「ミッシング」 1982年 アメリカ
監督 コンスタンタン・コスタ=ガヴラス
出演 ジャック・レモン
シシー・スペイセク
ジョン・シーア
メラニー・メイロン
チャールズ・シオッフィ
デヴィッド・クレノン
ストーリー
1973年、チャールズと妻のべスは南米某国に住んでいた。
チャールズはそこで小説を書きつつ、友人のフランクや、デイビッドが関わる非営利のラディカルな雑誌の翻訳も手伝っている。
8月末、チャールズはリゾート地、ビーニャ・デル・マールヘ日帰り旅行に出かけたが、その夜にクーデターが起こった。
空港は閉鎖され、チャールズとテリーは、記者のニューマンに会い、ビーニャでのアメリカ人の事は忘れた方がいいと忠告される。
一方、フランクたちの様子を見に行ったベスは、銃声の行きかう街角で一夜を明かし、帰宅すると家は荒れ放題で、夫の姿はなかった。
チャールズの失踪を、べスは義父であるニューヨークのビジネスマンで、地位と財力に恵まれたエドワード・ホーマンに知らせる。
1人息子の失踪に呆然となり、ホーマンは南米某国へ飛んだ。
大使館に捜索を依頼するがアテにならないまま、2週間が過ぎ、主義主張、生き方の異なるホーマンとベスは反発し合うが、やがてホーマンとベスの間のわだかまりは消えていく。
アメリカの陰謀の影がちらつき出したある日、ホーマンはフォード財団で息子の死を知る。
怒りを爆発させたホーマンに、大使は、息子さんは首を突っこみすぎたというだけだった。
ベスと共にアメリカに帰国したホーマンは、ヘンリー・キッシンジャーを含む11人の公人を息子の死を共謀・放置したかどで告訴した。
スタジアムの壁に埋められたチャールズの遺体は7カ月後に戻ってきたが、検死は不可能な状態。
係争数年を経て、訴えは証拠不十分で却下された。
寸評
1973年9月に南米チリで発生した軍事クーデター最中に起きた失踪事件を描いている。
このクーデターは自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を武力で倒して新自由主義的な経済政策を押し付けるべく、米国政府がチリ軍部を裏で操っておきたクーデターである。
どの国でも自国ファーストは共通の価値観だとは思うが、米国はその意識が強いだけでなく自分達こそ正義と他国に介入していくので、見方によればそれが世界から嫌われている原因でもある。
ここではアメリカが介入していく詳細は描かれていないが内陸国に海軍関係者が動き回っているなど、国家、多国籍企業が暗躍していることをうかがわせる描写がある。
この映画は登場人物のキャラクター設定が非常に面白い。
ニューヨークから行方不明の息子を探しにチリにやって来た父親のエドはビジネスで成功していて、資本主義のアメリカから恩恵を受けていることに感謝している典型的な保守主義者で、息子の生き方には否定的である。
息子のチャールズとその妻のベスは世界の国々を観たいと思っている好奇心の旺盛な夫婦だ。
彼らはチリにおいても非営利団体で友人の手伝いをしていて、自分たちの理想を追い求めている人物と思える。
父親は息子がそのようになったのは妻のベスのせいだと思っているのに加え、ベスも夫の捜索に現地のアメリカ当局が積極的でないことに苛立っていることで二人の間は険悪ムードでスタートする。
チャールズの行方を探す中での義理の親娘の対立と二人の関係が変化していく様子の描き方が上手い。
すごいのはクーデターが起きて戒厳令が敷かれている町の様子だ。
銃声が鳴り響き、血を流した死体があちこちに転がっている。
そこら中に銃を持ち歩いた軍人がいて、銃を放つ兵士を何人も乗せたトラックが走り回っているのが怖い。
戒厳令下で外を歩いていると、いつ撃たれるかわからない。
この様な状況の中でチャールズを探す困難さが伝わってくる。
もしかすると身元不明の死体の中にチャールズがいるのではないかと訪れた死体置き場の状況もゾッとするもので、死体を無造作に置いた部屋が何部屋もある。
