あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされている。(自我その310)

2020-01-29 20:41:47 | 思想
人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされているのである。自我とは、構造体の中でのポジションである。人間は、構造体の中で、ポジションでが与えられ、それを自己のあり方として行動するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った現実の自分の姿なのである。自己が自我となって、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、他の動物と同じく、世界内存在の生物であるが、人間だけが、実際に生活する際には、世界が細分化され、構造体となるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるのである。世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるから、人間は、構造体の中で、ポジション(役目、ステータス)という自我に応じた行動ができるのである。さて、人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持つが、構造体と自我の関係については、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、深層心理なのである。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず最初に、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、深層心理の思考の結果である自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の採否について思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。もしも、人間が、自我に捕らわれず、最初から、自分で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、主体的なあり方をしていて、主体性を持していると言えるだろう。しかし、人間は、本質的に、主体的なあり方をしず、主体性を持していないのである。なぜならば、人間は、深層心理の思考の結果である自我の欲望を受けて、表層心理で、思考を開始するからである。さて、深層心理が、思考の原理としている快感原則とは、快楽を求める欲望である。それは、フロイトの用語である。ひたすら、快感原則とは、その時その場での快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。理性とも呼ばれている。現実原則も、フロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立ち、深層心理の瞬間的な思考とは対照を成している。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われ、表層心理が独自に動くことはないのである。さて、先に述べてように、人間は、まず最初に、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求める欲望である快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、深層心理は、自我が他者に認められること、自我で対象を支配すること、自我と他者を理解し合うこと・愛し合うこと・協力し合うこという三種類の状態のいずれかを作り出すことによって、快楽を得ようとする。まず、第一の状態であるが、深層心理は、自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出している。これを、自我の対他化と言う。略して、対他化とも言う。自我の対他化とは、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、その人の視線から、自分がその人にどのように思われているかを探ろうとする。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会ったりそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(①人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。②人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。③人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。大学受験者が、有名大学や偏差値の高い大学を狙うのは、合格することによって、他者に自我を認めてもらいたいという欲望があるからである。だから、その大学の内実を知っていないことが多いのである。だから、対他化とは、自我を他者の評価にさらそうとすることなのである。だから、サルトルは、「見られることに価値におくのは、敗者の態度だ。見ることの方が大切なのだ。」と言うのである。言うまでもなく、見られることに価値におくのは対他化であり、見ることに価値をおくのは対自化である。人間の主体的な思考・主体的な行動を主張するサルトルならば、当然の論理である。しかし、深層心理が、自我の対他化を行っているのであり、人間は、表層心理の思考は、深層心理の思考の結果をうけて、動き出すのであり、深層心理の思考そのものを動かすことはできないのである。次に、第二の状態であるが、深層心理は、他者・物・事柄という対象を対自化することによって、対象を支配したいという欲望を生み出している。これを、対象の対自化と言う。略して、対自化とも言う。深層心理が、対象を対自化するのは、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象を対象として捉え、対象から真理を掴み出すことによって安心するからである。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。人間は、自我で、他者・物・事柄という対象を支配して、初めて、安心できる動物なのである。それが、対象の対自化という作用である。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に集約されているのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。日本人が、木を切ってきたのは、木を物して利用しようとしてきたからである。哲学者が、思考するのは、事柄を、自らの志向性で、捉えたいからである。対象という他者の対自化の究極のあり方が、ニーチェの言う「権力への意志」である。最後に、第三の状態であるが、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出している。これを、自我と他者の共感化と言う。略して、共感化とも言う。自我と他者の共感化が、対他化と対自化の相克を留めるのである。共感化とは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、理解し合う・協力し合う・愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という第三者という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻ってい木、対自化し合うのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者がいるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。ストーカーが発生するのは、自我の対他化していた相手を失うことの苦痛でもあるが、相手から別れを告げられ、カップルという構造が消滅し、恋人という自我を失うことの苦痛からでもあるのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体に立てて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。このように、人間の行動の目標や目的は、二つ存在するのである。それは、深層心理の快楽と表層心理での利益を獲得することである。人間は、快楽と利得を獲得する欲望に動かされて生きているのである。快楽と利益は、方向性が異なるように感じられるのは、当然のことである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、人間は、自分の社会的な位置が定まらなければ、深層心理は、欲望は生み出すことはできないのである。自分の社会的な位置が定まるということは、自我を持つということである。人間は、自己のままでは、深層心理から、欲望が生まれてこないのである。人間が自己のままでいるとは、動物のままでいるということである。動物の深層心理が生み出すのは、欲望ではなく、食欲・性欲・睡眠欲などの欲求である。人間は、自己が自我となることによって、自己として生きることができなくなり、その代わりに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、対他化・対自化・共感化という三種類の機能によって、快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。そこにおいて、主体は存在しない。主体は自我のように見えるが、深層心理が、自我を主体に立てて思考しているのであり、自我は思考していないからである。しかし、深層心理は自我を主体に立てて思考しているのであり、深層心理も主体ではない。また、深層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、深層心理が生み出した行動の指令が、人間の表層心理での思考によって、抑圧されることがあるからである。そして、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることもできない。なぜならば、人間の表層心理での思考によって、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合には、行動の指令を抑圧できず、そのまま行動することがあるからである。また、人間には、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、その行動の指令のままに行動するという無意識の行動もある。だから、人間の表層心理が自我と一体化していると考えることは決してできないのである。確かに、人間は、自己によって生きているのではなく、自我によって生かされている。それは、言語持って、社会的に生きている人間の宿命である。しかし、自我が主体的に生きているのではないのである。それは、深層心理が、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、行動させようとするからである。しかし、深層心理も主体ではないのである。確かに、深層心理が、まず最初に、自我を主体に立てて思考し、自我の欲望を生み出すが、次に、それを受けて、人間は、表層心理で、それを審理するからである。しかし、人間の表層心理の思考も主体ではないのである。なぜならば、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、抑圧できないからである。さらに、人間の表層心理で意識されず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するという無意識の行動も存在し、しかも、それが日常生活では非常に多いのである。このように、人間は、人間になるために自己を失い、自我となり、しかも、自我が主体となることはなく、深層心理が最初に自我を主体に立てて思考し、その後、人間の表層心理の介入があり、深層心理の思考と表層心理での思考の葛藤によって、人間の行動が決まって来ることに、人間の存在の難しさがある。つまり、主体の思考をどこにも定められないところに、人間の存在の難しさがあるのである。




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