あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

誰が生きているのか。自分のものではない自分がそこにいる。(自我その297)

2020-01-12 19:01:04 | 思想
誰が生きているのか。人間は、自分は生きていると言えるのか。人間は、自分の存在をどのようにして確認できるのか。デカルトは、「我思う。故に、我あり。」と言い、全てのものの存在を疑うことができるのは自分が存在しているからだという論理を展開し、自分の存在を確証した。しかし、そのような論理を展開しなくても、人間は誰しも腕を上げようと思えばすぐに腕を上げることができ、目をつぶろうと思えばすぐに目をつぶることができるから、十分に自分の存在を確認できる。しかし、人間は、最も自分が生きていると思える時は、感動した時、苦悩している時である。感動した時、多くの人は、「生まれてきて良かった。」と思うのである。苦悩している時、多くの人は、その状態から逃れたいのになかなか逃れることができないので、自分の存在を否応なく確認させられることになるのである。東日本大震災の被災者の多くが、「今回の地震で、生きるということは、生かされていることなのだということをつくづくと思い知らされました。」と語っている。阪神・淡路大震災の際にも、被災者は、同じように語っていた。この言葉には、嘘偽りはない。愛する人、親しい人を喪い、途方に暮れ、自分の存在の不安を実感し、絶望の淵をさまよっていた時に、国内の人ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、自分の存在が認められていることを嬉しく思い、生きる希望を取り戻したのである。愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、国内ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、初めて、愛する人、親しい人に支えられて、自分がこれまで存在していたことを実感しつつ、これからも生きていくことができることを嬉しく思い、生きる希望を取り戻したのである。しかし、人間は、他者に支えられて生きているばかりで無く、時には、他者によって、体や心が傷つけられる時がある。稀れには、殺されることがあるのも事実である。そして、体や心が傷つけ、稀れには殺す他者に、愛する人、親しい人がなることもあるのも事実である。皮肉なことに、人間は、心や体が傷付けられると、その痛みによって自らの存在が実感させられる。殺されるということは存在しているからこそ、その被害に遭うことを意味している。デカルトは、机上の論理(机上の空論とは言わない)で、自らの存在を実感したが、そのような論理を使わなくても、人間は、日々、自らが存在していることを実感しているのである。実感させられているという状態で実感しているのである。自分の体や心を本質的には動かすことはできないということを実感させられることで、自分の存在を実感しているのである。なぜ、実感させられることで、自分の存在を実感しているのか。それは、本質的に、人間の体を動かしているのは深層肉体であり、人間の心を動かしているのは深層心理だからである。深層肉体とは、人間が自ら意志せず意識しなくても動いている肉体であり、深層心理とは人間が自ら意志せず意識しなくても思考している心である。しかしながら、ほとんどの人間は、意識して体を動かすことができ、意識して我慢したり、意志通りに行動したりすることができることがあるので、深層肉体や深層心理の存在に気付いていないのである。さて、人間の意識した体の動きを表層肉体と言う。人間の意識や意志を表層心理と言う。確かに、人間は、意識して、手を挙げたり、足を組んだりすることができる。それは、人間が、表層心理で表層肉体を動かしているのである。また、人間は、意識して思考し、数学の問題を解いたり、我慢して、意志によって登校したり出勤したりする。それは、人間が、表層心理で、思考しているのである。しかし、表層肉体や表層心理のできる範囲は僅かなのである。たとえば、健康や美容のためにダイエットやエクササイズなどをして痩せようと努力をしている人が多いのは、言うまでもなく、表層心理で、痩せることを意識し、痩せようと意志しても、体は痩せないからである。人間は、表層心理で、意識し、意志するだけでは、深層肉体は動かないのである。また、人間は、眠ろうと意志してすぐには眠れず、起きていようと意志しても、いつか眠ってしまっていることが多いのである。これも、また、人間は、表層心理で、意識し、意志するだけでは、深層肉体は動かないことを示している。つまり、人間は、表層心理で意識して、意志して動かすことができる表層肉体の範囲は狭いのである。また、人間は、美しいものを見て、思わず感動するのであり、表層心理で、意識して、意志によって感動することはできない。これは、感動は、深層心理の範疇にあることを示しているのである。人間は、親しい人が亡くなると、悲しくなり、思わず涙するのであり、表層心理で、意識して、意志によって感動することはできない。これは、悲しみも、深層心理の範疇にあることを示しているのである。人間は、他者から悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのであり、表層心理で、意識して、意志によって傷心することはできない。これは、傷心も、深層心理の範疇にあることを示しているのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、意志で、感情を生み出すことはできず、全ての感情は、深層心理の範疇にあるのである。つまり、人間は、表層心理や表層肉体とは別に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。いている。だから、人間は、何も考えず、何もしていないように見える時があっても、それは、表層心理や表層肉体が動いていないだけで、いついかなる時でも、常に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。さて、深層肉体は、ひたすら生きようという意志を持って、活動しているのである。深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようと思考して、活動しているのである。だから、人間は、自ら意識して生きようと意志しなくても、生きていくことができ、自ら意識して快楽を求めようと意志しなくても、快楽を求めて生きていくことができるのである。しかし、深層肉体のひたすら生きようという意志も深層心理の快楽を求め不快を避けて生きようという思考も、人間は、表層心理で、自らが意識して、意志して生み出したものではないので、表層心理で、自らが意識して意志して消そうとしても、消すことはできないのである。それは、深層肉体そのもの、深層心理そのものに、生来、備わっている意志、思考であるからである。