あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

実存的な生き方の勧め(自我その306)

2020-01-25 17:31:49 | 思想
ハイデッガーの思想に、人間の基本的なあり方として、「世界内存在」がある。「世界内存在」とは、「自らが常に一定の具体的な世界の中にいることを既成事実的に見いだす人間のあり方。ここで言う世界とは、ものの総体や理念のことではなく、人間の個々の営みにおいて漠然とながら常に前提にされている意味連関・有意義性の全体であり、内存在も、事物相互の空間的な包含関係ではなく、世界という意味連関を理解する人間の開かれたあり方を指す。人間は、個々の現実的なもの、存在者と関わるうえで、それらを越えた有意義性・可能性の全体としての世界へと開き、またそこからそれらを照らしだしつつ理解しているのである。世界と人間との関係を考えるうえで、客観的な物理世界に対する科学的認識を基本とせず、まず具体的な知覚や生の営みに定位する。知覚や思考などにおけるあらゆる心的体験は、部分の総和ではなく、常に一定の意味分節を伴った全体である。人間だけでなく、いずれの有機体も、種独自の空間や時間の構造、内容的性質を備えた環境世界を持つ。人間精神は、単に既存のものを受動的に表現するだけでなく、自立的に作用して、現象に特定の意味や理念的内実を与え、言語を始めとする種々の記号操作を通して、世界を形成し形態化している。」ということを意味している。ここで言う「世界」とは、地球や宇宙のようなものではなく、環境のような人間の周囲の閉じられた世界を意味する。簡潔に言えば、「世界内存在」とは、人間は人間特有の閉じられた「世界」の中で生きていて、その「世界」の中にある他者や物、そして、その「世界」の中に起こる事柄を自ら意味づけながら暮らしている人間のあり方を意味するのである。ハイデッガーは、「世界内存在」している人間のあり方について「ひと」として説明している。「ひと」とは、「世間話」(根も葉もないくだらない話)、「好奇心」(興味本位で覗くだけで探求する意欲の無い心)、「曖昧性」(責任の所在が曖昧なこと)に憂き身をやつしている人間である。人間は「人」として育つのである。しかし、「ひと」とは、「世間話」、「好奇心」、「曖昧性」に憂き身をやつしている「非本来的な人間」である。人間は、「非本来的な人間」から「本来的な人間」へと変容しなければ、自己の生きる意味が無い。掛け替えのない自己の生きる意味こそ「実存」であり、掛け替えのない自己の活かした生き方こそ最高の生き方だとする考えが「実存主義」である。ハイデッガーは、人間は自らを「臨死状態」(死を覚悟した状態)におくことができれば自ずから「本来的な人間」になると言う。すなわち、「本来的な人間」とは「実存」を体得した人間である。さて、人間にとって、日常生活において、「世界」は「構造体」へと細分化され、「世界内存在」というあり方も「構造体存在」のあり方となる。「構造体」とは、人間の組織・集合体である。「構造体」のあり方が「自我」である。「自我」とは、「構造体」で自分のポジションが与えられ、その役目・役割に沿って行動するあり方である。国という「構造体」には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの「自我」があり、家族という「構造体」には父・母・息子・娘などの「自我」があり、学校という「構造体」には校長・教師・生徒などの「自我」があり、会社という「構造体」には社長・部長・社員という「自我」などがあり、仲間という「構造体」には友人という「自我」があり、カップルという「構造体」には恋人という「自我」があるのである。人間は、常に、ある「構造体」の中で、ある「自我」を持して、暮らしているのである。ハイデッガーが言うように、人間は、「ひと」として育つのだから、ある「構造体」の中で、ある「自我」を持して、「非本来的な人間」として育つのである。しかし、人間が、「非本来的な人間」で一生を終えるのであれば、つまり、「ひと」として一生を終えるのであれば、人間の誕生の意味は存在しない。その人は、「大衆」の一人である。「大衆」とは、世間話」、「好奇心」、「曖昧性」に憂き身をやつしている「非本来的な人間」(「ひと」)の集団である。人間は、毎日のように、もしくは、一生に一度は、「実存」という掛け替えのない自己の活かした生き方に目覚めるべき機会がある。しかし、「実存」とは、常に、孤独なのである。だから、ほとんどの人間は、「実存」から逃げ、「ひと」的存在を継続するのである。「ひと」とは、常に、多数という「大衆」だから、安心なのである。しかも、人間の行動を左右する、人間の深層心理の思考も表層心理での思考も、「実存」に直接に結びつかないのである。人間は、常に、「非本来的な人間」として育ち、その後、「非本来的な人間」として一生を終えるか「本来的な人間」に変容するかの選択があるのである。それと同じように、人間は、常に、深層心理の思考と表層心理での思考と繰り返し、その後、その繰り返しのままに一生を終えるか「実存」的な思考・決断するかの選択があるのである。しかし、「本来的な人間」、「実存」として生きることは、常に、「権力者」と「大衆」の弾圧・圧迫にあい、孤独で、苦しく、存在が稀れなのである。先に述べたように、人間は、常に、「構造体」に所属し、「自我」を持って活動している。「構造体」とは、人間の組織・集合体を意味する。「自我」とは、その「構造体」の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体を意味する。すなわち、「自我」とは、ある役割を担った現実の自分の姿なのである。自己は具体的な「自我」という形を取ることによって、存在感を覚え、自信を持って行動できるようになるのである。人間は、常に、ある一つの「構造体」に所属し、ある一つの「自我」に限定されて、活動する。人間は、毎日、ある時間帯には、ある「構造体」に所属し、ある「自我」を得て活動し、別の時間帯には、別の「構造体」に所属し、別の「自我」を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいる。人間は、大きく言えば、「世界内存在」の生物であるが、実際に生活するうえでは、「世界」が細分化されて「構造体内存在」となるのである。つまり、実際に生活する時には、「世界」が「構造体」へと限定され、自己が「自我」へと限定されるのである。世界が小さな「構造体」へと限定され、自己が「自我」へと限定されると、「構造体」の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が「自我」として定まるから、「自我」を主体に立てて行動できるのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が「自我」である。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、「構造体」に所属し、「自我」を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、「構造体」の中で、自己が「自我」となり、他者と関わりながら、自我を「主体」に立てて暮らしているのであるが、その「自我」を最初に動かそうとするのは、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識での思考である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で思考を開始するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という「自我」の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を「自我」にもたらそうという欲望である。一般に、人間は、深層心理が生み出した「自我」の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、「自我」を主体に立てて思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。しかし、稀には、人間は、深層心理が生み出した「自我」の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、「実存」に基づいて、「自我」を自己に変えて主体に立て、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。人間の表層心理での思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を「自我」にもたらそうという欲望である。快感原則はその時その場での快楽を求める欲望だが、現実原則は長期的な展望の下で現実的な利益を求める欲望であり、「実存」は自分らしい生き方を求める欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。