あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

オリンピックと戦争は、深層心理にとっては、同じものである。(自我その293)

2020-01-07 21:07:26 | 思想
オリンピックでは、人は死なない。戦争では、人は死ぬ。しかし、オリンピックと戦争は、深層心理にとっては、同じものである。オリンピックも戦争も、愛国心という深層心理が生み出した自我の欲望だからである。深層心理とは、人間の無意識の心の動きである。人間は、無意識のうちに、思考しているのである。それが、深層心理である。深層心理の動きについて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語で、快楽を自我にもたらそうという欲望である。しかし、ほとんどの人間は、思考とは、自ら意識して行うものだと思っている。確かに、意識して行う思考も存在する。それは、表層心理での思考である。人間は、表層心理で、オリンピックの栄光と戦争の悲惨さから、両者を分離して思考するが、深層心理では、愛国心という自我の欲望、すなわち、国民という自我の発露において、同じものなのである。だから、人間の無意識である深層心理の思考が、人間の意識しての思考を圧倒すれば、人間は、オリンピックに参加するように、容易に、戦争を引き起こすのである。さて、深層心理の思考の起点である自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、何らかの構造体に属し、その構造体で、あるポジションを得、それを自我として、ある気分を持して。活動している。人間は構造体の外では活動できない。ポジションを持たずには活動できない。構造体に所属せず、ポジション無くして、自我は存在しない。自我無くしては、人間は、自己として存在しない。だから、人間は、日常生活の全てに渡って自我を有しているのである。例えば、国民という自我は、オリンピックという祭典に参加し、戦争という殺し合いに参加するが、国会議員選出などの選挙にも参加するのである。さて、構造体には、二人から成るカップルという小さな構造体もあれば、十三億人以上から成る中国という大きな構造体もある。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。カップルという構造体は、恋人という自我の人から成り、仲間という構造体は、友人という自我の人から成り、家族という構造体は父・母・息子・娘などという自我の人から成り、学校という構造体は、校長・教諭・生徒などという自我の人から成り、クラスという構造体は、クラスメートという自我の人から成り、会社という構造体は、社長・課長・社員などという自我の人から成り、店という構造体は、店長・店員・客などという自我の人から成り、日本という構造体は、日本人という自我の人から成り、韓国という構造体は、韓国人という自我の人から成り、アメリカという構造体は、アメリカ人という自我の人から成り、中国という構造体は、中国人という自我の人から成っている。さて、人間は、常に、自我として、ある構造体に所属して、ある気分を持して、活動しているのであるが、自我を動かすものは何か。それは、深層心理である。深層心理という無意識の思考が自我を動かしているのである。人間は、まず、深層心理が、自我を主体にして、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、自我が他者に認められること、自我で他者や物や事柄という対象を支配すること、自我と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって得られる。つまり、深層心理は、この三種類の欲望のいずれかの欲望を満足させることによって、快楽を求めようとするのである。すなわち、深層心理は、自我を他者に認められたいという欲望の下で、自我を対他化する。深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望の下で、対象を対自化する。深層心理は、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望の下で、自我を他者と共感化させるのである。この、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化の作用で、深層心理は快楽を得ようとしているのである。まず、自我の対他化であるが、深層心理は、自我を対他化して、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考える。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われるのは当然のことである。