「仁義」 1970年 フランス
監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
出演 アラン・ドロン
イヴ・モンタン
ジャン・マリア・ヴォロンテ
フランソワ・ペリエ
ブールヴィル
ポール・クローシェ
ストーリー
マルセイユ―パリ間の夜行列車のコンパートメント内、一人は刑事=マッティ、一人は容疑者=ボーゲル。
マッティが寝入るとボーゲルは安全ピンを取り出し、針の先をヒン曲げ手錠の鍵穴にさしこんだ……。
マルセイユから程遠くない刑務所。
年期開け近くもう出獄というコレーに古顔の看守が宝石店を襲う仕事をもちかけていた。
しかし、彼は「別に大きな仕事をしなくとも俺は食える」と断った。
コレーには仲間のリコに“貸し”があったのだ。
出所後、彼がくらい込んでいる間に勢力を伸ばしたリコを訪ね“貸し”を求めたがリコは言を左右にして断わる。
コレーは一喝してかなりの札束をものにした。
リコの追手を背後に古巣パリへ向かったコレーの車のトランクに、突っ走る列車から脱出したボーゲルが偶然もぐり込んできた。
勿論、マッティの追求は随所の非常線、検問所に及んでいた。
が、危機はリコの追手が先だった。
コレーが捕えられた時、ボーゲルの凄腕が披露された。
二人は友情を深めたが、困ったことに敵と共に札束が穴だらけになり一文ナシとなったのだった。
コレーの脳裏裡にいつかの看守の話--パリの高級宝石店の話が浮かんだ。
寸評
「仁義」という日本のヤクザ映画のような邦題がついているが、原題は「LE CERCLE ROUGE」となっている。
直訳すれば「赤い輪」となるのだが、それは冒頭で紹介されるラーマクリシュナが聞いたとされる仏陀の言葉「人はそれと知らずに必ずめぐり逢う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ずや赤い輪の中で結び合う」からきている。
本当に仏陀の言葉なのか、メルビルの創作なのかは知らないが、会うはずのなかった男たちが運命の糸にあやつられるように出会って、のっぴきならぬ対決へと追いこまれてゆくというこの映画の本筋を表している。
本筋はそうなのだが、見ている限りにおいて少々分かりづらい。
また多様な要素を詰め込んでいる長さのせいか、どこか焦点を絞り切れていないような冗長さが感じられる。
初めは乗り気でなかった看守が持ちかけた宝石強盗を、コーレイはどうしてやる気になったのかを言葉で説明することはない。
決定的なのはテーマ的にも一番の見どころになるはずのサンティの裏切りが明確に描かれていないことである。
ボーゲルが、故買屋に扮した警視のマッティからコーレイを逃がそうとするシーンだ。
字幕では、マッティが「なぜ黙ってた?」と問いかけ、ボーゲルは「仁義だ」と答えて逃げ去る。
なぜこんな会話を交わしたのか? ボーゲルはなぜ自分を追っているマッティ警視を射殺しなかったのか?
最後になってそんな疑問が湧いてくるのだが、じっくり振り返ってみると面白い推論が浮かんでくるのである。
「なぜ黙ってた?」というのは、「なぜ俺が警察の者だとハッキリ言わなかった?」と問うていたと思われる。
「仁義だ」と答えたのは、「それを言えば、コーレイは逃げずにお前を殺すかもしれない。言わないでヤツを逃がし、あんたの命も助けるのが仁義だ」という意味だったのではないかと思う。
ナイトクラブで新たな故買屋と待ち合わせているコーレイの元に、タバコ売りのバニー・ガールが赤いバラを渡すシーンがあるが、雰囲気だけで本筋に直接関係なく、カットされたっておかしくないシーンだと思われるが、コーレイが持ち帰ったバラを持ってボーゲルが見送っているから、赤いバラは裏切りの象徴だったのかもしれないし、もしかしたらサンティが罠を知らせようとしてコーレイに渡させたのではとの憶測も湧いてくる。
セリフの少ない、説明が少ない作品で、その事が憶測、推測を呼び、そこが面白い作品でもある。
主演はアラン・ドロンだが、目立っているのは警視マッティのアンドレ・ブルーヴィルと、ジャンセン役のイヴ・モンタンで、前者はその性格描写が面白い。