だから、理性には、現実原則に基づくものと「実存」に基づくものとがあるのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という「自我」の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の実際の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活でのルーティーンと言われる習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は毎日同じ生活を繰り返す)と言ったのである。言うまでもなく、ルーティーンと言われる習慣的な行動は最も「実存」に反した行動である。だから、「大衆」は毎日同じ生活を繰り返すが、「実存」的な人間は毎日自分の生活を反省するのである。さて、人間は、まず、深層心理が、快楽を求める欲望である快感原則に基づき、感情と行動の指令という「自我」の欲望を生み出しているが、深層心理は、「自我」が他者に認められること、「自我」で他者・物・事柄という他者を支配すること、「自我」と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことという三種の方法によって、快楽を得ようとする。第一の方法であるが、深層心理は、「自我」を他者に認めてもらいという欲望の下で、「自我」を対他化する。これを、自我の対他化と言う。深層心理は、「自我」を対他化して、自分が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考える。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われるのは当然のことである。もちろん、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えようとする。)という言葉は、端的に、対他化の現象を表している。子供が自分がよく知らない有名私立小学校・中学校を受験するのは、合格して、親という他者に子としての「自我」を認めてもらいたいという欲望が深層心理にあるからである。親が子供を有名私立小学校・中学校に受験させるのは、子供が合格すれば、親という「自我」が周囲の他者に認めてもらい、深層心理が満足できるからである。つまり、「自我」の対他化とは、自ら、敢えて、自我の評価を他者に委ねることなのである。深層心理が行う「自我」の対他化こそ、もっとも、人間は、表層心理の「実存」で、反省しなければならないのである。なぜならば、他者の評価を気にするあまり、「自我」に無理させたり、「自我」に属する他者の意向をないがしろにして、掛け替えのない自己を失ってしまうからである。だから、「実存主義」を標榜するサルトルは、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」と言うのである。第二の方法であるが、深層心理は、「自我」で他者・物・事柄という対象を支配したいという欲望の下で、対象を見る。これを、対象の対自化と言う。他者の対自化とは、他者に対しては、その人がどのような思いで何をしようとしているのかを探り、支配しようと考え、物の対自化とは、物に対しては、どのように利用するか考え、事柄の対自化とは、事柄に対しては、意味づけて捉えようとすることである。対象の対自化は、「自我」の志向性(観点・視点)に則って行う。特に、他者の対自化は、その人の思いや欲望を探り、それが「自我」と同じ方向性にあるか逆にあるかを探るのである。他者の思いや欲望が「自我」と同じ方向性ならばば味方にし、逆の方向性ならば敵にするのである。他者の思いや欲望が「自我」の志向性と同じような方向性にある場合、味方にするのであるが、他者のステータス(社会的な地位)が「自我」よりも下位ならば、「自我」がイニシアチブを取ろうと考え、自我よりもステータス(社会的な地位)が上位ならば、自我を他者に従わせようとするのである。また、他者の思いや欲望が自我の志向性の方向性と異なっていた場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を対象に投影する」ということなのである。つまり、対象を対自化するとは、「自我」中心の姿勢、「自我」主体の姿勢なのである。ニーチェは、「人間、誰しも、力への意志(権力への意志)を有している。」と言う。力への意志(権力への意志)とは、他者を征服し、同化し、いっそう強大になろうという意欲である。すなわち、徹底的なる、他者の対自化なのである。「実存」も、対象の対自化のあり方をしている。しかし、だからこそ、対象を支配することに熱中するあまり、掛け替えのない自己を失ってはならないのである。第三の方法であるが、深層心理は、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望の下で、「自我」を他者と共感化させるのである。これを、自我と他者の共感化と言う。「自我」と他者の共感化は、他者に一方的に身を投げ出す「自我」の対他化でもなく、対象を一方的に支配するという対象の対自化でもない。「自我」と他者の共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪くても、そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに「自我」を対他化し、他者の意見を聞き、両者で共通の敵を対自化して、立ち向かい、戦うのである。ここに、互いに認めた、安定した「実存」が存在するのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。しかし、「実存」に生きる者は、常に、掛け替えのない自己を守るためには、構造体から追放され、自我を失うことを覚悟しておかなければならない。「本来的な人間」として生きていくためには、構造体・自我に頓着していてはいけないのである。現代日本人のほとんどが、構造体・自我に頓着するあまり、忖度という言い訳の言葉を使って、不正を犯し、不正に荷担している。










人は自己の欲望を対象に投影する。(自我その305)

2020-01-24 16:22:53 | 思想
志向性とは、ブレンターノの記述心理学に由来するフッサールの現象学の述語である。人間は意識を持つが、意識は常に何物かについての意識であり、何物かに向かう作用の中で、人間の超越論的主観が対象が一定の意味を付与する。このように、常に対象に向かう作用の中で始めて対象が一定の意味として現れ把握される意識体験のあり方、対象に一定の意味を付与する作用・構成的機能を志向性と言う。つまり、意識は漠然として存在せず、人間が先験的直観・思考形式で対象に積極的に向かっていくから、それが一定の意味として意識されてくるということである。ニーチェは、パースペクティビズムを主張する。日本語では、遠近法と翻訳されている。パースペクティビズムとは、観点・視点の取り方に応じて対象が変化して見えることを言う。すなわち、認識が観点・視点に相対的であることを言う。ニーチェは、人間は自己の観点・視点から世界を解釈しているのであり、真理は幻想に過ぎないと主張する。フッサールは、人間は、超越論的主観(先験的主観・思考形式)で、対象から一定の意味を取り出していると主張しているが、ニーチェは、人間は、観点・視点の取り方に応じて、対象が異なって認識されると主張しているのである。現代哲学は、ニーチェに軍配を上げている。さて、人間は、現象を、現象のままにしておくことは不安であり、現象を対象として捉え、対象から真理を掴み出すことによって安心する動物である。正確には、真理を掴んだと思うことによって安心する動物である。人間は、自我で、他者・物・事柄という対象を支配して、初めて、安心できる動物なのである。それが、対象の対自化という作用である。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に集約されているのである。さて、近代以前のヨーロッパ諸国の人々が、天体運行の基本真理として、太陽が地球の周囲を周期的に回ると考えたのは、それが、キリスト教の教義に合致し、毎日の生活で覚える感覚と合致したために、安心できたからである。しかし、近代になると、ヨーロッパ諸国の人々は、地球が太陽の周囲を周期的に回ると考えるようになった。それは、科学的な思考を導入したからである。科学の真理が、終局的には、人間に幸福をもたらすと考えたから、それを受け入れたのである。科学的な思考に、絶対的な信頼感を置くことによって、安心感を得られるので、そのように信じているのである。このように、近代以前と近代以後において、ヨーロッパ諸国の人々は、天体の基本真理としての、地球と太陽の運行の関係について、全く逆の思考をしている。コペルニクス的転回である。しかし、現代人は、それは矛盾している、問題があるなどと非難できることではない。