あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。(自我その307)

2020-01-26 18:25:35 | 思想
ニーチェは、人間は超人にならなければ自己本来の生き方はできないと言う。ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう言った』という著書で、「全ての神々は死んだ。今や、我々は、超人が生きることを望む。」と述べている。死んだ神々を信仰しているのが大衆である。大衆とは、死んだ神々を信仰しているように、常に、非本質的なことに囚われて生きている人間である。しかし、人間は、誰しも大衆の中で育つから、大衆として育つのである。だから、人間は、誰しも、自らの深層心理(自らは意識していない心の思考)に、大衆性を持して育ち、生きていくのである。人間は、誰しも、非本質的なことに囚われて生きているのである。しかし、人間は、大衆性をを持して生きていく限り、非本質的なことに囚われて生きている限り、世事の些末なことに囚われ、それに一喜一憂して、一生を終えるのである。人間は、自らの大衆性を超越しない限り、自己本来の生き方はできないのである。超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。ニーチェは、人間は、自らの大衆性を超越した超人にならなければ、自己本来の生き方はできず、真に、生きている充実感を得ることはできないと言うのである。大衆は、一般的には、世間一般の人々・庶民・民衆と説明され、社会学では、属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在と説明されている。大衆の誕生について、歴史的には、能動的で自己の判断力を持った自立した市民によって形成されていた近代市民社会が、産業革命による資本主義社会の発達ならびにマスコミュニケーション手段の発達に伴って、バラバラで互いに匿名性をもった多数の個々人の集合体によって構成された現代社会に変質したことで、出現したものであると説明されている。つまり、大衆とは、普段はバラバラであるが、時には体制・大勢に迎合し、集団化して行動し、そして、再びバラバラに帰す、無責任な庶民の集団を指すのである。このような大衆を、ニーチェは最後の人間と呼び、ハイデッガーはひと・非本来的人間と呼んだ。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と批判した大衆は、このように、自らの考えを持たず、体制・大勢に迎合し、集団化して行動し、決して責任を取らない人々を指すのである。ニーチェは、最後の人間に対するものとして超人を挙げている。ハイデッガーは、ひと・非本来的人間に対するものとして本来的な人間を挙げている。簡潔に言えば、超人、本来的な人間は、孤立、孤独を恐れず、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間である。しかし、現代においては、人間は、皆、大衆の中で、大衆として育つ。課題は、その中にあって、大衆性を持したまま一生を送るか、その大衆性から脱却するかということなのである。もちろん、大衆性を持したまま一生を送る人は、ニーチェの言う最後の人間、ハイデッガーの言うひと・非本来的人間である。大衆性から脱却した人は、ニーチェの言う超人、ハイデッガーの言う本来的人間である。しかし、自分が、最後の人間・ひと・非本来的人間に属するか、超人・本来的人間に属するかは、他者が決めることではない。自分自身が、生きる姿勢として、考えることなのである。さて、大衆の特徴が最も良く現れるのが、マスコミとの共犯性である。週刊誌に、スクープとして、よく、既婚男性と独身女性の芸能人の不倫の記事が出る。それは、不倫記事が出ると、大衆がその週刊誌をよく買うからである。たいていの場合は、二人は不倫を否定する。それを受けて、週刊誌は、第二弾、第三弾の記事を載せ、不倫の事実に説得力を持たせる。すると、大衆はますますその週刊誌を買う。すると、芸能人は、思いあまって、記者会見をして、謝罪する。その場合、不倫を認めて謝罪する芸能人と、世間に誤解を与えて申し訳ないと謝罪する芸能人がいる。誰に対して謝罪するのか。大衆に対して謝罪するのである。しかし、清潔感、誠実性のイメージで売っていた芸能人の場合は、清潔感、誠実性のイメージを崩し、嘘をついたということで、全てのテレビ番組、ラジオ番組を失い、スポンサーからコマーシャル契約を解除されることになる。しかし、男性芸能人の中には、ファンの前では迷惑を掛けたと謝罪しても、公式の場では謝罪しない者もいる。彼は、迷惑を掛けた人に謝罪するのは当然だが、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う。大衆に対して謝罪する必要は無いというわけである。言うまでもなく、不倫事件で、最も傷付いたのは、男性芸能人の奥さんである。そして、迷惑を被ったのは、芸能人の所属事務所、コマーシャルで彼らを使っていたスポンサー、番組で彼らを使っていた放送局、スポンサーである。そして、芸能人とその所属事務所は、スポンサー、放送局に違約金を支払うことになる。芸能人は、迷惑を掛けた人たちに対して、できる限り、責任を取ろうとする。独身女性芸能人の中には、相手の男性の奥さんに、謝罪の手紙を書く人もいる。しかし、やはり、テレビ番組では、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う男性芸能人に対して、ほとんどのコメンテーターが、反省が足りないと批判する。巷のインタビューでも、大衆は、コメンテーターと同じく、その男性芸能人に反省が足りないと批判している。しかし、果たして、マスコミや大衆が言うように、その男性芸能人には反省が足りないのか。その男性芸能人は大衆に対して謝罪を表明すべきなのか。それとも、男性芸能人が言うように、何ら関係のない世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はないのか。端なくも、芸能人の不倫騒動によって、芸能人、マスコミ、大衆の関係性が如実に表面化した。マスコミは、芸能人のスキャンダルを記事にしたり、放映したりすることによって、命脈を保っているのがわかる。