おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

目撃

2021-12-16 09:49:17 | 映画
「目撃」 1997年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
   ジーン・ハックマン
   エド・ハリス
   ローラ・リニー
   スコット・グレン
   デニス・ヘイスバート

ストーリー
大統領の後援者である政界の大物サリヴァンの邸宅に忍び込んだ盗みのプロ、ルーサー・ホイットニーは、一家が休暇旅行中に夫人クリスティの寝室にある金庫室の中身を頂く。
その時、何とクリスティが大統領のリッチモンドを伴って帰宅。
酔った勢いで暴力を振るうリッチモンドに、クリスティがナイフで反撃。
飛び込んだシークレット・サービスのバートンとコリンが、彼女を射殺した。
大統領補佐官のグロリアは、2人に現場の証拠隠滅を命じ、事件の揉み消しを図る。
金庫室に隠れて一部始終を目撃したルーサーは、彼らが現場に忘れたナイフを手に逃走。
事態に気づいたバートンとコリンの追跡を振り切って逃げきった。
目撃を名乗り出ると窃盗の罪に問われる上に、現職大統領が殺人の張本人だという話を誰が信じてくれよう。
ルーサーは悩んだ末に国外逃亡を決める。
一方、サリヴァン邸強盗殺人事件を担当する刑事のセス・フランクは、水も漏らさぬ鮮やかな手口は明らかにルーサーの犯行を示唆しているものの、彼が殺人を犯すとは考えられない。
だが、ルーサーと直接対面したフランクは、彼が何かを知っていると確信。
ルーサーは空港で搭乗を待つ間、テレビでリッチモンドがホワイトハウスで開いた記者会見の中継を見る。
盟友ウォルターの夫人の死を悼み、白々しく涙を流すリッチモンドの姿を見た時、ルーサーの腹は決まった。
ルーサーは、離れて暮らす最愛の娘ケイトとカフェで接触する。
大統領が雇った殺し屋とコリンが彼を狙撃するが失敗に終わり、ルーサーは逃亡した。
コリンは、今度はケイトを狙い、崖から車ごと突き落とされた彼女は重傷を負う。
とどめを刺すべくケイトのいる病院に侵入したコリンを、待ち伏せしていたルーサーが殺した。
ルーサーはサリヴァンに接触すると、事件の真相を告白して、あのナイフを手渡した。


寸評
事件を目撃した為に犯人側から命を狙われると言う物語は数多く撮られてきたが、「目撃」のユニークなところはその犯人がアメリカ大統領である点だ。
直接手を下したのはシークレット・サービスの二人だが、その原因を作ったのは大統領で、もみ消しを指揮したのが主席補佐官であると言うことが作品の興味を引く。
大統領の有力な後援者であるサリヴァンが、リッチモンドは女性にだらしない男だと言っていたが、それと同時に若い後妻をもらったサリバンの異常性格も描かれ、二人の性的行動がこの物語の背景にある。
この作品は1997年の製作だが、奇しくも翌1998年に第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンと研修生モニカ・ルインスキーのスキャンダルが報じられて大きな話題となった。
このルインスキー事件の追及過程で、クリントンが聖域であるはずのホワイトハウスでの行為がマスコミに暴露され、大統領も「ルインスキーさんと不適切な関係を持った」と告白せざるを得なくなって、クリントンは大統領職としての権威を大きく失墜させた。
大統領と言えども生身の人間で、ハメをはずした行為を行うものだと認識させられたのだが、映画に描かれた内容は正にその事実を先取りしたようなものだ。

余計な主張などない、文字通り娯楽に徹したストレートな作品だ。
冒頭でビデオ録画のエピソードが出てくるが、これも伏線になっていて、この手の作品の手際に工夫がみられる。
冒頭でルーサーが豪邸に忍び込むが、その手際のよさに「なぜそんなに完璧に事が運べるのか」と疑問が湧いてきて、あまりにも都合がよすぎるのではないかと感じていたのだが、監督イーストウッドはその説明を、ルーサーが犯人はこうしたのではないかと刑事のセス・フランクに語ることで行っていて手抜きはしていない。
シークレット・サービスのバートンとコリンがサリヴァン夫人を殺したのだが、この二人のキャラクター設定も作品を面白くしている。
ティム・コリンはためらいもなく命ぜられた任務を遂行するタイプである。
一方のビル・バートンは命令に従いながらも自責の念を持ち続ける。
首席補佐官としては重みに欠けるグロリアに対して、二人の性格対比がそれを補っていたように感じた。
ルーサーが大統領側への挑戦として、盗み出したアクセサリーをグロリアに送り届ける。
グロリアがその高価な贈り物に有頂天になる様子は、大統領はグロリアとも関係していたのではないかと思わせ、その後にダンスをしながらかわす会話の様子が面白い。

それにしてもルーサーはスーパーマンで、ピンチに慌てふためくこともないし、神出鬼没でもある。
娘のケイトと落ち合う場面で狙撃されるが、偶然の出来事で難を逃れた時に見せる姿の消し方の超人的な行動も、娯楽映画としてはこれもありなのだろう。
事件を通じて父娘が確執を取り払う物語として見れば了解できるのだが、サスペンスとして見た場合の解決に至る過程は気ぜわしい。
ビル・バートン、グロリアの処理は一瞬のことで、僕は少し物足りなさを感じた。
サリヴァンの行動は理解できるけれど、彼が発表する姿の真実性を納得させる映像はない。
大統領演説と共に、テレビに映し出される感動的なスピーチには裏があると言うことなのかもしれない。

娘・妻・母

2021-12-15 09:08:13 | 映画
「ま」行の残りはあまり思いつきません。
「む」から「も」まで連続して記載します。

「娘・妻・母」 1960年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 三益愛子 原節子 森雅之 高峰秀子
   宝田明 団令子 草笛光子 小泉博
   淡路恵子 仲代達矢 杉村春子
   太刀川寛 中北千枝子 笠智衆

ストーリー
坂西家は東京、山の手の代々木上原あたりの住宅街にある。
一家には、60歳になる母親あき(三益愛子)を中心に、会社では部長の長男勇一郎(森雅之)と妻の和子(高峰秀子)、その子の義郎(松岡高史)、それにブドウ酒会社に勤める末娘の春子(団令子)が住んでいる。
また商家に嫁に行った長女の早苗(原節子)が、夫、姑との仲がうまくいかず遊びに来ていた。
早苗はこの里帰り中事故で夫に死なれ、毎月五千円の生活費を入れて実家に住みつくことになった。
勇一郎は、家を抵当にした金を和子の叔父にあたる鉄本(加東大介)に融資し、その利息を生活の足しにしていたが、更に50万円を申しこまれ、その金の用立てを早苗に頼んだところ、彼女は承諾した。
ある日、早苗、春子に、次男の礼二(宝田明)と妻の美枝(淡路恵子)らは甲府のブドウ園に遊んだ。
案内は醸造技師の黒木(仲代達矢)で、彼は早苗に好意以上のものを感じた。
東京へ戻って、早苗は母の還暦祝の品物を買いに銀座へ出たとき、学友の菊(中北千枝子)に誘われて入ったフルーツパーラーで、彼女の知り合いの五条(上原謙)を紹介された。
還暦祝いの日、黒木から早苗に電話があり、二人は上野の美術館に行った。
帰り、黒木は早苗に接吻した。
勇一郎は金を貸した鉄本が行方をくらましたのを知り、坂西家は家族会議を開いた。
母親にも内証で家を抵当に入れた勇一郎は弟妹に責められた。
礼二も春子も分配金が貰えないので、老後の母を誰が面倒をみるかという話にまで進んだ。
早苗はズバズバいう弟妹たちが悲しかった。
彼女はあきに、母を引きとっても結婚したいと申しこんできた五条の許へ再婚する気持を打ちあけた。
早苗は黒木を呼びだし別れたのだが、しかしあきは養老院へ入院手続きをしていた・・・。


寸評
坂西家の5人の兄弟姉妹は、長男が森雅之で母親の三益愛子の面倒をみていて、その妻が高峰秀子である。
長女の原節子は商家に嫁いでいったが上手くいかず実家に戻っている。
次女の草笛光子は教師の小泉博と結婚していて、自分も幼稚園の保母して共働きだが、家庭は裕福でなく義母の杉村春子が一人息子を可愛がり何かと口うるさく、夫婦は別居を望んでいる。
次男の宝田明は姉さん女房の淡路恵子が営む喫茶店の2階でスタジオを開くカメラマンである。
三女の団令子は食品会社に勤めるドライな女性で太刀川寛という恋人がいる。
高峰秀子は叔父の 加東大介に世話になっていたので、彼の借金の依頼を断れないでいる。
夫と死別した原節子には上原謙や仲代達矢が想いを寄せる。
当時の東宝のオールスターキャストと言っても良い布陣である。

