おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの復讐

2021-04-15 08:06:42 | 映画
僕は「スター・ウォーズ」はあまり好きになれなかったのですが、映画史を飾るシリーであることは間違いない。
シリーズの中から何本か紹介します。
「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」は2019/8/24で紹介。

「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの復讐」 1983年 アメリカ


監督 リチャード・マーカンド
出演 マーク・ハミル
   ハリソン・フォード
   キャリー・フィッシャー
   ビリー・ディー・ウィリアムズ
   ピーター・メイヒュー
   アレック・ギネス

ストーリー
帝国は先に共和軍に破壊されたデス・スターの2代目を建造。
大きさでは2倍、火力では数倍という新しいデス・スターは、半分以上が完成していた。
冷凍人間にされたハン・ソロは、タトゥーイン星の砂漠に要塞をかまえるジャバ・ザ・ハットのところにいた。
Cー3POとR2ーD2が、ジャバ・ザ・ハットのところを訪れ、ハン・ソロとロボット2体を交換したいというルークの申し出を告げるが、相手にされず奴隷の身になってしまう。
同じ頃、1人の賞金稼ぎが、チューバッカをつれてきて、ジャバ・ザ・ハットに渡す。
その賞金稼ぎは実はレイアで、彼女はハン・ソロを救出するが見つかってしまう。
ルークも現われて、ジャザ・ザ・ハットと直談判するが、捕虜にされる。
彼らは砂漠の穴にすむサルラックの生け賛にされそうになるが、衛兵に化けていたランド・カルリジアンの加勢もあって逃走に成功し、ルークは皆と別れてダゴヴァ星に行き、ヨーダに会う。
900歳になる師ヨーダはレイアがルークの双子の妹であること、ルークが真のジェダイ騎士になるにはダース・ヴェイダーと対決しなければならぬことを告げて、息を引き取った。
またケノビの霊はルークの父はアナキン・スカイウォーカーといったが、フォースの暗黒面に引き込まれてダース・ヴェーダーになったことを明らかにする。
新しいデス・スターは、近くのエンドア星から放射されるエネルギー・シールドによって守られていた。
ハン・ソロ、ルーク、レイアらはエンドア星に潜入し、森の中で帝国軍と戦闘状態に入つた。


寸評
前作で積み残したハン・ソロの救出劇が描かれる。
これまたこのシリーズの特徴であるけったいな怪物が新たに登場する。
ジャバ・ザ・ハットというヒキガエルのお化けのような怪物で、取り巻き連中もグロテスクなものばかりである。
俗物的な主で、キャバレーかナイトクラブまがいのショーなどを楽しんでいる。
楽しんでいるのは製作者側もそうで、思い思いに変なものを作って、その行為を楽しんでいるような気がした。
ルーク、ハン・ソロ、レイア姫にランド・カルリジアンが加わって4人がいよいよ帝国に挑んでいくが、ここまででかなりの時間を費やしてしまっていて、肝心の帝国軍との戦いが希薄になってしまっている。

楽しめるのは、随分とメルヘンチックになっていることと、SFXの進歩が著しいなと感じさせることだ。
エンドア星の森で展開される戦いがこの作品中で一番楽しめる。
この森にいるサルだか熊だかわからないような可愛い動物がいて、これが結構可愛い。
動物なので言葉を話さないが600万語を話すC-3POとは話が通じる。
彼らは極めて原始的な武器しか持っていないが、それを駆使して帝国軍兵士と互角に渡り合う。
先ずはその内の一匹(?)がスピーダーバイクを分捕ったところから始まる。
ここでの追いかけっこは迫力がある。
森の中の木々の間をぬって高速で飛びまくるが、そのスピード感に圧倒され目を廻しそうになる。
弓や槍に始まり、木の間に張ったロープで引っかけたり、岩を上から投げ下ろしたり、あるいは丸太を転がり落としたりと大活躍する。
まるでディズニー映画を見ているようなメルヘン性があった。

最後はダース・ベイダー及び帝国の皇帝との対決となるのだが、父と子の争いにはもっと苦悩する姿があっても良かったと思う。
だいたいこのシリーズはぐっと力が入るような場面を案外とあっさりと描き切ってしまっているような気がする。
どうもそのあたりの描き方が、僕がこのシリーズをあまり好きになれない理由のような気がする。
もちろんこのシリーズに心酔している「スターウォーズ」ファンは大勢いるわけで、彼等と僕は映画に求めているものが違うような気がする(どちらがいいかという問題ではなく)。
ダース・ベイダーは戸惑いを見せるが、皇帝はルークに圧倒的なフォースで迫ってくる。
以前に皇帝がダース・ベイダーに「ルークのフォースは強力なので、二人で協力しないといけない」と言っていたが、見る限りでは皇帝一人で十分ではないかと思ってしまう。

帝国が滅び、銀河系の星々には平和がもたらされ、それぞれの都市は歓喜に沸く。
世界平和を祝っているようでもあるが、やはりエンドア星の歓喜の様子がいい。
祭りは村人の歓喜の表現であり、人々のエネルギーの象徴でもある。
宇宙船の描き方やライト・セーバーという武器、ヨーダに代表されるような生み出されたキャラクター、ダース・ベイダーの黒い衣装と兵士の白い衣装など、生み出した魅力的な仮想世界とテーマ音楽はずっと記憶に残るだろう。
その前には、マーク・ハミル、ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーなどの主演者がかすんでしまっている。

スイミング・プール

2021-04-14 08:26:19 | 映画
「す」の第2弾に入ります。
第1弾は2019年8月22日からでした。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

「スイミング・プール」 2003年 フランス / イギリス


監督 フランソワ・オゾン
出演 シャーロット・ランプリング
   リュディヴィーヌ・サニエ
   チャールズ・ダンス
   ジャン=マリー・ラムール
   マルク・ファヨール
   ミレイユ・モセ

ストーリー
南フランス、プロヴァンス地方の高級リゾート地。
ある夏の日、イギリスから人気女流ミステリー作家のサラが訪れ、出版社の社長ジョンの別荘に滞在し、新作の執筆に取り掛かる。
ところがそこへ突然、社長の娘と名乗るジュリーが現われた。
自由奔放なジュリーは、毎夜ごと違う男を連れ込み、サラを苛立たせる。
だがその嫌悪感は次第に好奇心へと変化していき、サラはジュリーの行動を覗き見するように。
そんなある夜、ジュリーはまた別の男を連れて帰ってきた。
彼は、サラが毎日のように通うカフェのウェイターで、彼女がほのかな好意を寄せているフランクだった。
ジュリーはサラを挑発するようにフランクと踊り、やがてサラも体を揺らし始める。
しかし翌朝、プールサイドのタイルの上に血痕が発見された・・・。
そのあと、サラは今までの一件を元に書いた『スイミング・プール』と題された新作の原稿を社長ジョンに見せるのだが、それは・・・・。
そして社を去ろうとした時、現れたのは・・・。


寸評
中年のサラと若いジュリーに対して同じようなアングルでカメラが追うシーンが何箇所かある。
そのことで若いジュリーと中年のサラの違いを観客である我々に見せつける。
それはまるでサラがジュリーに抱いている、ある種の嫉妬に似た感情を無言のうちに感じさせるに充分で、”うまいなー!”と唸ってしまう。
サラは、やりたい時にやりたい事をやる自分と全く正反対の若い娘ジュリーの姿に戸惑いと苛立ちを露にする。
そんなときサラがプールサイドで拾った落し物はジュリーのパンティで、部屋に持ち帰った途端にむくむくと創作意欲が沸くあたりが笑える。
作家としてのスランプを抜け出すだけでなく、女のうるおいまで復活してしまう唐突さがおかしい。
嫌悪感よりも好奇心が勝るのが作家だとでも言いたいのだろうか。

さんざんと肉体的にピチピチ感の無くなったサラを見せておいて、死体を埋めたあたりに疑問を持ちかけた使用人の爺さんの気をそらすために、彼を誘惑したときのサラ=シャーロット・ランプリングの全裸の美しさに固唾を飲んでしまう。
ヘアまで見せたシャーロット・ランプリングの女としての魅力が若さの持つ魅力を上回った瞬間だった。
そして密かに抱いていた老人の欲望を満たせてやり、その反応を足の指先だけで見せるあたりは、女としての自分を感じたであろうサラの表現として、やっぱし”うまいなー!”と唸ってしまう。
カメラワークで言えば、四角く切り取られたような青いプールを効果的に配したり、俯瞰を用いて観客と視線を共有するなど、構図の鋭さも光っていた。

映画は若さと成熟、自由奔放と自己を抑制した理性を対比させて、ジュリーのもつそれらを嫌悪しながらも憧れを垣間見せるサラの姿に、彼女達を取り巻く男たちを登場させて進行していく。
前半は全く共通点のない女性二人の奇妙な同居生活が主にサラの側から描かれるが、後半は殺人事件が発生して、物語はミステリーへと変貌する。
殺人事件が起こったと思われる終盤になって、もう一つの対極である現実と幻想の世界が畳み掛けるように描かれ、ラストで一気に開花する。
開花すると言っても、すべてが解き明かされるのではなく、むしろ幻惑の世界へ突き落とされて「何んなんだあ~」と叫けばせて終る。
面白い、実に面白い展開だ。
もしかするとジュリーは自らの作品を世に出すために、この世に戻ったジュリーのお母さんの亡霊ではないのかと思った。
振り返ると、父親と話をしている芝居をしていたと思われるシーンもあったし、お腹の傷も時々写されていたし・・・。