もしも、これらの意志、思考が、人間が自ら意識して意志して生み出しているならば、表層心理による意識、思考となる。しかし、深層肉体のひたすら生きようという意志と深層心理の快楽を求め不快を避けて生きようという思考は、全ての人間に生来備わっているものなのである。さて、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という一節があるが、人間は、聖書に記されているような高尚には生まれていない。パンを求めてひたすら生きようとしているのが深層肉体であり、パンを食べる時にも快楽を求め、パン以外のものにも快楽を求めているのが深層心理である。それでも、パン以外の物をも求めて、高尚な生き方を求めようとするのは、ラカンの言う「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という現象である。すなわち、周囲の人が高尚な生き方を求めているから、自分も、いつの間にか、深層心理で高尚な生き方を求めるようになったのである。さて、深層肉体のあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。しかし、深層心理のあり方は複雑である。しかも、表層心理と深く関わっているのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である、自我とは、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きているあり方である。構造体、自我には、さまざまなものがある。具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・男児・女児などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。深層心理は、人間が自我を持った時から、自我の欲望を生み出してくる。男児の母親に対する近親相姦的な愛情は、単なる性欲という欲求ではなく、男児が、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理が生み出した自我の欲望のである。深層心理とは、人間の無意識の思考の働きである。一般的には、思考は、人間が、表層心理で、意識して行うことを指しているが、実際に、人間が生活する上では、人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理とは、人間の無意識の心の思考である。深層心理も、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、深層心理の思考を説明しているのである。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出し行動の採否を思考し、その結果を、意志として行動に現すのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会的な価値観を有さず、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。さて、深層心理は、次の三種類の機能を使って、快感原則を満たそうとする。第一の機能として、深層心理は、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとする。それが、自我の対他化という機能である。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることができれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の機能として、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。それが、対象の対自化を言い換えると、他者の対自化とは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。わがままな行動も、深層心理の他者を対自化することによって起こる行動である。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉えることである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用しようと考える。人間は、事柄を、自分の志向性や趣向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。第三の機能として、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。それが、自我と他者の共感化である。自我と他者の共感化を言い換えると、理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の機能である。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、人間は、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとしている。人間は、自ら意識していないうちに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、次に、表層心理が、深層心理の結果を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則とは、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。さて、人間は、誰しも、自由に生きたいと思っている。すなわち、深層心理が、快感原則によって、生み出した行動の指令のままに行動したいと思っている。しかし、自我に力が無いと思うので、他者の非難を浴びるのが恐いので、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧せざるを得ないのである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような弱い自我から脱却し、強い自我へと、自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望である。それでは、強い自我はどのように求められるか。それは、政治家、金満家、著名人となることである。まさしく、権力者である。そうすれば、他者は、自我を認めてくれ、自我の欲望を追求しやすいのである。吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないのである。しかし、権力者になれば、他者や対象物や対象事の対自化をすることが、認められ、思い切り楽しめるのである。だから、誰しも、権力者になろうとするのである。そして、わがままを通そうとするのである。