あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は欲望へと呪われている。(自我その303)

2020-01-20 21:03:17 | 思想
サルトルは「人間は自由へと呪われている。」と言う。人間は、全てのことにおいて、自ら思考して、自由に決断できる。そして、その行動の結果を自らの存在において責任を取らなければいけない。人間は、誰一人として、この運命から逃れることはできない。これがサルトルの言葉の意味である。また、サルトルは、「実存は本質に先立つ。」とも言っている。実存とは、自分自身で、主体的に考えて行動する生き方である。本質とは、人間の本質として定まっている行動や生き方である。つまり、サルトルは、人間には、定まっている行動の仕方や生き方は存在せず、自分で考えて、行動しなければいけない、そして、その責任を取らなければいけないと言っているのである。これがサルトルの考え方・生き方であり、実存主義という思想でもある。さらに、サルトルは、「神が存在していようと存在していまいと、私には、関係がない。」とも言っている。サルトルは、自分の行動は自分が決めることであり、自分は、神を恐れることもなく、神を頼ることもしないと言っているのである。これが無神論的実存主義という思想である。サルトルの覚悟は潔い。また、死ぬまで、自分の言葉の通り、考え、行動した。また、ノーベル文学賞に選出されたが、「作家は自らを既成の制度にあてはめることを拒絶しなければならない。」と言って、受賞を拒否した。サルトルは、フランス人でありながら、アルジェリアのフランスからの独立闘争を支持した。フランス人の自我に捕らわれず、自らの言葉の通り、自由に行動した。晩年は不遇だったが、それでも、葬儀には、5万人を越える市民が追悼をするために集まった。サルトルは、全てにおいて、自我にとらわれなかった。だから、自らはフランス人であるという自我にとらわれることなく、アルジェリアを支持したのである。サルトルは、無意識の存在、すなわち、深層心理の思考を認めなかった。すなわち、人間は、最初に、無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それを受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、その思考の結果が意志となるという考えをサルトルは認めなかった。言わば、サルトルにとって、人間の意識しての思考、すなわち、表層心理での思考、そして、その思考の結果としての意志、決断が全てであった。しかし、人間には、無意識の思考、深層心理が存在するのである。一般に、言われている無意識という消極的な存在ではなく、深層心理は、常に活動し、積極的に思考しているのである。人間は、まず、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理とは、人間の無意識のうちの思考である。無意識と言われることが多い。一般に言われる思考は、意識しての思考であるから、それは、表層心理である。気分とは長期的な心理状態である。感情とは瞬間的な心理状態である。深層心理は、常に、ある気分の中にあり、その気分は、瞬間的な感情によってもしくは時間的な経過の中で、変化する。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きているあり方である。構造体と自我には、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という大衆・庶民)などという自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民などという自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民などという自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民などという自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようという欲望である。だから、深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようとして、思考するのである。そのたけ、深層心理には、良心も悪心も存在しない。道徳観や社会的な規約も存在しない。ひたすら、快楽を求め、不快を避けようと思考する。だから、もしも、人間が、正直に、自らの欲望の全てを話してしまえば、どのように親密な人間関係でも壊れてしまうだろう。ラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、快感原則に基づいて、言語を使って論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合がある。前者が、無意識による行動である。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。さて、このように、人間は、いつ、いかなる時でも、ある気分を持して、構造体の中で、自我として生きている。人間は、常に、まず、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、人間は、意識する意識しないにかかわらず、無意識のうちに、深層心理が、常に、快楽を求め不快を避けて生きようとしているのである。さて、それでは、深層心理は、どのようにして、快感原則を満たそうとしているか。それには、自我の対他化、対象(他者・物・事柄)の対自化、自我と他者の共感化という三種の方法がある。この三種の方法は同時に用いられることなく、深層心理は、常に、いずれかの一方法を用いて、快楽を得ようとしている。第一の方法である自我の対他化は、深層心理は、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。中学生や高校生が勉強するのは、テストで良い成績を取り、教師や同級生や親から褒められたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の方法である対象の対自化は、深層心理は、他者や物や事柄という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で命令して動かすこと、物という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用すること、事柄という対象をの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉え、理解し、支配下に置くことである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間が神を創造したのも、対象の対自化から起こっている。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。対象の対自化は、「人は自我の欲望を対象に投影する」(①人間は、自我の思いを他者に抱かせようとする。②人間は、自我の志向性や趣向性で他者を支配しようとする。③人間は、自我の志向性や趣向性で物を利用しようと考える。④人間は、自我の志向性や趣向性で事柄を捉えようとする。⑤人間は、実際には存在しないものを、自我の欲望によって創造する。)という言葉に集約されているが、人間による神の創造は、この⑤に当てはまるのである。第三の方法である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、言い換えると、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。しかし、深層心理の敏感な政治権力者ほど、自分の考えに従わない大衆を激しく弾圧するのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。高校や会社が嫌でも行ってしまうのは、高校生や会社員という自我を失うのが恐いからである。このように、人間は、まず、深層心理が、ある気分の中で、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、自我の対他化、他者・物・事柄という対象の対他化、自我と他者の共感化のいずれかの志向性や趣向性を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を行動させようとする。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。先に述べたように、深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合がある。前者が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。さて、サルトルの言う、自分自身で主体的に考えて行動する生き方である実存主義の思想は、深層心理の対象の対自化の方法なのである。それは、ニーチェの「権力への意志」の思考でもある。しかし、サルトルは、無意識の思考、すなわち、深層心理の思考を認めなかった。サルトルは、人間は、最初に、深層心理が、快感原則に基づいて、言語を使って論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、後に、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合があることに思い至らなかった。なぜならば、サルトルには、深層心理と表層心理の葛藤がなかったからである。サルトルは、自分の思うままに行動したのである。もちろん、それが深層心理の欲望の行動だとは考えなかった。サルトルは、マルクス主義に傾倒した。なぜならば、サルトルは、自ら主体的に考え行動すると言ったが、自分の思考だけでは、主体の方向性が見いだされなかったからである。だ。マルクス主義に歴史の必然的な動きを感じ取り、自らの思考の方向性を見いだそうとしたのである。そこに、サルトルの実存主義の限界があった。レヴィ=ストロースは、南米の未開と言われているさまざまな閉じた民族と暮らすことによって、歴史の変遷はなく、同じことを繰り返しながら生きる穏やかな生き方を知った。それが、構造主義である。そして、サルトルの主体的な思考や歴史の必然的な動きの尊重を、先進国に生きる人々の自己中心的な考え方だと批判した。そこから、サルトルの社会的な影響力の急速に弱まった。しかし、サルトルは、最期まで、意志の人、戦う人であった。他者と対し、見られる存在としての自我の他者化の弱みを感じた時、その他者を見るという対自化することによって、勝利しようとした。おそらく、現代において、サルトルに師事して、その思想をそのまます実行する人は皆無であろう。しかし、サルトルの有言実行の真摯な生き方は尊敬に値すると思う。しかし、サルトルは、「人間は自由へと呪われている。」と言うが、真実は、「人間は深層心理の欲望へと呪われている。」である。サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言うが、真実は、「深層心理の思考が、人間の表層心理での思考である実存や人間の表層心理での結論である本質よりも先立つ。」のである。