「田園に死す」 1974年 日本
監督 寺山修司
出演 菅貫太郎 高野浩幸 八千草薫 斎藤正治 春川ますみ 新高恵子
三上寛 原泉 蘭妖子 木村功 原田芳雄
ストーリー
青森県の北端、下北半島・恐山のふもとの寒村。
父に早く死なれた少年は、母一人子一人で犬を飼って暮している。
隣の家に嫁にきた女が少年の憧れの人である。
少年の唯一の愉しみは恐山の霊媒に逢いに行き、死んだ父を口寄せしてもらうことだった。
ある日、村にサーカス団がやって来た。
人気者の空気女と一寸法師の夫婦は、遠い町のことを色々と少年に話した。
今の生活が嫌になっていた少年は、彼らの話に魅かれ、村を出たいと思うようになった。
この話を隣の嫁に言うと、嫁は一緒に村を出ようと言ってくれたが、待ち合わせに嫁は来なかった。
がっかりした少年は、野原に一人で寝てしまった……。
ここまでが私の少年時代の自伝的な映画の前半である。
二、三人のスタッフ、批評家と試写室で観ていた私は、「うまくまとまっている」とか「抒情的だね」などと、まわりに言われる。
フィルムは再び、荒涼とした北国の風景を写し出し、母親が途方にくれて少年を捜している……。
その時、試写室のドアが開き、少年(二十年前の私)が入って来て、この映画は過去を美化した作り物だ、と言って真実を語り始める。
空気女は男好きで、一寸法師はいつも嫉妬に狂っていた。
少年は「はじめから相手にしていなかった」と冷たく嫁に言われる。
母一人子一人の生活に戻った少年は、相変らず家出を夢見ている。
ある日、麦畑でばったりと現在の私と出会う・・・。
寸評
観念的な映画で、映画を娯楽と言う視点から見れば面白くない作品だが、それを凌駕するような映像で迫ってくる寺山修司らしい作品だ。
畳をあげると恐山の風景が現れる。
恐山は扉を開けても現れるし、テントの幕を開けてもそこは恐山というシーンがあったりする。
恐山そのものが死者と対峙しイタコによって死者と語り合う宗教的な場所で、恐山の風景そのものが神秘的だ。
過去の自分と、自分を取り巻く人々が白塗りの姿で登場するが、その様子はきわめて演劇的である。
自然の中でいろいろ繰り広げられるが、その中に置かれたセットや小道具がオブジェ的で、そのオブジェもなぜかしら存在感があって画面を圧倒するものがある。
自然の景色も時々着色フィルターがかけられて異様な世界を演出する。
それがどうしたと言えばそれまでなのだが、やはりそうした演出は見るものに何かを訴えてくる。
僕にはそれが何によるものなのかは分からないけれど、異次元の映像世界が展開していることだけは感じられ、それがこの映画のすべてであるようにも思える。
少年が育った時代、地方は貧困だ。
時として生まれた子供を間引かねばならない、まるで江戸時代の農村のような状況である。
女が産んだ私生児も川に流される。
女は戻っておいでと叫ぶが赤ん坊は流れていく。
すると上流からは少女の成長を祝うための雛祭りの段飾りが流れてくる。
真っ赤な敷物と段飾りの映像に圧倒される。
タイムスリップして100年さかのぼり祖母を殺したとしたら、今の自分は存在しないことになる。
だとすれば祖母を殺したのも自分ではない。
一体誰が祖母を殺すことになるのか、今の自分は一体誰なのか?
欺瞞に満ちた存在でしかない。
自分を偽っているのかもしれない。
少年が憧れた女性(八千草薫)は少年に優しかったはずだが、出会った女性は「はじめから相手になんぞしていなかった」と冷たく言い放つ。
自分の希望で美化していたのだろうか?
女は自分が愛した共産主義者と心中してしまう。
今、都会で暮らす自分はどこにいるのか?
新宿の繁華街にいても、恐山から抜け出ていない。
退廃的な和歌が度々インポーズされ、なんだか暗い。
少年が出会ったサーカス団の人々も風変わりな連中ばかりで、前衛劇を見ているような世界を展開する。
ATGだから作れた作品だし、ATGだから公開された作品でもある。
好きな人には映像美にあふれた芸術作品、認めない人にはくだらない作品だ。
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