この映画が本当のミステリーであることが判るのは、映画の最後の瞬間だ。
最後のシーンはなんだったんだろう?といつまでも気にとめながら劇場を出た作品だった。
二人の女優の見事な共演と独特の怪しいムードは一見の価値がある映画と言える。

シン・レッド・ライン

2021-04-13 06:37:25 | 映画
「シン・レッド・ライン」 1998年 アメリカ


監督 テレンス・マリック
出演 ショーン・ペン
   ジム・カヴィーゼル
   エイドリアン・ブロディ
   ベン・チャップリン
   ジョン・キューザック
   イライアス・コティーズ

ストーリー
1942年、ソロモン諸島ガダルカナル島。
アメリカ陸軍C中隊に属する二等兵ウィットはメラネシア系原住民に魅せられたかのように無許可離隊を繰り返していた。
そんな彼を歴戦のつわものであるウェルシュ曹長は看護兵に配属した。
C中隊を率いるたたきあげの指揮官トール中佐は、クィンタード准将の見守る前で兵士を上陸させる。
日本軍の守備隊がたてこもる内陸の丘の攻略にかかる中隊だが、敵の銃火の下、ケック軍曹はじめ兵士たちは次々に命を落とす。
焦るトールの強引な突撃命令を、中隊長のスターロス大尉は部下を無駄死にさせたくないと拒絶した。
結局、丘は戦場にあっても故郷に残した美しい妻の面影を胸に戦い続けるベル二等兵の決死の偵察とガフ大尉指揮の攻撃部隊の活躍でみごと陥落し、トールはさらに奥の日本軍の本拠地も攻め落とさせた。
作戦に成功した中隊だが、トールは命令に背いたスターロスを解任した。
ひとときの休養の後、進軍を再開した中隊は今度はジャングルの中で日本軍に遭遇。
看護兵から一兵卒に復帰していたウィットは自ら申し出て仲間3人で斥候に出たが、部隊をかばおうとして日本軍に包囲され命を落とした。
ウェルシュは彼の墓の前にひざまづく。
スターロスに代わり新たな中隊長のボッシュ大尉が赴任したが、戦闘はなおも続く。
ウェルシュやベルは様々な思いを胸に島を離れるのだった。


寸評
一風変わった戦争映画で、戦場はガダルカナル島である。
ガダルカナルと言えば、僕には補給路を断たれた日本軍が20,000名もの餓死者を出したと言われる戦いしか思い浮かばない。
僕は戦後の生まれで戦争を経験していないし、ましてやガダルカナルの惨状を直接見聞きしたわけではない。
だからガダルカナルと言えば飢えに苦しむ日本兵の姿しかイメージできないのだが、当然そうなる前の戦いがあったわけで、日本軍だって当初から飢えていて戦う気力をなくし無抵抗のままだったわけではない。
日本海軍は1942年6月のミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失ったため、ガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えた。
大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたが日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月に偵察・爆撃が強化され、8月7日に10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。
映画は正にその瞬間から始まっているが、激戦の模様を描くことを目的としていない。
先ず描かれるのは島ののどかな風景であり、子供たちが戯れる美しい海だ。
つまりこの島の人々は日本軍によって生活を奪われ、続いてアメリカ軍によって生活を奪われていると言うことだ。
この島に住む綺麗な鳥の映像も挿入されるから、荒らされたのは人間だけでなく動物たちも同様だったのだ。

トール中佐はたたきあげで戦況を見極め勝負所は心得ているのだが、昇進だけが生き甲斐のような男で、その為にはクィンタード准将などの上官にこびへつらい、スタンドプレーを見せようとする。
スターロス大尉は部下思いのように見えるが臆病なところがある。
トール中佐もスターロス大尉も、自分は後方にいて部下たちに突撃命令を出している。
そこには正義の闘いと信じて国のために戦う勇敢な兵士は存在していない。
描かれているのは見えない敵を恐れ、どこから飛んでくるか分からない銃弾に恐怖する兵士の姿だ。
日本軍は丘の上にトーチカを築いて守っている。
そうなっては守備隊の方が有利だ。
草むらを歩伏前進する米兵の姿はリアル感があり、よく見かける戦争映画の兵士の姿ではない。

飢えに苦しむ日本兵の姿は描かれず、壮烈な戦闘場面が繰り広げられるが、それは正に地獄絵図だ。
お互いに生きるか死ぬかの戦いで、そこに神の存在はない。
一体誰が生を奪い、光を奪っているのか。
平和で幸せだった国での生活は幻だったのかと思わせる。
生きて帰ってふたたび妻との幸せな生活を取り戻したいと思っても、妻は新しい恋に巡り合っている。
戦場ではその知らせを受け取った男も女性への欲望をなくしているという状況だ。
ウェルシュ曹長は、「他人のことなど気にせず、自分の身は自分で守るしかないのだ」と言う。
誰かがいなくなれば、代わりの誰かがやって来て、我々は家族なのだと浮いた話をする。
欺瞞に満ちた社会の縮図が戦場なのだと感じさせる。
単純に面白いと思わない作品だが、全く否定する作品でもなくて、何だか宗教映画を見ているような作品だ。

深夜の告白

2021-04-12 11:11:22 | 映画
「深夜の告白」 1944年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 フレッド・マクマレイ
   バーバラ・スタンウィック
   エドワード・G・ロビンソン
   ポーター・ホール
   ジーン・ヘザー
   トム・パワーズ

ストーリー
深夜のロサンゼルス。フル・スピードで走ってきた車がパシフィック保険会社の前で止まり、肩をピストルで射ぬかれた勧誘員ウォルター・ネフがよろめきながら下りてきた。
彼は会社の自室に入り、テープレコーダーに向かって上役バートン・キースに宛てた口述を始めた――。
数カ月前、ウォルターは会社に自動車保険をかけているディートリチスンを訪ねたが不在で、夫人のフィリスに会った。
翌日フィリスはウォルターのアパートを訪れ、夫を殺してそれを事故死と見せ、倍額保険を取ろうともちかけた。
足を怪我したディートリチスンは、近く開かれるスタンフォード大学の同窓会へ汽車で行く予定だった。
最初は当惑するウォルターも、フィリスの肉体の魅力に負けて、ついに計画を手伝う破目になった。
保険に入ろうとしないディートリチスンからサインを詐取して保険証書を作った2人は、犯行当夜のアリバイを作って実行に入る。
ディートリチスンと同じ服装をしたウォルターは、フィリスの運転する自動車に忍び込み、車に乗った彼を撲殺。
代わって松葉杖をつきながら汽車に乗った。
展望車に乗り合わせた男がいなくなったすきをついて汽車から飛び降り、自動車で先回りしていたフィリスとディートリチスンの死体を線路に運び、松葉杖を置いて立ち去った。
計画は的中し、ディートリチスンは過失死と認められた。
だがただひとり、キースが死因を怪しんで調査を始めた。
そしてディートリチスンの娘ローラの恋人ニノに嫌疑がかかり、ローラも行動を監視され、ウォルターはディートリチスン家に近づけなくなった。
ひそかに連絡をとってフィリスと会っているうちに、ウォルターは次第に不安を感じ、ある夜いらいらした気持ちでフィリスと会ったとき、ついに2人の間に争いが起こりフィリスはウォルターに拳銃を発射した。


寸評
冒頭から犯人の告白という形をとっているために、犯人探しであるとかアリバイの危うさや、犯行が失敗に終わるかもしれないというスリリングさはないが、告白形式によって余計な説明が省かれ犯行の背景が小気味よいぐらいにテンポよく描かれていく。
不倫関係にある者が、相手の夫や妻を殺害しようとする話は時折見かけるものだが、この作品は制作年度を思うとそれらの先駆者的なものだろう。
同類の作品の多くでは、妻が夫から冷たい仕打ちを受けている様子が詳しく描かれたり、犯行シーンを詳しく描写したリ、あるいはアリバイ作りが破たんするかもしれないと思われるハラハラする場面が用意されていたりする。
ここではそのようなことがきわめて簡潔に描かれているのだが、それでもサスペンスとしての緊張感が存在しているというのは、脚本の妙とビリー・ワイルダーによる演出の冴えによるものだろう。
ネフとフィリスは簡単に関係を結んでしまう。
フィリスには殺人の思いがあり、ネフはフィリスの魅力に参ってしまったからなのだが、二人の利害が一致する描き方はダイジェスト的で深くはないのに、全体の中で納得してしまえる描き方をしている。
ディートリチスンは警察により事故死と判断されるが、検死すれば落下による死亡なのか、撲殺による死亡なのかは判るはずだし、現場検証すれば落下に対する疑問も湧くはずだと思うが現場検証のシーンはない。
よくよく考えればそのような疑問も湧くのだが、テンポの良い描き方は考える暇を与えない。
そのあたりがビリー・ワイルダーの非凡なところだろう。

この映画の中ではフィリスが悪人の代表者の役割を負っている。
最初は悪事を諭していたネフを色香によって計画に引きずり込む。
フィリスが夫から無視され関係も冷え込んでいる可愛そうな妻を演じていることも判明する。
いざとなれば、ネフよりも度胸が据わっていて堂々とした態度を撮り続ける事が出来る女である。
フィリスの バーバラ・スタンウィックはなかなかの好演であり、この映画を支えている。
事故死扱いされているが、刑事の役割を担っているのが エドワード・G・ロビンソンのキースだ。
彼は殺人を疑っておらず事故死から自殺説に考えを変える描き方はひねりをきかせている。
保険申請を審査している彼には秘密兵器があり、怪しい案件には胸が痛み出す面白いキャラクターだ。
結婚を決意した相手にもその秘密兵器が働いたことなどが面白おかしく語られて物語を補佐している。
こういう細かい演出が映画の格調を高めていくのだと思う。

