あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は感情と気分という情態性に動かされる動物である。(自我その292)

2020-01-06 21:30:58 | 思想
人間は、一時的な喜びの感情と継続的な充実のために生きている。いや、生かされている。そのように、作られているのである。人間、誰しも、それから逃れることはできない。つまり、人間は、感情と気分という情態性に動かされて生きている動物なのである。ハイデッガーは、「我々は、知覚や行為によるさまざまな事物や他者への関わり合いに先立ち、そうした関わり合いの場としての世界が情態性によって予め開かれている。我々が何にどのように関わり合うかは、情態性しだいである。我々が情態的に自らを見出すあり方によって、世界がどのように開かれるかは左右されるのである。現存在である我々が情態性によって突きつけられているのは、被投性と呼ばれているような、自らがそこに投げ込まれ、そこに引き渡されている、そのあり方である。しかし、情態性は、現存在である我々の被投性を開示すると共に隠蔽するのであり、さまざまな気分の中で不安という気分が持つ意味を強調するのも、それが現存在である被投性を開示するからである。」と述べている。情態性とは感情と気分という気持ちを指す。感情は一時的に高揚した気持ちであり、気分は継続した気持ちである。被投性とは、人間は、自ら主体的に動いているのではなく、動かされているのであり、最初に、人間を動かそうとするのは、無意識の思考である深層心理であり、意志や意識という表層心理の思考ではないことを言う。現存在とは、人間を指し示すが、人間は、意志や意識という主体的な表層心理の思考の存在者ではなく、無意識という深層心理という非主体的な思考に導かれている存在者であることから言う。簡潔に言えば、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や気分という情態性の中にあり、情態性が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させているのである。」と述べているのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある気分を持して、ある構造体の中で、ある自我を持ち、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自らのあり方である。気分とは、人間の深層心理に住し、人間自らは意識している時と意識していないと時がある。気分は、感情のうねりによって、変化する。さて、人間は、社会的な動物であるから、いつ、いかなる時でも、常に、ある気分を持して、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように、生きている。さて、構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。日本という構造体には、日本人という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、常に、気分を持しながら、構造体の中で、自我を主体に立てて、他者と関わり合いながら暮らしているのであるが、最初に、自我を主体に立て、自我を動かそうとするのは、深層心理である。深層心理とは、人間自らは意識していないが、心の中で行われている思考活動である。だから、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれているのである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。自我の欲望が、自我の活動の起点になるのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。このように、自我を動かすのは、その人の深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理は、快楽という感情を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出しているのである。それが、フロイトの言う「快感原則」である。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。さて、快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、どのような状態であれば、快楽を味わうことができるのか。その状態は三つある。深層心理は、自我を主体に立てて、快楽という感情を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それでは、対他化とは何か。対他化とは、他者から自我に対して好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。つまり、それは、自我が他者に認められている状態である。だから、深層心理は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、他者に認められたいという欲望を持って、他者が自我をどのように思っているかを探ろうとする。これが、自我を対他化することであり、自我の対他化である。このような人間のあり方を、対他存在と言う。つまり、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、深層心理が、その人から自我に対して好評価・高評価を得たいという思いで、その人の思いを探るのである。深層心理は、期待通りに、その人から自我に対して好評価・高評価を得ていると思うことができれば、喜びという快楽という感情を得ることができるのである。しかし、深層心理は、期待に反して、その人が自我に対して悪評価・低評価を与えていると思うと、傷心や怒りの感情を覚え、自我に対して逃げ出せや復讐せよなどの行動の指令を出すのである。中学三年生の受験生という自我の不安は、高校受験に失敗して、自分が所属している学校や家族や近所や親戚や仲間などの構造の人々から、悪評価・低評価を与えられることの不安である。しかし、ほとんどの中学三年生は、受験生という自我を捨てようとがしない。高校受験を回避しようとはしない。それは、ラカンの言う「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は他者の評価を勝ち取ろうとしている。人間は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人間は他者の期待に応えたいと思う。)だからである。ラカンのこの言葉は、自我の対他化の現象を説明しているが、中学三年生の受験生という自我の対他化の現象をも説明している。中学三年生は、他の同級生が、高校受験するから、自らも受験するのである。中学三年生は、中学校という構造体の教師や家族という構造体の親が勧めるから、受験して、高校に進もうと思うのである。次に、対自化とは何か。対自化とは、一般に、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動である。しかし、対自化は、他者に対してだけにとどまらない。物や事柄に対してにも、及ぶのである。