キャスティングに興味が行くが、描かれている内容も時代を超えた普遍的な問題で考えさせられる。
家族の状況は時代を感じさせるが、それぞれの家庭が抱えている問題は現代にも通じるものがある。
160坪の家だから今ではそこそこの広さを持った家と言えるが、その家を長男の森雅之が引き継いでいる。
彼は当然のように母親と同居し面倒を見ている。
妻の高峰秀子は帰るい所もない身で森雅之と結婚しているが、姑と小姑に囲まれながらも何とかやっている。
長女の原節子は大きな商家に嫁いだが、何十年も務めている店員に見下されていて、先方の家族とは上手くいっていないようである。
原節子はある年齢の人たちには評価されている女優だが、僕は役の幅の狭さを感じてあまり評価していない。
彼女には商家に嫁いでその店をテキパキと切り盛りしていくやり手の女性と言うイメージがわかない。
その意味でこの作品での長女の早苗と言う役は適役ではあった。
次女の草笛光子は狭い家での杉村春子との同居に辟易している。
僕も母一人子一人の家庭で育ったから、そんな母親との同居によるいざこざは身をもって体験したから、草笛光子夫婦の悩みはよくわかる。
姉さん女房の淡路恵子は宝田明が店の女の子のおしりを触ったことで怒り爆発して家出してしまう。
面白いのは彼女が容姿の衰えで夫が若い女性に気が行ってしまうのではないかと心配し、ここが踏ん張りどころと意地を張っている姿で、この様なエピソードを入れ込んだ松山善三の脚本もよくできている。
末っ子の団令子は家を売れば自分にいくら入るかを真っ先に計算し、母親の身の振り方には一番冷たいが、結婚を控えている彼女にとっては財産分けは死活問題でもある。
兄弟は他人の始まりと言うが、金が絡むとそれぞれの欲が出てくるものでもある。
原節子は母親との同居条件を基準に再婚相手を選んだのだろうか。
女性の生きる道は結婚しかないと言うのは当時の風潮だったのだろう。
高峰秀子は義母を引き取っても良いと言っているが、いつかは訪れる親の最後の面倒はいつの時代でもなくならない問題である。
いいのは結論を明示せず、その後を観客の判断に任せていることだ。
「娘・妻・母」のタイトルが示すように、森雅之、宝田昭、加藤大介、小泉博などの男性も登場するが、この作品はあくまでも女性を描いた作品であった。

ミンボーの女

2021-12-14 08:25:01 | 映画
「ミンボーの女」 1992年


監督 伊丹十三
出演 宮本信子 宝田明 大地康雄 村田雄浩
   大滝秀治 三谷昇 結城美栄子 関弘子
   鶴田忍 三宅裕司 伊東四朗 中尾彬
   小松方正 我王銀次 柳葉敏郎 田中明夫
   ガッツ石松 不破万作 上田耕一

ストーリー
ヤクザにゆすられ続けるホテル、ホテル・ヨーロッパ。
ヤクザの脅しに屈して簡単に金を出してしまう体質から日本中のヤクザが引っ切り無しに訪れるようになり、危機管理の甘さを露呈してサミットの招致も断られてしまう。
この状況を打開すべく、総支配人の小林(宝田明)は経理部の鈴木勇気(大地康雄)、ベルボーイの若杉太郎(村田雄浩)の二人をヤクザへの対応役として任命する。
しかし、何の知識もない二人はヤクザを追い出すどころか火に油を注ぐ結果となり、ますますヤクザの恐喝を悪化させてしまう。
見かねたホテルの幹部はついに外部からプロを雇うことになる。
それが民事介入暴力(民暴)を専門とする弁護士、井上まひる(宮本信子)であった。
まひるはヤクザ相手に経験と法律の知識を武器に堂々と立ち向かい、鈴木と若杉に「ヤクザを怖がらない」ことを教え、二人は徐々に勇気を持つようになった。
そんな中、小林はゴルフ場で知り合った入内島(伊東四朗)という男に誘われるがまま賭けゴルフをしてしまう。
しかし実は、入内島はヤクザ組織の中心人物であり、ホテルに街宣車を送り込む等の嫌がらせを行う。
それに対してまひるは、一歩も引かず対処するが、「鉄砲玉」(柳葉敏郎)によって腹部を刺されてしまう・・・。


寸評
僕は在職時に社を代表して暴力団対策法に基づく不当要求防止責任者を担当し、大阪府警による講習会にも参加していた時期があった。
講習内容は暴力団による、みかじめ料要求やユスリ、タカリの類に応じないためのノウハウを警察組織の暴力団担当者に教示してもらうというものであった。
作品中でもその中の主なものが紹介されている。
第一は、相手の指定した場所では会わない。
第二は、嫌な役目を一人に負わせずに相手より多い人数であたること。
第三は、トップを出さず担当者が対応すること。
その他、相手がどこの誰かを確認する、要求内容をハッキリと確認する、録音やメモで正確に記録する、詫び状など不必要な書類は書かない、安易な妥協をせず解決を急がない、警察や弁護士などに相談する、不当要求には法的な対抗処置をとることなどが主な内容であった。
自分たちは公安と司法の指示に従っていることを伝えるとのことだが、幸いにして僕の在任中にはそのような相手には出会わなかった。
ところが従兄が暴力団員と思われる男から脅迫を受け財産をなくしてしまったという出来事があり、民事暴力は身近に存在していることを痛感したことがあった。
この作品にもめ事を解決してやるという人物が登場していたが、従兄のケースでもそのような男がいて、気の弱い従兄は何人かに依頼したところそれぞれから金を巻き上げられた。
弱いと見れば付け込んでくるのがヤクザの手口なのだ。
相談を受けた僕は押しかけてくると言う脅迫電話の録音を聞き、「そんな者が来るわけがない、押しかけてきたらこっちのもんや」と伝えたのだが、その男が押しかけてくることはなかった。

「ミンボーの女」では民事暴力対応で、最初はおどおどしていた者が、女弁護士の指導の下で暴力団組織に負けないようになるまでを手口の紹介を含めて描いている。
脚色はエンタメ性に富んだものとなっているが、描かれている内容は絵空事ではないもので、映画公開1週間後にそれを根に持ったヤクザ組織の5人組に伊丹が自宅の近くで襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うという事件が起き、5人の組員は4年から6年の懲役刑となっている。
伊丹は1997年12月20日に飛び降り自殺で死亡しているのだが、これにもヤクザが関与していたとの噂がある。
この映画は暴力団対策法が施行された直後のこともあってヒットしたのだが、前述の通り内容的にはリアルだ。
まず大地康雄と村田雄浩がヤクザ対策担当を命じられるが、これは誰もが嫌がる役回りだ。
クレーム担当のお客様相談室担当などもそれに準じた職務で、僕の勤めていた会社でも担当者は悩んでいた。
伊東四朗が行ったゴルフを利用した恐喝も、会社が属してい同業団地の理事たちが引っかかったと聞いた。
中尾彬が行う街宣車騒ぎは以前は市中でよく見かけた光景だ。
こんなことに拘わったら厄介だなと思わせるリアルさがこの映画の面白いところにもなっている。
伊丹十三は宮本信子を主人公にして、「マルサの女」、「マルサの女2」、「ミンボーの女」、「スーパーの女」、「マルタイの女」と女シリーズを撮っているが、回を重ねるごとにその表現パワーは落ちて行った感がある。
本作はまだその水準を辛うじて保っている。

ミュンヘン

2021-12-13 16:37:59 | 映画
「ミュンヘン」 2005年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 エリック・バナ
   ダニエル・クレイグ
   キアラン・ハインズ
   マチュー・カソヴィッツ
   ハンス・ジシュラー
   ジェフリー・ラッシュ

ストーリー
1972年9月5日未明、ミュンヘン・オリンピック開催中、武装したパレスチナのテロリスト集団“黒い九月”がイスラエルの選手村を襲撃、最終的に人質となったイスラエル選手団の11名全員が犠牲となる悲劇が起きた。
これを受けてイスラエル政府は犠牲者数と同じ11名のパレスチナ幹部の暗殺を決定、諜報機関“モサド”の精鋭5人による暗殺チームを秘密裏に組織する。
リーダーに任命されたのは、愛国心あふれるアヴナー。
妊娠中の妻にも事情を話せないまま、彼は命令に従うことを決める。
上官エフライムの指示のもと、アヴナーはヨーロッパに渡る。
そして車輌専門のスティーヴ、後処理専門のカール、爆弾専門のロバート、文書偽造専門のハンスという4人のスペシャリストと共に、アラブのテロリスト指導部11人を一人一人暗殺していく。
アヴナーはフランス人の情報屋ルイらの協力を得て、最初の標的である翻訳家を待伏せして射殺に成功。
次の目標であるPLO幹部に対しては、ロバートが電話機に爆弾を仕掛けて爆殺を目論み、これも成功する。
2人の暗殺が終了した時点で、アヴナーは妻の出産に立ち会うため仲間に内緒で一時帰国。
家族の危険を考え、妻にニューヨークへの移住を切り出す。
やがてメンバー5人は、任務そのものへの疑問や不安を感じ始めるようになった。
ある晩、ついにカールがジャネットというオランダ人の女殺し屋に殺害される事件が起こる。
まもなくハンスも殺害され、いつの間にか狙われる立場になったアヴナーは恐怖に怯え始める。
皮肉にもチームを離れたロバートは、自ら作った爆弾の誤爆により命を失う。
やがて標的を7人殺害した時点で、アヴナーは任務を解かれて妻子の待つニューヨークへ戻る。
だが暗殺の記憶の苦しみや、誰かに追われる恐怖を抱えながら生きていくのだった。


寸評
1972年のミュンヘンオリンピックと言えば、日本男子体操が最も強さを誇った大会で、鉄棒金メダルの塚原光男が開発した「月面宙返り」が思い起こされ、男子バレーボールの金メダルに日本中が熱狂したことも懐かしいが、同時に記憶されるのが、オリンピック史上最悪の大惨事となった「ミュンヘンオリンピック事件」だ。
日本でも事件は報道されたが、国民感情は柔道やレスリングの日本人選手の活躍に浮かれていたと思う。
やはり中東は遠い国で、日本人にとってパレスチナ問題はどこか他人事のようなところがあったのだろう。
本作はそのミュンヘン事件に端を発したイスラエルの報復を描いている。

