おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

柔らかい肌

2024-03-16 08:54:13 | 映画
「柔らかい肌」 1963年 フランス


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 ジャン・ドザイー フランソワーズ・ドルレアック
   ネリー・ベネデッティ サビーヌ・オードパン
   ジャン・ラニエ ポール・エマニュエル
   ロランス・バディ モーリス・ガレル

ストーリー
ピエール(ジャン・ドザイー)は44歳、文芸雑誌の編集長で著名な評論家でもある。
彼はリスボンでの講演の後ホテルに戻り、美しいスチュワーデス、ニコール(フランソワーズ・ドルレアク)とエレベーターで一緒になった。
その手にしたキーから部屋番号を知り、思い切って電話した。
彼女は一旦断ったが気を変えて誘いに応じ、翌日ホテルのバーで落ち合った。
ピエールの文学談を熱心に聞くニコール。
朝になり、2人は一緒に彼女の部屋に戻ると関係を持った。
この日から、平和でなに不自由ない落ちついた彼の生活が狂い始めた。
二人はパリに帰ってからもしばしば会うようになったが、どこにも落ちつける場所はなかった。
その頃ピエールに、田舎町での講演の依頼があり、密かにニコールをつれて出発した。
色々とスケジュールの立て込んでいたピエールはニコールを不機嫌にさせた。
パリに帰る途中でいい宿を見つけ、そこで夜を過ごして仲直りした。
しかしピエールにとって、単なる浮気ではなかったにしても、やはり家のことが気になり始めた。
予定よりまる一日帰宅が遅れているのだ。
翌日、ピエールがそこから妻に電話してランスに泊まったと嘘をいうと、主催者に連絡を取っていた妻のフランカ(ネリー・ベネデッティ)はその嘘を見破り、怒って電話を切った。
とりあえずニコールを自宅へ送り、自分の部屋に帰ったピエールは妻と大げんかに。
ピエールは部屋を出て、事務所に泊まることになった。
翌朝、妻が電話をかけてきて、離婚すると宣言した。


寸評
通俗なラブロマンスと思わせながら身勝手な男の滑稽なまでの破局をテンポよく描いていて楽しめる。
ピエールを演じたジャン・ドザイーが二枚目ぶっているが実は小心な男をリアルに感じさせるのがいい。
僕にはジャン・ドザイーはどこといって特徴のない俳優に思えたのだが、それゆえに情事にふける小心者のブルジョワ文化人をリアルに演じられたのではないかと思う。
冒頭では幸せそうなピエールの家庭の様子が描かれる。
わずかの時間で、この男が比較的裕福な階級にいて、自分の仕事と平穏な家庭生活を最優先する保守的な人物であることを感じさせる。
ピエールがリスボンへの講演旅行に出かける所なのだが飛行機の時間がひっ迫している。
飛行機の時間に間に合うかどうかを小気味よいカットのつなぎで見せるので、彼の焦りに同化させられてしまう。
空港までのハラハラする道中をハンドルやクラクションに置かれた運転手の手のアップ、車内、アクセルを踏む足、フロントガラスからの景色を巧みに挿入して目的の飛行機に乗り込むという、息もつかせぬカット割りは何となく見始めた僕を一気に作品に引き込む。
彼が飛行機に間に合うかどうか、僕も一緒にやきもきせざるを得なくなっていたからだ。

ピエールは飛行機の中で22歳のスチュワーデスのニコールを見初め、ふたりはやがて恋仲になる。
二人が出会うエレベーターのシーンが8階に行くにしては長いのは意図したものだろう。
ニコールと翌日バーで会う約束が取れた時の気持ちの高ぶりを、部屋の電気をつけていく事で表しているが、男が決してプレイボーイではない、むしろこれまで不倫の経験など一度もない不器用な男を思わせる上手い演出だ。
やがてピエールは次第にニコールとの情事にのめり込んでいき、妻に電話で嘘をつき、パリでニコールに再会して週末にはランスでの講演に彼女を連れて行くことになる。
ピエールはランスで歓待を受け、女性が一緒だとも言えず主催者の誘いを断り切れない。
ホテルに残したニコールと主催者の間を取り繕いながら行き来する姿は正に小心者の慌てぶりなのだが、どこか浮気男のリアルさを感じさせる。
講演が終わりパリまで一緒に乗せていってくれという旧友を断りきれない優柔不断さと臆病さも分らぬでもない。
ちょっとしたことで浮気がバレてしまうが、そうなると男は開き直るしかない。
男は妻に何年も我慢してきたのだと叫んでしまう。
結婚生活はお互いに我慢することもあって成り立っているものだが、ピエールにも妻に対する不満が貯まっていたものがあったのだろう。

ピエールはニコールに離婚することになった事と彼女との結婚の意思を伝えると、彼女にはその気がない。
恋愛期間の楽しさと、現実の結婚は別物なのだ。
ニコールにとっては家庭持ちのピエールだったから楽しかったのかもしれない。
そうなると妻との和解とやり直しを考えるピエールの身勝手な軽薄さが滑稽ですらある。
妻フランカの揺れ動く不安定な動揺も現実的で理解できる。
その彼女が決断をくだすことになる小道具の使い方などがヒッチコックへの敬愛を感じさせる。
最後のうすら笑いが強烈な印象を残す。

宗方姉妹

2024-03-15 07:06:16 | 映画
「宗方姉妹」 1950年 日本


監督 小津安二郎
出演 田中絹代 高峰秀子 高杉早苗 上原謙
   笠智衆 山村聡 一の宮あつ子 河村黎吉
   斎藤達雄 千石規子 藤原釜足 堀雄二
   坪内美子 堀越節子

ストーリー
何事に関しても保守的な姉・節子(田中絹代)と、新しいもの好きで奔放に生きる妹・満里子(高峰秀子)。
節子は失業中の夫・三村(山村聡)を抱え、麻理子の面倒をみながらもバーを経営していた。
そんな中、節子は京都にいる父・忠親(笠智衆)の余命いくばくもない事を知る。
満里子には真実を伏せ、姉妹で京都へ行くと、ちょうどパリ帰りの宏(上原謙)がやってきた。
満里子は、節子と宏がお互いに気持ちがあった事を知っていた。
節子の日記をこっそりと見てしまったからである。
それを機に、満里子と宏はたまに会うようになった。
満里子はそれとなく宏の節子への想いを探るのだが、うやむやにされてまともな返事は返ってこなかった。
しかも宏のパリ時代の知り合いに、満里子にとって気に食わない女性の真下頼子(高杉早苗)がおり、満里子は次第に敵意を抱くようになっていく。
自身の余命が少ない事を悟ってもなお姉妹の行く末を心配してくれている父親をみて節子は涙をこらえる。
姉妹は東京へ戻ってきたが、相変わらず家計も苦しく、店も売られてしまう寸前である。
そんな状況でも、三村は口癖の「お前のいいようにしろ」とだけ言い、我関せずであった。
ふとした会話から、満里子が節子の日記をみた事をうっかり漏らしてしまった。
それに加えて、三村も日記をのぞいていた事も。
節子は憤然とするが、満里子は勢いに任せて、どうして宏と結婚しなかったのか尋ねた。
節子は自分の気持ちに気づけなかったと答えた。
気づいたときには、三村との結婚が決まってしまい、宏もパリに行ってしまっていたと。


寸評
私は母一人子一人で育ったので兄弟愛とか兄弟間の感情とかの実体験を有していない。
それでもここで描かれた姉妹の関係は理解できるものがある。
妹の高峰秀子は流行を敏感に採り入れていかないと時代遅れになると言う新しいもの好きであるのに対し、姉の田中絹代は古くならない事が新しい事だとする古風な考えの女性である。
性格付けの象徴として田中絹代は和装で、高峰秀子は洋装である。
父親の笠智衆は家を売っても良いと言っているから、山村聡は彼女たちの家で同居していることになる。
この男が働きもせず酒を喰らうとんでもない亭主関白で、男の私でも反感を抱く存在である。
山村聡からすれば高峰秀子は小姑なのだが、この小姑は義兄が気に入らない。
同居していればそんな感情も湧くであろう山村聡のダメぶりである。
それでも妻であり姉である田中絹代は夫をかばわなければならない。
中に立つ者の辛いところである。

田中絹代には上原謙とのラブロマンス時代があり、上原謙は未だに田中絹代を思い続けているようで、妻の過去の出来事を日記を通じて知った夫は心穏やかでない。
その事が今の義兄の態度に出ていると妹は見通すが、お互いのラブロマンスを相手に語ってはいけないことは夫婦間のモラルの様なものである。
過去の甘い思い出を間接的にでも知らされた男の気持ちは分らぬでもない。
姉妹は何かにつけ考えの違いで言い争いをすることも有るが、ホンネの所で妹は姉のことを心配しており、かつての恋人である上原謙との復縁を願っているような行動をとる。
その気持ちが高じて上原謙に近づく女性は大嫌いで、それを伝える高峰秀子のとる態度は強烈だ。
やはりこの妹は我儘娘なのだと思うが、姉を思う気持ちがそうさせたのだろう。
お互いの気持ちは分かっているものの、言い出すことをためらっているうちに二人の関係が破局してしまうことは現実的にも起こりえる事だろう。
姉妹の感情が男二人を挟んでユーモアを交えながら描かれていく。
目を釘付けにさせる場面は夫と別れる決心をした田中絹代が上原謙の元へ行き、上原謙も田中絹代と結婚したい旨を山村相に伝える決心をするところだろう。
メロドラマならここでハッピーエンドとなるところだが、ドラマはここから本当の終幕に向かっていく。
優柔不断と思えた上原謙が一大決心をしたのだが、そこに山村聡が現れて仕事が見つかった事を告げて消え去り事件が起きる。
笠智衆や高峰秀子によって語られてきた、自分の思うように生きればよいということが、田中絹代の口から「私のいいようにしただけよ」と締めくくられる。
冒頭で京大が映り、薬師寺が登場し高峰秀子が神戸にやってくる。
馴染みの関西が登場してすんなりと作品に入れるが、高峰秀子が「阪神が好きなので阪神電車できた」と言うのが嬉しい。
姉妹はどこまでも姉妹なのだと思わせるのが京都御所を歩くラストシーンである。
映画のタイトルとして姉妹を”きょうだい”としているのも、この頃の時代を感じさせる。

