あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人は自己の欲望を対象に投影する。(自我その305)

2020-01-24 16:22:53 | 思想
志向性とは、ブレンターノの記述心理学に由来するフッサールの現象学の述語である。人間は意識を持つが、意識は常に何物かについての意識であり、何物かに向かう作用の中で、人間の超越論的主観が対象が一定の意味を付与する。このように、常に対象に向かう作用の中で始めて対象が一定の意味として現れ把握される意識体験のあり方、対象に一定の意味を付与する作用・構成的機能を志向性と言う。つまり、意識は漠然として存在せず、人間が先験的直観・思考形式で対象に積極的に向かっていくから、それが一定の意味として意識されてくるということである。ニーチェは、パースペクティビズムを主張する。日本語では、遠近法と翻訳されている。パースペクティビズムとは、観点・視点の取り方に応じて対象が変化して見えることを言う。すなわち、認識が観点・視点に相対的であることを言う。ニーチェは、人間は自己の観点・視点から世界を解釈しているのであり、真理は幻想に過ぎないと主張する。フッサールは、人間は、超越論的主観(先験的主観・思考形式)で、対象から一定の意味を取り出していると主張しているが、ニーチェは、人間は、観点・視点の取り方に応じて、対象が異なって認識されると主張しているのである。現代哲学は、ニーチェに軍配を上げている。さて、人間は、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象を対象として捉え、対象から真理を掴み出すことによって安心する動物である。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。人間は、自我で、他者・物・事柄という対象を支配して、初めて、安心できる動物なのである。それが、対象の対自化という作用である。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に集約されているのである。さて、近代以前のヨーロッパ諸国の人々が、天体運行の基本真理として、太陽が地球の周囲を周期的に回ると考えたのは、それが、キリスト教の教義に合致し、毎日の生活で覚える感覚と合致したために、安心できたからである。しかし、近代になると、ヨーロッパ諸国の人々は、地球が太陽の周囲を周期的に回ると考えるようになった。それは、科学的な思考を導入したからである。科学の真理が、終局的には、人間に幸福をもたらすと考えたから、それを受け入れたのである。科学的な思考に、絶対的な信頼感を置くことによって、安心感を得られるので、そのように信じているのである。このように、近代以前と近代以後において、ヨーロッパ諸国の人々は、天体の基本真理としての、地球と太陽の運行の関係について、全く逆の思考をしている。コペルニクス的転回である。しかし、現代人は、それは矛盾している、問題があるなどと非難できることではない。なぜならば、現代人も、また、現象から掴み出した真理に安心感が抱ければ、それを真理とするからである。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する(③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。)である。人間は、無意識のうちに、自分の望む真理を求めていて、それに合致すれば、安心感を得て、それを真理とするのである。また、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」とも主張する。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされているだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、誤謬・仮象を捨象して、真理も求めても、そこには、真理は現れないという真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う「超人」である。「超人」とは、これまでの人間である「最後の人間」を否定した人間である。「最後の人間」とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。それに対して、「超人」とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間である。だから、ニーチェは、「神は死んだ」と言うのである。「超人」とは、誤謬・仮象を捨象して真理も求めてもそこには真理は存在しないという「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している「最後の人間たち」の誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、「超人」とは、自ら、この世で、敢えて、現世を肯定して生きるための誤謬・仮象を真理として打ち立てる人である。しかし、「超人」は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。カントも、また、人間は、物自体を捉えることはできないと主張する。カントは、「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と述べている。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の観点・視点という、特定の方向性からでしか、物を認識できないから、物自体は認識できない。ニーチェも言うように、視点・観点が変われば、同じ物も、別様に見えてくる。しかし、人間は、特定の方向性(観点・視点)を持って、物を見るしかない。人間は、方向性(観点・視点)を持たずに、物を見ることができない。物を捉えるためには、特定の方向性(観点・視点)を持って物を見ることが、必須条件なのである。それは、否定できない。それを否定すれば、人間そのものを否定することになる。しかも、物自体を捉えた人は、カントを含めて、誰も存在していないのである。それは、物自体も、カントの方向性(観点・視点)から想定されたものだからである。言わば、物自体は、ニーチェの言う「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。つまり、「現象を否定して、物自体も求めても、そこには、物自体は存在しない」という真理である。さて、吉本隆明は、「人間はわがままに生まれてきながら、協調しなくては生きていけないことに、人間の不幸がある。」と言った。これが、吉本隆明の人間に対する方向性(観点・視点)である。これは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。)である。だから、現代人は、どれだけ、協調性を発揮して生きたとしても、ストレスから逃げることはできないのである。また、バタイユは、「人間は、愛し合っている二人でも、セックスの際には、男性には強姦と同じ欲望があり、女性には、売春と同じ欲望がある。」と言った。これが、バタイユの男女関係に対する方向性(観点・視点)である。これも、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。)に合致するのである。愛とは、相手の愛情を征服する欲望なのである。また、ヘーゲルは、「主人と奴隷の関係において、主人は、奴隷に生活を依存しているが、奴隷は、労働によって、自然を知り、自己を形成することができる。」と言った。これが、ヘーゲルの主従関係に対する方向性(観点・視点)である。しかし、果たして、ヘーゲルの言うように、会社や店などにおいて、恵まれない境遇・嫌な上司・嫌みな先輩や同僚の中で、それが自分の人間形成に役に立つと思えるかどうかが問題である。マルクスは、ヘーゲルの言うような観念的な自立は意味を為さず、労働者(奴隷)は現実に自立するために、団結して、資本家(主人)と戦うこと、つまり、革命を起こすことを勧めたのである。そして、目指す社会は、主人(資本家)と奴隷(労働者)の無い社会、つまり、公平・平等な社会である。しかし、吉本興業のようなブラック企業は、労働組合が無く、芸人がそれぞれ孤立させられているから、書面契約をせずに、主人側(経営者側)は、自らの都合の良いように、芸人を処理するのである。つまり、芸人は、操られているのである。また、ハイデッガーは、「死の覚悟を持たない限り、自分の生き方を変えることはできない。」(ハイデッガーの実存主義)と言った。これが、ハイデッガーの人間に対する方向性(観点・視点)である。確かに、死の覚悟を持つことで自分の生き方を変えられる人は幸いである。しかし、本当に死の覚悟を持ったら、多くの人はそのまま自殺してしまうのではないだろうか。また、苦悩したら、死の覚悟を持つ前に、深層心理が自らを精神疾患に陥らせて、苦悩から逃れ・忘れようとするのではないだろうか。そして、ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言った。「人は自己の欲望を対象に投影する」が対象の対自化ならば、「人は他者の欲望を欲望する」は自我の対他化である。これが、ラカンの人間に対する方向性(観点・視点)である。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そのような人間であるから、他者の評価によって、簡単に崩れるのである。このように、人間は、対象の対自化、自我の対他化、そして、自我と他者の共感化(自我と他者が愛し合う・協力し合う・信頼し合う)の三作用によって生きている。
言わば、支配、被支配、非支配関係の葛藤の中で生きているのである。