もちろん、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者の視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えようとする。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。だから、自我の対他化とは、自我の評価を他者に委ねているとも言えるのである。そこで、サルトルは、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」と言い、「見られることより見ることの方が大切なのだ。」と主張するのである。見ることは、対象や他者の対自化であり、サルトルによれば、勝者の態度なのである。次に、他者や物や事柄という対象の対自化であるが、深層心理は、対象や他者を対自化して、対象や他者を支配したいという欲望を持っている。対象や他者の対自化とは、自我の視線で見るということである。すなわち、対象の対自化とは、物に対してどのように利用・支配しようか、事柄に対して自らの志向性(視点・観点)で捉え、他者に対してその人がどのような思いで何をしようとしているのかを探り、支配しようとすることなのである。しかし、他者の思いや欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自我の志向性に則って行うのである。その人の思いや欲望を、自我の志向性に則って評価するのである。志向性とは、自我が、対象や他者を意味づける作用である。すなわち、対象に対しては意味づけし、他者に対しては、その欲望が自我と同じ方向性にあるか逆にあるかを探るのである。他者の思いや欲望が自我と同じ方向性ならば味方にし、逆の方向性ならば敵にするのである。他者の思いや欲望が自我の志向性と同じような方向性にある場合、味方にするのであるが、他者のステータス(社会的な地位)が自我よりも下位ならば、自我がイニシアチブを取ろうと考え、自我よりもステータス(社会的な地位)が上位ならば、自我を他者に従わせようとするのである。また、他者の思いや欲望が自我の志向性の方向性と異なっていた場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影させる」ということなのである。つまり、対象や他者を見るという姿勢、つまり、対象や他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。思想家の吉本隆明は、「人間は、わがままに生まれてきながら、わがままを通しきれないところに、不幸がある。」と言っている。すなわち、人間は、わがままを通して生きていきたいが、そうすると、他者の顰蹙を買い、行きにくくなる。だから、他者の思惑を考慮して、妥協して生きることのなる。そこが人間の不幸だと吉本隆明は言うのである。つまり、吉本隆明は、人間は対象や他者を対自化して生きていきたいが、それだけでは生きていけず、自我を対他化しなければいけないから、不幸だと言うのである。しかし、これは必然的な不幸である。人間は、対象を対自化するだけで生きていけば、自我によって他者に惨劇をもたらし、他者の復讐によって自我に悲劇をもたらし、短期間で、人類は滅びるであろう。ドイツの哲学者のニーチェは、「人間、誰しも、力への意志(権力への意志)を有している。」と言う。力への意志(権力への意志)とは、他者を征服し、同化し、いっそう強大になろうという意欲である。すなわち、徹底的なる、他者の対自化なのである。最後に、自我と他者の共感化であるが、深層心理には、自我と他者の共感化という快楽を求める視点がある。自我と他者の共感化は、相手に一方的に身を投げ出す自我の対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対処や他者の対自化でもない。自我と他者の共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪くても、そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、協力して、立ち向かうのである。オリンピックが始まると、日本の国民は、普段が仲が悪い人同士でも、見知らぬ人同士でも、日本チームや日本人選手を応援するということで一致するから、共感できるのである。また、協力するということは、互いに自我を他者に対他化し、もしくは、一方の自我が他者に対他化し、他者の身を委ね、他者の意見を聞き、両者で共通の敵を対自化して、立ち向かい、戦うのである。だから、国という構造体、国民という自我は、現在の国際社会において、自らの大きな存在基盤なのである。だから、日本人は、日本チームと日本人選手を応援するのである。つまり、愛国心とは自我愛なのである。つまり、国を愛しているように見えて、実は、自分を愛しているのである。だから、オリンピックで、自国の選手を応援している時も、実は、自分自身を応援しているのである。