告白という結論があらかじめ分かっている描き方ながら、それでも「えっ!」と思うようなエピソードが挿入されて、観客に新鮮な感情を湧きたてる脚本、演出の工夫が見られる。
挿入されるタイミングも心得たものとなっている。
ただよく分からないのがローラが思いを寄せるニノの立場だ。
彼はディートリチスンの殺害にかかわっていたのかどうかの結論は明示されていない。
ネフの助言によりニノがローラの元へ向かうことや、フィリスがいつの間にかネフを愛し始めていたことなどによってフィリスにも救いの手を差し伸べているようなところがあり、少し甘さを感じる終わり方は時代を感じさせた。
告白の録音機にも時代を感じるが、面白い作品は時代を超えてもやはり面白い。

新・平家物語

2021-04-11 09:44:18 | 映画
「新・平家物語」 1955年 日本


監督 溝口健二
出演 市川雷蔵 久我美子 林成年 木暮実千代
   大矢市次郎 進藤英太郎 菅井一郎
   千田是也 柳永二郎 羅門光三郎
   夏目俊二 中村玉緒 十朱久雄

ストーリー
藤原一族の貴族政権崩壊の前夜、保延三年初夏の頃。京都今出川の平忠盛の館では永年の貧窮の結果、西海の海賊征伐から凱旋した郎党達をねぎらう祝宴の金に困り馬を売る始末であった。
自分の恩賞問題にからんで、公卿の藤原時信が謹慎させられたと聞いた忠盛は驚いて、長男の清盛を時信の屋敷にやったのだが、清盛はそこで時信の娘の時子を見て強く心を引かれた。
また清盛は東市の酒屋で五条の商人朱鼻の伴卜から自分の父が白河上皇だときかされ驚いた。
忠盛の妻の泰子が祇園の白拍子であった時、上皇はそこに屡々通われたが後に彼女を忠盛の妻として賜わり月足らずで生れたのが清盛だというのである。
更に清盛は郎党の木工助家貞から母にはもう一人の男八坂の僧があったことをきかされた。
忠盛は比叡山延暦寺と朝廷の間に起った紛争を解決した功により昇殿を許されることになった。
清盛は忠盛の昇殿を喜ばない一派が闇討を計画しているのを時信からききその陰謀をぶちこわした。
時信は闇討計画を内通したというかどで藤原一門から追放された。
清盛はかねて思っていた時子と結婚する承諾を父に求め、忠盛は莞然と笑った。
翌年今宮神社の境内で起った時信の子時忠、家貞の子平六と叡山の荒法師との争いに清盛はまきこまれた。
二千の僧徒は神輿を持ち出し六波羅の清盛邸を押しつぶし鳥羽院に強訴しようとして祇園に集まった。
騒ぎの最中忠盛は自害した。
葬儀に駆けつけた泰子は、清盛に「お前は白河さまの子だ」といったが清盛は「私は平の忠盛の子です」といいきり、時忠と平六をつれて祇園に向った。
荒法師の無道を怒った清盛は神輿に向って矢を放ち、矢は神輿の真只中に命中した。


寸評
異様と言えば異様なメイキャップである。
市川雷蔵は色香の匂う優男で、豪快な清盛像を出すためにはそうしないと収まらなかったのだろう。
動員されたエキストラの数と、端役に至るまでの豪華絢爛たる衣装に、当時の映画に賭ける意気込みを感じ取れるのだが、そんな中にあって違和感のあるほど目立ってしまう清盛の眉毛だった。

物語は平氏台頭前夜の出来事を描いていて、武士階級はまだ虐げられている。
西国の海賊退治を終えて帰ってきた彼等にも恩賞はない。
そんな不遇な時代が描かれ、同時に清盛が白河上皇(柳永二郎)の落胤であるという伝説を絡ませる。
宮川一夫のカメラワークは見るべきものが有るが、しかしながらそれぞれのエピソードは上辺をなぞっただけの様な描き方で食い入るような奥深さはない。
清盛とやがて妻となる時子(久我美子)の恋物語も通り一辺倒な描き方だ。
伴卜(進藤英太郎)から自分の出自を聞かされた清盛の苦悩もあまり伝わってこない。
そんな中にあって、平忠盛(大矢市次郎)の妻泰子(木暮実千代)の気位の高さだけが描けていたように思う。
それは脚本によるものなのか、小暮実千代の演技によるものかは判定できないでいる。

僕は平清盛は歴史に残る一代の英傑だったと思っている。
貴族による公家政治を終わらせた人物だ。
公家政治とは権威としきたりによって支えられた官僚政治に他ならない。
自らは生産能力を持たず、その権威と権力で支配していた連中で、藤原氏がその地位を独占していたと言っても過言ではない。
平清盛はその官僚政治を壊した人物だったと思う。
やがて平氏は官僚に取り込まれて行ってしまうが、源頼朝によって官僚機構はつぶされてしまう。
比叡山の権威は信長の登場を待たねばならないほどのものだった。
時は流れて、再び現在の政治は官僚政治となってきてしまった感がある。
どうも官僚というやつはしぶとい人種の様だ。

清盛は「たった2本の矢で権威は崩れ去った」、「次は俺たちの番だ」とつぶやくが、武士の台頭を描いたにしては力強さに賭けた。
どうも溝口の作風に不似合いな題材だったのかもしれない。
泰子がもとの白拍子に戻ったかのように、貴族の宴でのびのびふるまう姿を見ると、この映画の主人公は泰子ではなかったのかと思ってしまう。
吉川英治原作の歴史絵巻として見ると随分時代掛っているが、それでも当時のプログラムピクチャの質の高さを感じ取れる作品だ。
市井の様子や祭りの賑わいなどは随分と丁寧な描き方だし、叡山の荒法師が山を下る場面などは惚れ惚れするなあ~。

新聞記者

2021-04-10 11:03:00 | 映画
「新聞記者」 2019年 日本


監督 藤井道人
出演 シム・ウンギョン 松坂桃李
   本田翼 岡山天音 郭智博
   長田成哉 西田尚美 高橋和也
   北村有起哉 田中哲司

ストーリー
深夜の東都新聞社会部にFAXが送られてきた。
サングラスをした羊のイラストで始まるその文書は、ある大学の新設に関わる極秘情報を暴露するものだった。
夜が明けて社会部は、上からの圧力で差し替えられたと思われる一面記事の話題で持ち切り。
その記事は、文部科学省の大学教育局長が、大学の不正入学に関与していたというものだった。
社会部記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、上司の陣野(北村有起哉)に呼ばれ、FAXの調査を任される。
その情報によると、通常文部科学省が管轄する大学の新設を、なぜか内閣府が主導していて、しかも経営を民間に委託するというものだった。
同じ日、内閣府の中にある内閣情報調査室の杉原拓海(松坂桃李)は、公安が深夜につかんだ大学教育局長のスキャンダルをマスコミに流し、あっという間に局長は世間の批判にさらされることに。
杉原たちは、現政権に都合の悪い人物に対して、マイナスのイメージがつく情報を探し出して捏造し、広く世間に拡散させていた。
外務省からの出向である杉原は、上司の多田(田中哲司)に呼び止められ、「外務省時代の知人から連絡があったら報告するように」と言われた。
ある日、レイプ被害の会見を開いた女性に対し、ハニートラップだったことを裏付ける相関図をつくるように指示された杉原は、自分たちのしている仕事に迷いを感じ始める。
そんなとき、外務省時代の尊敬する上司、神崎(高橋和也)から食事の誘いの電話が入る。
『国民に尽くすこと』がモットーの神崎には、実は杉原と一緒に働いていた北京大使館時代、無実であるにも関わらず、不正の責任をひとりで被った過去があった。
“国のため、家族のため”と自分に言い聞かせたと遠い目をする神崎は、「俺みたいになるなよ」と杉原に言う。


寸評
警察発表を横並びで伝える新聞、政府の記者会見ではありきたりの質問しか出来ない若手の記者たち。
僕はマスコミのレベルの低下に辟易している昨今なのだが、中には吉岡のような気骨のある記者もいるのだろうし、居てほしいと思う内容である。
物語には昨今の出来事を思い浮かべると絵空事ではないリアリティを感じる。
僕は官邸あるいは内閣府などと大きな組織体で話すことがほとんどで、内閣府の中にある内閣情報調査室の存在を知ってはいても、その仕事内容などの詳細については無知に等しい。
この作品で描かれた内閣情報調査室の仕事はまるで中国がやっているようなことで、もしかするとどこの国でもやっているのかもしれない。
彼らの仕事は現政権に不都合なニュースをコントロールすることなのだ。
杉原の上司である多田は「情報を操作することが日本のためなのだ」と正論のように述べる。
この多田を演じた田中哲司は、主演のシム・ウンギョンや松坂桃李以上に僕は存在感を感じた。

作中のテレビ映像に元文部科学事務次官の前川喜平氏が出演している。
前川氏と言えば、文部科学省在職中に歌舞伎町の出会い系バーに頻繁に出入りし、店内で気に入った女性と同席し値段交渉したうえで店外に連れ出していたと報じられた人物である。
前川氏は出会い系バーへ行ったことを認めたうえで、どうして退官後半年余りを経過していた時点で報じられたのかと疑問を呈したのだが、作中の大学教育局長がスキャンダルをマスコミに流され、あっという間に局長は世間の批判にさらされるというエピソードは、まだ日が浅いために前川氏の一件を想像させる。
神崎の自殺は、学校法人森友学園への国有地売却と財務省の公文書改ざん問題で、財務省近畿財務局の赤木俊夫氏が自殺した事件を髣髴させる。
杉原は上司の多田からでっち上げの情報をマスコミに流すように命じられる。
そして多田は、リークされた内容を真実かどうかを判断するのは我々でなく国民だとうそぶくのである。
僕たちは報道を真実だと信じていて、それが事実かどうかの判断など委ねられていない。
この映画を見終ると、ニュースは正面から受け取るのではなく、斜めからあるいは裏側から見ないといけないのではないかと思ってしまう。