ミッドナイトスワン

2024-03-14 07:00:03 | 映画
「ミッドナイトスワン」 2020年 日本


監督 内田英治
出演 草なぎ剛 服部樹咲 田中俊介 吉村界人
   真田怜臣 上野鈴華 佐藤江梨子 平山祐介
   根岸季衣 水川あさみ 田口トモロヲ 真飛聖

ストーリー
故郷の広島を離れて東京・新宿で生きることを決断した凪沙(草彅剛)。
もうすぐ40歳になろうとしている凪沙は、身体は男性、性自認は女性のトランスジェンダーだった。
今にも崩れそうな自分を自分自身で支えさまよっている。
広島に住む母・和子(根岸季衣)にはカミングアウトしておらず、定期的に親から電話がかかってきた際も男の声色で受けていた。
凪沙の従姉妹・早織(水川あさみ)が娘の一果(服部樹咲)を育児放棄しているということで児童相談所の指導が入り、一時的に“叔父”である凪沙に娘を預かってほしいと告げられた。
凪沙は内心嫌がりながらも、養育費が出るということで渋々引き受けることにした。
一果の母・早織は元暴走族で、19歳の時に一果を出産し、キャバクラ嬢として働きながらシングルマザーとして一果を育てていたのだが、沙織はいつしかネグレクトに陥り、家にはろくに帰らず一果を虐待するようになっていったので、和子ら親戚はそんな一果を見かね、彼女を早織から引き離すと凪沙の元に預けることにしたのだった。
ところが、凪沙が“男”だった頃の写真を一果が持っていることに気付き、取り上げて破り捨てると、凪沙は実家にこのことをバラしたら殺すと冷たく言い放った。
一果は親から虐待されてきたこともあり、当初は周囲に心を閉ざしていたが、凪沙の持っていたニューハーフショークラブの衣装、そして近所のバレエ教室をのぞき見し、バレエ指導の片平実花(真飛聖)から声を掛けられたことからバレエ教室に興味を持った。
教室に体験入室した際、買い替えたばかりだからと一果に古いバレエシューズをくれた少女が、一果が通うことになった新宿の公立中学生のりん(上野鈴華)で、二人は友人となる。


寸評
私が会社勤めをしていた頃、東京支店へ出張で行くと六本木にあるオカマバーへ通っていた時期があった。
美人系の店ではなかったが、店の女性の気を引くための気使いも必要でなく、話題も豊富で実に楽しかった。
オマケに乗ってくると、カウンターで繰り広げる芸が包括絶倒ながら拍手ものの珍芸で、O脚の私はそのテクニックに感心したものだ(カンのいい方はその芸がどのようなものか想像が出来るだろう)。
その店を早く閉めて案内してくれたクラブは美人系のクラブで、目もくらむような美人ばかりが揃っていた。
でも私は通いなれたあの店の人たちの方が気が合った。
彼女たちは「一番つらいのは田舎に帰った時に男に戻って過ごさねばならないことだ」としみじみと言っていた。
私には想像できない彼らの辛さをひしひしと感じ、慰める言葉も出なかった。
この映画でも凪沙は母親からの電話には男に戻って話しをしている。
このシーンを見て、私はあの時に聞いた話を鮮明に思い出していた。
トランスジェンダーへの理解が進んだとはいえ、どこかに根強い差別意識が残っていると思われる。
凪沙が面接を受けた時の課長の発言などは、彼自身がどこが問題だったのか分かっていないのである。
頭で分かった気になっていても、一旦芽生えた差別意識はなかなか取り除けず根深いものがある。
この課長に比べれば、バレエ教室の先生は偏見を持たず、凪沙を女性として見ている。
凪沙が授業料の延滞を申し出てきた時に「お母さん、頑張りましょう」と思わず言ってしまう。
それは凪沙を女性と見ていた証であり、また凪沙と一果に疑似母子の関係が芽生えていた証でもある。
作品の中では唯一と言っていいぐらい明るい場面であった。

一果はシングルマザーに育てられているが、酔いつぶれた母親から「あんたを育てるために働いているんだよ!」と怒鳴りつけられ自傷行為を行う。
同じように男装に戻った凪沙からも「あんたの為に働くためだ」と言われ、ここでも自傷行為をしてしまう。
私も片親に育てられ、流石に母からそのような事を言われたことはなかったが、周囲の者から同じような内容の事を言われた時には、自傷行為はしなかったものの、かなりの反感を覚えたものだった。
私を叱咤激励するつもりの言葉であったのだろうが、自分の為に母親が犠牲になっていると言われているようで、その時だけは無性に自分の境遇が腹立たしく思ったのだが、たぶん一果も同じような気持ちだったのだろう。
印象に残るのは凪沙が一果からバレエを指導される場面で、老人が「お姫様だねえ、だけど夜が明けると白鳥に戻ってしまうんだねえ、悲しいねえ」と言って去っていくシーンだ。
夜の商売で生活費を稼ぎ、ショータイムでダンスを披露して輝いていた凪沙たちは、夜が明けると同時に差別社会に放り出されてしまうのだ。
凪沙は性転換手術がわざわいして余命いくばくもなく、一果と共に海へ向かう。
そこで凪沙は小学生の頃に憧れた自分の水着姿の幻影を見る。
凪沙からバレエをねだられて海辺で一果が舞う姿は美しいシーンで、この様な場面は海辺がよく似合う。
一果とりんのバレエがシンクロするシーンもなかなか良くて、バレエ映画の側面を見せている。
しかし、りんの一果に対する嫉妬は軽いものだったのだろうかと思わせるのはどうだったのだろう。
一果の母親も立ち直ったようだし、一果が明日に向かって歩みだしたであろうことは救いだ。
「ミッドナイトスワン」とは上手いタイトルである。

護られなかった者たちへ

2024-03-12 06:39:27 | 映画
「護られなかった者たちへ」 2021年 日本


監督 瀬々敬久
出演 佐藤健 阿部寛 清原果耶 林遣都
   永山瑛太 緒形直人 吉岡秀隆 倍賞美津子
   岩松了 波岡一喜 奥貫薫 井之脇海
   西田尚美 千原せいじ 石井心咲 原日出子
   鶴見辰吾 三宅裕司

ストーリー
2011年3月11日、東日本大震災が日本列島を襲った。
施設育ちで身寄りのない若者・利根泰久(佐藤健)は住処のアパートも働き先の水産加工工場も失い、避難所となった小学校に身を寄せた。
利根はそこで親を失った“カンちゃん”という少女(石井心咲)、そして老女・遠島けい(倍賞美津子)と知り合い、打ち解け合った。
時を同じくして、宮城県警捜査第一課の笘篠誠一郎刑事(阿部寛)は行方不明になった妻・紀子(奥貫薫)と11歳になる息子の行方を探していた。
程なくして紀子は遺体で発見されたが、息子は結局発見されることはなかった。
息子は黄色いジャケットを着ており、偶然にも同じような黄色のパーカーを着ていたカンちゃんが気になった。
程なくして利根とカンちゃんは、自宅に戻っていたけいの元を訪れた。
互いに身寄りのない利根とカンちゃん、けいはいつしか家族のような絆を結んでいた。
やがて利根は栃木の宇都宮製鉄に就職し、カンちゃんは新たな里親となった民宿経営者の円山春子(原日出子)に引き取られた。
利根は休暇を利用して度々カンちゃんやけいのもとを訪れていた。
やがてカンちゃんこと幹子は中学生、高校生へと育っていった―――。
震災から9年後、利根はある罪で刑務所に服役していた。
模範囚として認められた利根は刑期を2年早めて出所し、保護司の櫛谷貞三(三宅裕司)の手引きで前科者も受け入れてくれる坂巻という男の経営する工場で働くことになった。
一方、笘篠は相棒の若手刑事・蓮田智彦(林遣都)と共に働いていた。
そんなある日、仙台市内の廃アパートの一室から男性の遺体が発見され、笘篠と蓮田は捜査に乗り出した。


寸評
2011年3月11日に東日本大震災が起き、それぞれの人が被害を受ける。
彼らの当時の様子が度々物語に挿入されるが、9年後に起きた事件との関連性が乏しく煮え切らない。
カンちゃんは黄色い服を着ているが、笘篠の息子も黄色い服を着ていたことで彼女への関心を持つのだが、やがてそのことに利根も絡んでくる。
それならその事に対する震災時の様子も描き込んでおかねばならなかったのではないか。
けいの家で、互いに身寄りのない利根とカンちゃんを交えた三人は疑似家族を形成していく。
疑似家族としての結びつきを強くしていく様子を描き込んでいれば、事件の雰囲気も犯人と思われる人物への思い入れも、もっと深いものになったような気がする。
笘篠が妻子の幻を見るシーンまで用意されているのに、東日本大震災が事件の背景にしかなっていないことが作品を煮え切らないものにしていると思う。
登場人物の多いことも拍車をかけていたのかもしれない。
刑事側として鶴見辰吾の東雲が登場するのだが、捜査の責任者である彼は笘篠による取り調べを組織の決まりにより許さない。
東雲の杓子定規な行いは福祉センターにも言えることなのだが、その比喩は感じることは出来ない。
福祉センターの人物として三雲の存在は分かるのだけれど、殺されることになる城之内や幹子の同僚である菅野の役割は不明確だ。
利根はけいのタンスから残高の少ない預金通帳を発見するが、同時に学習塾のパンフレットもあり、その学習塾を経営している宮園真琴という劇的な女性の存在も多くの登場人物の中に埋もれてしまっている。