なぜならば、現代人も、また、現象から掴み出した真理に安心感が抱ければ、それを真理とするからである。それは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する(③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。)である。人間は、無意識のうちに、自分の望む真理を求めていて、それに合致すれば、安心感を得て、それを真理とするのである。また、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」とも主張する。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされているだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、誤謬・仮象を捨象して、真理も求めても、そこには、真理は現れないという真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う「超人」である。「超人」とは、これまでの人間である「最後の人間」を否定した人間である。「最後の人間」とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。それに対して、「超人」とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間である。だから、ニーチェは、「神は死んだ」と言うのである。「超人」とは、誤謬・仮象を捨象して真理も求めてもそこには真理は存在しないという「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している「最後の人間たち」の誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、「超人」とは、自ら、この世で、敢えて、現世を肯定して生きるための誤謬・仮象を真理として打ち立てる人である。しかし、「超人」は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。カントも、また、人間は、物自体を捉えることはできないと主張する。カントは、「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と述べている。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の観点・視点という、特定の方向性からでしか、物を認識できないから、物自体は認識できない。ニーチェも言うように、視点・観点が変われば、同じ物も、別様に見えてくる。しかし、人間は、特定の方向性(観点・視点)を持って、物を見るしかない。人間は、方向性(観点・視点)を持たずに、物を見ることができない。物を捉えるためには、特定の方向性(観点・視点)を持って物を見ることが、必須条件なのである。それは、否定できない。それを否定すれば、人間そのものを否定することになる。しかも、物自体を捉えた人は、カントを含めて、誰も存在していないのである。それは、物自体も、カントの方向性(観点・視点)から想定されたものだからである。言わば、物自体は、ニーチェの言う「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。つまり、「現象を否定して、物自体も求めても、そこには、物自体は存在しない」という真理である。さて、吉本隆明は、「人間はわがままに生まれてきながら、協調しなくては生きていけないことに、人間の不幸がある。」と言った。これが、吉本隆明の人間に対する方向性(観点・視点)である。これは、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。)である。だから、現代人は、どれだけ、協調性を発揮して生きたとしても、ストレスから逃げることはできないのである。また、バタイユは、「人間は、愛し合っている二人でも、セックスの際には、男性には強姦と同じ欲望があり、女性には、売春と同じ欲望がある。」と言った。これが、バタイユの男女関係に対する方向性(観点・視点)である。これも、「人は自己の欲望を対象に投影する」((①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。)に合致するのである。愛とは、相手の愛情を征服する欲望なのである。また、ヘーゲルは、「主人と奴隷の関係において、主人は、奴隷に生活を依存しているが、奴隷は、労働によって、自然を知り、自己を形成することができる。」と言った。これが、ヘーゲルの主従関係に対する方向性(観点・視点)である。しかし、果たして、ヘーゲルの言うように、会社や店などにおいて、恵まれない境遇・嫌な上司・嫌みな先輩や同僚の中で、それが自分の人間形成に役に立つと思えるかどうかが問題である。マルクスは、ヘーゲルの言うような観念的な自立は意味を為さず、労働者(奴隷)は現実に自立するために、団結して、資本家(主人)と戦うこと、つまり、革命を起こすことを勧めたのである。そして、目指す社会は、主人(資本家)と奴隷(労働者)の無い社会、つまり、公平・平等な社会である。しかし、吉本興業のようなブラック企業は、労働組合が無く、芸人がそれぞれ孤立させられているから、書面契約をせずに、主人側(経営者側)は、自らの都合の良いように、芸人を処理するのである。つまり、芸人は、操られているのである。また、ハイデッガーは、「死の覚悟を持たない限り、自分の生き方を変えることはできない。」(ハイデッガーの実存主義)と言った。これが、ハイデッガーの人間に対する方向性(観点・視点)である。確かに、死の覚悟を持つことで自分の生き方を変えられる人は幸いである。しかし、本当に死の覚悟を持ったら、多くの人はそのまま自殺してしまうのではないだろうか。また、苦悩したら、死の覚悟を持つ前に、深層心理が自らを精神疾患に陥らせて、苦悩から逃れ・忘れようとするのではないだろうか。そして、ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言った。「人は自己の欲望を対象に投影する」が対象の対自化ならば、「人は他者の欲望を欲望する」は自我の対他化である。これが、ラカンの人間に対する方向性(観点・視点)である。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、主体的な判断ができないのである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そのような人間であるから、他者の評価によって、簡単に崩れるのである。このように、人間は、対象の対自化、自我の対他化、そして、自我と他者の共感化(自我と他者が愛し合う・協力し合う・信頼し合う)の三作用によって生きている。
言わば、支配、被支配、非支配関係の葛藤の中で生きているのである。


人間は、欲望の波間に漂う小舟のような存在である。(自我その304)

2020-01-22 14:37:06 | 思想
人間は、欲望の波間に漂う小舟のような存在である。人間は、自らが意識していない深層心理が生み出した欲望によって、動かされている。しかし、多くの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。主体的と意識していなくても、そのように生きていると思っている。それは、そのように生きていると思いたい願望がそのように生きていると思い込ませてしまったのである。それは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えて、支配しようとする。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という人間の深層心理の対象の対自化の④(人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)に該当する。そして、多くの人は、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らすことができると思っている。しかし、それを思い込みに過ぎない。そのように思いたいという願望がそのように思い込ませてしまったのである。それも、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」という人間の深層心理の対象の対自化の作用の④の(人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)に該当しているのである。確かに、人間は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思い込んでいれば、自らにプライドが持て、自信を持って生きることができる。また、人間は、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの束縛があるからだと思い込んでいれば、自分の失敗を他者へと責任転嫁できる。