杉原は正義を貫けるのか、それとも権力に屈するのかということが最後に迫ってくる。
杉原は上司の多田から「外務省に戻りたいか?しばらく外国に駐在しろ。そのうち世間は忘れる。そのかわり今持っている情報はすべて忘れろ」と言われる。
戻りたいポジションのこと、家族のことを思うと杉原の正義感も揺らいでくる。
多田は止めを刺すように「前言撤回するのは決して恥ずかしいことじゃないぞ」と捨て台詞をはくが、表情とは違うスゴミがあった。
横断歩道を挟んで杉原と吉岡は対峙する。
杉原の発した言葉は聞こえないが、唇の動きは「ゴメン」と言ったように見える。
それが分かったのか、吉岡は言うに言われぬ表情を見せる。
マスメディアは権力に屈しないで真実を取材し報道して欲しいと願いたくなるラストは強烈な印象を残す。

シンドラーのリスト

2021-04-09 10:56:24 | 映画
「シンドラーのリスト」 1993年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 リーアム・ニーソン
   ベン・キングズレー
   レイフ・ファインズ
   キャロライン・グッドオール
   ジョナサン・サガール
   エンベス・デイヴィッツ

ストーリー
1939年、ポーランド南部の都市クラクフにドイツ軍が侵攻した。
ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは、一旗揚げようとこの街にやって来た。
彼は金にものを言わせて巧みに軍の幹部たちに取り入り、ユダヤ人の所有していた工場を払い下げてもらう。
ユダヤ人会計士のシュテルンをパートナーに選んだシンドラーは、軍用ホーロー容器の事業を始める。
1941年3月、ユダヤ人たちは壁に囲まれたゲットー(居住区)に住むことを義務づけられる。
シュテルンの活躍で、ゲットーのユダヤ人たちが無償の労働力として、シンドラーの工場に続々と集められた。
事業はたちまち軌道に乗り、シンドラーはシュテルンに心から感謝したが、彼の差し出すグラスにシュテルンは決して口をつけようとしなかった。
シンドラーはドイツ人の愛人イングリートをはじめ、女性関係は盛んな男だった。
別居中の妻エミーリェは、そんな奔放な夫の生活を目撃し、彼の元を去った。
1943年2月、ゲットーが解体され、ユダヤ人たちはプワシュフ収容所に送られることになった。
ゲットーが閉鎖されることになった日、イングリートを連れて馬を走らせていたシンドラーは、小高い丘からその様子を目撃した。
親衛隊員たちは住民を家畜のように追い立て、抵抗する者、隠れようとする者、病人など、罪もない人々を次々に虐殺していった。


寸評
娯楽作が多いスピルバーグだが、彼が生み出した唯一と言ってもいい社会派映画の傑作だ。
ホロコーストを描いた内容ながらエンタメ性も感じさせる演出は上手いなあと思わせる。
「プライベート・ライアン」におけるオープニングのノルマンディ上陸作戦の描写に驚かされたが、本作におけるユダヤ人虐殺シーンはそれをしのぐリアリティをもって我々の目に飛び込んでくる。
ナチスドイツの侵攻により、住む場所さえ奪われたユダヤ人たちが一箇所に集められ、強制労働させられる残酷な光景はがニュース映画のように描かれる。
冒頭のカラーからモノクロ画面に変わることでより一層リアリティ感が生み出されている。
財産も何もかも全て没収された挙句の果てにゲットーに押し込められ、気に入らない家族はその場で躊躇なく射殺されるという信じられない光景が続く。
ナチスドイツによる無慈悲で非道な処刑は何度も繰り返し描かれるのだが、無残に転がる死体の多さや街の様子などは手抜きのない物量をつぎ込んでいて臨場感は半端ない。
建設現場では基礎工事のやり直しを訴えた女性が、意見を言っただけで射殺されてしまう。
そのあとでその将校は女性の言った通りの基礎工事を命じているのである。
アーモン・ゲート少尉が上半身裸で2階のベランダから、働きの悪いユダヤ人たちを撃ち殺す様子はあまりにも残酷で、彼はゲームを楽しむよう殺戮を悪びれることもなくやっている。

アーモン・ゲート少尉はオスカー・シンドラーとの対比で描かれている人物だ。
シンドラーもナチス党員であり、ゲート少尉も罪を許すと言って処刑を思いとどまっている。
誰が見ても罪のある者を許すのがパワーだとシンドラーから言われたからなのだが、彼ら二人には似通った血が流れていたことを思わせる。
二人を分けたものは運命だったり、立場だったり、雰囲気だったり、時代の流れだったりする目に見えないものだったのかもしれない。
シンドラーは聖人君子ではなく、戦争を利用して巨利を得ようとしている人物だ。
事業を成功させるためには手段を択ばず、これはと思う人物にワイロを惜しげもなく渡す。
シンドラーは贈賄側で、ゲート少尉は収賄側なのである。
権力者たちと上手くやっていく処世術をシンドラーは持ち合わせているが、ある時からその行動に変化を見せる。
それが赤い服を着た少女を見た時だ。
モノローグとエピローグのカラー映像を除けば、物語の中でカラーが使われるのは少女の姿とローソクが燃えるシーンだけである。
もちろんそれを強調したいがための手法の筈だが、どちらも生命の象徴だったのではないか。
逃げ惑う少女は何とか生き延びようとする幼い命の生命力を著していたと思うのだが、しかしそう思わせておいて我々に悲惨な結末を突きつけてくる。
ロウソクの灯は生きるための希望の光だ。
シンドラーによって救われた人々が最後に登場するのは本来なら違和感を感じるかもしれないが、演じた俳優さんと一緒に登場することで抵抗なく受け入れることができた反面、その前のイスラエル建国を思わせるシーンにはあざとさを感じたのだがスピルバーグがユダヤ人であるだけに仕方のないことか。

人生フルーツ

2021-04-08 08:35:58 | 映画
「人生フルーツ」 2016年 日本


監 督    伏原健之
ナレーション 樹木希林

ストーリー
愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンの一隅で雑木林に囲まれた一軒の平屋。
それは建築家の津端修一さんが、師であるアントニン・レーモンドの自邸に倣って建てたもの。
四季折々、キッチンガーデンで育てられた70種の野菜と50種の果実が、妻・英子さんの手で美味しいごちそうに変わる。
たがいの名を「さん付け」で呼び会う長年連れ添った夫婦の暮らしは、細やかな気遣いと工夫に彩られている。1945年、厚木の飛行場で敗戦を迎えた修一さんは、新しい時代のためには住宅再建しかない、と考え、アントニン・レーモンド事務所に勤めた後、1955年に創設された日本住宅公団に入社する。
東京大学のヨット部員だった修一さんが、国体出場のために英子さんの実家の酒蔵に泊まったことをきっかけに2人は知り合い、1955年に結婚。
造り酒屋の一人娘として厳しく育てられた英子さんだったが、自由を尊重する修一さんのお陰で、臆せずものが言えるようになったという。
やがて、東京の阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わった修一さんは、1960年、名古屋郊外のニュータウンの設計を任されると、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したプランを立案。
しかし、当時の日本は、東京オリンピックや GDP世界第2位といった事象に象徴される高度経済成長期。
結局、完成したニュータウンは理想とは程遠い無機質な大規模団地だった。
修一さんは、それまでの仕事から次第に距離を置くようになる。
そして1970年、自ら手がけたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめた。
それは修一さんにとって、ごく自然なライフワークとして継続されることになる。


寸評
津端修一さんの暮らしぶりが紡いでいかれるのだが、僕が子供の頃にはこのような家が結構存在していた。
津端さんの家は雑木林の中にあると言ってもいいような環境下である。
ただし、そこは人工的に作られた雑木林である。
津端さんは300坪の土地を購入し、30畳ワンルームの家を建て、あとは畑と雑木林にしている。
雑木林とまではいかないが、竹林があったり大木が植わっている庭のある家が子供の頃には点在していた。
僕の実家も裏庭があって柿の木が何本も植わっていたし、ケヤキの大木が1本そびえていた。
シュロの木もあったしグミの木も植わっていた。
津端さんほどではなかったが屋敷の周りにはそんな空間があった。
隣の岩橋さんの家は広い敷地で畑を囲むように大木が何本もあったし、その隣の竹林さんの家は名前の通り広い竹林を有していた。
そんな家は今の僕の周りにはない。

津端さん夫婦は枯葉を撒いて土地を肥やし、農作物やら果物を作っている。
その種類の豊富なことに加え、立てかけた作物を示す看板などが微笑ましくて生き方が伝わってくる。
一言でいえば、憧れてしまうのである。
では今の僕がこれを実践すればどうなるのだろう。
狭い敷地でこれをやれば、ご近所の人から迷惑がられるのではないか。
樹木がはみ出しただけでも文句を言われそうだ。
洗練された日本庭園は鑑賞するにはいいが、雑木林の庭園は自然に溶け込むような優しさがある。
司馬遼太郎は雑木林を愛した作家である。
僕がかつて訪ねたことがある八戸ノ里の司馬遼太郎記念館では司馬遼太郎邸の雑木林が維持されていた。