物語の中で福祉行政の矛盾が幾重にも描かれていく。
渡嘉敷という女性は生活保護を受給しながらスーパーで働いていた為に生活保護費の返還を迫られる。
彼女は家庭環境のせいでいじめを受けている娘のために塾の費用を工面しようとしているのだが、規則はそれを許さない。
結局彼女は娘と無理心中を図ることになる。
国枝という男は障害者を偽装しており、生活保護受給者は所持できないはずの高級外車を所持している。
生活保護費を支給しなければならない人に支給されず、支給する必要のない人に支給されている矛盾である。
幹子が受給を恥だと思っている女性を説得して受給申請させると、上司からは余計なことをするなと言われる。
真面目に福祉業務を遂行しようとすると、原則から外れてしまう矛盾でもある。
三雲がけいの申請取り消しを推し進める姿は、むしろ受給者を減らせて嬉々としているようでもある。
殺人事件の解決もあるからテーマは弱くなっているが、生活保護政策の矛盾は一応描けていたと思う。
一方で、けいや利根に代表される震災によって生まれた貧困という問題は、笘篠が同じような震災被害者であることによって弱められてしまっている。
東日本大震災を絡めた面白い題材だったと思うのだが、どれもが中途半端な描き方になってしまっていたのは惜しかった。
犯人として利根の匂いをプンプンさせているのはドンデン返しを狙ったものなのだろうけど、ちょっとあざとすぎたような気がする。

マトリックス

2024-03-11 06:54:38 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/9/11は「戦場のピアニスト」で、以下「戦場のメリークリスマス」「戦争と人間 第一部 運命の序曲」「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」「千利休 本覺坊遺文」「ソーシャル・ネットワーク」「早春」「そこのみにて光輝く」「そして父になる」「卒業」と続きました。

「マトリックス」 1999年 アメリカ


監督 アンディ・ウォシャウスキー / ラリー・ウォシャウスキー
出演 キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン
   キャリー=アン・モス ヒューゴ・ウィーヴィング
   グロリア・フォスター ジョー・パントリアーノ
   マーカス・チョン ジュリアン・アラハンガ

ストーリー
警察は男女が誰かを監視している会話を盗聴してトリニティという女の部屋に踏み込んだが逃げられた。
常人を凌駕するエージェント達は彼女の監視していた男を検索し始めた。
寝伏していたアンダーソンことネオは、パソコンが勝手にメッセージを受信している事に気付いた。
翌日ネオが出社すると宅配で携帯電話が届き、その携帯から男の声が聞こえて来て、ネオはそれが探していたモーフィアスだと気付いた時エージェントがネオを逮捕しに来た。
ネオはモーフィアスの的確な指示で逃げるが最後の指示が完遂できず逮捕されてしまう。
取調べは威圧的でネオは弁護士を要求するが、エージェントの一言でネオの口が消えていた。
驚くネオをエージェント達は押さえつけ、虫のような機械をへそから潜り込ませネオはそこで気絶してしまう。
ネオは自分のベッドで飛び起きたが口はあった。
夢かと思うとそこにトリニティからの電話で呼び出され、吸引機のような機械で体内に居る虫を吸い出してもらい、目的地に向かった。
目的地のビルでモーフィアスと面会すると、彼はネオが探しているマトリックスと世界の真実を見せると言いある薬を飲ませたところ、ネオの体が徐々に、塗装が剥れて行くように変わっていった。
彼の意識が混乱し、もがき、何かを突き破ると、そこは奇妙なカプセルの中だった。
モーフィアスは回復したネオに、世界はネオの認識より遙かに時間が経過しており、人間は機械が作り出したマトリックスという仮想現実空間で眠りながらその中で電池としての一生を終えていると告げる。
その中で世界の虚構に気付いた者がおり、脱出してザイオンという街を作って抵抗していた。
モーフィアスはこの世界を救う救世主を探していてそれがネオだと言う。
ネオは真実を知りショックを受けるが、次第に現実を受け入れるようになる。


寸評
現実だと思っている世界が実は仮想現実だったという物語をカンフーアクションと融合させた斬新なSFである。
ネオが上半身を反らせて飛んでくる銃弾を受けるシーンや、ネオとエージェント・スミスが宙に飛び上がったまま銃を撃ち合うシーンなどのアクション場面ではVFX技術が駆使されて見応えがある。
とは言うものの、僕は本作のようなオタク好みのような作品はあまり好きではない。
現実の世界から仮想現実の世界に入り込む描写や、ネオの口が消えたり、変な虫がへそから体内に入れられたりすることでSFの世界に引き込まれるのだが、どうも人間の情緒的な物を感じることができない単なるアクション映画と思ってしまうのだ。
しかし一方ではキアヌ・リーブス主演のシリーズとして支持を受け人気があるのも事実なのだが、僕は興味を持つことはなくこの作品以降の続編を見ていない。

ネオは人類を救う救世主なのだが、僕たちは分かっていても登場人物たちは彼が救世主であることは最後になって知るので、それまではエージェントから逃げ回っているだけである。
基地ではコンピューターを駆使して居場所を突き止め逃げ口を指示するのだが、そのツールが携帯電話と言うのがアナログっぽい。
作品は日本のコミックの影響を受けているのか、縦に流れるプログラム文字の中にカタカナが見られたり、ネオがモーフィアスからカンフーの訓練を受ける部屋は日本家屋の道場のようである。
カンフーとワイヤーアクションによる空中格闘だけは香港映画の様であった。

エージェントは人類だけは特殊な哺乳動物だと言う。
ある地域に住み着いて資源を荒らしまわり増殖していく。
それはまるでウィルスのようで、人類はウィルスなのだと言うのだ。
エージェントの言葉は全人類への警告でもあったと思う。
確かに人類は特殊な哺乳類である事は間違いない。
あらゆる動物は生涯に歩く距離はほぼ同じで、チョコチョコ動くネズミは寿命が短く、のっしのっしと歩く象は寿命が長く、結局歩く距離は同じだそうである。
ところが人間だけはその行動範囲は極端に広い。
生物の頂点に立つ人類なのだが、増長が過ぎてある程度は駆逐されるのかもしれない。
その相手はウィルスなのかもしれないが、ここでは仮想空間にうごめいている人間もどき達であろう。
彼らは機械が作り出したアンドロイドで、本当の人間は一部が生き残り別世界で潜んでいるらしい。
その人類を救い出す救世主がネオなのだが、潜んでいる人類を救い出すまでには至っていない。
この後がシリーズ化によって描かれそうなエンディングとなっている。

ところで体内に入れられた虫は何をする虫だったのだろう。
またモ-フィアスは注射を打たれながらも暗号をもらすことがなかったのは何故なのだろう。
簡単に死ぬ人間と、なかなか死なない人間がいるのはこの手の作品では当たり前となっているようだ。
コンピューターのオペレーターと裏切り者などはその典型であった。

街の灯

2024-03-10 07:18:54 | 映画
「街の灯」 1931年


監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン ヴァージニア・チェリル
   フローレンス・リー ハリー・マイアーズ
   アラン・ガルシア ハンク・マン ジョン・ランド

ストーリー
ある町で盛大な銅像の除幕式があった。
紳士淑女こもごも立って祝辞を述べた後に、いざ像を覆っていた幕が引き下されると驚いたことに、この像の上には一人のみすぼらしい小男が眠っていた。
ところが、この浮浪者が計らずも、街角で花を売る娘を見て胸を踊らせたのである。
しかも、この盲目の娘は彼女に大金を恵んだ紳士が彼であると思い込んで彼の手を握っては感謝の言葉を述べるのであった。
彼は初恋に胸をときめかせ、そして働いて金を儲け彼女と交際しようと考えた。
まず街の清掃作業員になり、金が入ると彼女の家へ堂々として紳士らしく訪問していき、いじらしい盲目の娘と、つつましく話をしたり、彼女がやさしく微笑んだりするのを眺めては思慕の情を高めていった。
娘は病気になってしまったのだが、彼は職を失っていて大切な恋人の病を癒す大金の手当てがつかない。
ある日、彼の目の前に酔っ払いの百万長者が現れる。
この金持ちは酔うと、「やア親友!」と叫んでは浮浪者たる彼の首っ玉に跳びつく癖のある男で、彼も幾度かその邸宅に引っ張られて夜を明かしたことがある。
ただ残念なことには、酔いがさめると、もう全然酔中のことは忘れているということであった。
金の探索に困り抜いていた彼は金持ちに相談すると、そこは大金持ちでその上に酔っていたので、金持ちは大いに気前よく彼を我家に招じたうえに金1千ドル也をポンと投げ与えてくれたのだが・・・。


寸評
僕はチャプリン映画はそんなに好きではないのだが、「町の灯」は見方によっては色々な要素が持ち込まれていて考えさせられる作品になっていると思う。
映画は除幕式が華々しく行われている中で、その幕を取るとそこにいたのは1人の浮浪者が寝ているというコメディから始まる。
当時アメリカは繁栄していたと思うが、一皮めくれば浮浪者が変わらず存在する偽りのものでしかないという皮肉が込められていて、それを笑いをまじえたコメディで表現していると思われる。
多分権威者たちは説教じみた演説をしているのだろうから、彼らの演説は何を言っているか分からない擬音で皮肉的に表現されていて、アメリカ国家が流れると皆が直立不動となる欺瞞を描いたシーンだ。