しかし、自分が主体的に生きている、生きることができるはずだと思い込んでいるから、思い通りにならないと、心が傷付き、徒らに、自らに絶望し、他者に怒りを覚えるのである。だから、人間は、徒らに、自らに絶望せず、他者に怒りを覚えないためには、人間は、自らの実態を直視すべきなのである。まず、人間は主体的ではない。人間は、主体的になれないのである。確かに、人間は、自我が主体にさせられている。人間は、深層心理が自我を主体にしなければ、生きていけないからである。まさしく、これもまた、「人は自己の欲望を対象に投影する」という人間の深層心理の対象の対自化の作用の④の(人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)である。しかし、自我は思考しない。深層心理が、自我を主体にして、思考するのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持して、暮らしているのである。だから、ある人は、日本という構造体の中では日本人という自我を持し、家族という構造体の中では父という自我を持し、会社という構造体の中では営業課長という自我を持し、コンビニという構造体では客という自我を持し、夫婦という構造体では夫という自我を持して暮らしていて、自我が一定しないのである。人間は、深層心理が、異なる構造体において、それに応じた自我を主体に立てて、思考し、自我を動かしているのである。人間は、深層心理が、自我を主体に立てて思考するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、無意識のうちに、自我を主体に立てて思考しているのである。思考の母体が、無意識という深層心理であるから、思考の母体を明示できないのである。さて、人間は、まず、深層心理が自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それを受けて、人間は、行動するのである。しかし、人間は、その時、必ずしも、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するとは限らない。もちろん、人間は、表層心理で意識すること無く、表層心理で深層心理の生み出した行動の指令の採否を思考すること無く、深層心理の生み出した行動の指令の通りに行動することが多い。これが、表層心理で審議することの無い行動、すなわち、無意識の行動である。一般には、無意識の行動は、人間の特異な行動だと思われているが、そうではない。人間の日常生活は無意識の行動が非常に多い。深層心理の生み出した行動の指令の通りに行動することが多い。ルーティーンと言われる、日常生活での習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。しかし、もちろん、人間は、表層心理で意識して、深層心理の生み出した行動の指令の採否を思考することもある。それは、ルーティーンから外れた出来事が起こったからである。ルーティーンから外れた出来事が起こると、往々にして、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出すから、人間は、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理の生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令の採否を思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して、思考し、深層心理の生み出した行動の指令を不採用に決定し、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理の生み出した感情が強過ぎると、抑圧が功を奏さず、行動の指令のままに行動してしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、他者に危害を加え、傷害事件になり、自ら後悔することになることが多いのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して、感情を起こすことはできないばかりでなく、強過ぎる感情は、意志で、抑圧することはできないのである。深層心理の生み出した感情や行動の指令を抑圧することを、フロイトの用語では、超自我と言うが、超自我は万能ではなく、限界があるのである。それは、人間は、まず、深層心理が自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのであり、感情が行動の指令の動力になっているからである。だから、人間の表層心理の意識にとっては、自ら感情を生み出せず、生み出していず、深層心理が生み出しているから、感情が生まれてくるや感情に襲われるという表現が適切なのである。さて、深層心理の働きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、思考して、感情と行動の指令を生み出すのである。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求め不快を避けようという欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けようという欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。しかし、多くの人間は、深層心理という無意識の思考を認めないばかりか、人間は、無意識に、快感原則に基づいて思考していることに気付かないのである。いや、気付こうとしないのである。それは、人間は、主体的に生きていると思いたいからである。それも、まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」という人間の深層心理の対象の対自化の作用の④の(人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)の作用である。しかし、人間の本質を深層心理だとすれば、人間の本質は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けるることにあるのである。もちろん、深層心理の快感原則に振り回されていては、人間社会は、成り立たない。そこで、人間は、表層心理で、意識して、現実原則に基づいて、深層心理の生み出した行動の指令について、審議する必要があるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間の日常生活がルーティーンと言われ、無意識の行動を繰り返すのは、深層心理の生み出した行動の指令が、不快を避けようという快感原則に基づいているからである。瞬間的な快楽を得られなくても、不快を避けることができるので、人間の日常生活は、深層心理の生み出した行動の指令のままに繰り返され、ルーティーンになるのである。さて、人間は、まず、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、快感原則という快楽を求める欲望は、自我が他者に好評価・高評価を受けた時、自我で対象を支配した時、自我が他者と心の交流があった時、満たされるのである。例えば、高校生という自我を持している者について言えば、学校という構造体で、テストで高成績を取り教師から褒められた時、数学の問題という対象を解くことができ支配できた時、同級生の恋人ができた時である。だから、深層心理は、この三つの状態のいずれかになろうとして、自我を動かそうとするのである。しかし、なぜ、この三つの状態の時、深層心理が快楽を得られるのかわからない。人間は、表層心理で、意識して、深層心理が快楽を得る理由を突き止めることはできないのである。人間は、表層心理では、深層心理の存在理由を知ることができず、深層心理の傾向を外部から観察して知るしかないのである。人間は、表層心理で、深層心理の範疇に入り込むことはできないのである。また、人間は、逆に、自我が他者から悪評価・低評価を受けた時、自我で対象を支配しようとして失敗した時、自我が他者との心の交流を失った時、深層心理は、心が傷付き、それを挽回しようとして、時には、怒りの感情とそれに伴った行動の指令を出すのである。そのような時、人間は、表層心理でできることは、深層心理が生み出した感情と行動の指令を受けとめて、それに対処することだけなのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる時、人間は、時には、表層心理で対処できず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。