高度経済成長期には日本全国でニュータウンが建設された。
大阪でも日本住宅公団が開発した郊外型大規模住宅団地の先駆けである香里団地を初め、 日本最初の大規模ニュータウン開発として建設された千里ニュータウンなどがある。
公園も整備されたりしているが全体的には全てが南を向いた無機質な町だ。
高蔵寺ニュータウンは自然との調和を目指したようだが、経済効率の観点が勝り津端氏が意図したものと違うものが出来上がった。
氏はその一角で雑木林再生を試み敏次は50年を超えるというのだから、その執念やすごいと思う。
しかし、生き方を見ているとそんな悲壮感は微塵も感じられない。
夫婦が尊敬し合いながら自然を愛して生きている姿が羨ましくもあり神々しささえ感じてしまう。
テレビ番組を劇場公開したものだと思うが、ドキュメンタリー作品に属するものながらドラマティックな演出を感じさせるのが津端修一の死である。
衝撃を受ける。
そして残された英子さんを励まさずにはいられない。
もっとも英子さんはそんな助けを必要とせず、自然と付き合いながら飄々と生きていかれるだろう。

真剣勝負

2021-04-07 07:44:13 | 映画
「真剣勝負」 1971年 日本


監督 内田吐夢
出演 中村錦之助 三国連太郎 沖山秀子
   田中浩 岩本弘司 当銀長太郎
   木村博人 伊藤信明 上西弘次

ストーリー
伊勢、伊賀、近江三国の国境が接するところの鈴鹿山脈の奥、雲林院村の一面芒々たる大枯野の中に野鍛治、宍戸梅軒の一軒家がぽつんと建っている。
あたりが夕闇につつまれた頃、宮本武蔵は梅軒の一軒家を訪れた。
その夜、梅軒は、八重垣流鎖鎌の妙技を見に来た武蔵と酒をくみかわしながらの昔話の中で、武蔵が関ケ原の合戦の際、宇喜多勢に加わり、タケゾウと名乗っていたことを知ると、女房お槙を通じて八人衆を呼び寄せた。
武蔵が、お槙の兄辻風典馬の仇であることがわかったのだ。
夜もふけて、寝こんだ武蔵の耳に、今まで停止していた空気が、急に変質していくのが聞こえた。
裏口では、梅軒配下の八人衆が梅軒の合図を待ち、武蔵が蓑笠の蔭から姿を現わすや、それぞれ陣形を取り身構え、しばしの静寂が流れた。
武蔵のとった勢力を分散する戦術は功を奏し、梅軒配下の強者は次々と倒れて、残るは梅軒夫婦。
しかし前後左右から飛来する分銅によって窮地に追い込まれた武蔵は、お槙が背負っていた子供を奪い見通しの利く地点まで一気に駈けた。
子供を人質に取られた梅軒夫婦は進退に窮し、三人は対峙したまま時は過ぎた。
疲れと空腹が四人を襲い、太郎治は乳を求めて泣きだした。
子供に乳を与えようとするお槙と、子供の命と引きかえに武蔵の命を取る覚悟を決めた梅軒の間に争いが起き、怒り狂った梅軒はお槙を傍らの切り株に縛りつけ武蔵に肉薄した・・・。


寸評
内田吐夢の「宮本武蔵」五部作の番外編とも位置づけられている作品である。
1961年のシリーズ第1作「宮本武蔵」から1965年のシリーズ第5作「宮本武蔵 巌流島の決斗」まで毎年1作づつ撮られてきたが、本作は同じ内田吐夢監督ながら東映から東宝に代わっている。
内田監督が途中で倒れながらも再起して撮りあげた遺作だが、6年を経てなぜに宮本武蔵を撮ったのだろう。
冒頭でいままでの決闘をダイジェストで見せているから、番外編かもしれないがシリーズ6作目であることは間違いない。
この度の相手である宍戸梅軒の妻お槙が第一作で登場した辻風典馬の妹であることも連続性を感じさせる。
そうであるならば沢庵和尚を演じ続けていた三国連太郎が宍戸梅軒でよかったのかどうか・・・。
もっともこの夫婦の濃いキャラクターは三国と沖山秀子以外にキャスティング出来なかったのかもしれない。

今回の特徴はストップモーションを多用し、又それに心の動きを示すつぶやきをかぶせていることである。
無の境地ではなく、心の中で作戦を思いめぐらせている感じを出している。
武蔵は一条下り松で勝負に勝つために幼い子を斬っているが、ここでも梅軒夫婦による鎖鎌の攻撃から逃れるために子供を人質に取っている。
それが勝つためには手段を選ばない武蔵の兵法なのだと言っているようだ。
僕はこの作品を公開時に映画館で見ているのだが、その時はラストシーンでどよめきが起きた。
その頃の映画館はスクリーンカーテンが開いて映画が始まり、エンドマークが出るころにスクリーンカーテンが閉まってくると言うものだった。
したがって「終」の文字が波打ったカーテンに映し出されるのが常のことだった。
この作品の時は武蔵が構えたところで締まりだし、観客から「え~」という声があちこちから上がり、どよめきとなって館内に拡がっていったことを記憶している。

ラストシーンに疑問が生じるのは理解できるし、また議論がなされるべきシーンとなっているし、この映画最大の話題シーンであることは間違いない。
脚本の伊藤大輔にとって、また内田吐夢にとって武蔵と梅軒の決闘の結果などはどうでも良かったのだろう。
武蔵の剣は殺人剣だが同時に活人剣でもあるのだ。
実はこれには伏線があって、武蔵を兄の仇と狙うお槙が死んだ兄よりも生きている我が子が大事だから、武蔵への仇討を断念すると叫ぶシーンがそれである。
沖山秀子のお槙は野性的な女であるが、同時に母性豊かな女なのだ。
子供のために仇討ちを諦め、生きようとするお槙は病魔に苦しみながらも生きようとする内田吐夢の分身なのかもしれない。
いや宮本武蔵そのものが内田吐夢の分身なのだろう。
「飢餓海峡」という大傑作がある内田吐夢だが、僕は内田監督作品としてはやはり宮本武蔵シリーズを思い浮かべてしまうのだ。
僕にとっては内田吐夢の見納めであり、中村錦之助の見納めであった。
中村錦之助との再会時には萬屋錦之助と名前が代わっていた。

仁義なき戦い 代理戦争

2021-04-06 06:56:54 | 映画
シリーズの記念すべき第1作は2019年8月15日に掲載しています。
バックナンバーからお読みください。
今回は第3作。

「仁義なき戦い 代理戦争」 1973年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 小林旭 渡瀬恒彦 山城新伍
   池玲子 中村英子 金子信雄 成田三樹夫
   加藤武 山本麟一 川谷拓三 汐路章
   内田朝雄 遠藤辰雄 室田日出男
   田中邦衛 丹波哲郎 梅宮辰夫

ストーリー
昭和三十五年四月、広島市最大の暴力団村岡組の第一の実力者杉原が九州のやくざに殺された。
杉原の兄弟分打本組々長打本はこの時、きっちりと落し前をつけなかったために、村岡組の跡目をめぐって熾烈な抗争が起こることになった。
山守も村岡組の跡目に野心をもつ一人で、広島に顔の利く広能を強引に山守組傘下に復縁させた。
一方、打本も、村岡組の幹部江田と共に広能と兄弟盃を交わし、更に日本最大の暴力団、神戸の明石組へ広能を介して盃を申し入れ、打本は明石組々長明石辰男の舎弟相原と兄弟盃を交わした。
しかし、明石組の勢力をバックに村岡組の跡目を狙う打本の思惑は村岡の気分を害することになり、跡目は山守に譲られ、山守組は広島最大の組織にのし上った。
その頃、山守系の槙原の舎弟分浜崎と打本の舎弟分小森が岩国でもめていた。
山守は傘下の者を督励して岩国へ兵隊を送った。
打本と兄弟分の広能や江田はそれには参加しなかったが、筋目を通すために松永、武田と共に打本に盃を返したために孤立無援になった打本は指を詰め、明石組へと逃れた。
明石組は早速、最高幹部の宮地や相原を広島に送った。
やむなく広能たちは打本に詫びを入れ、浜崎と小森は打本の仲裁で手打ち、という事になった。
これは事実上山守組の敗北である。
やがて、打本は兼ねての念願が叶って明石辰男から盃を受け、その傘下に加った。
結果、明石組は遂に広島にくさびを打ち込んだことになった。
山守は対抗上、明石組に対抗できる唯一の暴力団、同じ神戸の神和会と縁組みすることにして、その斡旋を広能に依頼するが、広能が冷たく拒否したことで数日後、広能は槙原の若い者に命を狙われた。


寸評
第三作にして文字通りの仁義なき戦いが繰り広げられる。
このシーリーズにおいては優柔不断ながら狡猾な金子信雄の山守が狂言回し的に描かれているのだが、本作では同様の人物として加藤武の打本が登場し、もめ事の元凶となる。
金子信雄と同様に加藤武は根性がないくせに世渡りだけはしていくヤクザの親分を面白く演じている。
打本は兄弟分が殺されたのに、理由をつけて報復を行わないことで意気地のない男だとして描かれる。
実力のない打本は巨大組織である神戸の明石組の後ろ盾を得るために、明石組に顔が利く広能と兄弟盃を交わし、その縁で明石組傘下の相原と兄弟盃を交わすことに成功する。
ところが打本はその相原に内緒で岡山の親分とも渡りをつけていたりと節操がない。
上に立つ山守や打本があやふやな態度をとるので、広能や松永たちはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりで、生き残りをかけて必死である。
ずる賢く見える田中邦衛の槙原も生き残るために必死なのかもしれない。
筋目や義理など存在しない文字通りの仁義なき戦いが繰り広げられていくのだが、目まぐるしくていったい今それぞれがどんな位置関係に居るのか分からなくなってくる。
カメラワーク、テーマ音楽と共にこのシリーズに共通するナレーションによって説明されるが、それでも誰と誰とが味方で、誰と誰とが敵なのかわからないくらい入り組んでくる。
そして他地区で起きたそれぞれの息のかかった組と組とのもめ事に首を突っ込んでいく、これまた文字通りの代理戦争が勃発する。