そのために、真剣なのである。オリンピックでの選手の活躍は、その選手の存在主張であるとともに、国際社会における、国という構造体の存在主張であり、国民という自我の存在主張なのである。オリンピックは、自我の発揚の場になのである。だから、オリンピックで求められるのは、何が何でも、自国チーム、自国選手の勝利なのである。このように、日本人ならば、誰しも、日本の国を愛している。自分が、日本人だからだ。日本という国が、国民国家の集団である現代において、自分の所属国だからである。自らにとって、日本という国が所属する構造体であり、持する自我が日本人だから、日本という国や日本人という国民が、世界で認められると、自分のことのように喜ぶのである。オリンピックでの日本選手の活躍を喜ぶのも、日本人という自我を満足させるからだ。確かに、日本人ならば、誰しも、日本という国の構造体のあり方、日本人という国民の自我のあり方に理想像を持っていて、その理想像が異なることがよくある。しかし、オリンピックでの日本チームや日本選手の活躍は、日本人共通の理想像なのである。しかし、その理想像には、オリンピックでの日本チームや日本選手の活躍は共通しているが、共通していないこともあるのである。しかし、右翼的・保守的な考え方をする人は、そのことに思いが至らない。右翼的・保守的な考え方をする日本人は、「愛国心を持っている日本人ならば、日本という国のあり方に対しても、日本人という国民のあり方に対しても、共通の理想像を持つべきだ。」と思い込んでいる。確かに、オリンピックでの日本選手の活躍は、日本人の共通の理想像だろう。しかし、尖閣諸島、竹島、北方四島の領有に対する理想像は共通していない。確かに、日本人の共通の理想像は、尖閣諸島、竹島、北方四島を領有することだろう。しかし、これらの島々の領有権は、今でも、不安定な状態にある。ある日本人たちは、「いざとなったら、武力でこれらの島々を領有しなければならない」と主張する。彼らにしてみれば、これらの島々は日本固有の領土であり、これらの島々を領有することは日本人の誇りなのである。これとは別の日本人たちは、徹底的に、話し合い・交渉を提唱する。日本人の兵士、中国人の兵士、ロシア人の兵士の血が流れることを忌避するからである。しかも、これらの島々には日本人という国民は一人も住んでいないからである。すると、前者の右翼的・保守的な日本人たちは、後者の左翼的・リベラル派の日本人たちを「反日的な考え方をしている、反日集団だ」と批判する。また、右翼的・保守的な日本人たちは、日本史の教科書から、日中戦争初期の南京大虐殺や従軍慰安婦の強制連行などの日本軍の犯罪の掲載を、取り除くように要請した。これらの掲載は、「反日教育に繋がる」と批判したのである。彼らは、南京大虐殺や従軍慰安婦の史実によって、日本人の誇りが失われることを恐れたのである。しかし、これらの史実によって、日本人の誇りが失われたとしたならば、その誇りは薄っぺらなものにしか過ぎない。むしろ、これらの史実を検証することによって、戦時における、日本人(人間)の心理・行動を追究し、絵空事ではない、戦時状態の日本人(人間)のありのままの姿を見ることによって、そこに、日本という国の政治指針や個々の日本人の生きる指針を探るべきではないだろうか。反日の言葉の意味は、「日本に反対すること。日本や日本人に反感を持つこと。」である。しかし、日本人という自我は、日本の国という構造体を愛することであるから、日本人は、誰一人として、反日感情を持っていないのである。自分と異なる日本の理想像や日本人の理想像を持つ人たちを、売国奴、反日と批判する人たちは、思惟の乏しい、幼稚な人間たちだと言わざるを得ないのである。その最たる人が石原慎太郎である。石原慎太郎は、まさしく、思惟の乏しい、幼稚な人間である。石原慎太郎は、鳥越俊太郎を売国奴だと罵った。鳥越俊太郎が「中国軍が尖閣諸島を攻めてきたら、自衛隊員がそれに立ち向かうと死者が出るから、中国に尖閣諸島を与えても良い。」と述べたことを受けてのものだった。売国奴とは、売国の行いのある者をののしって言う語である。売国とは、自国の内情・秘密を敵に通じ、または自国に不利で敵国の利益になることを企てて私利をはかることである。石原慎太郎は、鳥越俊太郎のどの言葉に、私利をはかる意味が隠されていると言うのか。鳥越俊太郎は、尖閣諸島よりも自衛隊員の命が大切だと言っただけである。もちろん、鳥越俊太郎は、売国奴ではない。言うまでもなく、石原慎太郎氏も鳥越俊太郎氏も日本人である。それ故に、二人とも日本人という自我がある。二人とも、愛国心がある。二人とも、日本という国に対する思い・日本人に対する思いがある。しかし、二人は、日本という国に対する思い・日本人に対する思いが異なっているのである。どちらが愛国者であり、どちらが売国奴であるということは決めることはできないのである。二人だけで無く、日本人は例外なく、愛国者であり、売国では無いのである。