例えば、社員という自我を持している者が、会社という構造体で、上司から書類の不備を咎められた時、深層心理は、傷心という感情と謝罪の行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それを受けとめて、表層心理で、意識して思考し、傷心という感情の中で、謝罪の行動の指令を容認することを決定し、意志によって謝罪するのである。社員という自我を持している者が、会社という構造体で、対象の一社と契約できなかった時、深層心理は、傷心という感情と別の一社の契約の行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それを受けとめて、表層心理で、意識して思考し、傷心という感情の中で、別の一社の契約の行動の指令を容認することを決定し、意志によって別の一社に向かうのである。社員という自我を持している者が、会社という構造体で、恋愛関係にあった同僚から別れを告げられた時、深層心理は、心が傷付き、それを挽回しようとして、怒りの感情と嫌がらせの行動の指令という自我の欲望を生み出し、失恋した社員は、それを受けとめて、表層心理で、意識して思考し、傷心と怒りの感情の中で、嫌がらせの行動の指令を拒否することを決定し、意志によって嫌がらせという行動の指令を抑圧しようとするのだが、傷心と怒りの感情が強過ぎるので、やむなく嫌がらせをすることとなり、ストーカーとして相手を苦しめると共に、自らの人間性を卑しめることになったのである。さて、深層心理は、自我が他者に好評価・高評価を受けることによって、自我で対象を支配することによって、自我と他者と心の交流をすることによって、快感原則という快楽を求める欲望を満たそうとするのであるが、それらは、深層心理が、自我を対他化すること(自我の対他化の姿勢)によって、対象を対自化すること(対象の対自化の姿勢)によって、、自我と他者の共感化すること(自我と他者の共感化の姿勢)によって行われる。第一の姿勢としての自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(①人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。②人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。③人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る原因の一つが、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。第二の姿勢としての対象の対自化であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・事柄という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、先に述べたように、「人は自己の欲望を対象に投影する」(①人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。②人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。③人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えている。④人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)であるが、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。言わば、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの他者に対する積極的な意味である。これを徹底したものが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。また、神が存在するのも、人間にとって、神が存在しなければ不安だからである。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、、存在しているように創造することがあるのである。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などの勤王の志士という歴史上の人物は、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫んでいる。しかし、彼らは、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がったのではない。彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするので、江戸幕府が続く限り、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。大衆は、彼らを、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がった勤王の武士と思いたいから、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ばせたのである。かつて、視聴率の高いテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。大衆は、庶民を救う権力者が欲しいから、「水戸黄門」というテレビドラマの時代劇を作ったのである。しかし、水戸黄門は、水戸からほとんど出ず、女癖が悪く、城内で、大した理由もなく、家臣を斬殺しているのである。現代政治においても、大衆は、庶民を救う権力者を求めている。だから、安倍晋三や森田健作に支持が集まったのである。しかし、安倍晋三首相は、強行採決を繰り返して日本を私物化し、森友学園・加計学園の自分の信奉者・友人に、不正な優遇をし、「桜を見る会」を私物化し、公私混同した。森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回っているのである。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。東大法学部卒などのキャリアと呼ばれる官僚たちは、安倍晋三のために、公文書を改竄し、嘘の答弁をし、都合良く健忘症になる。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。大衆は、高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているのである。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。しかし、それでも、大衆は、権力者や高学歴者が、自らを救うの待ち続けるであろう。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、存在しているように創造するからである。大衆は、特に、そうなのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。また、父親(義理の父親が多いが)が幼児を虐待死させるのは、幼児かを対自化して支配しようとするのだが、幼児を支配できない傷心から起こるのである。幼児を支配できない父親は、深層心理が、傷心・怒りという感情と幼児に対する暴力という行動の指令を生み出し、表層心理で、傷心という感情の中で、幼児に対する暴力という指令に対して思考し、たとえ抑圧しようとしても、傷心・怒りの感情が強かったから、虐待に向かったのである。第三の姿勢としての自我と他者の共感化であるが、それは、深層心理が、自我が他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化は、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うということで、現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。深層心理は、その屈辱感を払うために、ストーカーになることを指示し、表層心理で、審理しても、屈辱感が強いので、ストーカーになってしまったのである。このように、人間は、深層心理が、自我を主体にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理が、傷心・怒りという強い感情を生み出さなければ、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令について、冷静に思考でき、過激な行動の指令ならば、抑圧することができる。だから、人間は、表層心理で、深層心理が強い傷心・怒りの感情を生み出さないように、身を処すことが大切である。そのためには、自らの深層心理の傾向を知ることが大切である。そして、先に述べたように、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。