あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、何を求めて生きているのか。(自我その295)

2020-01-09 21:19:04 | 思想
人間は、何を求めて生きているのか。それは、人によってさまざまであるだろう。しかし、自由と主体的な思考・生き方はを求めていることにおいては共通してるように思われる。なぜならば、無意識にしろ、意識的にしろ、人間は、皆、自由に憧れ、主体的な思考をすること・主体的に生きることを理想としているからである。だから、人間が、自由を求めて命を賭けて戦い、主体的な思考をしていない・主体的に生きていないと言われると深く傷付くのである。自由とは、辞書によれば、「他の者から強制や命令を受けることが無く、自分の思い通りにできること。」という意味である。また、人間は、皆、主体的とは、辞書によれば、「他の者によって、導かれるのでは無く、自己の純粋な立場において行うさま。」という意味である。いずれも、他者の束縛が存在しないことが条件なのである。つまり、辞書によれば、人間は、他者に束縛されなければ、自由と主体的な思考・主体的に生き方への道が開かれるということになる。しかし、事は、容易ではない。なぜならば、人間は、自分や自己として生きるのではなく、自我として生きるからである。自分や自己は、単に、自らが想定した存在であり、そこには、他者の存在は、度外視されているか、影響を与える力が過小評価されている。人間は、自我として、他者の影響を受けながら、他者に影響を与えながら生きているのである。だから、辞書の言うように、自由は「他の者から強制や命令を受けることが無く、自分の思い通りにできること。」という意味であり、主体的は「他の者によって、導かれるのでは無く、自己の純粋な立場において行うさま。」という意味であるならば、人間には、自由も主体的な思考・生き方も存在しないことになる。さて、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分や自己の姿なのである。自分や自己が、自我と具体化し、人間は、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。構造体と自我の関係は、次のようなものである。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、構造体の中で、自我になり、自由は奪われ、主体的な思考・主体的な生き方は失われてしまうのである。しかし、それは、他者の強力な妨害にあったからでは無い。他者の妨害があろうと無かろうと、人間は、自我を得た時点で、自由は奪われ、主体的な思考・主体的な生き方は失ってしまうのである。なぜならば、人間は、自我を得た時点で、自我の欲望に動かされて生きることになるからである。自我は、深層心理という無意識の思考が生み出した欲望によって、まず、動き出そうとするのである。人間の自ら意識して行う表層心理の思考は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて思考するから、自我を動かす起点は深層心理にあるのである。もしも、人間が自我に捕らわれず、深層心理が思考する以前に、自ら意識して表層心理で思考して行動する存在者ならば、人間に、自由と主体的な思考・主体的に生き方は存在すると言えるだろう。しかし、真実はそうではないのである。しかし、人間は、誰しも、自ら、自由に生き、主体的な思考・主体的に生き方ができると思っている。人間は、誰しも、思考し、判断し、行動しなければいけない時、自分が主体となり、自由にそれができると思っている。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動できると思っている。自分が自由に行動できず、主体的な思考・生き方ができない時があるとすれば、強力な他者の妨害にあった時だと思っている。それは、まさしく、「人は自己の欲望を他のものに投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自らの欲望によって、存在しているように見てしまう。)からである。人間は、神が存在して欲しいから、神が存在しているように思ってしまったように、自分が自由に行動でき、主体的な思考・生き方ができると思いたいから、自分が自由に行動でき、主体的な思考・生き方ができると思い込んでしまったのである。人間は、常に、ある気分を持して、ある構造体の中で、ある自我を有し、自我を主体に立てて、他者と関わりながら暮らしている。その自我を動かすものは、人間の無意識の思考である深層心理である。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考活動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、人間は、深層心理が、ある気分を持して、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、それは、第一に他者に認められたい、第二に他者や物や事柄という対象を支配したい、第三に他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類の欲望を満足させることによって得ようとする。まず、第一の欲望であるが、深層心理は、他者に認められたいという欲望を持っているから、常に、自我を対他化して、他者の視線を追っている。換言すれば、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、自我を対他化する。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。それは、深層心理が行っているからである。だから、誰しもに起こることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。自我の対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自分の身を他者の評価にさらそうとすることである。次に、第二の欲望であるが、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っているから、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとする。人間が、皆、自由に憧れ、主体的な思考をすること・主体的に生きることを理想としているのも、深層心理の対象を対自化しようという欲望からである。つまり、対象の対自化とは、自らの視線で捉えるということなのである。特に、他者という対象の対自化は、他者がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、他者の欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。この行為も、「人は自己の欲望を他のものに投影する」ということなのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考え、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別し、前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。つまり、他者を見るという姿勢、つまり、他者を対自化するとは、自分中心の姿勢、自分主体の姿勢なのである。最後に、第三の欲望であるが、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。恋人や夫婦が愛し合うのは、自我と他者の共感化の端的な例である。自我と他者の共感化とは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、協力するという現象にも、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という現象も、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、しかし、相手の言う通りにもならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに、自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞くことなのである。そして、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象である。しかし、試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。このように、人間は、無意識のうちに、深層心理が、ある気分を持して、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、意識して、思考を開始するのである。それが、広義での、理性である。このように、人間は、ある気分を持して、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動するのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が、狭義での、理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。ストーカーが発生するのは、相手から別れを告げられ、カップルという構造が消滅し、恋人という自我を失うことの苦痛からである。このように、人間は、深層心理が、ある気分を有しながら、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとしている。そして、人間は、深層心理の生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか審議するのである。受け入れる結論に達せば、意志として行動し、拒否する結論に達せば、行動の指令を抑圧することになる、しかし、感情が強ければ、その抑圧は、功を為さず、行動の指令のままに行動する。しかも、ルーティーン通りの行動が多いのだが、表層心理で意識せずして、深層心理の行動の指令のままに行動することもかなり多い。このような深層心理と表層心理の関係を知れば、人間は、自由と主体的な思考・生き方を求める姿勢は、危うい位置の上に立っていることが理解される。しかし、深層心理が絶対的に優位な立場であろうと、人間は、表層心理で、自由と主体的な思考・生き方を追究しなければならないのである。そうしないと、人間は、深層心理による、一現象にしか過ぎなくなるからである。