浮浪者のチャプリンは酔っぱらった金持ちと出会う。
二人の間で最初に繰り広げられるドタバタは何度も川に落ちると言うもので、それがくどいと思われるくらい何度も繰り広げられる。
吉本の新喜劇を見ているようなバタくさいドタバタ劇で、これがコメディなのだと言わんばかりだ。
二人の関係は上流社会の人間と最下層の人間の交流というより対比を感じさせる。
金持ちはおそらく妻とも離婚してお先真っ暗で、もう死ぬしかないような精神状態に追い込まれているのだろう。
金持ちは酔って自我を失っている時でしか浮浪者と仲良くすることができない。
酔った勢いで店に行ったり、パーティを開いたりするが、浮浪者は彼らの仲間に入り込むことはできない。
花売り娘の所へ金持ちを装って行った時には、金持ちがいないから本当の金持ちの振る舞いが出来ない。
相容れない階級の差を示しているようで、滑稽ながら残酷なシーンでもあるように思う。
50ドルの金を稼ぐためにボクシングの試合に出ても、非力な彼はそこでも金を手に入れられない。
ギャグ満載で面白おかしく描いているが、描かれている内容は悲惨である。
しかし酔っぱらった金持ちに頼めば「彼女のことは任せろ、とりあえず1000ドルもあれば十分か?」と簡単にお金を渡してくれるのだ。

花売り娘が病気になり、代わりに老婆が花を売りに行く。
出かけて行くシーンだけでも良さそうなものだが、チャプリンはあえて誰も花を買ってくれない老婆の姿を1カット入れ込んでいる。
若い娘なら買ってもくれようが、老婆ではだれも見向きもしない。
随分と残酷な映画だ。
冤罪とは言え刑務所から出てきたチャプリンはみすぼらしい姿で、花屋で目が見えるようになった娘と再会する。
娘は「あの人私のことが好きみたい」と上から目線の立場になっている。
娘はチャプリンの手に触れ「You?」と尋ね複雑な表情を見せる。
映画はここで終わるから、その後は観客の想像に委ねられている。
足長おじさんが浮浪者と知った娘はどうしただろう。
チャプリンが「違う」と言って立ち去るエンディングでもなく、「No」と言って否定して終わるでもなく、認めたところで終わる絶妙のエンディングは流石と思わせた。

町田くんの世界

2024-03-09 07:55:34 | 映画
「町田くんの世界」 2018年 日本


監督 石井裕也
出演 細田佳央太 関水渚 岩田剛典 高畑充希
   前田敦子 太賀 池松壮亮 戸田恵梨香
   佐藤浩市 北村有起哉 松嶋菜々子
   笛木優子 土屋アンナ

ストーリー
高校生の“町田くん”こと町田一(細田佳央太)は、生物学者で現在はアマゾンに出張中の父・あゆた(北村有起哉)、母・百香(松嶋菜々子)と、4人の弟妹がいる大所帯で暮らしている。
町田くんは不器用な性格で勉強も運動も苦手なのだが、とにかく“人を愛する”ことが大好きで、バスで老人に席を譲るなど心優しい少年である。
学校の美術の時間で間違いをクラスメートの栄りら(前田敦子)に指摘された町田くんは、誤って彫刻刀で怪我をしてしまい、ちょうど授業をサボって保健室にいたクラスメートの猪原奈々(関水渚)に簡単な手当てをしてもらい、感激した町田くんは猪原に感謝の気持ちを伝えたが、元々“人が嫌い”な猪原は戸惑ってしまう。
町田くんは「僕は人が好きだ」と言うと、猪原は「今どき人が好きって言っているほうがおかしい」と応えた。
しかし、猪原はなぜか町田くんのことが気になるようになった。
「人が嫌い」な猪原は将来叔母の住むロンドンへの留学を希望していた。
週刊誌『芸能チェイス』の記者・吉高洋平(池松壮亮)は書きたくもない芸能人のスキャンダル記事を書くことに疲れ切っていた。
そんなある日、バスに乗った吉高は席を譲ろうとしている町田くんの姿を見た。
町田くんはこの街ではキリストみたいだとの評判であり、吉高は悪意と偽善に満ちた世の中で、町田くんのような根っからの善人もいるのかと感じた。
モデルとして活動している男子生徒の氷室雄(岩田剛典)は常に格好ばかりつけており、チャラい性格が災いして恋人の高嶋さくら(高畑充希)から別れを告げられ、モデルの仕事も減ってきていた。
ある日、氷室は、たまたま遭遇した猪原をナンパし、それを見かけた町田くんは猪原をその場から連れ去った。
猪原は反発しながらも町田くんの行為はまんざらでもなかった。
そんな猪原に町田くんと同学年の西野亮太(仲野太賀)が想いを寄せていた。


寸評
高校生の恋を描いているが、歳を取っても僕はこの手の作品にホンワカした気分になってしまう。
運動が苦手なことを示すためとは言え、町田くんが変な走り方をしているとか、急にメルヘン調になってしまうとかに反感を抱いてはこの映画を楽しむことはできない。
人間大好きで親切心の塊のような町田くんのような人物は映画の世界だけにしかいないことも百も承知である。
悪意がはびこる世の中にあって、町田くんは我々が待ち望む人物で、彼のような人間が大半を占めていればどんなに素晴らしい世の中かと思う。
そういう理想の人物の対極にいるのが現実的に思える猪原さんでリアリティを感じる。
彼女は母親のスキャンダル記事による誹謗中傷で人間嫌いに陥っている。
個人に対する悪口、陰口、誹謗中傷は現実的だ。
また町田くんに好意を持ち始めた猪原さんの思いが町田くんにはなかなか伝わらない。
恋い焦がれている気持ちを上手く伝えられない、あるいは思いをなかなか気付いてもらえないなどは青春時代に経験したことだろうし、彼女を自分に置き換えれば、僕の青春が蘇ってくる。

町田くんの行動は滑稽だし、現実離れしているように思えるが、しかし彼の善意をここまで徹底的に描かれると爽快ですらある。
猪原さんは町田くんが自分に好意を寄せているのではと期待したが、町田くんの口から発せられたのは氷室の件だったので、がっかりした猪原さんはバスを降りてしまう。
たまたま居合わせた雑誌社の吉高は町田くんに、どうしてこんなにも人に優しいのかと尋ねる。
町田くんの答えは「好きな人に悲しい顔させてしまった」である。
彼は猪原さんのことが気になったため、老人に席を譲ることを怠ってしまっていたことを悔い、猪原さんを悲しませてしまったことを悔いているのだ。
町田くんの優しさを示す一番のシーンだったと思う。

町田くんは帰国してきた父親のあゆたに自分の気持ちについて相談してみたところ、あゆたから「分からないことがあるから、この世はすばらしい。わからないことがあるから追求したくなる」と言われる。
思い通りにならないからこの世は面白いのかもしれない。
叶わぬ夢があるからその夢を追い続ける。
町田くんは母親の出産に出会い、猪原さんに「もう一人の町田が生まれる」と叫ぶ。
この言葉は、町田くんが生まれ変わったことを表していたのだと思う。
町田くんは、今迄親切にしてやった人たちに助けられて猪原さんのもとへ駆けつける。
その様子は劇画の世界だが、風船で空を飛ぶシーンはファンタ―ジーの世界である。
その風船は水面から映されていた鴨によって割られ、二人はプールに落下する。
鴨は新たな世界へ飛び出した町田くんと猪原さんそのものだ。
鴨が水面を泳いでいたように、町田くんは猪原さんに向かって泳いでいく。
町田くんの細田佳央太、猪原さんの関水渚はなかなかの好演だった。
前田敦子が狂言回し的な役割を面白く演じている。

マイレージ、マイライフ

2024-03-08 08:03:26 | 映画
「ま」行になります。

「マイレージ、マイライフ」 2009年 アメリカ


監督 ジェイソン・ライトマン
出演 ジョージ・クルーニー ヴェラ・ファーミガ
   アナ・ケンドリック  ジェイソン・ベイトマン
   ダニー・マクブライド メラニー・リンスキー
   
ストーリー
年間322日も出張するライアンのモットーは“バックパックに入らない人生の荷物は背負わない”だった。
カードに貯まったマイレージは1000万マイル目前で、それを達成することが人生の目標となっていた。
リストラ宣告人として働くライアンは、自分の社員にリストラを宣告できない会社に代わって、リストラ対象者にリストラを宣告する仕事をしている。
リストラを宣告する相手は、いつも初対面の人で、今後、2度と会うことがないため、ライアンは、リストラを宣告された人の痛みをそれほど感じることもなく、仕事と割り切り、淡々と仕事をこなしていた。
ある日、若くて優秀な女性社員のナタリーが入社してきてライアンが指導することになったが、彼女はリストラ宣告をオンラインでするという案を提案するほどの非常に合理的な女性だった。
ライアンに同行して仕事のやり方を習得したナタリーは、初めて、自分の口からリストラ宣告をする。
リストラを宣告された人の、リアルな悲壮感を目のあたりにし、さすがのナタリーも胸を痛めた。
しかし、優秀なナタリーはショックを受けながらも、着々と仕事をこなしていく。
出張先で、ライアンは、偶然知り合って意気投合したアレックスという女性と逢瀬を重ねていた。
ライアンとアレックスは割り切った気軽な関係を続けている。
2人の関係を知ったナタリーは、真剣にアレックスと向き合おうとしないライアンの生き方を非難する。
ナタリーと接するうちに、ライアンは、人と真剣に向き合ってこなかった自分の生き方に疑問を抱き始めた。
妹の結婚式に出席したライアンは、結婚相手のボブが直前になってためらいを見せたので、不本意ながらも結婚して伴侶を得ることの素晴らしさを語り説得する。
やがて、アレックスと真剣な交際をしたいと思ったライアンはアレックスの自宅を訪ねた。