暗い部屋に入るたびに電気を灯すのだが、そこには死体がゴロゴロしていて目を覆いたくなる。
最後に身元不明者の部屋があり、そこにもチャールズはいなかったのだが、息子を、夫を探しているから見られるのであって、普通の人間ならとてもそこに居られないだろう。
僕は北朝鮮に拉致された家族の人たちは、もし国交があったなら同じようにして探しただろうにと思ったし、何もできない歯がゆさを持っておられるだろうなと想像した。
父親のエドはついに息子の消息を突き止める。
その時、チリ駐在のアメリカ人の領事や大佐から発せられる言葉はアメリカの本音だろう。
国家が国益の名のもとに個人を抹殺すること、そしてそれを闇に葬ることなどを平気で行っていることを告発しているが、エドが訴えたキッシンジャーを含む11名の係争が証拠不十分で却下されたこと、関係文書が機密扱いで公開されていないことに無力感も感じる。
軋轢があったエドとベスだが、最後の姿を見るとエドとチャールズの実の親子、エドとベスの義理の親子の二組の親子関係の修復が一方のテーマであったように思う。
この映画「ミッシング」は、国家に翻弄される、人間の尊厳を賭けた孤独な叫びを描いた、社会派映画の映画史に残る秀作だと思います。
1982年のアメリカ映画「ミッシング」は、ギリシャの政治家ランブリスキ暗殺事件を描いた「Z」、チェコの"スランスキー事件"の恐るべき実態に迫り、スターリニズムの内幕を暴いた「告白」、ウルグアイでのアメリカ人暗殺事件を描いた「戒厳令」のイヴ・モンタン主演の"政治三部作"を撮ったギリシャ出身の政治色の強い社会派映画の俊英コスタ・ガヴラス監督の作品で、彼がアメリカ映画界で初めて撮った映画です。
この映画は、1982年の第55回アカデミー賞の最優秀脚色賞を受賞し、同年の英国アカデミー賞の最優秀脚本賞、最優秀編集賞を受賞し、また第35回カンヌ国際映画祭で最高賞のグランプリ(現在のパルムドール賞)とジャック・レモンが最優秀主演男優賞を受賞しています。
監督のコスタ・ガヴラスは、この映画の製作意図について「この物語で最も素晴らしいのは、この国がいかに自己を批判する能力を持ち合わせているかを示している点だ。
これはアメリカ人が作った。それもラディカルな人たちではない、相当保守的な人たちだ。彼らがこの映画の後ろ盾なのだ。このこと自体、アメリカという国の民主主義と自由主義の最大の証拠だ。」と語っています。
映画は、1973年9月のチリの人民連合のアジェンデ政権が軍事クーデターで崩壊した時に、ひとりのアメリカ青年が突然、失踪します。
政治的な理由で逮捕されたのか、あるいは何かの事件に巻き込まれて殺害されたのか?--------。
このチリのクーデターを描いた映画として、1975年の「サンチャゴに雨が降る」(エルビオ・ソトー監督)がありましたが、この映画は、アジェンデ大統領と民衆の抵抗をアジェンデ側から描いていました。
当時のチリのアジェンデ政権は、国民の民主的な選挙によって成立した初めての社会主義政権でしたが、アメリカのCIAは選挙に関与し、影響を与えようとしますが失敗し、遂に軍部による軍事クーデターに直接介入するという手段をとり、クーデターを成就させます。
背景は全く同じですが、「ミッシング」はクーデターに巻き込まれたアメリカ人を描くことで、アメリカの国家的な政治的陰謀を告発する内容になっています。
アメリカ人青年のチャールズ・ホーマン(ジョン・シェア)と妻のベス(シシー・スペイセク)は南米のある都市で暮らしています。
もちろんチリのサンチャゴですが、映画では特定していません。
チャールズは、そこで小説を書いたり翻訳をしたり、近所の子供たちに絵を教えたりしていました。
ところが、軍事クーデターが起こった後、チャールズが突然、失踪し、姿が見えなくなります。
この物語の前半のハイライトともいえる、戦車が出動し、外出者は無差別に銃殺されるクーデターの生々しい緊迫感が、ヒリヒリするようなタッチで迫力満点の映像で描かれていきます。
コスタ・ガヴラス監督の緊迫したドキュメンタリータッチの演出が冴え渡ります。
