「街の灯」 1931年
監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン ヴァージニア・チェリル
フローレンス・リー ハリー・マイアーズ
アラン・ガルシア ハンク・マン ジョン・ランド
ストーリー
ある町で盛大な銅像の除幕式があった。
紳士淑女こもごも立って祝辞を述べた後に、いざ像を覆っていた幕が引き下されると驚いたことに、この像の上には一人のみすぼらしい小男が眠っていた。
ところが、この浮浪者が計らずも、街角で花を売る娘を見て胸を踊らせたのである。
しかも、この盲目の娘は彼女に大金を恵んだ紳士が彼であると思い込んで彼の手を握っては感謝の言葉を述べるのであった。
彼は初恋に胸をときめかせ、そして働いて金を儲け彼女と交際しようと考えた。
まず街の清掃作業員になり、金が入ると彼女の家へ堂々として紳士らしく訪問していき、いじらしい盲目の娘と、つつましく話をしたり、彼女がやさしく微笑んだりするのを眺めては思慕の情を高めていった。
娘は病気になってしまったのだが、彼は職を失っていて大切な恋人の病を癒す大金の手当てがつかない。
ある日、彼の目の前に酔っ払いの百万長者が現れる。
この金持ちは酔うと、「やア親友!」と叫んでは浮浪者たる彼の首っ玉に跳びつく癖のある男で、彼も幾度かその邸宅に引っ張られて夜を明かしたことがある。
ただ残念なことには、酔いがさめると、もう全然酔中のことは忘れているということであった。
金の探索に困り抜いていた彼は金持ちに相談すると、そこは大金持ちでその上に酔っていたので、金持ちは大いに気前よく彼を我家に招じたうえに金1千ドル也をポンと投げ与えてくれたのだが・・・。
寸評
僕はチャプリン映画はそんなに好きではないのだが、「町の灯」は見方によっては色々な要素が持ち込まれていて考えさせられる作品になっていると思う。
映画は除幕式が華々しく行われている中で、その幕を取るとそこにいたのは1人の浮浪者が寝ているというコメディから始まる。
当時アメリカは繁栄していたと思うが、一皮めくれば浮浪者が変わらず存在する偽りのものでしかないという皮肉が込められていて、それを笑いをまじえたコメディで表現していると思われる。
多分権威者たちは説教じみた演説をしているのだろうから、彼らの演説は何を言っているか分からない擬音で皮肉的に表現されていて、アメリカ国家が流れると皆が直立不動となる欺瞞を描いたシーンだ。
浮浪者のチャプリンは酔っぱらった金持ちと出会う。
二人の間で最初に繰り広げられるドタバタは何度も川に落ちると言うもので、それがくどいと思われるくらい何度も繰り広げられる。
吉本の新喜劇を見ているようなバタくさいドタバタ劇で、これがコメディなのだと言わんばかりだ。
二人の関係は上流社会の人間と最下層の人間の交流というより対比を感じさせる。
金持ちはおそらく妻とも離婚してお先真っ暗で、もう死ぬしかないような精神状態に追い込まれているのだろう。
金持ちは酔って自我を失っている時でしか浮浪者と仲良くすることができない。
酔った勢いで店に行ったり、パーティを開いたりするが、浮浪者は彼らの仲間に入り込むことはできない。
花売り娘の所へ金持ちを装って行った時には、金持ちがいないから本当の金持ちの振る舞いが出来ない。
相容れない階級の差を示しているようで、滑稽ながら残酷なシーンでもあるように思う。
50ドルの金を稼ぐためにボクシングの試合に出ても、非力な彼はそこでも金を手に入れられない。
ギャグ満載で面白おかしく描いているが、描かれている内容は悲惨である。
しかし酔っぱらった金持ちに頼めば「彼女のことは任せろ、とりあえず1000ドルもあれば十分か?」と簡単にお金を渡してくれるのだ。
花売り娘が病気になり、代わりに老婆が花を売りに行く。
出かけて行くシーンだけでも良さそうなものだが、チャプリンはあえて誰も花を買ってくれない老婆の姿を1カット入れ込んでいる。
若い娘なら買ってもくれようが、老婆ではだれも見向きもしない。
随分と残酷な映画だ。
冤罪とは言え刑務所から出てきたチャプリンはみすぼらしい姿で、花屋で目が見えるようになった娘と再会する。
娘は「あの人私のことが好きみたい」と上から目線の立場になっている。
娘はチャプリンの手に触れ「You?」と尋ね複雑な表情を見せる。
映画はここで終わるから、その後は観客の想像に委ねられている。
足長おじさんが浮浪者と知った娘はどうしただろう。
チャプリンが「違う」と言って立ち去るエンディングでもなく、「No」と言って否定して終わるでもなく、認めたところで終わる絶妙のエンディングは流石と思わせた。