寸評
僕が務めた会社は中小企業だったので、情報、総務、経理、求人と兼任でいろんな仕事を任されたのだが、時期は違うが二度ほど社員のクビ切りを命じられたことがある。
同じ職場で共に働いてきた同僚へ退職を促すのは嫌な仕事で、在職中で一番辛くてやりたくない仕事だった。
ここで描かれているライアンたちの会社は、自分の手でリストラを宣告できない会社に代わってリストラを宣告するのを業務としている。
全米を飛び回っているライアンは一年のほとんどを出張で過ごしており、そのためマイホームも持たず妻もいないし、もちろん子供もいない。
むしろその生活を良しとしており、出張先でのアバンチュールを楽しんでいる。
そんなライアンが若くて合理的な女性社員のナタリーを指導する形でリストラ宣告をしていく様子が描かれていく。
宣告される側の人の戸惑いは当然であるが、ナタリーは面識のない対象者に対してビジネスライクに話を進めていくが、それでも実際に行ってみると心が痛んでくることもある。
リストラされる人の家庭状況が分からないし、言い分もわずかに描かれているだけなので、リストラによって起きる辛い状況が伝わってはこない。
ライアンとナタリーの世代間相違の主張は面白いけれど、リストラ宣告の辛さはにじみ出ていないと思う。

後半はリストラよりもライアンが出会ったアレックスという女性とのラブロマンスに重点が置かれていく。
アレックスも全米を駆け巡っているキャリアウーマンである。
二人は出張先が同じ方向になると示し合わせてデートを重ねる。
お互いに深い仲にならない事を確認し合っているが、人生の重荷を背負いたくないと思っていたはずのライアンが徐々にアレックスに魅かれていく様子が、ラブロマンスとして中年には受ける内容のように感じる。
時にはライアンの結婚式に二人して出席するぐらいだから、二人の仲はかなり親密なものになっている事をうかがわせる。
気軽に電話をして呼び出せる異性の存在は想像しただけで羨ましく思える関係である。
アレックスは妹の婚約者のボブに「一番幸せだった時は一人だったか?」と問いかける。
ボブはその言葉を聞いて再び結婚を決意するのだが、ライアンは妹とボブの姿を見て自分の将来を想像したのかもしれない。
自由気ままな独身生活は楽しいものかもしれないが、幸せを分かち合えない伴侶がいないのは淋しいものだ。
そうであったのが、いつの頃からかお互いがうっとうしい存在になったりもするのが夫婦関係なのかもしれない。
不満を持ちながらも一生を共にして、最後には感謝して旅立っていくのも又夫婦なのだと思う。

ライアンが意を決してアレックスを迎えに行くと、意外や意外という展開が待ち受けている。
主客転倒する面白い展開で、僕はこの場面に唸ったし、この場面が用意されていなかったら存在価値のない映画だったように思う。
ジョージ・クルーニーがケリー・グラントだったら二人は結ばれていたような気がする。
その意味でジョージ・クルーニーはハマリ役だった。
男にとっては仕事を除けば羨ましい世界である。

ボディガード

2024-03-07 08:03:39 | 映画
「ボディガード」 1992年 アメリカ


監督 ミック・ジャクソン
出演 ケビン・コスナー  ホイットニー・ヒューストン
   ビル・コッブス  ゲイリー・ケンプ
   ミシェル・ラマー・リチャード  マイク・スター

ストーリー
フランク・ファーマーは世界でも屈指の実力を持つボディガード。
ある時、歌手兼女優のスーパースター、レイチェル・マロンの護衛を依頼される。
最近彼女の身辺で不穏な事件が発生し、脅迫状まで送られて来たのだ。
レイチェルの邸宅を訪れたフランクはずさんな警備体制に驚き、彼女のボディガードとなる決心をする。
フランクの目をかすめてライヴハウスでコンサートを行ったレイチェルは、舞台に上がった男から客席につき落とされるが、駆けつけたフランクに助けられる。
錯乱状態になった彼女を心から介護するフランクを見て、それまで彼をただの邪魔者としか考えていなかったレイチェルは、初めて心を開く。
フロリダのコンサートでレイチェルのもとに脅迫電話がかかり、さしせまる危険を感じたフランクは、自分の父が住むオレゴンに一時レイチェルを隔離する。
雪深いオレゴンで、レイチェルの息子フレッシャーと、レイチェルの姉で付き人でもあるニッキーと過ごすフランクとレイチェルはささやかな幸福に浸るが、フレッシャーの乗るボートが突然爆発し、幸い彼は助かったものの、何者かの手が近づいていることは明白となる。
その夜フランクは、ニッキーから真実を聞かされる。
あの脅迫状を見て、バーで見知らぬ男にレイチェルの暗殺を依頼したこと、今では後悔しているものの、その男を探し出せないでいること_。
しかしフランクが少し目を放している隙に、ニッキーはあっけなく殺されてしまう。


寸評
脚本をもう少し練り上げていれば傑作になったかもしれないのに残念だ。
ホイットニー・ヒューストンが演じるレイチェルは何者かの脅迫を受けているのだが、彼女に危害が一向に及ばないのでサスペンスとしての盛り上がりに欠けてしまっている。
彼女を心配させないためにスタッフによって脅迫の事実が隠されているのだが、事実を知らない彼女に魔の手が伸び始める描写はもっと必要だろう。
走り去る車だけでは物足りないし、いつ襲われるかもしれないという恐怖感も湧いてこない。
ケビン・コスナーがスーパーマン的な活躍を見せるのではなく、プロらしい地道なボディガードぶりを見せるのはいいとしても、やはりサスペンス部分はもう少し欲しかったところだ。

脅迫状から殺害に至る二重、三重の構造も分かりにくく、説明不足のために意表を突かれたという盛り上がりに欠けるものとなっている。
着想は良いのだからもう一工夫、二工夫あっても良かったのにと残念な気持ちだ。
わがままなスターと、プロに徹するボディガードのやり取りが大半を占めているので、犯人との攻防が極めて少なくなってしまっている。
レイチェルは一人息子を溺愛しているが、この子供の役割も十分とは言えない。
通常だとフランクと徐々に心を通わせていく展開があり、子供を通じての理解とか、描き方は色々出来たと思うが、ボートの爆破だけでは物足りないように思う。

フランクはかつてレーガン大統領のシークレット・サービスを務めていたのだが、母親の葬儀で休んだ時にレーガンが狙撃される事件が発生し自分の使命が果たせなかったとのトラウマを抱えている。
そのトラウマの影響もはっきりしないものがあって消化不良だ。
ニッキーのスターになった妹への嫉妬心ももう少し上手く描けたはずだ。
人間の内面に切り込んでいく演出は避けているように感じる。

挙げればきりがない粗さを持った作品なのだが、何といってもいいのはホイットニー・ヒューストンの歌声を初めとするサウンドトラックで、これがあるから記憶に残る作品となっている。
いっそ、劇中でもっとホイットニー・ヒューストンに歌わせても良かったかもしれない。
そうすれば上質な音楽映画になったかもしれない。
僕はホイットニー・ヒューストンが「I Will Always Love You」を高音を響かせ歌いあげるサントラ盤CDを所持しているが、なかなかの聞きものとなっている。
CDを聞いてから見ることになった作品でもあり、このサントラ盤あっての作品だと思う。
ホイットニーにはアルコール・薬物依存からの復帰プログラムが施されているとか、2012年1月には破産寸前であると報じられるなど、さまざまな問題が続いていたが、2012年2月11日に、カリフォルニア州ビバリーヒルズのホテルで浴槽の中に倒れていたところを発見され死亡した。
入浴中にコカインの影響で心臓発作が起こしたという淋しい亡くなり方だったが、48歳での没は惜しまれる。


濹東綺譚

2024-03-06 05:44:17 | 映画
「濹東綺譚」 1992年 日本


監督 新藤兼人
出演 津川雅彦 墨田ユキ 宮崎淑子 八神康子
   佐藤慶 井川比佐志 浜村純 角川博
   杉村春子 乙羽信子

ストーリー
永井荷風文学の真髄は女性を描くことで、特に社会の底辺に生きる女性達に目が向けられた。
そのため紅燈に親しむことも多く、荷風(津川雅彦)は文人たちから遊蕩児とみなされた。
文壇という特殊世界に入って文士と交わることを嫌い、究極において紳士である荷風にとって、それは女性に真の愛を求める人生への探究でもあった。
大正15年正月、墓参りしたのちに、囲い者のお歌(瀬尾智美)の所へ行き、身体を重ねる。
8月、荷風はカフェで客に絡まれるが、女給のお久(宮崎淑子)の手引きで裏口から逃げ出し、家に帰るとお久が来ていたので、荷風はそのお久と寝るのだった。
お歌が金沢に帰り、お歌のいなくなった荷風は私娼のきみ(八神康子)と出会う。
荷風は「断腸亭日乗」に名器だと記したきみに惚れ、彼女の住まいを探すが見つからない
やがて玉ノ井のお雪(墨田ユキ)と出会った荷風は、社会底辺の世界に生きながらも清らかな心をもった彼女に、運命的なものを感じる。
しかし、57歳の荷風にとって、年のひらきのあるお雪と結婚するには、互いの境遇が違い過ぎた。
それでもお雪の純情さに惹かれた荷風は、彼女と結婚の約束をする。
だが、昭和20年3月10日、東京大空襲の戦火に巻き込まれて、2人は別れ別れになってしまう。
戦後、昭和27年のある日、お雪は新聞で荷風が文化勲章受章者の中にいるのを見て驚くが、あの人がまさかこんな偉い人ではないだろうと、人違いだときめてしまう。
そして2人は二度と出会うことはなかった。
それでも孤独の中に信ずる道を歩き続けた荷風は、昭和34年4月30日、市川在の茅屋で誰に看取られることなく80歳の生涯を終えるのだった。