鳥越俊太郎は「死者が出るくらいなら、尖閣諸島を放棄しても良い。」と主張し、石原慎太郎は「死者を出しても、尖閣諸島を支配し続けるべきだ。」と主張し、両者に主張の違いがあるだけなのである。鳥越俊太郎は、決して、売国奴と罵られるようなことはないのである。私は、鳥越俊太郎の考えに賛成である。無人島よりも人の命が大切だと考えるからである。さらに、現在、日本が、尖閣諸島の実効支配を続けているが、それには、問題があるのである。1972年9月29日に、日中共同宣言が発表され、日中国交回復が成された。この日中共同宣言を出すために、日本の田中角栄首相・大平正芳外相は、北京で、中華人民共和国の毛沢東主席・周恩来総理と会談し、その際、「尖閣諸島の領有権については、現時点では、棚上げにし、次世代の賢い方法・有効なやり方を待とう。」と取り決めているからである。しかし、日本は、次世代の賢い方法・有効なやり方を待たずに、支配し、尖閣諸島には領土問題は存在しないと言い続けているのである。日本人には、誰しも、日本人という自我がある。それが、愛国心があり、日本という国に対する思い・日本人に対する思いである。しかし、それは、自分がイメージした、日本という国・日本人である。つまり、愛国心とは、自分がイメージした、日本という国・日本人を愛していることなのである。端的に言えば、愛国心とは、言い換えれば、日本人という自我とは、自分を愛していることなのである。もちろん、中国人にも、誰しも、中国人という自我、つまり、愛国心があり、中国という国に対する思い・中国人に対する思いである。相手にも自我があること、つまり、愛国心があることに思いを馳せず、その両者の自我がぶつかったらどうなるであろうか。個人同士ならば殴り合い、国同士ならば戦争になるだろう。相手の自我に思いを馳せて、こちらがまず反省すべきことは反省し、譲るのである。そうすれば、相手も譲ってくれるのである。確かに、個人同士ならば反省したり、譲ったりすると、たいていの場合、美徳とされるだろう。しかし、国同士になると、必ず、感情的に非難する者が現れるのである。たとえば、日本の首相や外相が、中国に反省の意を示したり、譲ったりすると、石原慎太郎のような考えの人は売国奴と罵り、産経新聞や読売新聞や週刊新潮のようなマスコミは土下座外交と非難するだろう。むしろ、そのような非難に屈しない政治家、それに煽られない国民が大切なのである。無人島よりも人の命が大切なのはわかりきったことだからである。しかし、いったい、この国は、どうなってしまったのか、ニーチェの「大衆は馬鹿だ。」という19世紀の言葉があるが、この国は政治家も馬鹿なのである。ニーチェの言葉が、日本という国全体を覆っているのである。日本という国は、民主国家ではなかったのか。自民党のホームページに、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトルのページが設けられていたことがあった。このページで、自民党は、「子供たちを戦場に送るなと主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」と言い、そして、その先生は、「偏向した教育」を行っていると決めつけ、生徒たちは「特定のイデオロギーに染まった結論」を導き出すことになると批判し、そのような「不適切な事例」を通報する入力フォームを設置していた。当然のごとく、自民党のこのやり方は、朝日新聞などのマスコミやネット上で批判された。すると、「子供たちを戦場に送るなと主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」の部分を、「安保関連法は廃止すべきと主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」という表現に変更したのである。自民党の魂胆は見え透いている。自民党の国会議員も、他の党の国会議員と同じように、二言目には、日本の平和を口にするが、実際は、日本の平和など望んではいない。安倍首相は、よく、日本を普通の国にしたいと言うが、彼の言う普通の国とは、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスなどのように、簡単に戦争のできる国、簡単に他国に攻め入ることができる国なのである。しかし、簡単に戦争のできる国、簡単に他国に攻め入ることができる国が普通の国だと言えるだろうか。簡単に戦争のできない国、簡単に他国に攻め入ることができない国こそが普通の国ではないか。アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスは普通の国だろうか。これらの国が本当に普通の国であったならば、現在の世界各国における戦争や紛争は起こっていず、イスラム国が代表するイスラム教徒の過激派組織の絶望的な戦いは存在しないだろう。