物が、発情期が来ると、自然に交尾し、妊娠し、出産するのと大いに違っている。
人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中、発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在する。また、人間は、ただ単に、欲望に任せて、セックスするのではない。そこに愛情という相手への思いと相手から自分に対する愛情があるという確信が存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという証だからである。つまり、性欲とは、異性の心を支配したいという欲望なのであり、セックスとはその証なのである。このように、人間には、他の動物と異なり、純粋な欲求は存在しない。それは、全て、欲望に変換させられている。食欲は、自然の動植物を支配したいという欲望である。睡眠欲は、環境を支配して、体調・精神状態を安定したいという欲望である。性欲は、異性の心を支配したいという欲望である。そして、名誉欲は、他者に認められたいという欲望なのである。つまり、人間の行動は、全て、欲望が深く関わっているのである。しかし、欲望がもたらす行動には、良心が起こしたと思われる正当なものから、悪心が起こしたと思われるよこしまなものまで、さまざまなものが存在する。しかし、どのような欲望であろうと、人間は自ら意識して自らの意志で生み出しているわけではない。すなわち、人間は、意識や意志しての心の働きである表層心理で欲望を生み出しているのではない。欲望は、人間の無意識の心が生み出しているのである。すなわち、人間の無意識の心の働きである深層心理が欲望を生み出しているのである。深層心理は、精神的にも肉体的にも、相手を思いやる欲望から相手を傷付ける欲望まで、さまざまなものを生み出してくる。だから、どのような欲望を抱こうと、本人には責任はない。もしも、人間は、自らの欲望を全て相手に話してしまえば、どのように親密な人間関係でも壊れてしまうだろう。しかし、確かに、どのような欲望を抱こうと本人には責任はないが、当然のごとく、よこしまな欲望を行動に移すと、責任が生じてくるのである。さて、欲望は、人間の表層心理(意識・意志)の思考に拠らず、深層心理(無意識)の思考から生み出されているであるが、決して、無根拠のものではない。フランスの心理学者のラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、言語を使って論理的に思考し、欲望を生み出しているのである。それでは、深層心理は、何を求めているのか。それは、快楽である。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと思考している。快楽を求め、不快を避けて生きようとする欲望を、スイスで活躍した心理学者のフロイトは、快感原則と呼んだ。深層心理は、快感原則に基づいて思考するから、良心・悪心の区別は存在しない。もちろん、深層心理には、道徳観や社会規約も存在しない。ひたすら、その時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けようとする。だから、深層心理の思考も、瞬間的に行われる。さて、快感原則は何を主体に立てて、思考しているのか。それは、自我である。それでは、自我とは何か。自我とは、人間が、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きている、そのあり方である。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と構造体に属している自我には、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、このような構造体の中で、自我として生きているのである。人間は、自己という統一された自分として生きるのではなく、構造体によって、異なった自我を持って生きるのである。確かに、人間は、名前と肉体という固有のものを常に有しているが、実際に生きていく上においては、それらは感情や行動の起点にならないのである。人間は、実際に生きていく上においては、さまざまな構造体において、さまざまな自我を有し、それが、感情や有象の起点になるのである。なぜならば、人間は、本質的に社会的な動物である、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って、他者と関わり合いながらに暮らしているからである。さて、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているが、それが、可能なのは、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出すからである。人間は、人間の無意識うちに、深層心理が、まず最初に、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。その後、人間は、その深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、意識して、表層心理で、思考し、行動を決めるのである。それでは、深層心理は、どのようにして、快感原則という欲望を満たそうとしているか。それは、自我の対他化、対象(他者・物・事柄)の対自化、自我と他者の共感化という志向性(観点・視点)である。まず、第一の志向性である自我の対他化とは、深層心理は、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。オリンピックやワールドカップで、日本人選手が優勝しようと思うのは、日本という構造体で、日本人選手という自我を、日本人という大衆の他者から褒めてもらいたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。次に、第二の志向性である対象の対自化とは、深層心理は、他者や物や事柄という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、言い換えると、他者という対象を自我で命令して動かすこと、物という対象を自我で利用すること、事柄という対象を自我の志向性で捉えることなのである。他者や物や事柄という対象の対自化は、「人は自我の欲望を対象に投影する」(人間は、自我の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自我で他者を支配しようとする。人間は、自我で物を利用しようと考える。人間は、他者や物や事柄を、自我の志向性や趣向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自我の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉え、理解し、支配下に置くことである。国会議員が総理大臣になりたいと思うのは、日本という構造体で、総理大臣という自我で、日本人という大衆を支配したいからである。人間が神を創造したのは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。最後に、第三の志向性である自我と他者の共感化とは、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、言い換えると、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。自民党の総理大臣は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆をあおり、大衆の支持を得ようとするのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。