イスラエル諜報特務庁、通称モサッドの上官エフライムによって暗殺団が組織されるが、彼らがどのような経緯で人選されたのかは分からない。
アヴナーを除く4人がそれぞれ自動車のスペシャリスト、爆弾担当、現場の後始末担当、文書偽造担当と紹介されるだけで、風体や態度から訓練を施されたプロのスパイと言う風ではない。
特技が明確に描かれているのは爆弾担当のロバートぐらいで、サスペンス劇なら描かれるであろう他の人物の特技が生かされるシーンは特に用意されていない。
最初の標的となるのは翻訳家なのだが、イスラエルにとってこの翻訳家を殺害しなければならない理由がよく分からなかったのだが、それに比べて次の目標なのがPLO幹部であるのは納得できる。
実話に基づくとなっているが、電話機に爆弾を仕掛けて爆殺するのが大層なものに思える。
爆殺の方がニュースになるとエフライムに言われていたが、本当にこのような手の込んだことを行ったのだろうか。
一般人を巻き込むと騒ぎが大きくなるので避けたいと言う思いが上手く盛り込まれている。
娘の登場は脚色かもしれない。

ルイの組織はパパと呼ばれる人物によって統率されているが、まるで「ゴッド・ファーザー」を連想するようなファミリーが一堂に会するシーンがある。
彼らのような裏組織の者にとっては、アヴナー達が探している人物の所在などは手の内にあるのだろうか。
情報屋を見つけ出すことや、人物の所在を突き止めること、相手が留守の間に家宅侵入して爆弾を仕掛けるなど、苦労するであろうことが簡単そうに見えて、サスペンス劇としては緊迫感にかけるのだが、スピルバーグは事件をサスペンス劇ではなく政治劇として描いているのだろう。
だからアヴナーの妻の不安とか、夫の仕事への疑問といった妻側の事情は描かれていない。
ルイの組織は政府関係には情報を流さないが、金さえ支払ってもらえれば誰にでも情報を渡す組織である。
ルイが用意した隠れ家で、アヴナーたちは標的であるパレスチナ人と遭遇する。
どちらもルイによって安全な隠れ家として提供されていて、ルイの組織のスタンスが分かるシーンとなっている。
ここでユダヤ人とパレスチナ人の議論がなされるが、一方が苦難の上で国家を獲得し、一方は未だに国家を持ち得ていないという人種と国家の複雑な状況が示されて考えさせられるシーンだ。
アヴナーは生き残り、ニューヨークにやって来るが、彼の中には愛する家族と生きて再会できたという喜びとともに、敵であろうが人を殺めたという罪悪感や、常に誰かに命を狙われているのではという恐怖感が湧いてくる。
そしていくら敵を倒しても必ずや意志を継ぐ後継者が現れるであろうという現実への思いが残り、殺人の連鎖の不毛なことを訴えているが、スピルバーグの出身を考えるとイスラエル寄りに描かれているのは仕方ないかと思う。

身代金

2021-12-12 08:52:38 | 映画
「身代金」 1996年 アメリカ


監督 ロン・ハワード
出演 メル・ギブソン
   レネ・ルッソ
   ブローリー・ノルティ
   ゲイリー・シニーズ
   デルロイ・リンドー
   リリ・テイラー

ストーリー
ここ10年で全米で五指に入るまでに急成長した航空会社の社長トム・ミューレンは、目的のためには手段は選ばないやり方で現在の地位を築いてきた。
美しい妻ケイトと9歳の息子ショーンに囲まれ、人生の絶頂にあったかに見えた。
そんなある日、ショーンが何者かに誘拐され、「200万ドル用意しろ」という電子メールが送られてきた。
事件を迅速に解決したい彼は、犯人の要求通りに身代金を払おうとするが、ショーンの身を案じるケイトはFBIに事件を委ね、ホーキンス捜査官以下の対策チームが到着する。
犯人グループの黒幕は市警のベテラン刑事ジミー・シェイカーで、仲間は彼の情婦マリス、チンピラのカビーとクラークの兄弟、コンピューターの専門家マイルスだった。
”犯人一味はショーンを解放する気などないのではないか”という恐ろしい疑念にとりつかれたトムに犯人から電話が入る。
ショーンの生存を確認し、新たな希望が沸いたトムは、犯人に身代金を渡すことを断固拒む。
TV局に向かった彼は特別番組を組ませ、200万ドルの札束の山を前に「これは渡さない。お前の首に懸けた賞金にする」と犯人に対して宣戦布告。
誘拐犯人を脅迫するという前代未聞の行為は犯人に動揺を与え、ジミーはケイトに接触して賞金を取り下げなければ息子を殺すと脅迫するが、それを知ったトムは逆に賞金を倍額につり上げた。
自分の身が危ないと察したジミーは3人の仲間を口封じのために殺し、その際にマリスと撃ち合って負傷した。
彼は犯人のアジトを偶然発見し、ショーンを救った英雄として脚光を浴びる。
傷も癒えたジミーは高飛びするため、懸賞金の400万ドルを受け取りにトムの前に現れた。


寸評
誘拐事件を扱った作品は黒澤明の「天国と地獄」、大河原孝夫の「誘拐」、伊藤俊也の「誘拐報道」など、日本映画にも名作が多い。
外国映画に於いても、パク・チャヌクの「オールド・ボーイ」、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」、ジョナサン・デミの「羊たちの沈黙」などちょっと毛色の変わった誘拐映画が存在している。
誘拐事件を扱った作品が数多く撮られているのは、描く題材として変化に富みエンタメ性を発揮しやすい為ではないかと想像する。
僕が推理小説を読み漁っていた頃、高木彬光の「誘拐」に出会い、なかなか面白い筋立てで書かれているなと、意表を突いた着想に感心した事を思い出す。
「身代金」も誘拐を扱った作品だが、「誘拐」と同様に意表を突いた展開でうならせる。

身代金目的の誘拐事件を描いた作品における最大のハイライトは誘拐犯との身代金交渉と受け渡し、そして人質の救出場面である。
通常電話を通じて行われる金額交渉は被害者側に与えられた犯人との接触機会である。
多くの場合、警察が分からないように被害者側に居て、犯人の電話を盗聴し逆探知を試みるのだが、それで居所が分かったためしはない。
犯人側にとって誘拐事件の唯一の弱点は、身代金受け取りの為に最低一回は姿を現さなくてはならないことで、必然的に受け渡し場面はハイライトの一つになる。
ここでも犯人と被害者との身代金受け渡しについて電話によるやり取りが繰り返される。
FBIは盗聴、逆探知を試みるが犯人側も心得たもので、音声は変えているし逆探知をされる前に電話を切断するのは誘拐映画の共通事項のようなもので、目新しさはないが及第点の描き方で緊迫感は持続する。
身代金の受け渡し場面も、これまた文字通りのスリルとサスペンスを高めて描かれていて、これも及第点だ。
犯人側に心優しい男がいるのがちょっとした変化となっていて、女ながら非情なマリスとの対比が面白い。
この映画は誘拐映画の抑えるべきところは抑えている作品なのだが、ユニークで観客を驚かせるのが父親が身代金の支払いを拒絶し、逆に犯人に生死にかかわらず身代金と同額の懸賞金をかけることだ。
懸賞金目当てのガセネタの電話が捜査側に何百本も寄せられ、FBIのロニー・ホーキンス捜査官は「こんなひどい捜査妨害は見たことがない」と非難するが、その様子を描いても良かったかもしれない。
人質を取っているのに追い詰められていく犯人側の描写が面白い作品だ。
難があるとすれば主犯ジミーの犯行動機が不明なこと、犯行グループの性格描写が希薄なこと、マリスが子供の殺害を思いとどまる理由がよく分からないことなどだと思う。
そして最大のミスは航空会社の社長でもある主人公のトム・ミューレンがワイロを渡して会社を救ったということへの贖罪を全く描いていないことだ。
トムは「金で何でも解決できると思っている」と犯人から言われているが、反対に犯人に「信用できる人間なら身代金を払っていた」と言っている。
それぞれの人物性を描きこめばもっと面白い作品になっていたような気がする。
しかし被害者側が犯人に懸賞金をかけると言う発想は新鮮で、その着想がうまく生かされた作品であることは間違いない。

ミニヴァー夫人

2021-12-11 11:06:07 | 映画
「ミニヴァー夫人」 1942年 アメリカ


監督 ウィリアム・ワイラー
出演 グリア・ガーソン
   ウォルター・ピジョン
   テレサ・ライト
   デイム・メイ・ウィッティ
   レジナルド・オーウェン
   ヘンリー・トラヴァース

ストーリー
ロンドンから程遠くないイングランドの小さい町ベルハムに、ミニヴァー夫妻は幸福な家庭をもっていた。
ナチが始めた戦争にいつ英国も加わらねばならぬか分からないが、ベルハムは平和で、駅長バラードもバラの花を展覧会に出そうと丹精している。
ミニヴァー夫人がロンドンで帽子を買って帰る時、駅長がバラの花に『ミニヴァー夫人』と命名させてくれと頼んだところ、ミニヴァー夫人は快く承諾する。
駅長がバラを出品すると発表したために町は騒ぎ立った。
というのは毎年1等賞は町の名士で資産家の老夫人レイディ・ベルドンが取る習慣だからである。
翌日、老夫人の孫娘キャロルはミニヴァー夫人を訪れ、祖母を失望させないで頂きたいと頼み込む。
大学から帰宅していたミニヴァー家の長男ヴィンは、下層勤労者階級の生活権について大学研究している折でもあり、ベルドン夫人の封建性を避難してキャロルと議論したのであるが、それが縁で2人は心をひかれ合う。
ダンス会のあった翌日、教会では牧師が英国の参戦と国民の覚悟について説教した。
ヴィンは空軍に志願を決意してキャロルにその事を告げ、愛を告白する。
ベルドン老夫人は孫が中流の平民の息子と親しくするのを好まなかったが、戦争は老夫人の心持ちを変えたとみえ、キャロルとヴィンの婚約が発表される。
夫のクレムがダンケルクの危機の報を聞き、町の人々と共にモーター・ボートでテームズ河を下り、英兵救出に力添えをしていた時、不時着して傷ついたナチの飛行士がミニヴァー家の台所に逃げ込んでいた。