寸評
僕は永井荷風の名前は知っていてもその作品を読んだことがない。
さらに永井荷風がどのような人物であったのかも知らない。
映画は荷風の半生を描いたように見えるから、永井荷風とはこのような人物だったと言いたいのかもしれないが、印象としては「観客は永井荷風について知っている」という前提で作られているような感じを持つ。

先ずは荷風と3人の女との関係が描かれるが、その内容は濃密ではない。
芸者のお歌にかいがいしく世話をしてもらっているが、そのお歌は早々と消えてしまう。
カフェで働くお久と関係を持ち、彼女から金をせびられるというお歌とは違う面が描かれるが、お久もそれっきり。
きみという娼婦の秘技に惚れこんで住所を調べたりするが、彼女もそれまでの存在で消え去る。
おそらく3人のエピソードを通じて、荷風が女に対してルーズだと示したかったのかもしれないが何とも軽い。
この映画とあまり関係のない女性たちで、はたして三人も登場させる必要が有ったのかと思ってしまう。
ヒロインのお雪が姿を現すのは、映画が始まってから30分近くが経過してからである。
しかも印象的には前の三人と変わらないものなので、荷風の女性遍歴を延々と見せられるのかと思ってしまう。

どうしたわけか荷風は前の三人とは違ってお雪を特別扱いしている。
荷風がお雪にたいしてどのような感情を抱いていたのかが伝わってこない。
お雪のどこに惚れこんでいたのか、あるいは安らぎを得ることが出来る女性と思っていたのかも分からない。
荷風は、お雪には歳を取った自分よりも若い男がいいのだとして、お雪のもとに通わなくなるが、その気持ちの変化がどこから来たのかもよくわからない。
そうかと思えば再び通い始めているのである。
どうも人物の心情が伝わってこない作品だ。

描かれた時代の玉ノ井は公娼の集められていた「遊郭」ではなく、モグリ営業の売春宿が軒を連ねていた私娼街で、店は間口の狭い木造2階の長屋建、1階には狭い通りに面して小窓が作られ、ここから店の女が顔を覗かせて客の男を呼んでいたらしいのだが、その雰囲気は出ている。
水田を埋め立てて作った土地のため、雨が降ると相当ぬかるんだということも描かれている。
あぜ道の名残の細い路地が何本もあり、路地の入り口のあちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っていたという風景も描写されている。
人物に比べると玉ノ井の様子は随分と丁寧に描かれていると思う。
しかしそのことを通じて、僕にはこの映画を当時の風俗を様式美の中で描き出した作品にしか思えなくしている。
この作品は1992年の製作だが、何だか大した濡れ場のない1970年代に登場したころの日活ロマンポルノを見ているような気になった。
そして原作がそうだとしても「濹東綺譚」というタイトルはいただけない。
タイトルだけで敬遠されそうなもので、「ぼくとうきだん」と読めるかどうかも疑わしいし、このあたりも永井荷風とその作品を知っている人を前提にしていると思わせる要因となっている。

ベイビー・ブローカー

2024-03-05 06:31:04 | 映画
「ベイビー・ブローカー」 2022年 韓国


監督 是枝裕和
出演 ソン・ガンホ カン・ドンウォン
   ペ・ドゥナ イ・ジウン イ・ジュヨン

ストーリー
黒いフードを被った若い女性が「ベイビーボックス」と書かれた赤ちゃんポストの前に立ち止まり、懐に抱いた赤ん坊をそっと床に降ろすと去っていった。
それを遠目に見つめている女性二人。
一人は赤ん坊を捨てた女性を追いかけ、もう一人は残された赤ん坊の元へ向かう。
ショートカットの髪型の女性は、刑事のスジン。
赤ん坊を抱えると、そっとポストに入れ扉を閉めた。
すると教会のブザーが鳴り、当直だった職員の若者ドンスと牧師として現れたサンヒョンが赤ん坊を見つけた。
慣れた手つきでドンスは赤ん坊が映っていた画像を消し、サンヒョンは母親が残したメモを見つけた。
メモには「ウソン、必ず迎えにくるから待っていてね」と書かれてあった。
その後、ワンボックスカーにウソンは乗せられ、サンヒョンとドンスはサンヒョンが営むクリーニング店へ赤ん坊を連れていった。
借金に追われるサンヒョンは、“赤ちゃんポスト”を運営する施設で働く若い男ドンスと手を組み、赤ん坊をこっそり連れ出しては、新しい親を見つけて謝礼を受け取る違法な商売をしていた。
ある時、赤ん坊を連れ出した2人の前に、思い直して戻ってきた若い母親ソヨンが現れる。
ちゃんとした養父母を見つけるためと言い訳した2人に、自分も同行すると言い出すソヨン。
こうして思いがけず赤ん坊の母親と一緒に養父母探しに旅に出るハメになったサンヒョンとドンス。
そして、そんな彼らの行動を、現行犯で逮捕しようと目論む2人の刑事が執拗に監視していた。


寸評
この頃の是枝は血のつながりのない家族を描き続けている。
赤ちゃんを捨てるソヨン。
その赤ちゃんを売り飛ばそうとするサンヒョンとドンス。
出会った彼らの里親探しのロード・ムービーである。
重いテーマながらエンタメ性を持たせてまとめ上げているが、脚本的に緻密さが足りないような気がする。
そもそもの発端であるソヨンが子供を捨てねばならない事情が希薄である。
彼女は赤ちゃんポストに入れずに、その前に置いていく理由がよく分からない。
登場人物が抱えている背景も説明不足感がある。
ドンスも母親に捨てられた過去を持っているが、40人に1人しかいないという母親の迎えを信じていたことも生かし切れていない。
彼は養護施設の前に捨てられていたのだが、その養護施設が気に入っていて、大きくなってからも子供たちの面倒を見ていたようなのだが、彼が成人してからどのようにして養護施設とかかわっていたのか不明なので、彼と捨て子達の交流がこちらには伝わってこないのだが、あえて省かれていたのだろうか。

旅を続けるうちに彼らの中に親しみが生まれてくる。
特にヘジンという10歳くらいの男の子が加わってからは顕著で、彼らは疑似家族化していく。
ヘジンがウソンを本当の弟のように扱うことは兄弟愛であり、そのことを通じてサンヒョン、ドンス、ソヨンにも父性愛、母性愛が芽生えていく。
血のつながりよりも一緒に生活していることのほうが結びつきが強いということだろう。
ソヨンがウソンにあまり関わらないのは愛情が芽生えてしまうからだと指摘されているが、我が子を手放そうとしている彼女の心打ちは平静を装う彼女からは伝わってこない。
彼女に苦悩はなかったのだろうか。

スジンはサンヒョンとドンスの現行犯逮捕を目論んでいるが、その為には赤ちゃんを誰かに売り飛ばさなければならない。
コンビを組むイ刑事から「何だか我々がベイビー・ブローカーみたいですね」と言われるシーンが面白い。
刑事のスジンはペ・ドゥナが演じていることも有って、どこかいわくありげな女性に見えるのだが、スジンというキャラクターの描き方は浅いように思う。
彼女も子供を産めない体だったのかもしれないし、彼女も捨てられた過去を持っていたのかもしれない。
そんな風なことを想像させる存在なのだが、彼女自身のことはまったく描かれなかった。

疑似家族化していく中にサスペンス要素も加わっているのだが、どちらも中途半端でもう少し脚本を練り上げれば、より完成度の高い作品になっていたと思う。
ラストでは彼らのその後が描かれ、ソヨンを追いかける車には4人で写した写真がぶら下がっている。
運転しているのはサンヒョンなのだろうが、さて彼らはこれからどうするのだろう。
全ては観客の想像に任されているが、僕は消化不良のまま思いを巡らす。

塀の中の懲りない面々

2024-03-04 07:22:17 | 映画
「塀の中の懲りない面々」 1987年 日本


監督 森崎東
出演 藤竜也 植木等 山城新伍 小柳ルミ子
   花沢徳衛 柳葉敏郎 川谷拓三
   なべおさみ 上杉祥三 

ストーリー
前科13犯の安部直也(藤竜也)は恐喝罪、銃刀法違反で懲役3年3カ月の刑を受けて服役中。
受刑者たちには窃盗前科21犯で、国公立の場所でしか仕事をしない老懲の忠さんこと小山忠造(花沢徳衛)、紙喰いのメエこと山崎明(川谷拓三)、看守たちにチクる岩崎源吉(なべおさみ)、色白の二枚目、松沢英二(上杉祥三)、脱獄の日に備えて毎日ランニングをする革命の闘士、城山勉(柳葉敏郎)などがいた。
ある日、安部は工場での労働で新入りのサブこと飯田三郎(森山潤久)と再会した。
彼は持ち込んだシャブを安部に渡すが源吉にチクられて、入所したその日から軽塀禁になってしまった。
定年間近の看守の鉄っつぁん(江戸家猫八)が、ドク・西畑(植木等)に腰痛を診てもらいにやって来た。
ドクは医師法違反、前科15犯のニセ医者だが、皆の医療を診て重宝がられている。
人情家として親しまれている鉄っつぁんと対称的なのが看守長の鬼熊(山城新伍)で、彼は何かにつけて安部を目の仇にして挑発する。
一方シャバでは、安部の別れた妻、風見待子(小柳ルミ子)が経営する赤坂のクラブ“カサブランカ”で、安部の母、春代(丹阿弥谷津子)が安部からの手紙を読んでいた。
離婚の原因は安部の浮気だったが、ふたりは別れた今も愛し合っている。
針を入手したことが発端で独居房に入れられた安部は、隣にかつて小菅刑務所で一緒だったオカマの上州河童(ケーシー高峰)が入っているのを知る。
彼は相思相愛の大学生に逃げられ、恐喝したのだった。
冬になり、出所していたメエが安部に教わった新種の仕事が失敗して戻って来た。
それは金融会社を依頼人と訪ねて、社員が借用書を出すと同事にメエがそれを食べてしまいズラかるというものだったが、下剤を飲まされてしまったのだ。
春、安部は出所するドクに待子にある伝言を托した・・・。