だから、確かに、自我に力の無いことは、個人としては不幸かも知れないが、他者や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、人間は、自我に力を得て、深層心理の対自化による自我の欲望を全て認められれば、自己の欲望のために、他者の命さえ、軽視するからである。深層心理の対自化による自我の欲望は、放置すれば、果てしなく広がるのである。だから、権力者に対して、警戒を怠ってはならないのである。しかし、大衆は、往々にして、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)ようになり、自らの志向性や趣向性で、権力者を過大評価志、期待するのである。そして、権力者に利用されて、国という構造体が破滅の道を歩むのである。さて、自殺は、最も惨めな最期である。自殺とは、深層肉体の意志に反した行いである。だから、自殺は、深層肉体が意志したことではない。また、人間の表層心理の思考は、自己の現実的な欲望を満たすという現実原則に基づき、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて思考し、独立して思考しないから、自殺の欲望は、表層心理で生み出したものではない。自殺とは、深層心理が、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づいて、生み出した自我の欲望である。深層心理が、自我が生きている間は、快楽から最も離れた苦痛という精神状態から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。それを受けて、人間は、表層心理で、現実的な利益を追求するという現実原則に基づいて思考したのだが、たとえ、自殺を抑圧するような結論に達したとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでしまったのである。また、深層心理が生み出した自殺という自我の欲望が強過ぎるので、人間は、表層心理で、思考する心の余裕が無く、言わば、深層心理の生み出した行動の指令のままに、無意識の自殺の道に突き進んだとも考えられる。しかし、深層肉体は、人間が、自殺に突き進んでも、生きる意志を捨てることは無いのである。だから、どのような自殺行為も、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされようとしているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまうはずである。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞という異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。このように、人間は、ほとんどの場合、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、表層肉体を動かしているのではなく、深層肉体が、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の意志なのである。人間が、表層心理で、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、挙手する、速く走ろうとする、体操するなど、日常生活の中でも一部の活動である。そして、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志よって、肉体そのものを創造することはできない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは深層肉体の細胞分裂による増殖、すなわち、肉体自身の働きでしかないのである。確かに、我々は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、それは、先に挙げた例でもわかるように、深呼吸する、挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、表層心理による、意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、意識しての行動、つまり、表層肉体は同じことを長く続けていられないから、途中で足がもつれ、うまく歩けなくなるだろう。万が一、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、為されているのではなく、深層肉体が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、深層肉体によって、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。だから、亡くなった翌日も、死体の髪の毛も爪も伸びることがあるのである。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。それほど、深層肉体の生きようとする意志は強いのである。さて、人間は、指を少し切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。更に、深層肉体は、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。深層心理は、習慣的なことは、自ら、思考し、処理し、それは無意識の行動にとどまるが、異常事態の時は、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望について、思考し、その結果が、行動となるのである。人間は、指を切っただけでも、痛みがあれば、異常事態だから、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令を受けて、思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、肉体を、すなわち、人間の生命を長らえさせようとしているのである。さて、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動であるが、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって始まるのである。深層心理が、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づく思考の活動は、自我を主体に立てての思考なのでる。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立て、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。
このように、人間は、何もしていないように見えるでも、無意識のうちに、常に、深層肉体と深層心理は動いているのである。