寸評
見終ると、これは完全な戦意高揚映画であるとわかるが、中身は上流家庭とは言えないまでも裕福な家庭に起こる出来事をほのぼのと描いた風俗映画だ。
市井の人々の生活描写は味があり、戦争突入直前だというのに彼等はいたってのどかである。
ロンドンの周辺都市と思われるベルハムの平和な人々の暮らしを描きながら、作品を戦意昂揚にもってくのにはムリがあった言わざるを得ない。
描き方として、最初からもっと参戦への不安が盛り込まれていれば、後半の展開から受ける印象も違ったものになっていただろうと思う。
バラをめぐる話で、誰からも好かれる夫人の人柄を表現していた。
町一番の美人の奥さんと言うことだが、性格もおおらかでユーモアもあり賢夫人を絵にかいたような人物で、それをバラの花が象徴していた。
駅長がミニヴァー夫人に掛ける言葉で、彼女の慕われ方がわかる。

ミニヴァー夫妻の滑稽ながらも信頼し合っている様子や、ヴィンとキャロルの恋の進展などはホームドラマの典型と言えるような演出で、イヤミなくホッコリした気分で眺められる。
中流と言うには恵まれた家庭の様子を、平凡な一庶民である僕は半ば羨望を持ちながら鑑賞した。
この地方を収めていた貴族の末裔と思われるベルドン夫人の孫娘キャロルと、庶民であるヴィンの家柄の違いによる恋の展開もさしたる障害なく進んでいくので、みていて重苦しくならない。
封建的なベルドン夫人も結構話せるおばあちゃんなので観客を安心させる。

しかし、キャロルと恋仲になったヴィンの空軍入隊が突然やってくるのは前触れもなく唐突すぎたと思う。
夫の自前ボートでの民間防衛なども降ってわいたようなエピソードだ。
クレムがダンケルクからの撤退作戦に駆り出されるのだが、それが突然すぎる印象で描かれている。
少ない数で出発したボートがやがて数を増し、大小入り乱れて河口を目指すシーンは戦意高揚映画らしい。
一方で撃墜されたドイツのパイロットを捜索している話は前半で語られているが、夫人が逃亡ドイツ兵を捕まえるくだりは急転直下でご都合主義だ。
このように話を無理やり戦意高揚にもっていっているようなきらいがあるのは、話の内容からしてもったいないような気がする。
ただ、ヴィンを飛行場に送った帰りに敵機の機銃掃射に遭い、キャロルが死ぬあたりはワイラー演出のうまさが光っていた。
もっとも、最後のお説教は、今となっては嘘臭い。
それでも時代を反映した作品として見る分には、リラックスして鑑賞できる作品になっていてワイラー作品の小品として楽しめる出来栄えだ。

長男役のリチャード・ネイとグリア・ガーソンがこの共演で結婚したという後日談がある。
もっとも、4年後に離婚している。

緑の光線

2021-12-10 09:14:29 | 映画
「緑の光線」 1985年 フランス


監督 エリック・ロメール
出演 マリー・リヴィエール
   リサ・エレディア
   ヴァンサン・ゴーティエ
   ベアトリス・ロマン

ストーリー
夏のパリ。オフィスで秘書をしているデルフィーヌは20歳も前半、バカンスを前に胸をときめかせていた。
7月に入って間もない頃、ギリシア行きのバカンスを約束していた女ともだちから、急にキャンセルの電話が入り、途方に暮れるデルフィーヌ。
いよいよバカンスとなり、女ともだちのひとりが彼女をシェルブールに誘ってくれた。
シェルブールは太陽はまぶしく海は澄み渡っていたが、デルフィーヌの心は晴れない。
8月に入り山にでかけた彼女は、その後、再び海へ行き、そこで、老婦人が話しているのを聞いた。
それは、ジュール・ヴェルヌの小説「緑の光線」の話だ。
太陽が沈む瞬間にはなつ緑の光線は幸運の印だという……。
海で友達ができないわけではないが、彼女の孤独感は消えない。
パリに戻ることにした彼女、駅の待合室で、本を読むひとりの青年と知り合いになった。
初めて他人と意気投合した彼女は思いがけず、自分から青年を散歩に誘ったところ・・・。


寸評
フランスにはバカンスと言う長期休暇をとる風習があって、夏のこの時期にパリに行っても従業員が皆バカンスに出かけてしまい、閉まっている店が多くあり楽しくないという話を聞いたことがある。
フランス人にとっては「人間が元気に生きていくため必要なもの」となっているらしい。
デルフィーヌは友達とのギリシア行きのバカンスがおじゃんになり途方に暮れる。
それなら一人で行けばいいじゃないかと思うのだがデルフィーヌは一人では面白くないという。
僕は学生時代に20日間ほどかけて九州、同じように山陽道を一人で旅したことがあるが、一人旅も同行者を気にせず好きなことが出来て楽しいものだった。
一人だから土地の人にも語り掛けるし、同じような旅行者とも親しくなることができた。
一人旅の醍醐味とでもいうべき体験は楽しかった思い出しかないのだが、デルフィーヌは違うらしい。

バカンスの過ごし方に悩んでいる時に友達がシェルブールに誘ってくれる。
「シェルブールの雨傘」で馴染みのある地名である。
デルフィーヌはそこに行っても気が晴れないし、皆と食事していても乗り切れないものがある。
見ているとその状況の原因はデルフィーヌにあるように思えてくる。
兎に角この女性は理屈っぽい。
動物は食べる気がしないと肉類は勿論のこと、エビやカニも食べない。
菜食主義者と見てしまえばいいのだが、僕は議論する彼女を見ていると、こんな理屈をこねる女性はまっぴらだという気持ちが湧いてきて嫌悪感さえ感じた。
彼女は恋に恋しているような所があって、異性との出会いを求めているようでもあるのだが、そこでもやたらと保身的で、男性から声を掛けられ同行の女性が興味を示しても彼女は拒絶してしまう。
たしかに軽薄な会話を繰り返す男性には興ざめするのは理解できるし、僕も軽薄な会話しかしない女性は好きになれない。
しかし彼女の場合は理想が高いのか、出会う人と馴染めないでいる。
人からは変わり者だと言われると告白しているが、変わり者というより理屈っぽいのだ。
理屈を言わせれば人並み以上なのだが、それじゃやってみればと実行を迫ると行動を起こさない人がいる。
映画が進むにつれて、僕にはデルフィーヌがそんなタイプに見えてくる。

別れた恋人を山に訪ねるが、彼とは合わずにすぐに下山し今度は海に行く。
そこで彼女はジュール・ヴェルヌの「緑の光線」の話を老婦人が話しているのを聞く。
「太陽は赤・黄・青・紫の光を発しているが、青い光が一番波長が長い。だから、太陽が水平線に沈んだ瞬間、青い光線が最後まで残って、それがまわりの黄色と混ざって私たちの目に届く」という。
太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線は幸運の印で、それを見た者は幸福を得られるという。
デルフィーヌは知り合った男性とその緑の光線を見る。
彼女は今迄と違って自分から青年を散歩に誘う積極性を見せていた。
自らが行動を起こさない限り、幸せは向こうからやって来てはくれないのだと言うことだろう。
最後に緑の光線を見せるために回り道をしてきたような作品だが、撮り方は瑞々しいものを感じさせた。

蜜蜂と遠雷

2021-12-09 06:53:11 | 映画
「蜜蜂と遠雷」 2019年 日本


監督 石川慶
出演 松岡茉優 松坂桃李 森崎ウィン
   鈴鹿央士 臼田あさ美 ブルゾンちえみ
   福島リラ 眞島秀和 片桐はいり
   光石研 平田満 アンジェイ・ヒラ
   斉藤由貴 鹿賀丈史

ストーリー
3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として世界から注目を集める芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつて天才少女として騒がれた栄伝亜夜(松岡茉優)は、母の死のショックからピアノが弾けなくなり、表舞台から遠ざかっていたが、今回のコンクールは亜夜にとって再起を賭けたラストチャンス。
そんな亜夜の演奏を聞いた審査委員長の嵯峨(斉藤由貴)は、1次予選は通るものの、その後は難しいだろうと思っていた。
コンクールの本命は、ジュリアード音楽院に通うマサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)で、マサルの師匠は嵯峨のかつての夫で今回の審査員でもあるシルヴァーバーグ教授(アンジェイ・ヒラ)だった。
楽器店に務めるサラリーマン高島明石(松坂桃李)は年齢制限ギリギリで今回のコンクールに挑んでいる。
明石と同級生の仁科雅美(ブルゾンちえみ)がドキュメンタリー番組の撮影クルーとして密着取材をしていた。
1次予選終了後の審査会場では、16歳の風間塵(鈴鹿央士)に対する評価が真二つに割れていた。
会場では亜夜とマサルが顔を合わせ、幼なじみの二人は久しぶりの再会を喜び合う。
ピアノ教師だった亜夜の母親にマサルもピアノを習っており、いっしょに連弾した幼いころをふたりは懐かしむ。
第2次予選の課題曲『春と修羅』は、後半のカデンツァを演奏者自身が作曲して弾くというむずかしいものだったが、マサルは亜夜に、自分の曲は完璧に楽譜に書き起こした自信作だと言う。
まだ何もできていない亜夜は焦るが、昔の亜夜の即興演奏は凄かったとマサルに言われハッとする。
2次予選当日、マサルはむずかしいテクニックを駆使した演奏で聴衆を魅了する。
明石の2次予選の会場には、妻の満智子(臼田あさ美)が息子を連れて来てた。
明石のカデンツァは、宮沢賢治の詩のように優しくあたたかく、その演奏には亜夜や塵も心を動かされた。