寸評
原作は刑務所暮らしの経験がある阿部譲二の同名作品で、懲りない面々のエピソードは原作に紹介されている内容の方が面白い。
原作もなんてことのない読み物だと思うが、「懲りない◯◯」が流行語となって作られた本作もなんてことのない作品になってしまっている。
もう少し工夫すれば面白い作品になっていたのではないかと思われる。
ほとんどが喜劇的なシーンの連続なのだが、時々しんみりさせるシリアスな話が盛り込まれている。
そのバランスが何とも中途半端になってしまっていたような気がする。

登場人物のキャラクター設定は面白い。
小山忠造は国立大学や国立病院や役所など官庁関係専門の泥棒で、捕まった時に心証が悪いと警察と裁判所には入っていない老人である。
彼は娑婆にいるころに、同じ町内出身のレビューに出ている女の子の後援会などをやっていて応援していたことがあり、刑務所でのテレビ鑑賞で彼女の姿をみて懐かしんでいる。
それを見た安部は看守の鉄っつぁんに恩を売り、彼女の慰問を実現させるが、忠造は病気がこじれ医療刑務所送りになってしまう。
これなどもドタバタする作品の中にあって、しんみりさせるエピソードだと思うが結末がどうなったのか分からずお終いだった。
オカマの上州河童がみる幻想も、若い少年との戯れだとは分かるがインパクトはない。
脱獄のために体を鍛えていた城山勉がどのようにして脱獄するのかと楽しみにしていたら、なんだか肩透かしを食ったような結末だった。

この手の映画の特性かも知れないが、あまり映画にでない元プロ野球選手の江夏豊や、コピーライターの糸井重里などが看守役で出ていてセリフもあるのだがキャスティングが生かされていない。
江夏などはピッチングを披露するが往年の姿はなく、投げるボールをトリックでごまかさざるを得ず、ましてやこの野球対決は何だったのかというシーンになっていた。

面白かったのは看守の鬼熊こと熊井と安部の格闘シーンだった。
鬼熊は囚人いじめをとも思えるスパルタ指導を行っている看守なのだが、安部を目の敵にしていてある時、他の看守を追い出しておいて安部を叩きのめそうとする。
ところが逆にのされてしまい、体面を保つため安部にやられた格好をさせる。
安部は「ひとつ貸しだ」といって床に倒れてやるが、権力者を皮肉っているシーンとしては一番だった。

一度娑婆に戻ったドク・西畑が安部の彼女が今も安部の帰りを待っていることを伝えて映画は終わるが、その前に安部の両親の面会があり、母親が語った一言が安部の笑顔を増幅させていた。
待っていてくれる人がいるということは、塀の中だろうが塀の外だろうが幸せなことなのだと思う。

ブワナ・トシの歌

2024-03-03 07:21:14 | 映画
「ブワナ・トシの歌」 1965 日本


監督 羽仁進
出演 渥美清 ハミン・サレヘ 下元勉
   ビビ・アグネス ギダボスタ・サミエル

ストーリー
東アフリカのケニアとタンガニーカの国境に、一人の日本人・片岡俊男がやってきた。
日本の学術調査隊が、総合研究をするための施設を造るためにやって来たのだ。
しかし三日余りの旅をして辿りついた部落には、居るはずの手助けをしてくれる人間は居ず、断りの手紙が残されているだけであった。
困りはてた俊男は、知りあいになった少年を通じて、土地の青年に協力を頼んだ。
少年の案内で家長の部落にいってみると、人集めどころか家畜の牛追いに一日中こき使われる始末。
それでも俊男は懸命に働いたので、俊男は部落の誰からも「トシ」と呼ばれ親しまれるようになっていった。
やがて部落の人たちも、そんな俊男の気持を察して仕事に協力してくれるようになった。
しかし彼等には家を建てるという概念がまったくなく、加えて彼等には特有のポレポレ(ゆっくり)の習慣があって、仕事ははかどらなかった。
ある日俊男は、人間の先祖・マウンテン・ゴリラを追って研究を続ける大西博士に会い、その熱意にうたれた。
ちょうど、そのころこのアフリカの原野にも、新しい独立ムードが盛りあがってきた。
その影響で俊男の仕事は、また遅れた。
そのうちに、遂に新しい国が誕生し、作業場は急に活気をおびて立派な近代建築が完成した。
俊男は土地の青年たちと共に夜が明けるまで踊りつづけた。
やがて陽が昇り、土地の青年たちは俊男を湖畔に連れだし、俊男のために歌をうたった。
“東の国からトシというジャポネがやってきた”。
俊彦は、お礼にまだ海も汽車も見たことがないという青年を港町に案内した。
やがて別れの時がやってきた。


寸評
映画は渥美清演じる“トシ”がアフリカに長期出張してプレハブ住宅を建てるというだけの話で、現地人と渥美清のやり取りは半ドキュメンタリーのような映像になっている。
トシはスワヒリ語を少し理解し話せるだけなので、現地人とスムーズな意思疎通が出来るわけではない。
その象徴が建築を手伝ってくれる人を頼みに行った時のやり取りである。
トシは仕事をやると求人に行っているのだが、現地人からは仕事を欲しがっていると思われてしまうエピソードが喜劇映画のように描かれる。
牛追いの仕事を命じられるが、案内人は途中で帰ってしまいトシは何処へ牛を追って行ったらいいのか分からないのだが、同行の現地人は「牛の後からついていけばいい」と言うだけである。
国的にはタンザニア連合共和国なのだが、タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカとインド洋島嶼部のザンジバルから構成されているから、ここではそのタンガニーカを舞台としていると思われる。
上記のエピソードはタンガニーカの人々の時間に対する感覚を表していると思われ、トシの時間感覚とのずれを示していて、後に起きるトラブルの伏線となっている。
トシには滞在費を含めた予算もあり、調査隊の到着までに完成させなければならないと言う時間的制約もある。
その為に彼はタンガニーカの人々から”せっかち”と言われるほど、すすまない建築に焦りまくる。
イライラがつのり、ついにトシは手伝ってくれていたハミシを殴ってしまう。
現地人との溝が出来てしまい彼は裁判にかけられる。
タンガニーカの人々は暴力を嫌い、お互いに助け合う精神を持った人々なのだ。
それは我々日本人が忘れてしまった美徳でもある。
被害者であるハミシの言葉によりトシを許すタンガニーカの人々の気持ちが素直で感動させられる。
人々はトシの為に歌を唄う。
「トシは怒りっぽい、せっかち、殴る」などトシを責める内容なのだが、だからこそ「でも、またきてくれ」という言葉に感動してしまう。

現地人との片言のやり取りが続く中で、もう一人の日本人であるマウンテン・ゴリラの研究を続ける大西博士が登場して日本語での会話がなされ、トシは大西博士を頼ろうとする。
しかし大西博士は「アフリカにまで来て日本人を頼ることはないだろう」とそっけない。
海外に来て言葉も地理も分からない時に同胞に出会えば心強くなり、ついすがりたくなってしまうのは理解できるのだが、なにせ場所はアフリカの僻地であり、それを承知で来ているトシに対しては当然のアドバイスだったのかもしれない。
タンガニーカの人々は日本がどこにあるのかも知らなかっただろう。
それでも気持ちが通じ合えばお互いに共存できるという事だったと思う。
演技などしらない、もしかすると映画の存在や撮影と言うことにも通じていなかったであろう、言い換えればまったくの素人であったタンガニーカの人々の表情と行動がこの映画を支えている。
ハミシと彼の妻との別れは悲しいものだし、トシとハミシの別れも胸に迫るものがある。
渥美清はこの後に何度もタンザニアを訪れるほどアフリカに魅かれたようであるが、この様な交流があれば再びタンザニアを訪れたくなるのも分かる作品である。

ブロンコ・ビリー

2024-03-02 08:29:21 | 映画
「ブロンコ・ビリー」 1980年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド ソンドラ・ロック
   ジェフリー・ルイス スキャットマン・クローザース
   ビル・マッキーニー サム・ボトムズ ダン・ヴァディス
   シエラ・ペチャー アリソン・イーストウッド