これらの国が、自国の利益のために、自国のプライドのために他国に攻め入ったから、特に、イスラム諸国に攻め入ったから、現在、世界は、イスラム諸国を中心に、戦争や紛争に明け暮れしているのではないか。安倍首相の言う普通の国とは異常の国なのだ。安倍首相や自民党の国会議員は、日本という国を、簡単に戦争のできる国、簡単に他国に攻め入ることができる国にしたいのだ。そもそも、「子供たちを戦場に送るな」と主張する先生の教育を、自民党は「偏向教育」だと言うが、果たして、そうだろうか。言うまでもなく、「子供たちを戦場に送るな」と主張する先生の教育は、平和教育にならざるを得ない。平和教育は「偏向教育」なのか。そんな馬鹿なはずはない。安倍首相や自民党議員も日本の平和を口にしているのである。しかも、日本国憲の三大原則の一つが平和主義なのである。また、「安保関連法は廃止すべき」と主張する先生方の教育は「偏向教育」なのか。「安保関連法」の中心要項は、「集団手自衛権」、つまり、「アメリカの要請があれば、日本が侵略されていなくても、自衛隊がアメリカ軍に加わる」ということである。それであるから、当然のごとく、平和教育を行うならば、「安保関連法」を批判せざるを得ないはずである。決して、「偏向教育」ではない。日本国憲法の平和主義の原則からして、「安保関連法」は批判されて当然である。それなのに、なぜ、安倍政権や自民党の国会議員は、「子供たちを戦場に送るな」と主張する先生の教育や「安保関連法は廃止すべき」と主張する先生方の教育を、「中立性を逸脱した教育」、すなわち、「偏向教育」と主張するのだろうか。言うまでもなく、日本という国を、簡単に戦争のできる国、簡単に他国に攻め入ることができる国にしたいからなのである。安倍政権は、強行採決によって、「安保関連法」を可決させ、日本という国を、簡単に戦争のできる国にした。次にしたいことは、日本国憲法を改正させ、平和主義の原則を消滅させ、簡単に他国に攻め入るできる国にすることである。それは、自民党の憲法草案を読めば、いっそう、理解できる。そこには、「私」より「公」をが重んじられている。つまり、「国民の意志」が否定され、「国家の意志」が前面に出ているのである。言うならば、「大日本帝国憲法の復活、「教育勅語」の復活である。皮肉なことに、自民党のホームページの「学校教育における政治的中立性についての実態調査」というタイトル名や「中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」という文からも、自民党の、国民を軽んじ国家を重んじる思考が明瞭に見て取れるのである。確かに、日本国憲法には、「行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益に他ならない」とあり、「公務員の政治的中立性」がうたわれている。しかし、それは、「国民全体の重要な利益」のためだとしている。つまり、、「公務員の政治的中立性」は、国民のためにあり、国会議員のために存在しているのではないのである。国民の中から、「あの先生は政治的中立性を守っていない」と訴えたら、取り上げるべき事柄なのである。国会議員という権力者が「中立性を逸脱した教育」とか「偏向した教育」などとと批判すべきことではない。そもそも、日本国憲法自体が、権力者を縛る法であるから、自民党議員は自戒すべきなのである。しかも、日本国憲法には、「公務員の政治的中立性を損うおそれのある政治的行為を禁止することはそれが合理的で必要やむを得ない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところである」ともあり、公務員の政治的活動に一定の理解を示しているのである。また、教育基本法には、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない。」と規定してある。しかし、「子供たちを戦場に送るな」と主張する先生の教育や「安保関連法は廃止すべき」と主張する先生方の教育が、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」であるはずはない。安倍政権や自民党の国会は議員が、何が何でも、日本という国を、簡単に戦争のできる国、簡単に他国を攻め入る国にできる国にしたいから、日本国憲法を改正し、教育勅語や大日本国憲法を復活させたいから、「教育の中立性」という聞こえのよい言葉で、、「子供たちを戦場に送るな」と主張する先生の教育や「安保関連法は廃止すべき」と主張する先生方の教育を潰そうと考えているのである。しかし、権力者というものは、常にこういうものである。常に、権力者には、暴走する可能性があるのである。だから、日本国憲法のような権力者を縛る法が必要なのである。問題は、マスコミと国民にある。マスコミや国民は、安倍政権・自民党議員にだまされず、むしろ、対峙し、暴走を止めなければならないのである。何のためにそうすべきのか。平和に、一人の人間としての人権を確保して生きていくためにである。