寸評
僕は音楽に造詣が深いわけではないし、ピアノに至っては弾くことはもちろんのこと演奏の優劣など判る筈がないのだが、この映画はピアノ演奏を通じてそんな僕を最後まで引き付けた。
日本映画には珍しい上質の音楽ドラマである。
ドラマと言っても大きな出来事があるわけではないのに、僕を画面にくぎ付けにする。
エンドロールまで魅入らされる心地よさは何処からくるのだろう。
これも音楽の持つ人に伝える力なのかもしれない。
音楽は勿論だが、オープニングから写真で止めおきたいような美しいシーンも描かれる。
僕はその映像だけで一気に作品に引き込まれたのだが、メインとなるピアノ演奏でさらに映画世界にのめり込む。
第2次予選の課題曲は「春と修羅」と題するオリジナル曲であるが、それを藤倉大氏が4人分も作っている。
なぜならこの曲には演奏者自身が作曲するカデンツァという部分があるからである。
主要人物の演奏は吹き替えであることは想像がつくのだが違和感はない。
4人にはそれぞれに専属としてピアノ演奏担当者がついており、河村尚子氏、福間洸太朗氏、金子三勇士氏、藤田真央氏という一流が揃っているとのことで、演奏シーンの迫力はさもありなんと思わせる。

僕は音楽を聴くことは好きだが演奏は出来ない。
音楽の才能が全くない僕から見れば、ピアノ奏者は全て天才に見える。
コンクールに集まった天才たちは、音楽と言う共通の世界でお互いを認め合い心を通わせる。
7年間のブランクがあった亜夜に破れた女性ピアニストが、「貴女が休んでいた7年間に私は必死で努力してきたのにアンフェアだ」と言うのだが、それが才能というもので努力では埋め合わせることができないものである。
天才は天才を知る。
亜夜とマサルは亜夜の母親からピアノを教えてもらっていた幼なじみで、お互いが行き詰まった時にアドバイスを与えあう。
明石はピアノがなくて困っている亜夜に助け舟を出し、その亜夜を追って塵がやって来て心を通わせる。
お互いがコンクールに出ているライバルの筈だが、そこのあるのは音楽家としての通じ合いである。
4人の間にはライバルへの嫌がらせとか、嫉妬のようなものがないので、見ていても誰かに肩入れすることなく安心して見ることができる。
この映画では愛だの恋だのは登場しない。
ただ彼らがお互いを認め合い、ピアノを通じて理解し合う姿が描かれているだけで、その心地よさがいい。

天才少女と言われた亜夜には母との死別を通じてピアノを弾けなくなった過去があるなど、4人はそれぞれ問題を抱えているのだが、それらが大きなドラマとして誇張されずに抑揚されたタッチで描かれていることで、僕はむしろ心にしみてきた。
タイトルとなっている蜜蜂は登場しないが、穏やかな陽光の下で飛び回る蜜蜂は音符の象徴だろう。
遠雷は送り出された音楽への拍手喝采であり、若き天才の登場を待ちわびる歓声でもあるのだろう。
彼らは素晴らしい音楽を届ける為の我々へのギフトだったと思うが、同時にそんな彼らの姿を捉えた映画は僕にとっては何よりのギフトだったと思うし、音楽も芸術なら映画も芸術なのだと思う。

ミッドナイト・ラン

2021-12-08 10:52:39 | 映画
「ミッドナイト・ラン」 1988年 アメリカ


監督 マーティン・ブレスト
出演 ロバート・デ・ニーロ
   チャールズ・グローディン
   ヤフェット・コットー
   ジョン・アシュトン
   デニス・ファリナ
   ジョー・パントリアーノ

ストーリー
シカゴ警察を退職しロスでバウンティ・ハンターをしているジャック・ウォルシュは、保釈金融会社社長エディの依頼でギャングのジミー・セラノの金を横領した経理係のジョナサン・マデューカスの行方を追いかける。
そんな彼を、FBI捜査官モーズリはセラノを追う重要な証人であるマデューカスは渡せないと妨害するが、車の中で彼の身分証を盗んだウォルシュはそれを偽造しニューヨークヘ飛び、モーズリの名をかたり何なくマデューカスを逮捕するが、それによりウォルシュは以後FBIとセラノ一味から追われることになる。
マデューカスの飛行機恐怖症のおかげで一路汽車でロスヘと予定を変更したことを知らないエディは、ウォルシュに業を煮やし彼の同業者マーヴィン・ドフラーにマデューカス移送を依頼する。
2人を襲うドフラーを殴り倒したらウォルシュは、モーズリの名で彼を警察に引き渡しバスに乗り換えた。
バスターミナルで待ち構えるFBIとセラノ一味は、2人がバスから降りるや銃撃戦を展開、その隙にパトカーを奪い2人は逃走する。
思いがけず9年振りに別れた妻子のもとを訪ねるウォルシュは、突然の訪問に戸惑う前妻に冷たくあしらわれるが、素直に喜びを表現する娘デニースに心ほだされた前妻は、ウォルシュに車と金を提供するのだった。
セラノ一味とFBlに追われるウォルシュとマデューカスの旅は続き、途中、ドフラーもからみ、セラノ一味のヘリコプターを撃ち墜としたり、激流の中を逃走したり、またFBIをかたり酒場から金を盗んで貨物列車に飛び乗ったりしてゆくうちに、孤独なウォルシュと心優しいマデューカスとの間には奇妙な友情の絆が深まってゆくのだった。
しかしついに、ウォルシュはモーズリに、マデューカスはドフラーに捕まり、ドフラーからセラノの手に渡ったマデューカスを救い出すため、ウォルシュはモーズリを説得し、セラノ一味を陥し入れるある賭けを試みた。


寸評
FBIとマフィアからの逃亡劇なので派手なアクション・シーンのオンパレードとなりがちだが、コメディ的な要素を多分に盛り込みながら、時にホロリとさせる人情劇を見せるユニークな設定の作品である。
チャールズ・グローデンがとぼけた役柄を軽妙に演じて、哀愁を感じさせるロバート・デ・ニーロと互角の存在感を見せ、二人のやり取りがたまらない。
ロバート・デ・ニーロのジャックはバウンティ・ハンターなのだが、日本人にはこの職業がよくわからないので予備知識を持っておいた方が作品を楽しめるだろう。
アメリカの刑務所は犯罪者で満杯で、刑務所から溢れてしまった犯罪者は保釈金を払ってとりあえず出所するのだが、ところがこの保釈金がやたら高かったりする。
日本では馴染みのない保釈金融会社なる融資会社が存在していて、犯罪者はそこから金を借りて仮釈放されるのだが踏み倒して逃亡してしまう者も多い。
そこで保険金融会社の委託を受けて、決められた期日までに逃亡した犯罪者を捕まえて戻してくるバウンティハンター(賞金稼ぎ)という職業が存在しているというわけだ。
アメリカ人はこの仕組みが理解できているのだろうが、日本人の僕は保釈金融会社の社長エディがマデューカスの逮捕を高額でジャックに依頼している背景がよくわからなかった。
知るとジャックと同業らしいドフーラーの報酬を巡るやり取りも一層面白いものに感じとれる。

マデューカスはマフィアの金を横領して善意の寄付を行っているという変わった男である。
普通の世界ではありえないような行為なので、そうされたマフィアの怒りがもっと鮮明に描かれても良かったと思うのだが、そうなると作品が持っているコメディの要素は消えてマフィア映画としての重さが増し、作者の意図に反する作品になってしまったのだろう。
コメディを感じさせるのは、ジャックたちを追いかける面々が失敗ばかりやらかすドジな連中ばかりなことにもある。
FBIのモズリーは身分証を盗られただけでなく、情報を得て先回りをするが徒労に終わるということを繰り返しているし、マフィアの刺客である二人組もアホとしか言いようのない行動を見せる。
デューカスの飛行機嫌いのエピソードとか、飲食店で20ドル札を手に入れるエピソードなどは笑わせる。
大笑いする内容ではないが、主演二人のタバコを巡るやり取りとか、食事を巡る健康談義などジンワリと迫ってくる可笑しさがある。
感情に訴える一番の場面は、金に困ったジャックが別れた妻の元を訪ねるシーンである。
妻は家族と幸せに暮らしていて金の要求を拒絶するが、そこに大きくなった自分の娘が登場して再会を果たす。
下の息子は再婚相手の子供らしいが、長女は自分との間に出来た子だと分かる出会いである。
自分の子供という不思議な力によってジャックは気持ちを変える。
元妻もジャックに協力し、娘はアルバイトでためたお金を父親に渡そうとする。
コメディタッチの映画だが、この場面は胸に迫るものがあるいいシーンだ。
最後は想像できる結末となっているがイキなものである。
FBIとの取引があり、ジャックはプロとしての意地を見せ、デューカスは秘密にしていた物をジャックに渡して気持ちを見せる。
デ・ニーロとC・グローディンの軽妙演技が冴えわたった作品でもあった。

ミッシング

2021-12-07 06:34:11 | 映画
「ミッシング」 1982年 アメリカ


監督 コンスタンタン・コスタ=ガヴラス
出演 ジャック・レモン
   シシー・スペイセク
   ジョン・シーア
   メラニー・メイロン
   チャールズ・シオッフィ
   デヴィッド・クレノン

ストーリー
1973年、チャールズと妻のべスは南米某国に住んでいた。
チャールズはそこで小説を書きつつ、友人のフランクや、デイビッドが関わる非営利のラディカルな雑誌の翻訳も手伝っている。
8月末、チャールズはリゾート地、ビーニャ・デル・マールヘ日帰り旅行に出かけたが、その夜にクーデターが起こった。
空港は閉鎖され、チャールズとテリーは、記者のニューマンに会い、ビーニャでのアメリカ人の事は忘れた方がいいと忠告される。
一方、フランクたちの様子を見に行ったベスは、銃声の行きかう街角で一夜を明かし、帰宅すると家は荒れ放題で、夫の姿はなかった。
チャールズの失踪を、べスは義父であるニューヨークのビジネスマンで、地位と財力に恵まれたエドワード・ホーマンに知らせる。
1人息子の失踪に呆然となり、ホーマンは南米某国へ飛んだ。
大使館に捜索を依頼するがアテにならないまま、2週間が過ぎ、主義主張、生き方の異なるホーマンとベスは反発し合うが、やがてホーマンとベスの間のわだかまりは消えていく。
アメリカの陰謀の影がちらつき出したある日、ホーマンはフォード財団で息子の死を知る。
怒りを爆発させたホーマンに、大使は、息子さんは首を突っこみすぎたというだけだった。
ベスと共にアメリカに帰国したホーマンは、ヘンリー・キッシンジャーを含む11人の公人を息子の死を共謀・放置したかどで告訴した。
スタジアムの壁に埋められたチャールズの遺体は7カ月後に戻ってきたが、検死は不可能な状態。
係争数年を経て、訴えは証拠不十分で却下された。


