あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人は同じことを繰り返して生きていく。月日は坦々と過ぎていく。(自我その296)

2020-01-10 21:35:55 | 思想
かつて、新潟県や千葉県で、何年間も監禁されていた少女が助け出されたことがある。マスコミや大衆は、なぜ逃げるチャンスがあったのに逃げ出さなかったのだろうと疑問を呈する。しかし、彼ら自身が、自らを反省してみると良い。一度なりとも、自らの意志で、現在の生活環境や生活のサイクルを変えたことがあっただろうか、と。彼らに限らず、人間は、他者の力で変えさせられることがあっても、自らの力で変えることはほとんど無いのである。ハイデッガーは、「人間は自らを臨死の状態におくことができれば(死の覚悟を持つことができれば)、他者の視線をはねのけ、自ら自身で考え、自らの意志で決断し、自ら一人でも行動できる。」と言った。実存主義である。しかし、太平洋戦争で、臨死の状態にあった、操縦技術の未熟な六千人もの若者が、愚鈍でありながらも出世欲の強い上官たちの命令で、苦悩の果てに、特攻死した。彼らは、臨死の状態にあったのに、上官たちの視線をはねのけることができなかった。死にたくなかったのに、特攻死を拒否できなかった。それは、彼らは、臨死の状態にありながら、自らを臨死の状態におかなかった(死の覚悟を持つことができなかった)からである。太平洋戦争中、一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員だけが、残酷な憲兵や特高の拷問を受けながら、戦争反対を唱え続けた。臨死の状態に身をおき(死の覚悟を持ち)、憲兵や特高の視線、政治権力の視線、マスコミや神主や大衆の視線をはねのけ、自らの意志で決断し、戦争反対を唱え続けた。そして、百人以上が拷問で殺された。特攻死した六千人もの若者や戦争反対を唱え続けて拷問死した一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員に、戦後の明日は無かった。操縦桿を握った時に、逮捕された時に、今日は途絶えた。しかし、若者を特攻死させた上官や戦争反対者を拷問死させた憲兵や特高には、戦中の今日も戦後の明日も存在した。そして、今日生きたように、明日も生きていくことができた。さて、ほとんど戦後生まれの日本人である私たちにも、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。それが、習慣であり、ルーティーンである。それが、ニーチェの言う「永劫回帰」(全ての者は同じことを繰り返す)という思想である。ほとんどの人間は、「永劫回帰」しているのである。すなわち、ほとんどの人間には、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくのである。しかし、人間、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできないのに、明日がやって来ること、明日も生きていくことを信じている。もちろん、人間は、表層心理で、意識して考えて、そのような結論に達したのではない。すなわち、理性の思考から来ているのでは無い。深層心理(無意識)がそのように信じなければ生きていけないから、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それは、そのように思わなければ、生きていけないからである。それは、まさしく、「人は自己の欲望を他のものに投影する」(人間は、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)によって、他者や物や事柄を捉える。人間は、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に応じた他者や物や事柄が実際に存在しなくても、存在しているように思い込む。)という現象である。すなわち、人間は、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証を得られなくても、深層心理(無意識)がそのように信じなければ生きていけないから、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それは。神の創造と同じことである。人間には、神が存在しないと生きていけない人たちがいて、その人たちの深層心理が神を創造したのである。さて、人間は、明日も、今日と同じように、学校、会社、店舗、施設、役所などの構造体に行くだろう。そして、明日も、今日と同じように、家という構造体に帰ってくるだろう。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、学校、会社、店舗、施設、役所、家などの構造体で、自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。高校という構造体には一年生・二年生・三年生・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、家という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。人間の自我の欲望は、表層心理で意識して生み出したものではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、生み出したものなのである。人間は、人間社会において、深層心理が生み出した自我の欲望主体に生きている。男児が母親に恋愛感情を抱くのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。高校生が学校に行くのも嫌がるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。会社員が会社に行くのも嫌がるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。社長が嬉々として会社に出掛けるのも、深層心理が生み出した自我の欲望である。さて、深層心理が生み出す自我の欲望には、他者に認められたい、他者や物や事柄を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという自我の欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという自我の欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。男児の深層心理は自我を母親と共感化させることによって、愛し合いたいという自我の欲望を生み出しているのである。登校を嫌がる高校生の深層心理は自我を他の生徒によって対他化し、自我を他の生徒に認めてもらいたいのに、認めてもらっていないので、学校に行くのを嫌がるという自我の欲望を生み出しているのである。