現実の世界でも覇権争いは常に起きていて、米ソの代理戦争は地球上のあちこちで起きていた。
ソ連が崩壊すると米国と勢力を伸ばしてきた中国の代理戦争が起き、ロシアとの代理戦争も起きている。
日本の政治社会でも地方選挙における、中央の派閥親分の代理戦争選挙が行われたりしている。
どの世界においても覇権争いには代理戦争がつきもののようである。
そして傷つくのは代理戦争を仕掛けている者ではなく、直接戦っている現場の者たちなのだ。
紛争地域の一般市民たちであり、この映画では若者たちだ。
その意味でやはりラストシーンは印象に残るものとなっている。
渡瀬恒彦の猛は母親も見放すどうしようもない青年であるが、なんとか手柄を上げたいと意気込んでいる。
仲間の裏切りもあって襲撃に失敗し、逆に殺されてしまう。
猛の葬儀が執り行われて、終わったところで広能が襲われる。
抱いていた遺骨が投げつけられ相手の車によって無残に曳きつぶされる。
母親はそれを見て泣き崩れ、「いつも犠牲になるのは若者で、その死が報いられたことはない」とのナレーションがかぶさる。
骨壺が砕け散り、散らばった骨を拾い上げ握りしめる菅原文太の広能昌三。
このラストシーンが秀逸で、このラストシーンを描くためにずっと物語が展開されてきたのだと思う。
「仁義なき戦いシリーズ」においては強烈なキャラクターの人物が登場して異彩と存在感を示している作品もあるが、この「代理戦争」においてはやはり菅原文太である。
広能昌三は彼の当たり役で、このシリーズは彼にとっても代表作になっている。

仁義

2021-04-05 08:58:12 | 映画
「仁義」 1970年 フランス


監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
出演 アラン・ドロン
   イヴ・モンタン
   ジャン・マリア・ヴォロンテ
   フランソワ・ペリエ
   ブールヴィル
   ポール・クローシェ

ストーリー
マルセイユ―パリ間の夜行列車のコンパートメント内、一人は刑事=マッティ、一人は容疑者=ボーゲル。
マッティが寝入るとボーゲルは安全ピンを取り出し、針の先をヒン曲げ手錠の鍵穴にさしこんだ……。
マルセイユから程遠くない刑務所。
年期開け近くもう出獄というコレーに古顔の看守が宝石店を襲う仕事をもちかけていた。
しかし、彼は「別に大きな仕事をしなくとも俺は食える」と断った。
コレーには仲間のリコに“貸し”があったのだ。
出所後、彼がくらい込んでいる間に勢力を伸ばしたリコを訪ね“貸し”を求めたがリコは言を左右にして断わる。
コレーは一喝してかなりの札束をものにした。
リコの追手を背後に古巣パリへ向かったコレーの車のトランクに、突っ走る列車から脱出したボーゲルが偶然もぐり込んできた。
勿論、マッティの追求は随所の非常線、検問所に及んでいた。
が、危機はリコの追手が先だった。
コレーが捕えられた時、ボーゲルの凄腕が披露された。
二人は友情を深めたが、困ったことに敵と共に札束が穴だらけになり一文ナシとなったのだった。
コレーの脳裏裡にいつかの看守の話--パリの高級宝石店の話が浮かんだ。


寸評
「仁義」という日本のヤクザ映画のような邦題がついているが、原題は「LE CERCLE ROUGE」となっている。
直訳すれば「赤い輪」となるのだが、それは冒頭で紹介されるラーマクリシュナが聞いたとされる仏陀の言葉「人はそれと知らずに必ずめぐり逢う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ずや赤い輪の中で結び合う」からきている。
本当に仏陀の言葉なのか、メルビルの創作なのかは知らないが、会うはずのなかった男たちが運命の糸にあやつられるように出会って、のっぴきならぬ対決へと追いこまれてゆくというこの映画の本筋を表している。
本筋はそうなのだが、見ている限りにおいて少々分かりづらい。
また多様な要素を詰め込んでいる長さのせいか、どこか焦点を絞り切れていないような冗長さが感じられる。

初めは乗り気でなかった看守が持ちかけた宝石強盗を、コーレイはどうしてやる気になったのかを言葉で説明することはない。
決定的なのはテーマ的にも一番の見どころになるはずのサンティの裏切りが明確に描かれていないことである。
ボーゲルが、故買屋に扮した警視のマッティからコーレイを逃がそうとするシーンだ。
字幕では、マッティが「なぜ黙ってた?」と問いかけ、ボーゲルは「仁義だ」と答えて逃げ去る。
なぜこんな会話を交わしたのか? ボーゲルはなぜ自分を追っているマッティ警視を射殺しなかったのか?
最後になってそんな疑問が湧いてくるのだが、じっくり振り返ってみると面白い推論が浮かんでくるのである。
「なぜ黙ってた?」というのは、「なぜ俺が警察の者だとハッキリ言わなかった?」と問うていたと思われる。
「仁義だ」と答えたのは、「それを言えば、コーレイは逃げずにお前を殺すかもしれない。言わないでヤツを逃がし、あんたの命も助けるのが仁義だ」という意味だったのではないかと思う。
ナイトクラブで新たな故買屋と待ち合わせているコーレイの元に、タバコ売りのバニー・ガールが赤いバラを渡すシーンがあるが、雰囲気だけで本筋に直接関係なく、カットされたっておかしくないシーンだと思われるが、コーレイが持ち帰ったバラを持ってボーゲルが見送っているから、赤いバラは裏切りの象徴だったのかもしれないし、もしかしたらサンティが罠を知らせようとしてコーレイに渡させたのではとの憶測も湧いてくる。
セリフの少ない、説明が少ない作品で、その事が憶測、推測を呼び、そこが面白い作品でもある。

主演はアラン・ドロンだが、目立っているのは警視マッティのアンドレ・ブルーヴィルと、ジャンセン役のイヴ・モンタンで、前者はその性格描写が面白い。
逮捕のためなら、ボーゲルの友人であるサンティ本人どころか、サンティの息子まで偽装逮捕したり、自ら故買屋に変装したりするような荒っぽいこともやるが、プライベートでは3匹の猫とだけ暮らす孤独な生活を送り、監査局長に対しては、いかなる容疑者にも無罪の可能性があると語る二面性のある人物として描かれている。
カッコいいのは後者のイヴ・モンタンで、幻想にうなされるアル中なのに、次に登場した時にはスキッとした変わり身を見せ、そして三脚で固定されたライフルを外し、自分の腕で目標物を射抜いているのだが、それはジャンセンという男のプライドを描いていたのだろう。
事を成し遂げウィスキーの匂いだけ嗅ぐとか、分け前はいらないと申し出たりしているのは、かれのプライドの誇示以外の何物でもない。
ラストの処理と言い、メルビルらしい作品だといえる。

白と黒

2021-04-04 13:55:18 | 映画
「白と黒」 1963年 日本


監督 堀川弘通
出演 小林桂樹 仲代達矢 井川比佐志
   千田是也 三島雅夫 東野英治郎
   山茶花究 大空真弓 淡島千景
   乙羽信子 小林哲子 木村俊恵
   西村晃 浜村純 小沢栄太郎

ストーリー
目黒の高級住宅街で殺人事件が起った。
被害者は城南弁護士会会長宗方治正の妻靖江で、発見者は夜間学校から帰宅した女中のきよだ。
捜査一課の厳重な警戒網が布かれた結果、前科四犯脇田が現場附近の不審尋問に引っかかり、宗方邸へ強盗に押し入ったことを自供した。
事件担当検事落合の尋問に脇田は殺人を自白した。
死刑廃止論者である宗方は、被害者の夫であるにもかかわらず、脇田の弁護を買って出る。
宗方の助手である浜野も弁護を担当することになった。
浜野は新進気鋭の弁護士で学生時代から宗方夫妻の世話をうけていた。
この浜野と靖江の間には、彼が書生として住みこんでいた頃から関係があった。
しかし、その浜野には、製鋼会社会長村松の娘由紀との縁談が起った。
嫉妬に狂った靖江は由紀に二人の関係を告げると言い出したため、浜野は夢中で靖江の首をしめたのだった。
浜野は脇田が捕まってはじめはよろこんだが、日がたつにつれて良心の呵責に苦しんだ。
果ては、落合に必要以上に脇田の無罪を主張した。
落合は浜野の妙にからんだ言葉に疑問を持ち、極秘裡に補充捜査をすることになった。
その間、脇田は法廷で死刑の論告を言い渡されていた。
そんな頃、浜野が真犯人であるという証拠物件の数々が捜査一課に集った。
その証拠の前に浜野は、殺人事件を自白した。
落合のメンツを捨てた再調査の、勇気と信念に対して、マスコミは一斉に拍手を送った。
ところが石川公一という一人の見知らぬ男からの手紙によって、事件はまたもや意外なところに波及した。