やがて、チャールズの父親のエドワード(ジャック・レモン)が、息子の失踪の知らせを受け、ニューヨークからやって来ます。
エドワードとベスは、チャールズの行方を捜すべくアメリカ大使館へ行きますが、"息子さんは潜伏しているのではないか"という返事しか返ってきません。
これには何か秘密があるに違いないと感じた二人は、病院や政治犯が収容されたスタジアムへ行き、目撃者の話を聞いていくうちに、失踪の真相を次第に知っていきます。
クーデターの内情を知りすぎたチャールズは、アメリカ大使館の了解あるいは画策のもと、軍事政権によって抹殺されたと思われます。
行方を捜すという、ひとつの目的でエドワードとベスは、行動を共にしているだけで、最初、この二人は全く気持ちが繋がっていませんでした。
しかし、困難な調査を共に続けていくうちに、"互いに深まっていく世代を超えた共感と和解"のプロセスをコスタ・ガヴラス監督は丹念に情感を込めて描いていて、この映画を"奥行きのある見事な人間ドラマ"に仕立てていると思います。
クーデターの背後にある不気味なアメリカの影。
巨大な政治的な陰謀。人民のためという正義の名を借りたファシズムの実態。人間のエゴイズム。
二人の目の前に"現代の厳しい現実"が次々と立ち塞がって来ます。
特に、虚しい捜索を続ける中、サッカー・スタジアムに無造作に山積みされた死体の山を見た時、クーデターの悲惨さを垣間見たエドワードの心境に変化が訪れます。
当初、エドワードは、息子や息子の嫁をあまり良く思っていませんでした。
彼には実業家としての地位や財力もあり、アメリカ政府を信じる一般の常識的な国民でした。
しかし、必死になって夫を探すベスと接することによって、本当の息子の真の姿を知るようになります。
それと同時に"国家の利益"を名目に、息子を抹殺した"国家権力"への激しい怒りを爆発させていくことになります。
監督のコスタ・ガヴラスの"国家権力とは何のためのものなのか。
果たして国民ひとりひとりを守るための存在なのか。
いや、国家そのもののための権力の行使ではないのか"という、激しい怒りにも似た厳しいメッセージが伝わってくるようです。
エドワードを演じた名優ジャック・レモンの、体の奥底からほとばしり出るような、魂を揺さぶる演技には唸らされます。
「息子の生死だけでも知りたい!」と全身全霊を込めてふりしぼるように言うジャック・レモンの目に、いつの間にか涙がじっとたまっています。
カンヌで絶賛された、彼の演技を通り越した、生の人間の悲痛な心の叫びがひしひしと伝わって来ます。
共演のシシー・スペイセクも、義父のエドワードにそっと寄り添う演技で、静かな中にも心の内側には激しい怒りと哀しみを秘めた、ひとりの女性の表情を見事に表現しています。
そして、エドワードが映画のラストシーンで空港に送りに来た、アメリカ大使館員に対して、「アメリカは君たちを許しておくほど甘くはないぞ」と告訴する意思を告げたのに対して、アメリカ領事が「それはあなたの自由(free)です」と答えるのを強く制して、「いや、それは私の権利(right)なのだ」ときっぱりと言うシーンは、アメリカの良心を示していて、このシーンにこそコスタ・ガヴラス監督の最も伝えたかったテーマがあるのだと感じました。
この映画が、ニューヨークで公開される直前に、まともに糾弾された形のアメリカ国務省は、この映画の内容は、事実無根であるとして長文の声明文を発表したそうです。
これに対して、コスタ・ガブラス監督は「ここに描かれていることはフィクションではない」と正式に反論し、また、弁護士であり、この映画の原作の作者でもあるトマス・ハウザーは、そのあとがきの中で「私はチャールズ・ホーマンの死をめぐる事件の、公平かつ正確な再構成であると確信している」と書いています。
P.S 尚、館長さんが掲載されている「ミッシング」のポスターは、違っていますよ。
間違っていました。
コスタ・ガブラス監督、ゴメンナサイ。
入れ替えておきました。