非国民という言葉が、またぞろ、使われ始めている。しかも、例外なく、ある特定の日本人を非難する時に使っている。それは、反日や売国奴という言葉と同じである。さて、非国民の本来の意味は、国民に非ず、つまり、国民ではないことを意味する。すなわち、非国民は外国人を指すことになる。しかし、戦前、戦後、現在に至るまで、そのような使われ方をされたことは一度も無い。非国民とは、国民としての義務を守らない者、国家を裏切るような行為をする者、国民としての義務・本分にもとる者、特に、第二次大戦中、軍や国策に批判的・非協力的な者を非難していった語である。つまり、本来の意味から外れ、政治的に使われているのである。言うまでもなく、日本に住んでいるのだから、日本人の誰一人として、非国民と言われる筋合いは本来的には無い。しかし、第二次世界大戦中、政治家や軍人や右翼(保守的・国粋主義的な思想を持つ人たち)が、軍や国策に批判的・非協力的な者に対して、非国民だと非難したのである。現在でも、右翼は、ときおり、安倍晋三自民党政権に批判的な人に対して、非国民だと非難する。なぜ、右翼は、自分たちの考えと異なる日本人を非国民だと非難するのか。それは、自分たちには真の愛国心があり、純粋に日本を愛しているが、自分たちの考えと異なる日本人には真の愛国心は無いと考えているからである。その典型が、作家の三島由紀夫であった。だから、彼は、戦後の日本は汚れている、戦後の日本人は醜いと考え、戦後の日本を生き抜いていくことができなかったのである。しかし、日本人ならば、誰しも、愛国心はある。真の愛国心、純粋な愛国心、汚れた愛国心、醜い愛国心というように、愛国心を峻別できない。それぞれの日本人が、それぞれ、日本の理想像、日本人の理想像を抱きながら、日本人としての自分を愛しているのである。仏教では、愛を我執として、否定する。愛国心も、恋愛、夫婦愛、家族愛、友情と同じく、我執である。だから、仏教は、恋愛、夫婦愛、家族愛、友情、愛国心を否定している。しかし、我執無くしては、この世では生きていけない。だから、仏教は、現世を仮りの世として通過点とし、即身成仏(人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き仏になること)を理想として、我執に満ちた、この世に生きていくことに価値を置いていないのである。逆に言えば、我執があるから、我々は、この世に、人間として生きていけるのである。我執が、自我という形を取らせて、我々を生かしているのである。すなわち、恋愛という我執が恋人という自我、夫婦愛という我執が夫(妻)という自我、家族愛という我執が父(母、子)という自我、友情という我執が友だちという自我、愛国心という我執が日本人という自我という形を取らせて、我々を生かしているのである。しかし、我執は、時として、暴走することがある。恋愛という我執は、時として、ストーカーという形を取って暴走することがある。夫婦愛という我執は、時として、家庭内暴力という形を取って暴走することがある。家族愛という我執は、時として、幼児虐待という形を取って暴走することがある。友情という我執は、時として、いじめという形を取って暴走することがある。そして、愛国心という我執は、時として、戦争という形を取って暴走することがある。日本は、現在、戦争をしていないが、「戦争をしてでも、北方四島、尖閣諸島、竹島を領有しなければならない。」と主張する右翼は、愛国心が暴走しているのである。なぜならば、彼らは、日本人の命よりも、日本人が住んでいない島々を領有することが大切だと主張しているからである。「北方四島、尖閣諸島、竹島を命をかけて領有することが、日本人としての愛国心だ。」と主張する右翼の愛国心は、彼らの頭に宿った愛国心に過ぎない。それも、暴走した愛国心である。そのような彼らが、自らと異なる愛国心の形(日本の理想像、日本人の理想像)を抱いている者を、本質的に、非難することはできないはずである。むしろ、非難されるべきは、右翼の愛国心ではないか。愛国心がその典型だが、我執の暴走を止めなければ、日本人を含めて、人類に未来はない。ちなみに、非国民を、国民の意見を聞かない者という意味に取れば、安倍晋三首相も右翼も非国民である。安倍首相は、国民の大半が反対しているのに、安保法案や原発再稼働を強行し、右翼は、国民の大半が戦争で死ぬことを忌避しているのに、日本国民は命をかけて北方四島、尖閣諸島、竹島を領有すべきだと主張しているからである。このように、オリンピック招致の喜びも、自国のチームや選手の応援も、領土争いも、皆、自分が所属している国という構造体を世界中の人々から認めれたい疎んじられたくないという愛国心から、発しているのである。愛国心は、どの国民にも、自我として、存在するから、国同士の戦争は、地球のどの地域でも起こる可能性はあるのである。