だから、人間は、自らのルーティンから、自らの深層心理の傾向を探れば良いのである。また、深層心理は、自我の存続・発展のために思考し、自我を動かそうとする。なぜならば、人間が社会生活を営む上で、自我が主体として立つからである。つまり、人間が社会生活を営む上で、自我が存在しなければ、人間も存在しないのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するようにも思考するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。失恋した者が、ストーカーになるのも、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さからである。何としても、カップルという構造体を継続し、恋人という自我を維持したいのである。このように、人間とは、深層心理の快感原則という欲望を求める思考から始まっているのである。人間は、このことを肝に銘じ、自らの深層心理の傾向を認識できれば、自ずと、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自らの行動が決まって来るのである。決して、表層心理で、頭ごなしに、深層心理の欲望を否定してはいけないのである。「角ためて牛を殺す」の諺のごとく、深層心理の生み出す自我の欲望を、頭ごなしに否定することは、自らの存在を否定することになるのである。人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が生み出す自我の欲望を、全面的に肯定するでもなく、全面的に否定するでもなく、脱構築しながら、自分なりに、自我を主体に立てて、再構築するしかないのである。確かに、主体は存在しない。絶対的な主体は存在しない。しかし、これまで、世間で通用してきた主体意識・自我意識を脱構築しつつ、自分なりに、自我を主体に立てて、再構築するしか、自分の生き方は存在しないのである。







人間は欲望へと呪われている。(自我その303)

2020-01-20 21:03:17 | 思想
サルトルは「人間は自由へと呪われている。」と言う。人間は、全てのことにおいて、自ら思考して、自由に決断できる。そして、その行動の結果を自らの存在において責任を取らなければいけない。人間は、誰一人として、この運命から逃れることはできない。これがサルトルの言葉の意味である。また、サルトルは、「実存は本質に先立つ。」とも言っている。実存とは、自分自身で、主体的に考えて行動する生き方である。本質とは、人間の本質として定まっている行動や生き方である。つまり、サルトルは、人間には、定まっている行動の仕方や生き方は存在せず、自分で考えて、行動しなければいけない、そして、その責任を取らなければいけないと言っているのである。これがサルトルの考え方・生き方であり、実存主義という思想でもある。さらに、サルトルは、「神が存在していようと存在していまいと、私には、関係がない。」とも言っている。サルトルは、自分の行動は自分が決めることであり、自分は、神を恐れることもなく、神を頼ることもしないと言っているのである。これが無神論的実存主義という思想である。サルトルの覚悟は潔い。また、死ぬまで、自分の言葉の通り、考え、行動した。また、ノーベル文学賞に選出されたが、「作家は自らを既成の制度にあてはめることを拒絶しなければならない。」と言って、受賞を拒否した。サルトルは、フランス人でありながら、アルジェリアのフランスからの独立闘争を支持した。フランス人の自我に捕らわれず、自らの言葉の通り、自由に行動した。晩年は不遇だったが、それでも、葬儀には、5万人を越える市民が追悼をするために集まった。サルトルは、全てにおいて、自我にとらわれなかった。だから、自らはフランス人であるという自我にとらわれることなく、アルジェリアを支持したのである。サルトルは、無意識の存在、すなわち、深層心理の思考を認めなかった。すなわち、人間は、最初に、無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それを受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、その思考の結果が意志となるという考えをサルトルは認めなかった。言わば、サルトルにとって、人間の意識しての思考、すなわち、表層心理での思考、そして、その思考の結果としての意志、決断が全てであった。しかし、人間には、無意識の思考、深層心理が存在するのである。一般に、言われている無意識という消極的な存在ではなく、深層心理は、常に活動し、積極的に思考しているのである。人間は、まず、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理とは、人間の無意識のうちの思考である。無意識と言われることが多い。一般に言われる思考は、意識しての思考であるから、それは、表層心理である。気分とは長期的な心理状態である。感情とは瞬間的な心理状態である。深層心理は、常に、ある気分の中にあり、その気分は、瞬間的な感情によってもしくは時間的な経過の中で、変化する。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、構造体の中で、ポジションを得て、それを自己のあり方として、その務めを果たすように生きているあり方である。構造体と自我には、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という大衆・庶民)などという自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民などという自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民などという自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民などという自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようという欲望である。だから、深層心理は、快楽を求め、不快を避けて生きようとして、思考するのである。そのたけ、深層心理には、良心も悪心も存在しない。道徳観や社会的な規約も存在しない。ひたすら、快楽を求め、不快を避けようと思考する。だから、もしも、人間が、正直に、自らの欲望の全てを話してしまえば、どのように親密な人間関係でも壊れてしまうだろう。ラカンが「無意識は言葉によって構造化されている。」と言っているように、深層心理は、快感原則に基づいて、言語を使って論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合がある。前者が、無意識による行動である。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。さて、このように、人間は、いつ、いかなる時でも、ある気分を持して、構造体の中で、自我として生きている。人間は、常に、まず、深層心理が、ある気分の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、人間は、意識する意識しないにかかわらず、無意識のうちに、深層心理が、常に、快楽を求め不快を避けて生きようとしているのである。さて、それでは、深層心理は、どのようにして、快感原則を満たそうとしているか。それには、自我の対他化、対象(他者・物・事柄)の対自化、自我と他者の共感化という三種の方法がある。この三種の方法は同時に用いられることなく、深層心理は、常に、いずれかの一方法を用いて、快楽を得ようとしている。第一の方法である自我の対他化は、深層心理は、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。中学生や高校生が勉強するのは、テストで良い成績を取り、教師や同級生や親から褒められたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の方法である対象の対自化は、深層心理は、他者や物や事柄という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で命令して動かすこと、物という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用すること、事柄という対象をの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉え、理解し、支配下に置くことである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間が神を創造したのも、対象の対自化から起こっている。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。対象の対自化は、「人は自我の欲望を対象に投影する」(①人間は、自我の思いを他者に抱かせようとする。