寸評
一種の冤罪事件物のミステリー映画だが手堅くまとめられている。
モノクロ画面がドキュメンタリー風な雰囲気を出して臨場感を高めていた。
制作された当時は売れっ子女優だった淡島千景が冒頭であっさりと殺されてしまい、その後は少し回想シーンで登場するだけ。
「殺す気?あんたは所詮、私の男妾じゃない!」とののしる彼女のキリリと締まった顔つきは、ふたりの関係と力関係を短時間に表現していて、それを演じた淡島は適役だった。
出番が少ないのに出演を承諾した東宝と淡島千景の英断に拍手だ。

冤罪事件だが、脚本の橋本忍はひとひねりどころか、ふたひねりもしていて単純な冤罪事件としていない。
作品は面白く出来上がっているが、これだけの脚本を得れば、もう少し盛り上がる映画にできたのではと思う気持ちもある。
通常、冤罪事件は検察側の執拗なまでのでっちあげ追求に耐えられず、被告がたまらずその罪を認めてしまうというものだが、この作品では被告の脇田もそのことを言ってはいるのだが、検察側の非道が描かれているわけではない。
それは、検事の小林桂樹がどこかユーモラスさも兼ね備えたいい人として描かれていて、無理やり自供を迫っているようには描かれていないからだ。
実際彼は無理やり自供を強要しているわけではない。
それは普通の冤罪ものとは違う作品を狙った橋本忍の筆によるもので、あくまでも思い込みによる冤罪の発生をメインに据えているせいだと思う。
この思い込みは浜野にも落合にもあって、そのことがこの話を面白くしている。

宗方は死刑廃止論者で、それがために自分の妻を殺した脇田の弁護を引き受けるのだが、その間の苦悩のようなものは描かれていない。
当然あるべき異常な関係に対する描き方は意外と薄っぺらい。
面白い存在は浜野の婚約者である大空真弓が演じる村松由紀だ。
彼女は浜野を疑いながらも、仮に浜野が真犯人であっても脇田が自供し、殺人犯として裁判を受けている以上、浜野は知らぬフリをしておけば良いのだと腹をくくっているようでもあるのだ。
見方によっては、一番のワルはこの女性だったのかもしれない。
ことが明るみになったところでアッサリとフランスに留学してしまう変わり身の速さを見せる女性なのだ。
手紙の一件はあったとはいうものの、この魅力的なキャラクターに対しても素通りしていたような印象を受ける。
しかし、二転三転する話ではあるが検察が真実を追求した結果であり、特別出演として松本清張や大宅壮一を登場させて、検察が誤りは誤りとして認めることの重要性を語らせている。
冤罪事件が後を絶たない中にあっての作者の訴えでもあったと思う。
ただ僕はこの映画でずっと疑問に思っていたことは、捜査検事とはいえ公判中の担当検事と担当弁護士があんなに飲食を共にしているのかなあということだった。
裁判って、なあなあなところがあるのかもな…。

知りすぎていた男

2021-04-03 08:59:07 | 映画
「知りすぎていた男」 1956年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュワート
   ドリス・デイ
   ラルフ・トルーマン
   ダニエル・ジェラン
   クリス・オルセン
   ブレンダ・デ・バンジー

ストーリー
アメリカの医者ベン・マッケナ(ジェームズ・スチュアート)はブロードウェイのミュージカル・スターだったジョー夫人(ドリス・デイ)と、7歳になる息子ハンクを連れて、パリでひらかれた医学会議に出席した後フランス領モロッコへ旅をした。
カサブランカからマラケシュへ行く途中、バスの中でマッケナ夫妻がアラビア人の男に捕って困っているとき、ルイ・ベルナール(ダニエル・ジェラン)というフランス人の若い男に助けられる。
マッケナ夫妻が2人だけで食事に出かけるとイギリス人のドレイトン夫妻(バーナード・マイルス 、ブレンダ・デ・バンジー)がジョーの姿を認めて話しかけてきた。
翌日、ベン夫妻とハンクはドレイトン夫妻と一緒にマラケシュの市場を見物に出かけると、1人のアラビア人が何者かに殺され、アラビア人は息をひきとるまえにベンの耳に秘密を告げた。
しかも、アラビア人と思ったのは、ルイ・ベルナールの変装だった。
マッケナ夫妻は証人として警察に連れて行かれ、ドレイトン夫人はハンクを連れてホテルに帰る。
ベンにベルナールが最後に云った「アンブローズ・チャペル」という謎の言葉を話したらハンクを殺すという脅迫の電話がかかる。
ベンはハンクのことが気になるので、一緒にきたドレイトンを先にホテルに帰らせて様子を探らせることにする。
マッケナ夫妻が釈放されて、ホテルに戻るとドレイトン夫妻はすでにモヌケのカラ。
ベンとジョーは後を追ってロンドンに向かう。
ロンドンに着くと、ブキャナン警視(ラルフ・トルーマン)が待っていて、ハンクの誘拐されたことを知っており、ベルナールは暗殺計画を知るためにマラケシュに派遣されたフランスのスパイだったと告げる。
ベルナールの最後の言葉だけが謎をとく鍵であるとブキャナンは云ったが、ハンクの生命が危険にさらされるのをおそれて、ベンは謎の言葉を教えることを拒んだ。
ベンは「アンブローズ・チャペル」という言葉をたよりに捜査を続け、それが教会であることを知る。
ドレイトンはこの教会を預かっている牧師で、暗殺計画はこの礼拝堂を中心に画策されていた。


寸評
アルフレッド・ヒッチコックはサスペンス・スリラーと呼ばれるジャンルの作品を何本も撮った監督だが、そのどれもが僕から見ればB級作品に該当するもので大作ではないし、芸術性に富んだものでもない。
しかしヒッチコック風といった作風を持っているし、そんな映画を愛するヒッチコック・ファンも大勢いた。
その昔、日本のテレビでもヒッチコック劇場と言う番組も放送されていたように思う。
この作品はその中でも上質の部類だ。

この作品のドリス・デイはエレガンスで素敵だ。
僕の中ではドリス・デイは「センチメンタル・ジャーニー」によって歌手としての印象が強い。
「二人でお茶を」や西部劇風ミュージカル映画の「カラミティ・ジェーン」などのヒット映画もあるようだが僕は未見で、この作品もリアル鑑賞ではなく初見は名画座での鑑賞である。
その前に、この作品の主題歌である彼女の歌う「ケ・セラ・セラ」を曲名のユニークさと共に知っていて、そちらのほうから入った作品と言ってもいいかもしれない。
僕にとっては映画の出来以前に、ドリス・デイの生歌が聞けることが何よりうれしい作品である。
もちろん彼女の歌う「ケ・セラ・セラ」が最大の伏線になっているのは言うまでもない。

ヒッチコックらしくというか、サスペンス映画らしく伏線があちこちに散りばめられていて作品を堪能できる。
ベンとジョー夫妻の一人息子ハンクがバスの中でイスラム教徒の顔を覆うベールを誤ってはぎ取ってしまって、それがもめ事となった時にルイ・ベルナールという男に助けられる。
バスを降りるとその男は先ほどの悶着を起こした男と親しげに話している。
ジョーが言うように怪しい行動で、じっくりと振り返ってみると二人の関係も推測されるといった内容だ。
サスペンス映画なので怪しい人物は次々と登場する。
部屋を間違えたと言って訪ねてきたリアンという男は見るからに悪人面なのでこれは伏線とはならないが、約束を反故にしたルイ・ベルナールの連れの女性が「あの夫婦ね」とつぶやくのは大きな伏線となっている。
マラケシュ料理を素手で食べるシーンも、広義の意味ではルイ・ベルナールの変装のための絵の具がベンの手によってぬぐい取られるなども映画としての接着剤となっている。

「アンブローズ・チャペル」という謎の言葉で行きつく場所をベンがすぐに発見してしまってはサスペンスとしての盛り上がりに欠けるので、ここは一ひねりしているがスゴク驚かされるものではない。
第一の場所は映画の中のお遊びの様なもので、ヒッチコック流のユーモアなのだろう。
本当のアジトの裏口から出入りする犯人たちと、表で待つジョーの姿を俯瞰的にとらえたショットはなかなかいい。
このショットは音楽会でのホールを俯瞰的にとらえるショットに引き継がれていて、こちらもホールの雰囲気を上手く伝えるなかなかいいショットになっていたと思う。
ご都合主義もあるが、音楽会ホールから大使館へとラストに向かってテンポアップしていく展開は心得たもので、ジョーがハンクの口笛を聞いた時の表情に僕はなぜか安堵の涙が流れた。
やはりドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」はいいわあ!
ラストシーンは予想がついたけれど、やはりぴたりと決まっている。