だから、対自化の目標は、自我で他者や物や事柄という対象を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配しているという状態になることである。だから、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っていて、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとしている。つまり、対象の対自化とは、自我の力を力を対象に遺憾なく発揮することなのである。まさしく、ニーチェの言う「権力への意志」である。特に、他者という対象の対自化は、他者の欲望を排して、自らの欲望を他者に刻印することなのである。それが、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の前文の内容の状態である。中学三年生の受験生としての自我の欲望は、他の受験生という他者の欲望を排して、自らが合格することによって、自我の力を他者に刻印することなのである。しかし、逆に、自分が不合格になれば、合格者という他者の力を自我に刻印されるから、それを恐れて、不安になるのである。次に、共感化とは何か。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、共感化が成立した情態とは、自我と他者と理解し合っている・愛し合っている・協力し合っている状態である。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。自我と他者の共感化とは、常に他者の評価に身を投げ出す自我の対他化でもなく、常に対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配するという対自化でもない。自我の対他化と他者への対自化を交互に行い、喜びを分かち合う現象である。また、「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という現象も、自我と他者の共感化によって起こる。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化しようとして、争っている状態である。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。しかし、受験生という自我を持っている中学三年生にとって、自我と他者の共感化はあり得ない現象である。同級生が、全て、高校受験を争う他者だからである。言わば、同級生が、全て、敵なのである。しかし、教師たちは、受験生という自我を持っている中学三年生に、共通の敵として受験が存在しているのだと思わせることによって、中学三年生の分断、中学三年生同士の敵視を阻止しようとするのである。言わば、共通の敵として受験が存在していると思わせることによって、中学三年生を「呉越同舟」化させているのである。そして、その作戦は、成功しているかのような様相を見せている。なぜならば、中学三年生も、また、同級生を敵として見ていると思われたくないから、そのように見せているからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の後文の内容の状態である。そして、深層心理は、自我が存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、社会生活を営んでいる。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自分や自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分や自己の姿なのである。人間は、単に他者と区別した存在である自分や自己が、構造体の中で、自我という具体的な形を取ることによって、存在感を覚え、行動できるのである。受験生も自我である。言うまでも無く、中学三年生は、中学校という構造体に所属している。しかし、中学一年生も中学二年生も、同じように、中学校という構造体に所属している。しかし、彼らは、自動的に進級していくが、中学三年生だけは、受験という壁を突破しなければ、次年度、高校という構造体に所属できない。ほとんどの中学三年生は、中学三年生という自我と受験生という自我を併せ持っているから、不安な日々を送っているのである。高校受験の日が近づくと、いっそう不安になるのは、誰しも経験していることである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を得て、活動しているが、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動している。中学三年生も、クラブ活動の時間帯には、クラブという構造体に所属し、部員という自我を得て活動し、家庭にいる時間帯には、家族という構造体に所属し、息子や娘などの自我を得て活動している。しかし、たいていの中学三年生は、クラブという構造体で部員という自我で活動している時も、家族という構造体で息子や娘などの自我で活動している時も、常にもしくは時として、受験生という自我を有していることを意識する。それほどまでに、高校受験は不安なことなのである。このように、人間は、まず、自ら意識せずに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、次に、表層心理が、深層心理の結果を受けて、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動である。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。しかし、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望の通りに行動しない場合がる。なぜならば、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動するか、それを抑圧するかを審議する場合があるからである。つまり、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、自我を主体にして、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを思考する場合があるのである。その結果が、意志としての行動となるのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、深層心理の瞬間的な思考と異なり、長期的な展望に立っている。表層心理でのこの思考活動が、広義での、理性である。しかし、人間は、表層心理で思考を開始するのは、常に、深層心理の思考の結果を受けてのことなのである。表層心理で独自に思考を開始することはないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が、狭義での、理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。このように、人間は、深層心理の思考から始まるのである。表層心理(理性)の思考は、深層心理の思考の結果を受けてのものなのである。さて、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や気分という情態性の中にあり、情態性が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させているのである。」