②人間は、自我の志向性や趣向性で他者を支配しようとする。③人間は、自我の志向性や趣向性で物を利用しようと考える。④人間は、自我の志向性や趣向性で事柄を捉えようとする。⑤人間は、実際には存在しないものを、自我の欲望によって創造する。)という言葉に集約されているが、人間による神の創造は、この⑤に当てはまるのである。第三の方法である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、言い換えると、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。しかし、深層心理の敏感な政治権力者ほど、自分の考えに従わない大衆を激しく弾圧するのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。高校や会社が嫌でも行ってしまうのは、高校生や会社員という自我を失うのが恐いからである。このように、人間は、まず、深層心理が、ある気分の中で、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、自我の対他化、他者・物・事柄という対象の対他化、自我と他者の共感化のいずれかの志向性や趣向性を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を行動させようとする。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。先に述べたように、深層心理の思考の後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合がある。前者が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。さて、サルトルの言う、自分自身で主体的に考えて行動する生き方である実存主義の思想は、深層心理の対象の対自化の方法なのである。それは、ニーチェの「権力への意志」の思考でもある。しかし、サルトルは、無意識の思考、すなわち、深層心理の思考を認めなかった。サルトルは、人間は、最初に、深層心理が、快感原則に基づいて、言語を使って論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、後に、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合があることに思い至らなかった。なぜならば、サルトルには、深層心理と表層心理の葛藤がなかったからである。サルトルは、自分の思うままに行動したのである。もちろん、それが深層心理の欲望の行動だとは考えなかった。サルトルは、マルクス主義に傾倒した。なぜならば、サルトルは、自ら主体的に考え行動すると言ったが、自分の思考だけでは、主体の方向性が見いだされなかったからである。だ。マルクス主義に歴史の必然的な動きを感じ取り、自らの思考の方向性を見いだそうとしたのである。そこに、サルトルの実存主義の限界があった。レヴィ=ストロースは、南米の未開と言われているさまざまな閉じた民族と暮らすことによって、歴史の変遷はなく、同じことを繰り返しながら生きる穏やかな生き方を知った。それが、構造主義である。そして、サルトルの主体的な思考や歴史の必然的な動きの尊重を、先進国に生きる人々の自己中心的な考え方だと批判した。そこから、サルトルの社会的な影響力の急速に弱まった。しかし、サルトルは、最期まで、意志の人、戦う人であった。他者と対し、見られる存在としての自我の他者化の弱みを感じた時、その他者を見るという対自化することによって、勝利しようとした。おそらく、現代において、サルトルに師事して、その思想をそのまます実行する人は皆無であろう。しかし、サルトルの有言実行の真摯な生き方は尊敬に値すると思う。しかし、サルトルは、「人間は自由へと呪われている。」と言うが、真実は、「人間は深層心理の欲望へと呪われている。」である。サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言うが、真実は、「深層心理の思考が、人間の表層心理での思考である実存や人間の表層心理での結論である本質よりも先立つ。」のである。





体制に変えられないために、体制批判の言動を続ける。(自我その302)

2020-01-19 20:58:49 | 思想
インド建国の父と言われているガンジーは、「自分が行動したこと全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。」と言っている。その意味は、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」ということである。確かに、ガンジーが指導した不服従運動が広がり、インドはイギリスから独立できた。しかし、ガンジーはインド独立に大きな業績を残していなくても、彼の言葉は有効である。さて、日本に、「憂国の士」という言葉がある。「憂国の士」とは、「日本の現状や将来を案じている人」の敬称である。しかし、「憂国の士」という構えた表現をしなくても、日本人は、皆、日本という構造体に属していて、日本人という自我を持っているから、愛国心と憂国の心情を持っているのである。人間は、自我の動物であるから、無意識のうちに、深層心理が、自らが所属している構造体と自らが持している自我に執着するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。深層心理は、自我を主体にして、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。さて、日本に住む人たちは、日本という構造体・日本人という自我だけで無く、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、息子もしくは娘である。その後、保育園、幼稚園という構造体に所属して、園児という自我を持ち、小学校、中学校、高校という構造体に所属して、生徒という自我を持ち、会社という構造体に所属して、社員という自我を持ち、店という構造体に所属して、店員という自我を持つ。また、住んでいる地域によって、町という構造体に所属して、町民という自我を持ち、市という構造体に所属して、市民という店員を持ち、県という構造体に所属して、県民という自我を持ち、そして、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、日本人が、日本という構造体に対して愛国心と憂国の心情を持ち、日本人という自我に対して執着することは普通のことであり、褒め称えられることではないのである。ガンジーが、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」という気持ちで、政治的言動をするのは正しいのであり、日本で、「日本の現状や将来を案じている人」を「憂国の士」という言葉で敬称で呼ぶのは間違っているのである。ところが、日本には、「俺は日本の国を心から愛している。」と公言する人が多く存在するのである。所謂、愛国主義者である。そのように言う人の口調からは、「おまえは自分のことしか考えていないようだが、俺は自分のことよりも日本のことを考えているのだ。」という主張があることは、ありありと窺われる。恥じらいもなく、よくそのようなことを威張って言えるものだとあきれてしまう。なぜならば、人間とは、自我に執着する動物であり、日本の国を心から愛していると言っても、究極的には、自分自身を愛しているに過ぎないからである。日本人にとって、日本という構造体は日本人という自我を保証している存在なのである。だから、愛国主義者だけでなく、日本人ならば、誰しも、日本のことを愛しているのである。日本人にとって、日本を愛することと自分を愛することとは同じことなのである。人間とは、自分が所属している構造体、自分が持している自我(ポジション、ステータス、身分、地位などの社会的な位置)、自分に所属しているもの(者・物)を愛する動物なのである。だから、日本に住む人は、自分が所属している日本、家族、会社、学校などという構造体をを愛し、自分が持している日本人、父、母、息子、娘、社長、部長、社員、誇張、教師、性となどいう自我を愛し、自分に所属している民衆、部下、息子、娘、教え子、家、車、作品、趣味、肉体、スタイル、顔などを愛して暮らしているのである。自分とは、自分が所属している構造体、自分が持している自我、自分に所属しているものから成り立っているのである。特に、自我は、自分そのものであり、自分が所属している構造体と自分に所属しているものに直接的に関わっているから、重要である。人間の行為は、全て、自分の表現であるが、自分とは、社会的に行動する時には、自我となるから、自我の表現なのである。まさしく、自我とは自我に執着することであるから、自我の表現とは自我愛の表現なのである。安倍晋三首相は、「美しい国、日本」とよく言う。しかし、安倍晋三首相だけでなく、日本人ならば、誰しも、そう思っている。