また、現在、世界の至る地域で、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などという宗教を信仰する自我を持った人たちが、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などという構造体の存在を、世界中の人々から認めてもらおうと思い、戦争している。さらに、アメリカでは、白人という自我を持った人々が、アメリカを白人だけの構造体にしようとして、有色人種を差別し、時には、黒人を虐殺する。ヒットラーは、ゲルマン民族という自我を持ち、その優越性を主張し、ドイツをゲルマン民族だけの構造体にしようとして、ユダヤ人やロマを虐殺したのである。このように、国、国民、宗教、教徒、人種、民族などという構造体・自我が戦争の原因になっているのである。しかし、これらの構造体・自我が、人間を動かし、行動の指針にもなっているのである。つまり、人類が存在する限り、戦争は無くならないのである。しかし、ほとんどの人間は、自らの存在のあり方は、常に、一個の人格として堅持して暮らしていることにあると思っている。それが、自分や自己である。しかし、自分や自己は実際には存在しない。自分や自己は抽象的な存在者である。自我が具体的な姿なのである。自我とは、ある役割を担った現実の自らの姿だからである。自らの存在は、具体的に、自我という形を取ることによって、存在感を覚え、自信を持って行動できるようになるのである。人間の自らの具体的な存在者は自我である。人間は、実際には、自らの存在を自我として、自我を主体にして、活動しているのである。それは、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って暮らしていることから明示できるのである。日本人という自我を持った人は、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持って行動する人である。つまり、日本人という人間は、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持って行動している人である。だから、言うまでも無く、日本という構造体が存在しなければ、日本人という自我を持った人は存在しないのである。人間は、無意識と言われる深層心理が、自我が存続・発展するためにも、そして、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。日本人にとって、日本のために、日本人という自我が存在するのでは無く、日本人という自我を保証するために、日本という構造体が存在するのである。そのために、日本という国というの構造体に愛着し、それが、愛国心なのである。現代という、国際化された世界状況に社会において、自らが所属する国という構造体があるから、自らは国民という自我を持ち、国民という自我を主体にして行動できるのである。しかし、人間は、国という構造体、国民という自我だけで無く、常に、構造体に所属し、自我を持って暮らしているのである。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定されるのである。世界が小さな構造体へと限定され、自己が自我へと限定されると、構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が自我として定まるから、自我を主体として行動できるのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が自我なのである。しかし、人間は、自らの存在に矜恃を持ちたいから、自らの存在のあり方を、常に、一個の人格として堅持して暮らしているものとして捉えている。それが、「人は自己の欲望を他者に投影する」という現象なのである。人間には、自らの存在に矜恃を持ちたいという欲望があるから、自らは常に一個の人格として暮らしていると思い込んでいるのである。自らの常なる一個の人格のあり方が自分や自己である。だから、自分や自己は、自らの存在に矜恃を持ちたいという欲望から生じたものであり、実際には、存在しないものである。実際に存在しているのは自我である。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識での思考である。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。表層心理の思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、フロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。快感原則はその時その場での快楽を求める欲望だが、現実原則は長期的な展望の下で現実的な利益を求める欲望である。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて行われる。