寸評
1973年9月に南米チリで発生した軍事クーデター最中に起きた失踪事件を描いている。
このクーデターは自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を武力で倒して新自由主義的な経済政策を押し付けるべく、米国政府がチリ軍部を裏で操っておきたクーデターである。
どの国でも自国ファーストは共通の価値観だとは思うが、米国はその意識が強いだけでなく自分達こそ正義と他国に介入していくので、見方によればそれが世界から嫌われている原因でもある。
ここではアメリカが介入していく詳細は描かれていないが内陸国に海軍関係者が動き回っているなど、国家、多国籍企業が暗躍していることをうかがわせる描写がある。
この映画は登場人物のキャラクター設定が非常に面白い。
ニューヨークから行方不明の息子を探しにチリにやって来た父親のエドはビジネスで成功していて、資本主義のアメリカから恩恵を受けていることに感謝している典型的な保守主義者で、息子の生き方には否定的である。
息子のチャールズとその妻のベスは世界の国々を観たいと思っている好奇心の旺盛な夫婦だ。
彼らはチリにおいても非営利団体で友人の手伝いをしていて、自分たちの理想を追い求めている人物と思える。
父親は息子がそのようになったのは妻のベスのせいだと思っているのに加え、ベスも夫の捜索に現地のアメリカ当局が積極的でないことに苛立っていることで二人の間は険悪ムードでスタートする。
チャールズの行方を探す中での義理の親娘の対立と二人の関係が変化していく様子の描き方が上手い。

すごいのはクーデターが起きて戒厳令が敷かれている町の様子だ。
銃声が鳴り響き、血を流した死体があちこちに転がっている。
そこら中に銃を持ち歩いた軍人がいて、銃を放つ兵士を何人も乗せたトラックが走り回っているのが怖い。
戒厳令下で外を歩いていると、いつ撃たれるかわからない。
この様な状況の中でチャールズを探す困難さが伝わってくる。
もしかすると身元不明の死体の中にチャールズがいるのではないかと訪れた死体置き場の状況もゾッとするもので、死体を無造作に置いた部屋が何部屋もある。
暗い部屋に入るたびに電気を灯すのだが、そこには死体がゴロゴロしていて目を覆いたくなる。
最後に身元不明者の部屋があり、そこにもチャールズはいなかったのだが、息子を、夫を探しているから見られるのであって、普通の人間ならとてもそこに居られないだろう。
僕は北朝鮮に拉致された家族の人たちは、もし国交があったなら同じようにして探しただろうにと思ったし、何もできない歯がゆさを持っておられるだろうなと想像した。

父親のエドはついに息子の消息を突き止める。
その時、チリ駐在のアメリカ人の領事や大佐から発せられる言葉はアメリカの本音だろう。
国家が国益の名のもとに個人を抹殺すること、そしてそれを闇に葬ることなどを平気で行っていることを告発しているが、エドが訴えたキッシンジャーを含む11名の係争が証拠不十分で却下されたこと、関係文書が機密扱いで公開されていないことに無力感も感じる。
軋轢があったエドとベスだが、最後の姿を見るとエドとチャールズの実の親子、エドとベスの義理の親子の二組の親子関係の修復が一方のテーマであったように思う。

乱れる

2021-12-06 07:32:04 | 映画
「乱れる」 1964年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 高峰秀子 加山雄三 草笛光子 白川由美
   三益愛子 浜美枝 藤木悠 北村和夫
   十朱久雄 柳谷寛 佐田豊 中北千枝子

ストーリー
礼子(高峰秀子)は戦争中学徒動員で清水に派遣された際、しずに見染められて森田屋酒店に嫁いだ。
子供も出来ないまま、夫に先だたれ、嫁ぎ先とはいえ、他人の中で礼子は森田家をきりもりしていた。
礼子は義母(三益愛子)とその息子の幸司(加山雄三)と同居しているが、二人の女性の心配の種は、店の経営難だけでなく、幸司が毎日ブラブラ遊び歩いていることだった。
何が原因か、女遊びや、パチンコ喧嘩と、その無軌道ぶりは手をつけられない程だ。
そんな幸司をいつも、優しくむかえるのは、義姉の礼子だった。
再婚話しも断り、十八年この家にいたのも、次男の幸司が成長する迄と思えばこそであった。
ある日、素行の良くない女(浜美枝)との交際で口喧嘩となった礼子に幸司は、今までわだかまっていた胸の内をはきすてるように言った。
「馬鹿と言われようが、卑怯者と言われようが、僕は義姉さんの側にいたい」、義姉への慕情が純粋であるだけに苦しみ続けた幸司だったのだ。
礼子は驚き動揺するが、それ以後、二人の仲は気まずくなり言葉のやりとりもぎこちなくなる。
それからの幸司は真剣に店をきりもりした。
社長を幸司にしてスーパーマーケットにする話がもちあがった日、礼子は家族を集め「せっかくの良い計画も、私が邪魔しているからです、私がこの店から手をひいて、幸司さんに先頭に立ってスーパーマーケットをやって欲しい。私も元の貝塚礼子に戻って新しい人生に出発します。私にも隠していましたが、好きな人が郷里にいるのです」とうちあけた。
荷造りをする礼子に、幸司は「義姉さんは何故自分ばっかり傷つけるんだ」と責めた。
「私は死んだ夫を今でも愛してる、この気持はあなたには分からない」と言った礼子の出発の日、動き出した車の中に、思いがげない幸司の姿があった。
「送っていきたいんだ!!いいだろ」幸司の眼も美しく澄んでいた。


寸評
戦死した兄の未亡人に義弟が思いを寄せる話であるが、家名を次ぐために無理やり義弟と結婚させられるのも含めて時々見てきたシチュエーションである。
高峰秀子は19歳で結婚したが夫はまもなく兵役に取られて戦死してしまっている。
家業の店が戦火で焼けてしまい、家族が疎開した中、高峰秀子が一人で店を再建し発展させてきた。
高峰秀子は義父の最後を看取り、今は義母の三益愛子と就職先を辞めて戻ってきた義弟の加山雄三と三人で暮しているが、加山雄三には羽振りのよさそうな北村和夫と結婚した姉の草笛光子と、再婚した白川由美の二人の姉がいる。
きつい母親役が多かった三益愛子も高峰秀子をいたわっており家族関係は悪くはない。
しかし草笛光子が言うように、母親が死に弟が結婚すれば高峰秀子はいずらくなるのではないかと、再婚を進める環境下でもある。
一方で世の中は商店に代わってスーパーが新しい小売り形態としてでき始めている事が描かれる。
中内功が1957年に京阪電車千林駅前の千林商店街に1号店を開店したのが最初と言われている。
劇中でスーパーが宣伝カーを走らせているが、流している歌は1963年に大ヒットした舟木一夫の「高校三年生」で、制作年度と同時代の話であることを表している。
描かれたスーパーは地方スーパーのようだが、やがて巨大資本のスーパーによって駆逐されていき、商店街はシャッター通りとなることをすでに暗示している。
スーパーで5円で売っている卵が、柳谷寛のやっている食料品店では11円なのだから勝負にならず、柳谷寛は自殺に追い込まれている。
そのような社会状況の中で加山雄三の高峰秀子への思いが綴られていく。

加山雄三はとても上手い役者だったとは言えないが、ここでは逆にそのことが25歳の青年の一途さに真実味を与えている。
加山が愛を告白してから二人の関係はギクシャクしだすが回りの者たちはその事に気付いていない。
草笛光子は店のスーパーへの衣替え計画に自分の夫が出資して役員になることをよいことに、高峰秀子を追い出したい気持ちがある。
この家に居たければ給料を渡して事務員としていてもらえばいいじゃないかと冷たい。
再婚している白川由美も、好きな人がいるならいいじゃないと、高峰の嘘を幸いとばかりに実家に帰っていく高峰を見送りもせず帰っていってしまう。
義理の関係とは冷たいものなのだと思わされる。

どう言って家を出てきたのか分からないが、加山は山形まで帰る高峰秀子を追いかけて電車に乗り込んでくる。
途中下車をするのが、当時の国鉄奥羽本線の大石田駅で、そこからバスで銀山温泉に向かう。
銀山温泉は今でもノスタルジーを感じさせる温泉街のようである。
高峰秀子は「私も女だから好きだと言ってもらった時は嬉しかった」と言っているぐらいなので、ここからがこの映画の山場となって結末を迎える。
ラストの高峰秀子のアップの表情は、堪える女を演じる女優として力量が光るこの映画に於ける名シーンだ。

乱れ雲

2021-12-05 07:36:02 | 映画
「乱れ雲」 1967年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 加山雄三 司葉子 草笛光子 森光子
   浜美枝 加東大介 土屋嘉男 藤木悠
   中丸忠雄 中村伸郎 村上冬樹
   清水元 十朱久雄 浦辺粂子