なぜならば、「美しい国、日本」とは、日本人という自我を保証する日本という構造体を褒め称える言葉であり、まさしく、そこに所属している日本人という自我を褒め称える言葉であるからである。しかし、口幅ったく、恥ずかしくて、言えないのである。なぜならば、「美しい国、日本」という言葉には、言外に、「他の国はどうだか知らないが、日本は美しい国だと断言できる」や「日本は、他のどの国よりも美しい国だ」などが言外に込められているからである。そこには、日本という国を差異化して、優越感に浸ろうという思いがありありと窺われるのである。しかし、他の国の国民も、その国の構造体に所属していて、その国の国民という自我を持っているから、自国を、「他のどの国よりも美しいと。」と思っているのである。それは、自国の景勝が良いからそう思っているのでは無い。自我が所属している国だから、「他のどの国よりも美しいと。」と思いたいから、そのように思うのである。それは、深層心理の対象の対自化の作用である「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)ことから来ているのである。しかし、異なる国民が同席して、自国自慢をすると、相手を不愉快な気持ちにするから、良識・常識ある人は、自国自慢を控えるのである。しかし、安倍晋三首相は、ある意味では、自分の思いを述べることに正直だと言える。「子供は正直だ。」と言われるごとく、安倍晋三首相も、子供のように正直なのである。愛国主義者、すなわち、右翼は、愛国心という自我の欲望に正直である。他国民の思惑を意に介さず、愛国心を口にする。むしろ、他国民が不愉快になることを喜びとしている。なぜならば、自我の欲望とは、自分を差異化して、優越感に浸ろうという思いだからである。安倍晋三首相も、もちろん、愛国主義者、すなわち、右翼である。誰しも、自分の子供、自分が勤務している会社、自分が卒業した学校、自分の家、自分の車、自分の趣味、自分のスタイル、自分の顔などを他者に自慢したく思っている、また、それらを他者に褒められたいと思っている。しかし、それを声高に唱えることは、他者のプライドを傷付けるので、普通の感覚の持ち主は遠慮するのである。同様に、自国という構造体や国民という自我を自慢することは、他国民の自我を傷付けるので、普通の感覚の国民は遠慮するのである。ところが、愛国主義者、すなわち、右翼は、それを敢えて行うのである。もちろん、外国人にも、愛国心はある。韓国人にも中国人にも愛国心はある。だから、同じ島を、日本人は竹島と名付けて愛し、韓国人は独島と名付けて愛している。日本人も韓国人も、その島は自国に所属していると思っているから愛し、その所有権を巡って争っているのである。また、同じ島々を、日本人は尖閣諸島と名付けて愛し、中国人は釣魚島および付属島嶼と名付けて愛している。日本人も中国人も、その島は自国に所属していると思っているから愛し、その所有権を巡って争っているのである。しかも、日本、韓国、中国の愛国主義者、右翼たちは、戦争も辞さない覚悟で、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を確保せよと叫んでいるのである。愚かである。無人島確保のために血を流せと叫んでいるのである。愛国心という自我の欲望に取り憑かれた者たちの暴走である。しかし、愛国心は、誰にでも存在し、愛国主義者の主張は容易に理解でき、愛国主義者を批判すると、売国奴、反日などと非難されるから、容易に批判できないのである。しかし、「子供は正直だ」と言われるように、愛国心のあからさまな発言は、幼児の思考から来ているのである。しかし、自我の欲望に正直に行動する人ほど恐い存在者はいないのである。もしも、愛国主義者の主張が、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)の反対に遭っても、大衆の多くに支持されれば、愛国主義者は、自我の欲望のままに、愛国心を発露し、日本は、早晩、アメリカに追随して、戦争をすることになるだろう。現に、日本はそのような方向に向かっているのである。日本の大衆の多くが、安倍晋三という愛国主義者内閣、自民党という愛国主義者政党を支持してきたのである。安倍晋三内閣は、国家戦略会議、特定秘密保護法、集団的自衛権を確立させてきた。もう暫くすると、共謀罪を成立させるだろう。残るところは、憲法改正だけである。憲法改正が成されれば、日本は、戦前に戻るだろう。軍国主義の復活である。愛国主義者政党の一党独裁である。国家主義者の国の誕生である。国内では、現在以上に言論統制の効いたファシズムが横行し、国外では、外国との戦争を厭わなくなるだろう。そこには、日本人の愛国心という自我を満たすだけの欲望が不気味にうごめいている。また、愛国主義者は、「現在の日本人の動向が心配だ。」や「日本はこのままで良いのか。」などと言い、憂国の士を気取ることがよくある。これもまた、言外に、他の日本人に向かって、「おまえは自分のことしか心配していないようだが、俺は自分のことよりも日本のことを考えているのだ。」と言っているのである。しかし、愛国主義者が、恥じらいもなく、そのように言えるのは、日本人のプライドを守るためには、日本は戦争すべきであり、自分も積極的に戦争に参加しようという気持ちがあるからである。愛国心という自我に取り憑かれた愛国主義者には、当然のごとく、容易に帰結する気持ちである。しかし、愛国主義者ならずとも、日本人は、誰しも、愛国心を有している。それ故に、日本の現状を心配している。なぜ、日本に愛国心を抱いている者は、皆、日本の現状を心配するのだろうか。それは、愛国心を抱いている者は、誰しも、心の中に理想の国家像を持っていて、現状の日本ではそちらの方に向かうようには思われないからである。だから、日本人は、全て、憂国の士なのである。しかし、国家像ならずとも、理想と現実が一致しないのが世の常である。そのような場合、一般には、三つの対策を取るものである。一つ目の方法は、自分の理想とする国家像を再構成することである。二つ目の方法は、自分の理想の国家像と現実の国家の動向になぜ齟齬が生じたのかを分析し、自分の理想の国家像、現実の国家の動向ともに修正するのである。三つ目の方法は、現実の国家の動向を再分析することである。だから、常に、一般の憂国の士は、自己修正を迫られている。常に、自己修正を迫られているから、自信なげになってしまうのである。しかも、一般の憂国の士は、日本が、国家主義の国、ファシズムの国に向かっていると認めるのが怖い上に、愛国主義者と対峙するのが怖いから、自分たちが負けるはずがない、少数派を敵として探し出し、寄ってたかって批判するのである。少数派とは、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)である。一般の憂国の士は、安倍晋三を中心とする愛国主義者たちを批判すると、現在の自らの自我(地位・仕事・立場・ステータス)を失う可能性があるから、むしろ、安倍晋三を中心とする愛国主義者たちに媚びを売るのである。しかし、自我に取り憑かれた愛国主義者は、先に述べた三つのいずれの方法もとらない。「明治時代からの日本人が理想とする国家に向かっていない、現状の日本は間違っている。現代の日本人は、間違っている。」と考えるのである。彼らにとって、戦争を辞さない考えていない日本人は、愛国心を持っていないのである。反日、非国民、売国奴なのである。三島由紀夫は、1970年11月2日、自らの組織する「楯の会」会員とともに、自衛隊内に乱入し、決起を訴えたが、果たさず、割腹自殺した。三島由紀夫は、自衛隊員にクーデターを呼びかけ、日本国憲法を改正し、天皇に日本人が統率され、天皇のために戦争ができ、天皇のために死ねる国にしたかったのである。三島由紀夫は、生まれるのが早過ぎたのである。三島由紀夫が理想とする国が、現在、生まれつつある。現代日本は、愛国主義者を名乗る者、憂国の士を気取る者が、大手をふるって街角を歩き回り、マスコミ界を席巻している。しかし、三島由紀夫は、アメリカに媚びを売る安倍晋三だけは、偽の愛国主義者として見なし、批判するかもしれない。しかし、このように台頭している愛国主義者、国家主義者に対して、少数派と言えども、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)は、戦わなければいけない。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二が、死を賭して戦ったように。ニーチェが「大衆は馬鹿である」と言ったように、たとえ、自我の欲望にとらわれている大衆に理解されなくても。ガンジーが、「自分が行動したこと全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。」と言い、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」と主張したように、現在の政治に流されないために。自らの存在の証のために、体制批判を続けなければならないのである。