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。戦争は、常に、ここから始まる。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の実際の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活でのルーティーンと言われる習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、今年、日本で、オリンピックが開催される。マスコミは、オリンピックについて、報道しない日は無い。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それは、オリンピックは、国威発揚の良い機会であり、地元開催ならば、その期待がいっそう高まるからである。そんな中、「オリンピックなんかに、興味ないよ。そんな金があったら、母子家庭や身体障害者や知的障害者などの弱者を支援することに充てたら良いのに。」と言ったならば、無視されるか、顰蹙を買うか、袋だたきに遭うだろう。さて、6月27日、JOC(日本オリンピック委員会)は、理事会で、山下泰裕を新会長に選出した。彼は、会長就任の記者会見で、「目標は、金メダル30個。自覚を持って挑戦すれば、十分に可能。」と述べた。なぜ、彼は、金メダルの獲得数を、具体的に数値目標として掲げなければならなかったのか。それは、マスコミも国民も、金メダルを数多く獲得することをを期待しているからだ。オリンピックが終われば、いや、途中でも、マスコミは、金メダルを中心に、各国のメダル獲得数を順位付けする。その結果が上位であればあるほど、国民は喜ぶというわけである。まさしく、オリンピックは国威発揚の機会なのである。しかし、オリンピックに出場する選手の気持ちはどうであろうか。もちろん、プロであろうとアマチュアであろうと、毎日、その競技を練習し、種々の大会に参加・出場しているから、自国開催のオリンピックならば、なおさらのこと、出場し、活躍したいだろう。できれば、金メダル獲得の栄誉を担いたいだろう。しかし、金メダル候補と言われながら、それを逃したならば、また、メダル候補と言われながら、それを逃したならば、国民は大いに落胆するであろう。しかし、決して、非難しないだろう。日本国民は、現実を目の当たりにするのは恐いから、傷心を受けないように、現実を糊塗して見たり、未来に可能性を引き延ばそうとしたりするのである。しかし、選手にしてみれば、期待外れの結果になり、国民が落胆し、それを隠そうと、無視したり、慰めの言葉を掛けてくることが、いっそう辛いのである。なぜ、マスコミや国民は、東京オリンピックを、選手がのびのびと自分の力を発揮する晴れ舞台にしないのだろうか。なぜ、金メダルという十字架を負わせるのだろうか。それは、オリンピックに限らず、国際大会は、国威発揚の大会だと思い込み、その思いに全く疑念を抱かないからである。だから、選手がどのように良い試合をしても、メダルを獲得しなければ、意味が無いのである。選手が、どのように良い試合・演技をしても、金メダルはベストであるが、最悪でも、銅メダルを獲得しなければ、それは何の意味も為さないのである。メダル獲得という結果が全てなのである。それが、金メダルを中心にして、国別、メダル獲得数の順位付けに現れているのである。それでは、なぜ、日本国民は、オリンピックを国威発揚の機会にし、金メダル獲得数を中心にしたメダル獲得の国別の順位にこだわり、日本選手を応援するのか。それは、日本選手も自分も、日本という構造体(人間の組織・集合体)に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在・力が認められると思うから、嬉しいのである。それは、父(母)が息子(娘)が有名私立中学校に合格した時、高校生が自分が所属している高校のサッカー部が全国高校サッカー選手権大会で優勝した時、社員が自分が所属している会社の野球部が都市対抗野球大会で優勝した時の喜びと同じである。しかし、選手の中には、国民の期待に潰される人も存在する。それが、円谷光吉の悲劇である。円谷光吉は、1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、次回の1968年のメキシコオリンピックでも日本中から活躍を期待されていたが、腰痛や椎間板ヘルニアの手術のために、十分に走れなくなり、同年の1月、「光吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」という遺書を残して自殺している。27歳だった。また、ヒットラーは、1936年のベルリン大会では開会宣言をし、これまでに無い壮大なスケールで大会を行い、新しい式典を設けるなどして、ドイツ国民を陶酔させ、文字通り、ドイツの国威発揚のために、大いにオリンピックを利用した。第二次世界大戦の勃発は、その僅か三年後である。