なぜ、芸能人のスキャンダルを材料にするのか。それは、大衆が好むからである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧さの塊なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧さとは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態にいられる。まさしく、大衆は、芸能人の不倫騒動に対しても、世間話、好奇心、曖昧さを基に楽しんでいるのである。しかし、大衆は、自らが好奇心の塊であることに気付いていない。大衆は、男性の奥さんに対しての同情の言葉を発して、自らが優しい人間だと他者にアピールする。また、自分自身、そう思い込んでいる。不倫をした芸能人を断罪することによって自らが正しい人間だと他者にアピールしている。大衆は、異口同音に、不倫した芸能人を断罪し、男性芸能人の奥さんに対しての同情の言葉を発して、大衆として、仲間意識を持ち、安心感を得ている。他の大衆と同じ意見を吐いているから、自分の言葉に責任を取る必要が無く、心強い。安心して、芸能人の不倫騒動にうつつを抜かすことができるのである。しかし、大衆が芸能人の不倫騒動をこのような形で世間話で語るように仕向けたのはマスコミである。それは、マスコミの恣意的な操作によるものなのである。マスコミは、大衆の動向を鳥瞰して嘲笑などしていない。マスコミと大衆は同じ方向性にある。マスコミも、大衆の一人なのである。マスコミは、大衆だから、大衆の気持ちがよくわかり、大衆の好みそうなものを記事に取り上げたり、放映したりするのである。マスコミは、先鞭を付けただけなのである。確かに、男性芸能人は奥さんには謝罪すべきであろうし、露見するやいなやもう既にしてしまったことであろう。しかし、本質的には、彼が言うように、何ら関係のない一般世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はない。だから、このまま、一般世間の人々・大衆に謝罪しないという自らの信念を押し通しても、何ら道義に違反しない。また、女性芸能人も、同様に、男性芸能人の奥さんには謝罪すべきであろうが、本質的には、何ら関係のない一般世間の人々、大衆に対して謝罪する必要はない。しかし、女性芸能人は、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪した。なぜ、男性芸能人は謝罪せず、女性芸能人は謝罪したのであろうか。それは、女性芸能人は清潔感、誠実性をて売ってきたが、男性芸能人はそれに与しなかったからである。清潔感、誠実性を売ってきた女性芸能人は、謝罪しなければ芸能界で生きていけないからである。しかし、男性芸能人は、清潔感、誠実性を売りにしていないので、ファンと関係性を築ければそれで良いと思い、ファンだけには謝罪したのである。女性芸能人は、大衆と関係性を築かなければ(人気を得なければ)、芸能人というステータスを失ってしまうのである。だから、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪したのである。しかし、それでも、その後、女性芸能人は、テレビ局から見放され、大衆から不信感を持たれ、芸能人というステータスを維持できなくなった。全てのテレビ番組、ラジオ番組を降板し、謹慎生活に入らざるを得なかった。最悪の結果になってしまった。それでは、女性芸能人は、放送業界にとどまり、芸能人というステータスを維持するためにはどうしたら良かったのだろうか。まず、最初に考えられるのは、最初に不倫の報道が出た段階で、不倫を否定するのではなく、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったということである。そうすれば、逆に、放送業界や大衆からから正直者として評価され、芸能人というステータスを維持できたかもしれない。しかし、それが裏目に出て、放送業界や大衆から不倫者として非難され、一挙に、芸能人というステータスを失うかもしれない。だから、不倫を否定したのである。しかし、最初に不倫を否定したから、週刊誌が、第二、第三の矢を放ち、不倫を否定しても、放送業界や大衆は嘘つきというレッテルをはってしまったのである。むしろ、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったのである。女性芸能人は賭けに失敗したのである。しかし、芸能人はなぜ不倫をするのだろうか。芸能人は、不倫が露見すれば、放送業界という構造体から追放され、タレントや俳優の自我を失い、不倫が露見すれば、家族という構造体から追放され、父や母という自我を失い、不倫が露見すれば、夫婦という構造体から追放され、夫や妻という自我を失う可能性が高いのをわかっていながら、なぜ、不倫をするのだろうか。それは、芸能人に限らず、人間は、意識や意志で恋愛するわけでは無いからである。恋愛感情は、意識や意志という表層心理でなく、人間の無意識の思考である深層心理で生まれてくるから、意志で止めることはできないのである。しかし、恋愛感情に限らず、感情は、無意識、つまり、深層心理が生み出すから、容易に止めることはできないのである。だから、不倫が露見すれば苦境に立たされるのがわかっていながら、二人の愛情は冷めることがないのである。だから、誰しも、不倫をする可能性があるのである。しかし、大衆はそれを認めない。タレントや俳優は絶対に不倫をしてはいけないと思っている。特に、清潔感、誠実性を売りにして人気を博していた女性た芸能人が不倫すると、裏切られた大衆の復讐は激しい。週刊誌も、清潔観、誠実性を売りにした芸能人が不倫した記事を載せると、大衆がよく買ってくれるので、彼らのプライバシーを徹底的に暴く。放送業界も、大衆の支持によって成り立っているから、大衆の視線を気にせざるを得ない。それは、視聴率となって現れる。だから、放送業界も、大衆の世間話、好奇心、曖昧さに迎合せざるを得ないのである。しかし、日本において、清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は存在するのだろうか。