おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

楽園

2024-03-20 07:18:23 | 映画
「楽園」 2019年 日本


監督 瀬々敬久
出演 綾野剛 杉咲花 佐藤浩市 村上虹郎
   片岡礼子 黒沢あすか 根岸季衣 石橋静河
   柄本明 大西信満 大島葉子

ストーリー
田園が広がるとある地方都市。
ある日、地域の顔役である藤木五郎(柄本明)の孫娘・愛華がY字路でこつ然と姿を消す事件が起きる。
必死の捜索もむなしく、愛華が発見されることはなかった。
それから12年後、愛華の親友でY字路で別れる直前まで一緒だった湯川紡(杉咲花)は、いまだに罪悪感を拭えずにいた。
紡と共に地元に残った同級生で幼馴染の野上広呂(村上虹郎)は紡に想いを寄せていたが、彼女はその気持ちに応えようとはしない。
祭りの日、紡は縁日で移動リサイクルショップを出すという豪士(綾野剛)を神楽に誘う。
ところがその時、愛華が行方不明になったあのY字路で学校帰りの女児小学生が行方不明になったとの知らせが入り、村人たちは豪士が女児を誘拐したのではと疑い、更には12年前の愛華の事件も豪士の仕業だと疑う。
村人たちは五郎を筆頭に豪士が暮らす町営住宅になだれ込み、その場に戻ってきた豪士は異様な光景に、かつて自分たち親子がいわれなき差別と迫害を受けていた過去がフラッシュバックしてこの場から逃げ出す。
その頃、神社では神楽が始まっていて、紡は広呂にキスを迫られたが、たまたま愛犬を連れて通りがかった養蜂家の田中善次郎(佐藤浩市)に助けられた。
その時、逃げ回っていた豪士は近くの飲食店に逃げ込み、身体に灯油を被ると自らの身体に火をつけた。
その翌年、紡は村を離れて東京に移り住み、青果市場で働いていた。
やがて広呂も村の閉塞感から逃れるように紡を追って上京、同じ青果市場で働き始めた。
紡はようやく広呂と腹を割って話し合えるようになったが、実は広呂の身体は病魔に蝕まれていた。
善次郎は妻・紀子(石橋静河)に先立たれてからは愛犬だけが心の支えになっていた。
ある日、善次郎は村の寄り合いの席で、世話役のひとりの娘・黒塚久子(片岡礼子)と出会う。


寸評
かつて北朝鮮が地上の楽園と喧伝されて多くの日本人が海を渡っていったが、現実の北朝鮮は食糧難にあえぐ独裁国家で、楽園とは程遠い国であることは承知の通りである。
日本は難民を多く受け入れている国ではないが、それでも日本を楽園と思ってやってきている外国人は多い。
彼らにとって思った通りの楽園になりえているかは疑問であるが、ここで描かれた元カンボジア難民の中村母子にとっては楽園ではなかったはずだ。
閉鎖的な村で彼らは部外者として差別を受け迫害されている。
映画は「罪」、「罰」、「人」のパートで描かれるが、内容的には2つの独立した話のような展開である。
先ず愛華という女児誘拐事件を通じて疑心暗鬼や集団心理の狂気が描かれる。
それが最も顕著になるのが2度目の事件の時だ。
村人の一人が、前回の捜索時に豪士によってランドセルが見つかった場所と反対側へ導かれたと言い、今回の犯人も前回同様に豪士に違いないと叫んだために、村人たちは豪士の家に押し掛ける。
その男は12年間、口には出していなかったが豪士のことを疑いの目で見ていたことになる。
一度疑いの目を向けられてしまうと、それが払拭されない怖さだ。
動き出した村人の行動を誰も止めることが出来ず、他人の家を破戒するがのごとくに滅茶苦茶にする。
追い詰められた豪士は焼身自殺するが、孫娘を誘拐されていた五郎は「誰かのせいにしないと割り切れない。誰かを犯人にすることでけじめがつけられる」との論理で、豪士を犯人と決めつける。
集団暴徒化した村人たちも同じような気持ちになってしまっている。
無意識のうちに村人たちが同化してしまうという集団心理の恐さでもある。

村と言う閉鎖社会で運命共同体の様に生活している村人たちの身勝手な行動が示されるのが善次郎にかかわる物語である。
善次郎はUターン組で、高齢者の多い村で村民の為に奉仕し、当初は村人から感謝されている。
彼のやっている養蜂業を村をあげてやることにも賛成していたのだが、村の長老たちは善次郎が自分達に報告せずに役場と交渉したことで不機嫌になってしまう。
会社に於いて、「俺は聞いていない」と古参幹部がむくれる構図と同じだ。
描かれるのは、閉鎖的な集落の陰湿さである。
誹謗中傷の類の噂話が飛び交い、嫌がらせがエスカレートしていき村八分となっていく。
村人たちは自分が村八分になることを恐れて、こちらにおいても村人全体が同化していくという怖さがある。

紡のパートになって、回想を挟みつつ事件の真相が明かされるのだが、真相と言っても明言されていない。
真相はあくまで紡の中での「真実」である。
紡は都会の雑踏の中で「アイカ」と呼ばれた女性と見つめ合う。
アイカは愛華なのか、愛華は殺されてなどいなかったのか。
紡が抱えた罪は最初から存在しなかったのか。
結局、12年前の事件の犯人は明言されないまま終わってしまうのだが、この観客の不完全燃焼感が五郎の抱える行き場のない怒りとリンクしているという描き方がバツグンだ。