高校生や会社員が、その高校やその会社が嫌でも行ってしまうのは、高校生や会社員という自我を失うのが恐いからである。このように、人間は、まず、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、自我の対他化、他者・物・事柄という対象の対他化、自我と他者の共感化のいずれかの志向性を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を行動させようとする。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。そして、次に、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望結果を意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを思考するのである。そして、その結果が意志となり、意志による行動となるのである。この時の人間の表層心理での思考が広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。この時の人間の表層心理での思考が狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考するのに対して、表層心理の思考は、長時間を要するのである。感情も、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、人間が、表層心理の思考で、深層心理の行動の指令を抑圧すると決定するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動の指令を生み出した時である。表層心理は、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、行動の指令を抑圧した場合、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。この時、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。これが、ルーティンとなる。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間の生活も、「永劫回帰」(同じことを繰り返す)に当てはまると言ったのである。さて、苦悩とは、人間が、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、苦痛の感情を取り除く方法を長期にわたって苦慮している状態を言う。しかし、傷心・怒りという苦痛の感情を生み出しのは、深層心理である。深層心理が、自我が他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受けたので、快感原則に基づいて、自我に対して、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手をもっとひどく侮辱せよや相手を殴れなどの過激な行動を指令したのである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理の行動の指令の通りに、相手を侮辱したり殴ったりすると、後で、その相手から復讐されたり、周囲に人から顰蹙を買ったり、法的に罰せられたりして、自我が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧したのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、自らの現実原則が納得し、さらに、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になるのである。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、狭義の理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、偉大な思想は、全て、苦悩の中から生まれているのである。狭義の理性による長期の思考が、偉大な思想を生み出したのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど、全てそうである。しかし、一般的には、苦悩とは、人間が、苦しいと感情の中で、その苦しみから逃れる方法を、表層心理で案出するためにもがいている現象である。人間は、その時、自分が苦しみにあることを課題にして、苦しみがもたらされた原因を分析し、苦しみから脱却する方法を思考するのである。これも、また、狭義の理性による思考である。確かに、理性による思考によって、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それを実行し、実際に、苦しみから脱却できる者も存在する。しかし、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却する者も存在する。そして、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れようとする者も存在する。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性による思考に終始する人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼る者が存在するのである。しかし、後者の場合であっても、それを非難することはできない。その理由は二つある。一つは、人間の意識という表層心理で与り知らぬ所で、すなわち、無意識という深層心理が苦しいという感情を生み出しているからである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦しい感情から脱却するための行動の指令のままに行動すると自分にとって利益の結果になると判断したから、行動の指令を抑圧したのである。つまり、人間の表層心理による所期の目標は、深層心理が生み出した苦しいという感情を消滅させることという一点だからである。だから、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦痛の原因も解決されたということができる。」と言うのである。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。確かに、深層心理は、何かを対象として、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という欲望を生み出すから、その対象となるものやことが、本人の深層心理には大きな課題であるが、他者にとっては、些末であったり、偉大であったりして、玉石混淆である。しかし、他者にとっては、些末に見えることも、本人の深層心理には、課題となる大きなことだから苦痛になるのである。人間は、深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。また、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について審議するから逃れることはできないのである。さらに、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考し、深層心理の行動の指令を抑圧することに成功しても、その後、表層心理の現実原則が納得し、その上、、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考にから逃れることはできないのである。しかし、この時、人間は、自らの理性による思考の力を最大限に発揮し、最も主体性に近づくのである。


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