清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は実体のない芸能人である。果たして、実体のない芸能人は存在するのだろうか。しかし、実体のない芸能人は存在する。それは、アイドルである。アイドルとは、一般に、若手タレントの人気者を指しているが、本来の意味は、偶像である。アイドルだけでなく、清潔感や誠実性を売りにした芸能人は偶像なのである。だから、アイドルは、不倫によって、清潔感や誠実性のイメージがはぎとられると、放送業界から去り、二度と戻ることはできないのである。アイドルは、恋愛することすら許されていない。しかし、実体のない(偶像に満ちた)芸能人こそ、放送業界の重要な一翼を担っているのである。清潔感や誠実性を売りにした芸能人は実体がないから、実体を見せると、次から次へと消されるのである。そして、次から次へと消えていくから、次から次へと生まれてくるのである。その新奇さが、大衆の好奇心を満足させるのである。芸能人には、大衆の好むイメージさえあれば良く、実体が無くても良いのである。だから、我も我もと若者は芸能人になりたがるり、次から次へと生まれてくるのである。また、大衆の好むイメージには、清潔感、誠実性以外に、爽やかさ、若々しさ、清楚、可愛らしさ、美しさ、上品さ、優しさなど、様々なものがる。つまり、放送番組は、実体のない、イメージに満ちた、偶像の世界なのである。そこに、不倫という実体を持ち込んだ芸能人が現れると、去らざるを得なくなるのである。これからも、放送業界には、芸能人が、次から次へと生まれてくるだろう。そして、その新奇さが飽きられて消えていくか、実体を持ち込んだために消されていくだろう。放送業界とは、虚構の構造体なのである。芸能人は、放送業界という虚構の構造体に属し、放送業界人、マスコミ、芸能人という関係性の中で、芸能人という自我を得ている。だから、芸能人というステータス自身が虚像なのである。しかし、この世で、虚構でない構造体、変化しない関係性、虚像でないステータスは、存在するのだろうか。確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスが存在しなければ、人間は不幸なのだろうか。むしろ、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きて行った方が幸福になれるのではないか。しかし、大衆は、確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスを信じて、追い求めて、歴史を形成して来たのである。それが不幸の源泉であることに気付かないのである。大衆は、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて生きていくことが、幸福に繋がることを知らないのである。構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることに気付き、それを受けとめて暮らしているのが、超人である。さて、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされるだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う超人である。超人とは、これまでの人間である最後の人間、すなわち、大衆を否定した人間である。最後の人間とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、超人とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間ということになるのである。ニーチェは、「神は死んだ」と言うのは、超人が現れる時が来ていて、現代がその時代ということなのである。である。超人とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している最後の人間たちの誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、超人は、この世で、自らの神を打ち立てるのである。しかし、超人は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。そして、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言い、苦悩の中で、自らの神を誕生させ、超人になることを勧めているのである。しかし、人間、誰しも、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考するが、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で意識して思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、無意識の思考である深層心理の支配下にあって、楽だから、同じような生活を繰り返そうという生き方をしている者は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考しても、思考が短時間で終わり、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく者も、日常生活の奴隷なのである。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、超人になる可能性が開かれているのである。先に述べたように、ニーチェの言う超人とは、ハイデッガーの言う本来的人間である。つまり、我々の中で、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、超人・本来的人間になる道が開かれているのである。「権力への意志(力への意志)」を持って、「永劫回帰(永遠回帰)」に思考する者しか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、超人・本来的人間だけが、日常生活の些末な苦悩・苦痛から解放されるのである。





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