ストーリー
江田宏と由美子は幸福の絶頂にいた。
江田は通産省に勤めていて米国派遣の辞令を受け、妻の由美子は妊娠していることを知ったばかりだったが、江田が交通事故で死んだのは二人が祝杯をあげてから間もなくのことだった。
告別式の日、江田を轢いた三島史郎が現われ、由美子は史郎に激しい憎悪を感じた。
史郎の起した交通事故は不可抗力で、彼は無罪になったのだが、彼は勤め先の貿易会社の死命を制する通産省の役人を殺したため青森へとばされ、常務の娘との婚約も破棄された。
史郎は毎月一万五千円を十年間由美子に支払うと約束したが、史郎にとって少しも義務のないこの契約は、由美子の姉文子が行なった。
毎月決って送られてくるその金は、由美子にはつらい思いにつながって暗い気持ちにさせられた。
彼女は夫の両親から籍を抜かれ、その上、胎内の子も捨てねばならなかったのだ。
やがて、勤めに出た彼女は、身を寄せていた文子の家で、彼女の美貌に義兄の目が光るのを感じると、義姉の勝子がとりしきっている十和田湖畔の実家に帰った。
青森で史郎を訪れた由美子は文子がとり決めた契約を破棄した。
彼女は事件のすべてを忘れようと思ってのことだが二人は何度か顔を合わせた。
いつか二人はお互いに愛を覚えるようになったが、由美子は史郎に自分の前から去ってくれと頼んだ。
ある日、史郎が西パキスタンへ転勤を命ぜられ、二人は別れの一日を湖畔で過ごした。
由美子は幾度か史郎の激情に押し流されそうになった。


寸評
交通事故を起こした加害者と、死亡した被害者の妻とのラブロマンスとなればメロドラマとしては絶好の設定で、この後も何度かドラマ化されたのは山田信夫のオリジナル脚本がいいからだろう。
司葉子はともかくとして、さして演技力があるとは思えない加山雄三が精一杯頑張っているのが評価の第一。
表現力にはいささか問題もあると思うが、それでも精一杯頑張っているのは感じ取れる。

三島は常務の娘・淳子と恋愛関係にあったようだが、事故が原因で淳子は去っていく。
父に言われたわけではないと言うが、やはり前途に暗雲が漂い始めた三島を見限ったのだろうか?
その辺りはもっと冷酷に描いても良かったのかもしれない。
淳子との関係は色添えの設定であり、あれ以上詳しく描く必要がなかったのかもしれないが、別れが少しばかり唐突すぎるように思えた。
僕には違和感がもう一箇所所あって、喫茶店で由美子と再会した時の三島のなれなれしく思える態度がそうだった。ちょっと罪悪感が少なすぎないか?
由美子の出産シーンは堕胎していたんだけど、その悲しみの様なものがちょっと描き切れていなかった。

三島は裁判で無罪となるが、法律とは別に罪の償いとして慰謝料を送り続ける。
未亡人となった由美子は、その行為を通じて事故の件がいつまでも忘れられないことに苦悩する。
どちらも事故が引き起こした過去に苦しんでいるのだが、どうも加害者側の苦しみが伝わってこなかったなあ。
根は本当にいい奴で、正義感と責任感に富んだ三島は、加山雄三のもっている天性の性格と一致するので適役だとは思うのだが、いかんせん加山のそのアッケラカンとした雰囲気は、事故の結果に苦悩し苦しみ続けている三島の姿より勝ってしまっているような気がする。
もっとも、由美子はそういった三島の明るい姿に引かれていったのかもしれないのだが。

何か欠点ばかりを指摘することになってしまったが、成瀬巳喜男の演出は細やかではあった。
由美子の義姉・勝子(森光子)を登場させ、由美子と正反対のモラルを演じさせている。同じく未亡人の勝子は不倫していて、妻子ある男を積極的に受け入れている女だ。
あるいは不倫ぽい泊り客を一瞬登場させたりして、由美子の心の動きを補完していたように思う。
十和田湖での心中事件は、一途な愛の象徴としての出来事で、由美子を後押しする描き方としてはストレートすぎずにいい演出だったと思う。
もう少しドラマチックに描けたとは思うが、交通事故を目撃し、瀕死の被害者にすがる妻の姿を見るにあたって、二人が過去の出来事を思い出して別れざるを得なくなるのは、別れる原因としては抜群の描き方だ。
でも救急車に乗せられる被害者はなぜ旅館から出てきたのかなあ?
それともあの事故現場と、運び出された頭を包帯で巻かれた男性は関係なかったのに、二人は結びつけて見つめたのだろうか? ちょっと疑問。

結局これが名匠と言われた成瀬巳喜男の遺作となるのだが、何と言っても成瀬には「浮雲」という大傑作があって、どうしてもそれと比較してしまい値引き感を持ってしまう。
大傑作を撮ってしまった監督の宿命だね。

味園ユニバース

2021-12-04 09:16:40 | 映画
「味園ユニバース」 2015年 日本


監督 山下敦弘
出演 渋谷すばる 二階堂ふみ 鈴木紗理奈
   川原克己 松澤匠 野口貴史 松岡依都美
   宇野祥平 土佐和成 いまおかしんじ
   中川晴樹 キヨサク 康すおん 赤犬

ストーリー
ある日、大阪の恵美須夏祭りの会場にひとりの男が乱入し、赤犬がライブ中のマイクを奪うと突然アカペラで「古い日記」を歌って気絶してしまう。
やがて目を覚ました男は何も覚えておらず、完全な記憶喪失状態だった。
赤犬のマネージャー、カスミは、そんな彼を放っておけず、“ポチ男”と名付けて自宅に住まわせる。
カスミは認知症の祖父・耕太郎と2人で暮らしで住居横のビルでカラオケ屋と貸スタジオを経営していた。
赤犬バンドのボーカル・タカアキが交通事故で全治3カ月の怪我を負ったので、カスミは“ポチ男”の歌唱力を見抜き代理のボーカルに抜擢する。
ポチ男の歌を聞いた赤犬メンバーはインスピレーションが湧き、新曲作りにいそしみ出す。
ある日、ポチ男は上着を奪われたホームレスと遭遇し上着を取り返す。
その上着には工場の名が縫い込まれていたので、カスミはひそかにポチ男の過去を調べだす。
ポチ男の本名は大森茂雄といい、豆腐屋の父は借金を残して亡くなり、姉夫婦が借金と店を継いでいた。
ポチ男はチンピラで、別れたオンナとの間にできた子・マサルを姉に預けてふらふらしていたのだ。
茂雄の出所後に大きな顔をされてはならないと思った兄貴分のタクヤが茂雄を闇討ちしていたことが判明。
味園ビルのユニバース会場で赤犬ライブが開かれることになり、ポチ男の写真が載ったポスターを見て、弟分のショウがカスミの店にやって来た。
記憶を取り戻したポチ男は、カスミに手を出そうとするショウをぼこぼこに痛めつけると、カスミたちに迷惑をかけまいと家を出る。
ライブ当日、ポチ男をタクヤの手先から奪還したカスミは「どうするか、自分で決めろ」と言い放った…。


寸評
大阪の人間にとってはミナミにある味園ビルに輝くネオンは脳裏に残っているのではないか。
そしてちょっとした年齢の者なら、そのビルの地下に大阪有数の大きなキャバレー「味園ユニバース」が有ったことも思い出すだろう。
タイトルはラストシーンとなる味園ユニバースでライブを行うことから来ていると思うが、大阪人の僕は山下監督の名前とそのタイトルだけで触手を動かされた。

関ジャニ∞の渋谷すばる君が主演とあって映画館の客席は関ジャニ∞ファンと思われる女性が大半を占めていたが、どうしてどうして、単なるアイドル映画ではない。
渋谷すばる君も33歳とかで、実年齢にあった記憶喪失男を好演していた。
それにからむ二階堂ふみは相変わらずの存在感だ。
大阪のウラなんばが舞台で、大阪出身の渋谷に加え、大阪のおっさんバンド「赤犬」の面々、大阪出身の鈴木紗理奈も出演しているので大阪弁の違和感がなく、引き込まれるように二階堂ふみも大阪女になりきっていた。
赤犬メンバーを「オッサン」と呼んで指図し、「アホか…」とか「しょうもな…」とかを連発しながら、高校も出ていないがしっかり者のマネージャーを可笑しく演じている。

映画は初めから見せる。
刑務所から出所してくるシーンはよくある出だしだ。
迎えの車が来るが、その時点から渋谷が演じる大森茂雄は倦怠感ありありだが、その茂雄が何者かに襲われてミステリー感が出てくる。
そのミステリー感は茂雄がそのことで記憶喪失なってしまいポチ男と名付けられ増幅される。
ポチ男の気だるい喋り方の中にあって、彼が時折発する「なんで?」とか「指、長いな…」などの会話がアクセントをもたらす。

ポチ男は傷害事件を起こしているが、それはどのような事件だったかはあまり描かれなくて、家族が非難する言葉でもって語られるだけだ。
記憶を取り戻したポチ男が知るのは、苦境から脱出したくてもがいていた自分の姿だった。
ポチ男は家族との絆を取り戻せたわけではないが、それでも全く笑顔を見せなかった彼が最後の最後でかすかな笑みを見せるのは、わずかながらでも苦境から脱出できるかもしれないという希望を感じさせた。

ポチ男の救出劇は少し突拍子もないが、再び記憶喪失状態に戻そうとしたカスミの行動は理解できるし映画的でもある。
山下監督は以前に「リンダ・リンダ・リンダ」という高校生バンドの映画を撮っていたが、それとはまた違ったバンド映画であった。
前年に撮った「苦役列車」に続く苦境からの脱出映画でもあった。
カスミは最後に「しょうもな…」とつぶやくが、なかなかどうして思った以上の秀作だった。

ミシシッピー・バーニング

2021-12-03 09:52:18 | 映画
「ま」が終わり、「み」になります。
前回は2020/4/25の「ミクロの決死圏」から2020/5/4「ミリオンダラー・ベイビー」まででした。
少し追加で掲載します。