白ゆき姫殺人事件

2021-04-02 07:56:17 | 映画
「白ゆき姫殺人事件」 2014年 日本


監督 中村義洋
出演 井上真央 綾野剛 蓮佛美沙子 菜々緒
   金子ノブアキ 貫地谷しほり 谷村夕子
   谷村美月 ダンカン 秋野暢子 生瀬勝久

ストーリー
長野県のしぐれ谷国立公園内で、化粧品会社のOL・三木典子(菜々緒)が滅多刺しにされ燃やされた遺体となって発見される。
テレビワイドショー『カベミミッ!』の制作を請け負う契約ディレクターの赤星雄治(綾野剛)は、知人の狩野里沙子(蓮佛美沙子)から三木殺害に関する情報を知らされると、その内容をツイートし始めTwitter上で注目される。
赤星は狩野から、三木に恨みがあり、事件の日から失踪している同僚・城野美姫(井上真央)の存在を知る。
評判の美人だった三木の事件は、いつしか勤務する会社の目玉商品になぞらえて「白ゆき姫殺人事件」とネット上で呼ばれるようになる。
赤星がワイドショーに取り上げるべく周辺に取材すると、地味で目立たない城野は上司の篠山聡史(金子ノブアキ)と交際していたが三木に彼を奪われていて、また同期として何かと比較される存在とされていた。
赤星は城野を犯人と断定して取材を進めツイートを続けてゆく。
やがて匿名の何者かが城野の実名や学歴までもネット上で暴露する中、赤星は彼女の故郷で取材する。
知人たちは子供の頃城野が放火騒ぎを起こしたことや、呪いの力を持っているという噂を話し、城野の両親も娘を犯人と考えカメラの前で謝罪する。
だが、小学校時代の親友で引きこもりの谷村夕子(貫地谷しほり)は、『赤毛のアン』の世界に浸っていた二人の少女時代、夕子をいじめる級友を改心させようとしたおまじないで火災を起こしてしまい、以来付き合いを禁じられたことなどを語る。
しかし放送された番組の内容は城野を犯人と決め付け、魔女のような女性であると強調するものになる。
ついに城野の大学時代を知る友人が番組に抗議文を送り、赤星の行動も上司にばれたためTwitterから遠ざかるが騒ぎは収まらない。


寸評
誤解、噂、中傷などは以前からあった社会での醜いコミニュケーション部分だが、今はネットワーク社会となってツイッターなどのSNSが加わり、その広まりの速さは想像を超えるものになっている。
そして従来は発信者が曖昧ではあるがある程度特定されたのに、ネットワーク社会は発信元が誰なのかわからないケースも多い。
SNSは真実も暴き立てたり、あるいは伝えたりもするが、デマや誤報も多いのも事実で、それによる被害も現実に発生している。
本作はそのような社会で、ひとりの女性が犯人に仕立て上げられてしまう怖さと、真犯人は誰なのかというミステリー性を追求した作品だが、どちらかと言えば、サスペンスよりも無責任なネット社会の恐ろしさとそこで巻き起こる人間ドラマがメインになっていて、結構面白く仕上がっている。
主要な登場人物である映像ディレクターをツイッター利用者に設定することで、ネットでの噂の拡散とテレビのワイドショーによるいい加減な放送を重ね合わせているのが興味深い。

事件そのものを描くのではなく、人々の証言から事件及び犯人像を浮かび上がらせるのは時々見られる手法ではあるが、そこにツイッターを絡ませているのが今時の作品だ。
マスメディアもインターネットも一緒になって人間を押しつぶしていく。
作り上げられた雰囲気は、両親ですら娘を信じられなくしていく。
「ゴメンな」と誤っても、失った信頼はそう簡単に取り戻せるものではない。

映画的に見れば、井上真央の城野美姫が犯人ではないことは当然のことで、今ここでそれを明かしてもネタバレにはならないと思う。
では誰が真犯人なのかはある程度推測され、殺された三木典子が「犯人はわかっているの」といった時点でほぼ確定する。
そのへんがサスペンス性をそいでいる原因だ。
むしろ人びとの証言による城野美姫の行動が、実はこうだったのだという描き方に興味がわいた。
城野が笑っていた理由とか、魔女であると誤解される振る舞いなどだ。

菜々緒の三木典子はイヤ味な女だが、入社式だかで彼女と並んだ井上真央の 城野美姫は本当に地味だ。
映画での彼女は本当に不運な女なのだが、井上真央はこんな役がよく似合う。
小池栄子あたりがやればまた違った印象の作品になっていたかもしれない。

ワイドショーが犯人と示唆した女性が関係なかったことに関して、一言訂正とお詫びを入れるだけで済ませてしまうのは、マスメディアの報道姿勢あるいは事件を劇場化して伝えるワイドショー番組を避難していたように思うし、最後に主人公が原始的な方法でコミュニケーションをとるのは、ネットワーク社会への警鐘のように感じられた。
城野の故郷へ謝罪に訪れた赤星を、暴走する車が危うく轢きかけるが、心配して運転席から出てきたのは城野で、その彼女に赤星は愚痴ってしまい、城野は「きっと何かいいことがありますよ」と励ます。
当事者同志なのにお互い顔も知らないでいるネット社会への皮肉だったのだろう。

ションベン・ライダー

2021-04-01 08:50:30 | 映画
「ションベン・ライダー」 1963年 日本


監督 相米慎二
出演 藤竜也 河合美智子 永瀬正敏 坂上忍
   鈴木吉和 原日出子 桑名将大 木之元亮
   財津一郎 村上弘明 寺田農 伊武雅刀
   きたむらあきこ 倍賞美津子 前田武彦

ストーリー
ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)、ブルース(河合美智子)の三人の中学生はガキ大将のデブナガ(鈴木吉和)にいつもいじめられており、今日こそやっつけてやろうというとき、そのデブナガが三人の眼の前で誘拐されてしまった。
デブナガの父(前田武彦)が覚醒剤をタレ流していることに腹を立てた横浜のヤクザ極龍会のイヤガラセだ。
誘拐したのは極龍会の組員、山(桑名将大)と政(木之元亮)だが、マスコミはこの事件を派手に報道し、組ではもてあましていた。
一方、三人の中学生は横浜に向い、そこで、極龍会の組員で、山と政の二人を連れ戻すように命令を受けている中年のヤクザ、厳兵(藤竜也)と出会い、一緒にデブナガ救出しようと持ちかけ、厳兵はしぶしぶ承諾する。
その頃、デブナガは熱海から名古屋に連れ去られていた。
一方、ヤク中で暴力的な厳兵を嫌う辞書はブルースと一緒に、熱海に研修会に来ていたアラレ先生(原日出子)を救出作戦に巻き込んでしまう。
一方、別行動をとっていたジョジョと厳兵は山と政を貯木場に追いつめており、そこへ、ブルース、辞書、アラレも到着した。
運河に浮かぶ木の上で大迫跡が繰り広げられ、厳兵とブルースは負傷し、アラレも橋から落ちて傷だらけ、そして、山と政、デブナガはどこかへ逃げ去っていた。
クサる厳兵や辞書たちのところに島田組の者が現れ、協力を申し出てきた。
腹では極龍会を支配しようと考えている島田組の招待で五人は飲めや歌えの大騒ぎをする。
しかし、厳兵は島田の援助を断ると、山たちが逃げたと思われる大阪へ向った。
そんな厳兵の姿に、ブルースは心惹かれるものを感じる。


寸評
いじめっ子に仕返しをしようとしている三人の少年少女が居て、そのいじめっ子がやくざに誘拐されてしまったので、その行方を三人で追っているだけの単純な話なのだがストーリー性はない。
したがってストーリーを追って見ている分には面白くない映画である。
説明不足だと思う部分は多々あるが、カメラはそんな観客の疑問を置き去りにして、相米監督の代名詞でもある長回しが駆使されながら延々と少年少女三人を捕らえつづけていく。
カメラは移動したりパンしたりするがカット割りは極めて少ない。
ほとんど遠くから写されるために個々の表情は詳しくは分からないが、三人は全身で演技をしている。
後に名実兼ね備えた一流俳優に成長するこれがデビュー作の永瀬正敏や坂上忍らが若さ溢れるイキのいい演技をみせている。
なかでもボーイッシュなハツラツ少女を演じた河合美智子からは、少女でも大人でもない正にこの時代の一瞬のきらめきが感じられ忘れがたい印象を残す。
自分は男だと言い、自分をボクと呼んで男の子二人と仲良くやっているのだが、ブルースが海に入るシーンはジョジョと辞書の男二人と本来は女であるブルースの決定的な溝を感じさせるいいシーンだ。

その他、橋から木場へと続く追跡シーンや、軽トラに自転車で追いついて飛び移るシーンなどが印象深い。
横浜へ行ったり名古屋へ行ったりと夏休みの子供たちにとっての冒険映画となっている。
冒険はデブナガを救い出すと言う単純なものなのだが、その単純さから脱線しそうになるいくつもの場面は迷走しているとさえ思えるものなのだが、それを相米独特の長回しが捕らえ続けることで転覆を免れている。
物語の迷走を引き起こしているのは、少年少女達の予測不能あるいは意味不明の危なっかしい行動だ。
実際にはあり得ない行動なのだが、少年時代を思い起こす時、もしかしたら自分も同じようなことをしたかもしれないと思わせるノスタルジーを感じさせるのがこの映画の魅力だ。
ノスタルジーを感じさせるのは映画の中の夏が僕の中にある懐かしい夏感覚にマッチしていたからなんだと思う。
あの頃の夏は冬と違って開放的になり、ヤクザと付き合うことはなかったが危なっかしいこともやってみたくなったし、大人の世界に潜り込んで随分と背伸びした体験をしたものだったように思う。
2軒隣のオジサンはスゴイ刺青をしていたが恐ろしくはなかった。
そのオジサンは僕を可愛がってくれてウナギ釣りの仕掛けによく連れて行ってくれた。
僕はその川に2回もはまって流され、その家のオバサンに助けられた。
懐かしい・・・。

役名がそのまま芸名になったこれがデビュー作の河合美智子は、主題歌の「わたし・多感な頃」でも歌手デビューも果たしている。
1996年のNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」に通天閣の歌姫こと叶麗子をモデルにしたオーロラ輝子役で出演して一気に知名度を上げ、紅白歌合戦にも出場したのだが、この作品での彼女はブラジャーもつけずに頑張っていてボーイッシュな少女を好演している。
原日出子のアラレ先生までノーブラだったのはなぜなんだろう。
へんなところに気が行った。