あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

感情・気分という情態性の射程の真実について。(自我その308)

2020-01-27 20:36:13 | 思想
ハイデッガーは、人間の心は、常に、何らかの情態性にあるとした。情態性とは耳慣れない言葉であるが、気持ち・心理状態の意味である。ハイデッガーが敢えてそれを情態性という言葉にしたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。情態性は、一時的な気持ちの高ぶりである感情と継続した心理状態である気分から成り立っている。しかし、人間は感情の発生も気分の継続・変化も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。人間の深層心理が感情・気分という情態性を統括している。深層心理とは、人間が意識せず、意志できない心の働き(思考)である。表層心理とは、人間の、意識して、意志で行う思考である。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態性を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、感情の高まりや自我の欲望を幾分抑えるだけである。これが、フロイトの言う超自我という作用である。超自我は万能では無く、感情の大きな高まりや自我の強い欲望に会うと、それらを抑圧しきれないのである。さて、人間の心は、基本的には、継続したある気分の状態にあるが、変化することがある。それには、二つの原因がある。一つの原因は、深層心理が、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱くからである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいると、その気分に嫌悪感を抱き、自ら、その気分を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この、あまりに長く同じ気分でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ気分でいることに飽きたから、別の気分になろうとして、ある行動をしようと欲望を起こすことがあるのである。もう一つの原因は、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから気分の変化の助走が始まるのである。そして、暫くすると、気分が明確に変化し、そこから、それが継続した気分になるのである。しかし、情態性は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの気分の情態性にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態性にある時、もっとも、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に我あり。」(あらゆる存在を懐疑し、意識の内容は疑うことはできても、懐疑し、意識している自分の存在は疑うことはできない。)という論理で、自分の存在を確証したが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態性によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。さて、人間は情態性によって自分の存在を感じ取っているのであるが、その自分とは何であろうか。一生、付きまとう固有名詞であろうか。それとも、命を育む肉体であろうか。しかし、固有名詞も肉体も、幼い時から存在していて、その存在は当然すぎて、自分の存在を感じ取るまでに改めて確認するようなものではない。それでは、自分の存在を確認させるものは何であろうか。それは、自我である。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、常に、社会生活を営まないと生きていけないから、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して暮らしているのである。社会生活において、自分の存在を感じ取るとは、自我の存在を感じ取るということなのである。自我の存在を感じ取ることができれば、安心して社会生活に送ることができるから、それは必要なことなのである。しかし、それは、逆に言えば、人間は、構造体から追放され、自我を失う危険性の中で、生きているということでもあるのである。このように、人間は、常に、何らかの構造体の中で、何らかの自我を持し、ある情態性の下で生きているのである。さて、情態性とは、一般に、人間関係・芸術鑑賞・自然観賞などから起こる、喜怒哀楽・好悪・爽快・憂鬱などの感情・気分という心理状態と思われているが、これだけにとどまらない。判断もまた情態性の働きによって為されるのである。例えば、小学一年生の算数の授業で、教師が、黒板に、「8-2=?」と書く。一斉に挙手され、教師は一人の生徒を指名する。「6です。」と答える。他の生徒たちは満足する。なぜ、満足感を覚えたのか。それは、言うまでも無く、自分が出した答に自信があり、それと合致しているからである。満足感や自信は情態性である。すなわち、深層心理が生み出したものである。つまり、深層心理が計算し、深層心理が、「6」と答えた生徒が正しいと判断したのである。このように、言わば、文系の分野(教科)だけで無く、理系の分野(教科)でも、深層心理が入り込み、情態性が判断を保証しているのである。つまり、日常生活において、人間は、情態性によって、深層心理の判断を知るのである。また、ハイデッガーは、人間は情態性の中にいるから、いろいろな事象を認識できるのであると言う。人間に情態性になければ、いろいろな事象は無味乾燥になり、認識できないのである。つまり、感情や気分が、人間に、人間そのものの存在を認識させるとともに、人間の内なる現象と外なる現象を認識させるのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己そのものも、自己の内外の現象を認識できないのである。しかし、古来、西洋では、感情を理性と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。日本でも、感情について、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」などと説明することが多い。つまり、西洋でも日本でも、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないと見なしているのである。このような見方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。しかし、感情を含む情態性の力はこのようなか弱いものではない。そして、理性についても、古来、西洋では、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。人間だけが有し、動物は有していず、人間が動物よりも優れている根拠の一つである。」と説明している。日本も、理性に対しても、西洋古来の見方と同じである。しかし、理性についての理解も射的距離が短い。まず、理性についての説明文の「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」という一文について疑問がある。「本能」とあるが、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や気分が存在するのである。