「ミシシッピー・バーニング」 1988年 アメリカ


監督 アラン・パーカー
出演 ジーン・ハックマン
   ウィレム・デフォー
   ブラッド・ドゥーリフ
   フランシス・マクドーマンド
   R・リー・アーメイ
   ゲイラード・サーテイン

ストーリー
全米にフリーダム・サマー(自由の夏)が吹き荒れる1964年6月、ミシシッピー州ジュサップの町で起きた3人の公民権運動家の失踪事件を重要視するFBIは、2人の腕きき捜査官を現地に派遣した。
元郡保安官でたたきあげのルパート・アンダーソンとハーバード大出のエリート、アラン・ウォード、この全てに対照的で時には対立さえする2人に対し、町の人々は非協力なだけでなく敵意さえも明らさまにする。
そして少しでも彼らに協力的な態度を見せた人々は、何者かに家を焼かれたり、リンチにあい、再び口を重く閉ざすのだった。
焦立つウォードに対しアンダーソンは、保安官スタッキーとその助手ペルの仲間たちが事件に関わっているという確信を抱き、ペルの妻を訪ねる。
アンダーソンは、夫とこの町に嫌悪している彼女から事件の糸口を探ることができるのではと感じていたが、その間にもフリーダム・サマーの行進に参加した黒人青年が瀕死の重傷を負うリンチをうけ、またある黒人の家が焼き打ちにあった。
だがこの現場を目撃した1人の少年の証言から、3人の容疑者が裁判にかけられるが、結果は不平等を極め判決は無罪同然、その直後、町のあちこちで焼き打ち行為が起き、目撃証言をした少年の家も焼かれ、彼の父親はリンチにあい木に吊るされる。
この事件をきっかけに、アンダーソンはペルの妻から彼が失踪事件に関わっていること、そして彼ら3人の遺体が埋められた場所などを聞き出すが、彼女はそのことを知ったペルにめった打ちにされ重傷を負う。
怒りに燃える彼等はプロの脅し屋を雇い、陰で糸を引く町長を痛めつけて口を割らせるという手段にでる。
ついに事件の核心は姿を見せたが、しかしそれで全てが終わったわけではない。


寸評
人種問題はアメリカ映画に於けるテーマの一つだと思うが、ここで描かれた黒人差別はいかに日常的でいかに非道極まっていたのかであり、それをすさまじい描写で見せつけている。
テーマ的に重くて暗い映画ながら、サスペンス劇としても格調をそなえた作品となっている。
冒頭で白人二人と黒人一人が乗る車が何者かに付け狙われ、追いかけてきた車の一台は警察車両だったにもかかわらず射殺される。
衝撃的なシーンから始まり、捜査にやってきたFBI捜査官にかかわった黒人がひどい目にあわされ、彼らの家が焼き討ちされる様子がこれでもかと描かれ続ける。
どうしてアメリカではこれほどの黒人差別が生じてしまったのだろう。
奴隷制度の名残りが今も残っているのだろうか。
保安官の妻が言うように、小さい頃から差別はあっていいのだと教え込まれたら信じてしまうだろうということで、黒人奴隷が多かった地域では差別のあることに疑いを持たない人たちの社会が出来上がっていたのだろう。
舞台となっているミシシッピーの田舎町は正にそのような所だ。

第二次大戦前にアメリカのジョセフィン・ベーカーという黒人ダンサーがフランスに渡って人気を博したのだが、彼女は差別のないフランスに感激したらしい。
レストランで同席していたアメリカ人女性がそのジョセフィン・ベーカーを見て、私たちの国ではあのような人は台所にいるものだから追い出して欲しいと支配人に言ったところ、その支配人はアメリカ人女性に出て行ってもらったという体験をしたそうである。
フランスとアメリカの黒人に対する認識の違いを表すエピソードだ。

FBIから二人の捜査官が送られてくるのだが、この二人をジーン・ハックマンとウィレム・デフォーが演じていて、コンビ作品の定石通り性格と捜査方法が違う二人の描写が面白い。
教科書通りのような捜査を行うエリートのアランに対し、ジーン・ハックマンのルパートは南部出身であることもあって、関係を作り上げて情報を得ていく。
対比上ジーン・ハックマンが非常に魅力的に見える。
その彼がある時点から凶暴になり、非合法的な捜査を展開するようになる。
その様子はこの映画を深刻なものから楽しいものにしている。
事情を知りながら見て見ぬふりをしていた市長を脅迫して証言を取る。
気の弱そうなレスターに芝居をうって洗いざらい白状させる。
アランが渋々認めたルパート流の捜査方法が映画を一気に盛り上げる。
殺人に加担したものがそれぞれ禁固刑を受けるが、彼らは服役を終えた時に差別主義を改めていたのだろうか。
また町の人たちは差別意識を改めたのだろうか。
相変わらず人種差別は残り続けたのではないかと思わせる。
「1964年、忘れまじ」と刻まれた墓標が崩れかけていることが、その事を暗に示していたように思う。
アメリカの恥部を真正面からとらえた秀作である。

まぶだち

2021-12-02 07:59:31 | 映画
「まぶだち」 2000年 日本


監督 古厩智之
出演 沖津和 高橋涼輔 中島裕太 清水幹生
   光石研 矢代朝子 阿久根裕子

ストーリー
長野県の小さな町に暮らす中学2年生の神津サダトモ(沖津和)、仁村テツヤ(高橋涼輔)、野村周二(中島裕太)は、“人間グラフ”と名付けた評価表をつけている厳格な担任教師・小林(清水幹生)から、毎日、人間にも満たないクズと言われている悪ガキ3人組である。
ある日、集団で万引きしたことがバレて、親たちは呼び出されて子供たちを叱りつけるが、サダトモの父親(光石研)は廊下に出ただけで何も言わない。
彼らは、小林から各自400字詰め原稿用紙30枚の反省文を書くように命じられる。
夜、何も言わなかったサダトモの父親は「今からお前を殴る」と言ってサダトモを殴った。
くやしさが湧いてきたサダトモは“僕は玉ネギ”と題した反省文を書いたところ、小林から思わぬ評価を受けて文化祭の意見文発表会でそれを読む栄誉を与えられてしまい、テツヤの反省文も小林に認められる。
サダトモとテツヤはクズ組から優秀組への昇格を告げられるが、小林に反感を抱くサダトモは「クズでいいです」と小林に言い放ち、反省文を川へ捨ててしまった。
一方、反省文の書けない周二は、他の方法で小林に認められようとするが途中でへこたれてしまう。
何もかもうまくいかなくて思い悩んだ末、彼はサダトモとテツヤの目の前で川へ飛び込んだ。
小林は周二は自分で飛び込んだのではないかと問いただすが、サダトモは足を滑らせたとウソをつく。
周二の捜索は夜を徹して行われたが、とうとう彼の遺体はあがらなかった。
周二の死に直面し、自分たちの行動を見つめ直すサダトモとテツヤ。
それから、ふたりは一緒に遊ばなくなった。


寸評
美しい里山の風景、そして何よりも少年たちのなりきりぶりに次第に引き込まれていく。
彼らの追いつめられていっているような状況が切実に伝わってきて、観ていて息苦しさも感じてしまう。
サダトモは夢想家なのかもしれない。
一日の出来事を作文にしないといけないようだが、テツヤと周二はサダトモに適当な話を作ってもらっている。
周二には姉さんからお母さんに電話がかかってきたことにしようと状況を語りだすが、そこで周二がどう思ったかが大事なんだよと、まるで国語の先生のようなことを言う。
サダトモはそういう感受性をもった子なのだが素直に表すことができない、言わば反抗期の少年に思える。
三人の中ではリーダー格だが、先生に対しては他の二人よりも反抗的である。
担任の小林先生が実にユニークな先生で、今だと教育委員会が吹っ飛んできそうな教育方針だ。
クラスの生徒を、優良、クズ、不良に分けていて、それぞれのゾーンに名前を張り出している。
平気でビンタしているし、その鉄拳によって顔を腫らしている生徒もいるぐらいだ。
指導している言葉も乱暴なものだが、言っていることは無茶苦茶なように見えて的を得たものだ。
体罰も平気で反省文を書かなかった一人は2時間で20キロを走ることを選びぶっ倒れる。
周二は水をいっぱい入れたバケツを両手に持ってグランドに立つことを選んだが、途中で力が尽きて落としてしまい、その後どうなったかは周二の顔を見ればわかる。

彼らは高圧的な指導に反感を持っているのだろう、ひいては大人たちの正論にも反撥しているのかもしれない。
サダトモから逃れたい子は、ピアノの練習があるからと嘘をついて離れていく。
ずるそうに見えるその態度には、そうするしかないという納得するものがある。
大人たちの言う正論は子供たちも真似ていて、文化祭の意見文発表では大抵の者が先生に媚びを売ったり、ありきたりの主張をしている。
僕も中学の弁論大会では、自己反省などと言うタイトルで適当なことを言っていたなあと思い起こした。
そのような欺瞞を小林は糾弾して生徒たちに語っている。
テレビでよくやる単純な熱血先生ではない、この先生のキャラクターは面白い。
小林先生は周二の死をどうとらえていたのだろう。
自殺を疑っていたようだが、そうだとすれば自分の責任をどの程度感じていたのだろう。
このことによって彼の教育方針が変わったとは思えない。
サダトモはサダトモなりに周二の名誉を守ったのだろう。
この年代で自分のやることを見出している子は少ないと思う。
テツヤはやることが見つかったと言う。
それは見つかっていない周二を探すことだったが、サダトモは別の物を探すと言って、それから二人は一緒に遊ぶことはなくなった。
そのようにしてまぶだち(親友)だった者が別々の道を歩み始めるのだろう。
そして、大人になった彼らはこんなに立派になりましたという結末ではない。
ある者は普通に働いていて、ある者は死んでしまっているという厳しい現実を描いている。
それにしても子供たちの自然体のセリフと芝居は見事だったなあ。