出勤を嫌がる会社員の深層心理は自我を会社内の他者によって対他化し、自我を会社内の他者に認めてもらいたいのに、上司にいつも叱責され認めてもらっていないので、会社に行くのを嫌がるという自我の欲望を生み出しているのである。引きこもりの高校生の深層心理は自我を他の生徒によって対他化し、自我を他の生徒に認めてもらいたいのに、認めてもらうどころかいじめられているので、引きこもるという自我の欲望を生み出しているのである。嬉々として出社する社長の深層心理は社員という他者を対自化し、社員を自分の思いのままに動かしている支配欲に満足しているから、会社に行くという自我の欲望を生み出すのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、男児が母親に対する恋愛感情を抑圧したのは、父親や周囲の人々から、家族という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。高校生が嫌々ながら学校に行くのは、高校という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。会社員が嫌々ながら会社に行くのは、会社という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。このように、人間は、まず、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。しかし、深層心理が出した行動の指令のままに、必ずしも、行動するのではない。表層心理が、深層心理の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令をそのまま行動するか、行動の指令を抑圧するかを思考し、その結果、行動の指令のままに行動することもあり、行動の指令のままに行動しないこともあるのである。しかし、多くの場合、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動するのである。それが、無意識による行動である。社長が、無意識に、会社に出勤するのは、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した満足という感情のなかで、深層心理が生み出した出勤という行動の指令のままに、出勤するからである。それは、考えることもなく当然のことだからである。しかし、人間は、無意識の行動ではなく、稀れには、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識し、行動の指令の採否を考えて、行動することがあるのである。それが理性で思考した行動である。理性と言われる人間の表層心理での思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。高校生が嫌々ながら学校に行くのは、高校という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。会社員が嫌々ながら会社に行くのは、会社という構造体から追放されることを恐れてのことなのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。引きこもりの高校生は、表層心理で、深層心理が出した学校に行かないという行動の指令を抑圧して、学校に行くことに決定しても、深層心理が生み出した苦痛という感情が強過ぎるので、抑圧が功を奏さず、学校に行かないことになるのである。また、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しないことを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。男児の表層心理での思考も、深層心理が生み出した母親に対する恋愛感情の中で、深層心理が生み出した男性として母に接せよという行動の指令採否を意識して思考し、そのように行動したら、自分が父親や周囲の人々から家族という構造体から追放される虞があるから、その行動の指令を抑圧して、恋愛対象として母に接しなかったのである。そして、男児の表層心理での思考は、母親に代えて、母親と同価値を持つ性的対象である代替の女性を見出し、屈辱の感情から脱するのである。高校生は、表層心理で、思考して、深層心理が出した学校に行かないという行動の指令を抑圧して、学校に行くことを決め、実際に、学校に行った場合、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した苦痛の感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。しかし、苦痛の感情が弱ければ、学校へ行けば、楽しいこともあり、その感情は消えていくのである。会社員は、表層心理で、思考して、深層心理が出した会社に行かないという行動の指令を抑圧して、会社に行くことを決め、実際に、会社に行った場合、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した苦痛の感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。会社に行きながら、転業などの代替の行動が思いつき、それを実行できれば、苦痛から逃れることができるのである。しかし、これは、稀れな行動である。なぜならば、一つの会社という構造体から脱退すれば、新しい会社という構造体を創設もしくは所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の創設、所属にも、何の保証も無く、不安だからである。たいていの場合、そして、会社に行っても、代替の行動が思いつかず、苦痛の感情が強まり、鬱病などの精神疾患に陥ることが多く、時には、自殺することがあるのである。このように、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。人間は、自我を持って、初めて、人間となるから、構造体に所属することから免れることはできないのである。だから、ほとんどの人間は、ある構造体で、深層心理が、自我を対他化して、他者から認められたいと思っても、自我が認められず、心が傷付き、苦悩に陥っても、その構造体から脱退できない。なぜならば、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体から脱退すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、ほとんどの人間は、今日も、喜んでにしろ、嫌々ながらにしろ、無意識的にしろ、昨日と同じ構造体に行き、昨日と同じ自我を持ち、昨日と同じようなことをするのである。ほとんどの人間は、明日も、喜んでにしろ、嫌々ながらにしろ、無意識的にしろ、意識的にしろ、今日と同じ構造体に行き、今日と同じ自我を持ち、今日と同じようなことをするのである。ニーチェの言う「永劫回帰」の思想が、人間が生きていくということにおいても言えるのである。それでも、ニーチェは、「人生を、もう一度
行ってもいい。」と言うのである。生きることそれ自体に価値を見出しているのである。