感情や気分が行動や思考を生み出し、そして、その行動や思考が再び感情や気分を生み出しているのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、「道理に基づいて思考し」とあるが、人間は、思考する場合、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成していくのであるが、そこには、既に、道理が働いているのである。理性が道理を導入するのではなく、文章の形成そのものが道理そのものなのである。次に、「判断する能力」とあるが、確かに、文章を形成しながら思考していくのは、理性の働きであると言っても良いが、事象と思考が一致しているかどうかを判断するのは、深層心理なのである。深層心理が、理性による思考に納得し、事象と思考が一致していると判断したならば、心に満足感・納得感を与え、それが正しいとされるのである。つまり、道理に基づかない思考は存在せず、道理に基づかないで、単語を重ね、文を連ねて、文章を形成することはできないのである。そして、理性による思考が正しいか間違っているかを判断するのは深層心理であり、深層心理が、正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を与え、それで、思考は終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を生み出さなければ、快い感情を与えられるまで思考は継続するのである。つまり、判断の最終的な決め手は感情である。次に、「真偽・善悪を識別する能力。」とあるが、この文は、理性が、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別するということを意味している。しかい、必ず、心の奥底に、感情や気分があるのである。感情や気分が動力となって行動や思考を生み出しているのである。また、表層心理の理性が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理が動き出し、深層心理の真偽・善悪の識別が前提になっているのである。つまり、理性が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。表層心理が、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。しかし、同じ人が判断する場合、深層心理と表層心理の位相(考え方、方向性、志向性)は同じだから、表層心理の理性による判断は最初の深層心理の判断と同じものになることがほとんどである。最後に、「古来、人間だけが有し、動物は有していず、人間が動物よりも優れている根拠の一つである。」という一文について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。怒りという感情と憎悪という気分が、理性を使って殺し合いをさせたのである。つまり、理性と感情(気分)は対立した概念ではないのである。感情が理性を生み出し、理性が感情を生み出しているのである。まず、感情から始まるのである。それでは、日常生活において、どのようにして、感情が生まれるのであろうか。そして、どのようにして、感情から、思考が始まるのであろうか。ここでは、理性というような、なじみのない、大仰なものではなく、理性の原点である思考について述べようと思う。感情と思考の関係について述べようと思う。簡単に言えば、感情の多くは、自我と他者の関係によって生まれてくる。先に述べたように、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションであり、構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。それでは、自我を動かす思いとは何か。その第一の思いは、他者から評価されたいという思いである。他者から評価されると、満足感・喜びという感情を得るのである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、心に、快い感情が流れるのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込み、心に不快な感情が流れるのである。そして、不快な感情が心に流れた時、人間は思考するのである。人間は、上手くいっている時、考えない。上手くいかない時、考える。上手くいかない時、心に不快感が流れ、その不快感をから解放されるには、どうしたら良いかを考えるのである。たとえば、学校に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、快い感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという指針を出し、思考することを求めない。上手くいっているから、このまま、登校・出勤すれば良いのである。しかし、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、苦痛を与えると共に、どうすべきか、考えさせるのである。人間は、苦痛から解放されようとして、その方策を考えるのである。本人は、その方策が考えられない場合、学校・会社に行かないということも考える。また、本人が、学校・会社に行こうとしても、深層心理が、学校・会社に行って苦痛を味わわないように、深層心理が鬱病・腹痛・頭痛などを起こして、学校・会社に行かせないようにしたり、深層心理が自ら統合失調症・離人症に罹患して、学校・会社に行っても、苦痛を味わわないようにしたりする。ところで、先に述べたように、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、生み出すことはできない。意識や意志などという人間の表層心理は、感情を生み出すことができない。人間は、自分が気付かない無意識というところで、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指針を、本人に与えるのである。深層心理が、構造体において、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たすという自我の働きが、他者から認められているかいないかを考慮しているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きているのも、深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方は、深層心理の自我に対する対他化の作用なのである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きなのである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。特に、不快であること・苦痛であることが気になるから、そこから解放されたく、その方策を人間は考えるのである。この思考が理性であり、人間の表層心理での、自ら意識し、自らの意志による思考である。つまり、人間の理性は、常に、苦悩から始まるのである。だからこそ、人間の理性の思考は辛く、重いのであるが、苦悩を解決できた時、大いなる喜びを得るのである。人間の理性に尊厳を置いている人は、理性の底に苦悩という情態性が流れていることを認識していないから、理性の真実を知ることができないのである。しかし、人間は、理性が難くとも、そこに賭けるしかないのである。



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