あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

受験生の不安について(自我その291)

2020-01-02 20:58:17 | 思想
人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、社会生活を営んでいる。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自分や自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分や自己の姿なのである。人間は、単に他者と区別した存在である自分や自己が、構造体の中で、自我という具体的な形を取ることによって、存在感を覚え、行動できるのである。受験生も自我である。受験には、小学校受験、中学校受験、高校受験、大学受験とあるが、ここでは、ほとんどの中学三年生が受験をする高校受験について取り上げてみようと思う。言うまでも無く、中学三年生は、中学校という構造体に所属している。しかし、中学一年生も中学二年生も、同じように、中学校という構造体に所属している。しかし、彼らは、自動的に進級していくが、中学三年生だけは、受験という壁を突破しなければ、次年度、高校という構造体に所属できない。ほとんどの中学三年生は、中学三年生という自我と受験生という自我を併せ持っているから、不安な日々を送っているのである。高校受験の日が近づくと、いっそう不安になるのは、誰しも経験していることである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を得て、活動しているが、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動している。中学三年生も、クラブ活動の時間帯には、クラブという構造体に所属し、部員という自我を得て活動し、家庭にいる時間帯には、家族という構造体に所属し、息子や娘などの自我を得て活動している。しかし、たいていの中学三年生は、クラブという構造体で部員という自我で活動している時も、家族という構造体で息子や娘などの自我で活動している時も、常にもしくは時として、受験生という自我を有していることを意識する。それほどまでに、高校受験は不安なことなのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自分や自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体に立ててて暮らしているのであるが、最初に、自我を主体に立て、自我を動かそうとするのは、深層心理である。深層心理とは、人間自らは意識していないが、心の中で行われている思考活動である。だから、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれているのである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。自我の欲望が、自我の活動の起点になるのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。しかし、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望の通りに行動するとは限らない。なぜならば、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動するか、それを抑圧するかを審議する場合があるからである。つまり、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、自我を主体にして、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを思考する場合があるのである。その結果が、意志としての行動となるのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、深層心理の瞬間的な思考と異なり、長期的な展望に立っている。表層心理でのこの思考活動が、広義での、理性である。しかし、人間は、表層心理で思考を開始するのは、常に、深層心理の思考の結果を受けてのことなのである。表層心理で独自に思考を開始することはないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が、狭義での、理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、一般に、人間は、自らは思考している時は、常に、意識していると思っている。つまり、表層心理での思考しか存在しないと思っている。しかし、深層心理も思考するのである。しかも、表層心理の思考以前に、思考するのである。人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理での思考を開始するののである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。さて、快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、どのような状態であれば、快楽を味わうことができるのか。その状態は三つある。まず、一つ目の状態であるが、それは、自我が他者に認められている状態である。だから、深層心理は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、他者に認められたいという欲望を持って、他者が自我をどのように思っているかを探ろうとする。これが、自我を対他化することであり、自我の対他化である。このような人間のあり方を、対他存在と言う。つまり、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、深層心理が、その人から自我に対して好評価・高評価を得たいという思いで、その人の思いを探るのである。深層心理は、期待通りに、その人から自我に対して好評価・高評価を得ていると思うことができれば、喜びという快楽という感情を得ることができるのである。しかし、深層心理は、期待に反して、その人が自我に対して悪評価・低評価を与えていると思うと、傷心や怒りの感情を覚え、自我に対して逃げ出せや復讐せよなどの行動の指令を出すのである。中学三年生の受験生という自我の不安は、高校受験に失敗して、自分が所属している学校や家族や近所や親戚や仲間などの構造の人々から、悪評価・低評価を与えられることの不安である。しかし、ほとんどの中学三年生は、受験生という自我を捨てようとがしない。高校受験を回避しようとはしない。それは、ラカンの言う「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は他者の評価を勝ち取ろうとしている。人間は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人間は他者の期待に応えたいと思う。)だからである。ラカンのこの言葉は、自我の対他化の現象を説明しているが、中学三年生の受験生という自我の対他化の現象をも説明している。中学三年生は、他の同級生が、高校受験するから、自らも受験するのである。中学三年生は、中学校という構造体の教師や家族という構造体の親が勧めるから、受験して、高校に進もうと思うのである。次に、二つ目の状態であるが、それは、自我で他者や物や事柄という対象を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配しているという状態である。だから、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っていて、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとしている。つまり、対象の対自化とは、自我の力を力を対象に遺憾なく発揮することなのである。まさしく、ニーチェの言う「権力への意志」である。特に、他者という対象の対自化は、他者の欲望を排して、自らの欲望を他者に刻印することなのである。それが、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の前文の内容の状態である。中学三年生の受験生としての自我の欲望は、他の受験生という他者の欲望を排して、自らが合格することによって、自我の力を他者に刻印することなのである。しかし、逆に、自分が不合格になれば、合格者という他者の力を自我に刻印されるから、それを恐れて、不安になるのである。最後に、三つ目の状態であるが、それは、自我と他者と理解し合っている・愛し合っている・協力し合っている状態である。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。自我と他者の共感化とは、常に他者の評価に身を投げ出す自我の対他化でもなく、常に対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配するという対自化でもない。自我の対他化と他者への対自化を交互に行い、喜びを分かち合う現象である。また、「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という現象も、自我と他者の共感化によって起こる。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化しようとして、争っている状態である。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。しかし、受験生という自我を持っている中学三年生にとって、自我と他者の共感化はあり得ない現象である。同級生が、全て、高校受験を争う他者だからである。言わば、同級生が、全て、敵なのである。しかし、教師たちは、受験生という自我を持っている中学三年生に、共通の敵として受験が存在しているのだと思わせることによって、中学三年生の分断、中学三年生同士の敵視を阻止しようとするのである。言わば、共通の敵として受験が存在していると思わせることによって、中学三年生を「呉越同舟」化させているのである。そして、その作戦は、成功しているかのような様相を見せている。なぜならば、中学三年生も、また、同級生を敵として見ていると思われたくないから、そのように見せているからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の後文の内容の状態である。