という意味のことを述べているが、感情とは、深層心理がもたらした、すぐに、一つの行動を起こすための心理状態である。気分とは、深層心理の中にある、長期の、一連の、継続した行動を起こすための心理状態である。つまり、感情も気分も、深層心理が引き起こした、行動を起こすための心理状態なのである。さて、人間が常に何らかの感情や気分の中にあるということは、人間は常に何らかの情態性にあるということである。情態性は、単なる心の状態ではない。人間は、情態性にあるから、それに応じて、いろいろな事象が認識でき、自分の状態が認識でき、自分の存在が認識でき、そして、行動を起こすことができるのである。逆に言えば、人間に情態性が無ければ、いろいろな事象も、自分の状態も、自分の存在も無味乾燥になり、何も認識できず、行動を起こすこともできないだろう。情態性が、人間と人間の外なる現象を結びつけ、人間と人間の内なる現象を結びつけ、人間とその人の存在を結びつけ、行動を起こさせるのである。つまり、感情や気分が、人間の認識の起因であり、行動の起因なのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己の外の現象も自己の内の現象も自己そのものの存在も認識できず、行動できないのである。その典型が、不安という気分の情態性である。人間は、常日頃、周囲に死者が出ても、いつか自分も死ぬだろうが、まだ、それは先のことだとして、自分にも死が確実に訪れるということを考えることを回避している。しかし、ある時、自分にも確実に死がやって来るのだと思う時や死を引き受けねばならぬ時がやって来る。死は回避できない、確実に自分にすぐにやって来るも思ったり、死を目前にした時、人間は、不安の情態性に陥る。人間は、不安に陥ると、自己そのものも、自己の内外の現象も、自己から滑り落ち、全く、行動を起こす気がしなくなる。言わば、無の状態に陥る。なぜ、不安の情態性に陥ると、無の状態に陥ってしまうのか。それは、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、他者から与えられたものだからである。不安の状態が、それを露見させ、無の状態におとしめるのである。ハイデッガーは、「他者(ハイデッガーの用語では「ひと」)から与えられた見方を、自分で構築した見方に変えない限り、不安の情態性、無の状態から逃れることはできない。」と言う。る。そして、ハイデッガーは、「自らの死を引き受ける覚悟、不安を辞さない覚悟を持てば、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、自分自身で、構築し直すことができる。」と言う。これが、ハイデッガーが実存主義者と言われるゆえんである。(ハイデッガー自身は、自らを、実存主義者ではなく、存在の思考者であると言っている。)さて、古来から、西洋でも、東洋でも、感情(深層心理が生み出した感情)を、理性(表層心理による思考)と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。辞書は、感情について、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」と説明している。つまり、辞書では、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないのである。このような捉え方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。そして、理性については、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」と説明している。現代の辞書も、古来の見方と同じなのである。まず、理性は「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」とあるが、「本能」について、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や気分が流れている。深層心理が、思考して、感情(や気分)と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、それを受けて、深層心理が生み出した感情(や気分)の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、理性(表層心理による思考)が「道理に基づいて思考し」ているとあるが、人間は、既に、深層心理が思考しているのである。確かに、深層心理の思考は「快感原則」の思考であり、表層心理の思考は「現実原則」の思考であるが、いずれも「道理に基づいて思考し」ているのである。次に、理性(表層心理による思考)に「判断する能力」があるとされているが、これもまた、深層心理は「快感原則」の基づいて判断し、表層心理は「現実原則」の基づいて判断し、いずれにも「判断する能力」があるのである。しかも、理性(表層心理)の思考や判断が、正しいか間違っているかを判断するのは深層心理なのである。深層心理が、理性(表層心理)の思考や判断が正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を生み出し、それで、思考や判断は終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を生み出さなければ、それが生み出されるまで、理性(表層心理)の思考や判断は継続するのである。つまり、思考や判断の最終的な決定者は、深層心理の生み出した感情なのである、すなわち、深層心理なのである。次に、理性(表層心理)に「真偽・善悪を識別する能力」があるとされているが、理性は、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別することはできない。必ず、心の奥底に、感情や気分が流れているのである。深層心理が生み出した感情や気分が動力となり、理性(表層心理)が、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。表層心理(理性)が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理の真偽・善悪の識別が、深層心理の真偽・善悪の識別の前提になっているのである。つまり、理性(表層心理)が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。表層心理が、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。次に、理性は「古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。深層心理が、まず、思考し、怒りという感情や憎悪という気分と行動の指令を生み出し、理性(表層心理)が、怒りという感情と憎悪という気分の中で、行動の指令の適否を思考した結果、人間は、殺し合うことになったのである。つまり、理性(表層心理)が戦争の抑止にならなかったのである。ウィトゲンシュタインも、「苦悩が去ったのは、必ずしも、問題が解決されたからではない。苦悩が去れば、問題が解決されていようといまいと、問題はどうでも良いのである。」と言う。つまり、感情が理性よりも優位性があるのである。