ストーリー
ブロンコ・ビリーは、“ワイルド・ウエスト・ショー”のリーダーだ。
彼らはアメリカの中南部を巡業し、時には慈善公演も買って出るが、経済的にはいつも苦しかった。
一座の移動は車で行なわれ、その日もカンサス州のジャンクション・シティに意気盛んに乗り込むと、ビリーは早速興業の許可をもらうために市の役所に出かけた。
窓口で、ビリーはジョン・アーリントンとリリーという金持ちのカップルを見かけた。
彼らは結婚許可書をもらいに来ていたのだが、遺産相続のためにいやいやジョンと結婚するリリーは、欲ばりの母親をうらみつつも、はるばるニューヨークからカンサスに結婚式をあげる為に来ていたのだ。
結婚式を済ませて、あるモーテルで初夜を迎えることになったリリーは、しかしどうしてもジョンに抱かれる気になれず、拒み通した。
怒ったジョンは、リリーの持ちもの全てを奪い、町から姿を消してしまった。
翌朝目覚めて、仰天したリリーはニューヨークの母親に連絡するために隣のガソリン・スタンドにとびこむが、1セントのお金もないところに出くわしたのがビリーだ。
彼に10セントを借りることにしたリリーは、その金を返すために、ビリーの一座に加わり危険なナイフ投げの的などの役をひきうけるはめになる。
一方、ニューヨークでは行方知れずになったリリーに、母親のアイリンは大あわて。
殺されたのかも知れないと思った彼女は、弁護士に相談した。
それから間もなくジョンは警官につかまりニューヨークヘ護送されてきた。
弁護士は、ジョンのところへやってきて、ある相談をもちかけた。
ジョンがリリーを殺したことにすれば、アイリンに入り込んでくる遺産のうち、50万ドルは分け前としてジョンにあげるというものだった。


寸評
仲間が集まると思い出話に花が咲く。
今の世の中を嘆いては、俺たちの時代はこうだったと懐かしむ。
若かりし頃への郷愁でもあるのだが、僕はこの映画にそのようなものを感じる。
ブロンコ・ビリーたちは時代に取り残された者たちのような感じがするし、ニューヨーク育ちのリリーにさえそんな雰囲気を感じるのだ。
裕福な家に生まれたアントワネット・リリーは30歳までに結婚しなければ父の遺産を継げないために、愛してもいない男ジョンと名目上の結婚をしようとしているのだが、そんな遺言を残す父親っているのだろうか。
結婚相手の冴えないジョン・アーリントンをジェフリー・ルイスが軽妙に演じていて、設定と共にこの映画に喜劇性を持ち込んでいる。
冒頭で賃金問題でもめてブロンコ・ビリーが仲間たちを一喝するシーンが描かれる。
ブロンコ・ビリーのキャラクターはクリント・イーストウッドのイメージそのもので、この冒頭のシーンだけでこの一座の人間関係が分かってしまう。
一座にリリーが加わり、頑固で高圧的なブロンコ・ビリーとことごとく対立する。
こうなると映画としてはもう結論は見えている。
やがて二人は愛し合うようになることは明白で、観客はそうなる過程を楽しむ事になる。

ブロンコ・ビリーたちは疑似家族を築いているが、反してリリーは裕福な家庭に育ってはいるが家族の愛に乏しい女性で、その事が彼女を勝気にしているのだろう。
リリーが疑似家族としての一座の連中の信頼関係を感じるのが、先住民族のチーフ・ビック・イーグルの妻ローレンが妊娠を報告し仲間が大喜びするシーンだ。
ブロンコ・ビリーは子供が生まれたら皆の給料を上げると叫び、彼らはお祝いに町へ繰り出す。
リリーは部屋の片隅で淋しそうに視線を送っているという良い場面になっている。
ここからリリーは少しづつ変わっていき、ブロンコ・ビリーと結ばれることで変身を遂げる。
勝気で嫌味な女であったリリーが翌朝目覚めると可愛く見える女性になっているのだが、演じているソンドラ・ロックが実生活でクリント・イーストウッドの愛人であったのはご愛敬か。
一座が西部劇のショーを演じていたり、ブロンコ・ビリーが早撃ちを自慢していたり、また時代錯誤な列車強盗を企てるなど、懐かしい時代への逆行が描かれる。
襲われた列車に乗っている人から見れば、アトラクションを見ているようなもので、まるで東映の太秦映画村の世界に見えただろう。
メンバーのレオナードが逮捕されたことを知ったビリーは釈放を求め保安官と取引を持ち掛ける。
保安官も早撃ち自慢で対決を迫られるが、二人の対決は描かれておらず結果は観客の想像の内なのだが、おそらくレオナードが言うようにビリーらしい解決方法を取ったのだろう。
この一座は貧しい一座だが、それでも慈善事業としてのショーもやっており、子供たちからも英雄視されている。
貧しくても立派に生きているという姿も、映画の黄金期から描かれてきたアメリカ人の姿を思い起こさせる。
ラストの場面は予想されたものであるが、意外なのはブロンコ・ビリーが観客の子供たちに語り掛ける挨拶だ。
う~ん、これは教育映画だったのかと思わせる大団円となっている。

ブルース・リー/死亡遊戯

2024-03-01 07:13:12 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/9/1は「青春の殺人者」で、以下「青春の蹉跌」「関の彌太ッペ」「セッション」「切腹」「接吻」「瀬戸内少年野球団」「セルピコ」「ゼロ・ダーク・サーティ」「戦場にかける橋」と続きました。

「ブルース・リー/死亡遊戯」 1978年 香港


監督 ロバート・クローズ
出演 ブルース・リー ギグ・ヤング ディーン・ジャガー
   コリーン・キャンプ ヒュー・オブライアン
   カリーム・アブドゥル=ジャバー ダン・イノサント

ストーリー
人気最高のスター、ビリー(ブルース・リー)は熱狂的なファンのアイドルであり、また国際的犯罪シンジケートの注目をあびていた。
シンジケートのボスであるランド(ディーン・ジャガー)は、人気タレントを食いものにしようとしている。
そして彼の右腕のスタイナー(ヒュー・オブライエン)は、一見紳士風であるが執念深い男であり、今日も撮影所でビリーと会い、シンジケートと契約を結ばせようとしていた。
ビリーは人気歌手でもある恋人のアン(コリーンC・キャンプ)のことが気になっていた。
ある日、ビリーに対して苛立っていたランドは最後通告として、スタンナーに彼を襲わせた。
ビリーは古くからの友人でUPIの特派員ジム(ギグ・ヤング)に相談するが、彼も頼りにならない。
そんなビリーを、ランドの部下でカラテのチャンピオン、カール(ロバート・ウォール)が襲う。
これ以上受身になっているわけにもいかず、ついにビリーは闘う決心をし、アンに身の安全のため一時アメリカへ帰国することを勧める。
愛する人をほっておいて、帰国することは出来ないアンはビリーと共に撮影所入りする。
しかし、そのクライマックスの撮影日、ビリーは撃たれた。
どうにか一命はとりとめたものの、ビリーはこれを逆手にとり、死んだことにして、ランドと対戦しようとした。
影の存在となり、ビリーはランドを襲ったが、それが失敗に終わり、ランドはビリーが生きていることを知る。
ビリーとアンの電話を盗聴していたランドは、その約束の場所でアンを捕えた。


寸評
ブルース・リーが1972年秋にクライマックスのアクション・シーンのみを撮影した後に急逝したことにより未完となていた作品にリーの代役としてユン・ワーやユン・ピョウを使って追加撮影して完成させた作品なので、これをブルース・リー主演作品とするには無理があるだろう。
過去の作品フィルムなどを組み合わせて何とか体裁を繕っている。
冒頭のビリーが「ドラゴンへの道」を撮影している場面で、撮影中に天井から照明が落下してきてビリーが狙われていることが示され、ストレートに悪の組織の暗躍が描かれる。
「ドラゴン怒りの鉄拳」のラストシーンの撮影中にビリーが空砲ではなく実弾により顔を撃たれるなど、彼の主演作品が取り込まれている。
ビリーが死んだことにして盛大な葬儀が執り行われるが、このシーンは彼の死を悼んで葬儀に集まったファンを映した実写と思われる。
顔を怪我したという設定だし、ブルース・リーがすでに他界していたので、ここからのビリーの役は代役で、変装させたりヘルメットをかぶらせたりしてごまかしている。
そう思って見ているわけではないが、カンフーの動きは全く別人を思わせるもので淋しさを感じる。
違和感を感じた時、攻撃前のポーズや動きは彼独特のものだったのだと気付く。
怒りを体いっぱいに表す力強い腕の動きと、顔の表情は彼独特のもので、それが欠如しているので興味半減なのだが、代役とあっては致し方のないことだろう。

ビリーはドクター・ランドの誘いを断っているので、彼の配下によって度々襲われている。
襲ってくるのがチンピラのような存在なのに、相手の人数が多いとはいえ予想に反して倒されている。
それがビリーの見せかけなら納得するのだが、見ている限りにおいてはビリーがやられたように見える。
滅茶苦茶強いビリーという感じではない。
そのビリーが最後で強敵を次々倒すのは、あまりにも変わり過ぎではないのかと茶々を入れたくなる。
映画最大の見せ場は長身のハキムとの死闘である。
そのハキムを演じているカリーム・アブドゥル=ジャバーはもとNBAのレイカーズで活躍していた名選手である。
リーがアメリカ時代に拳法を教えていた弟子で、たまたま香港に休暇の為に滞在中に、リーから出演依頼を受けての出演だったらしい。
ハキムを絞め殺すシーンのリーのアップでは過去のフィルムが使われているが、やはりリーによる怒りの表情は彼しか出来ないものだと分かる。
ハキムに比べれば残ったスタイナーは物の数ではないし、ボスのドクター・ランドに至っては年齢もあり戦う相手ではない。
したがってドクター・ランドの最後は彼に相応しいもので、その演出に違和感はない。
とは言え、余韻を残すラストシーンにしてほしかったと言う望みはあるのだが、リーが故人となってしまっていては望むのが無理なのかもしれない。
最後は彼への惜別をファンに送るように、主演作の数々のシーンがエンド・クレジットと共に挿入される。
一時期におけるブームと人気だったが、映画史に残るスターだったことは間違いない。