逮捕のためなら、ボーゲルの友人であるサンティ本人どころか、サンティの息子まで偽装逮捕したり、自ら故買屋に変装したりするような荒っぽいこともやるが、プライベートでは3匹の猫とだけ暮らす孤独な生活を送り、監査局長に対しては、いかなる容疑者にも無罪の可能性があると語る二面性のある人物として描かれている。
カッコいいのは後者のイヴ・モンタンで、幻想にうなされるアル中なのに、次に登場した時にはスキッとした変わり身を見せ、そして三脚で固定されたライフルを外し、自分の腕で目標物を射抜いているのだが、それはジャンセンという男のプライドを描いていたのだろう。
事を成し遂げウィスキーの匂いだけ嗅ぐとか、分け前はいらないと申し出たりしているのは、かれのプライドの誇示以外の何物でもない。
ラストの処理と言い、メルビルらしい作品だといえる。
監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
出演 アラン・ドロン
イヴ・モンタン
ジャン・マリア・ヴォロンテ
フランソワ・ペリエ
ブールヴィル
ポール・クローシェ
ストーリー
マルセイユ―パリ間の夜行列車のコンパートメント内、一人は刑事=マッティ、一人は容疑者=ボーゲル。
マッティが寝入るとボーゲルは安全ピンを取り出し、針の先をヒン曲げ手錠の鍵穴にさしこんだ……。
マルセイユから程遠くない刑務所。
年期開け近くもう出獄というコレーに古顔の看守が宝石店を襲う仕事をもちかけていた。
しかし、彼は「別に大きな仕事をしなくとも俺は食える」と断った。
コレーには仲間のリコに“貸し”があったのだ。
出所後、彼がくらい込んでいる間に勢力を伸ばしたリコを訪ね“貸し”を求めたがリコは言を左右にして断わる。
コレーは一喝してかなりの札束をものにした。
リコの追手を背後に古巣パリへ向かったコレーの車のトランクに、突っ走る列車から脱出したボーゲルが偶然もぐり込んできた。
勿論、マッティの追求は随所の非常線、検問所に及んでいた。
が、危機はリコの追手が先だった。
コレーが捕えられた時、ボーゲルの凄腕が披露された。
二人は友情を深めたが、困ったことに敵と共に札束が穴だらけになり一文ナシとなったのだった。
コレーの脳裏裡にいつかの看守の話--パリの高級宝石店の話が浮かんだ。
寸評
「仁義」という日本のヤクザ映画のような邦題がついているが、原題は「LE CERCLE ROUGE」となっている。
直訳すれば「赤い輪」となるのだが、それは冒頭で紹介されるラーマクリシュナが聞いたとされる仏陀の言葉「人はそれと知らずに必ずめぐり逢う。たとえ互いの身に何が起こり、どのような道をたどろうとも、必ずや赤い輪の中で結び合う」からきている。
本当に仏陀の言葉なのか、メルビルの創作なのかは知らないが、会うはずのなかった男たちが運命の糸にあやつられるように出会って、のっぴきならぬ対決へと追いこまれてゆくというこの映画の本筋を表している。
本筋はそうなのだが、見ている限りにおいて少々分かりづらい。
また多様な要素を詰め込んでいる長さのせいか、どこか焦点を絞り切れていないような冗長さが感じられる。
初めは乗り気でなかった看守が持ちかけた宝石強盗を、コーレイはどうしてやる気になったのかを言葉で説明することはない。
決定的なのはテーマ的にも一番の見どころになるはずのサンティの裏切りが明確に描かれていないことである。
ボーゲルが、故買屋に扮した警視のマッティからコーレイを逃がそうとするシーンだ。
字幕では、マッティが「なぜ黙ってた?」と問いかけ、ボーゲルは「仁義だ」と答えて逃げ去る。
なぜこんな会話を交わしたのか? ボーゲルはなぜ自分を追っているマッティ警視を射殺しなかったのか?
最後になってそんな疑問が湧いてくるのだが、じっくり振り返ってみると面白い推論が浮かんでくるのである。
「なぜ黙ってた?」というのは、「なぜ俺が警察の者だとハッキリ言わなかった?」と問うていたと思われる。
「仁義だ」と答えたのは、「それを言えば、コーレイは逃げずにお前を殺すかもしれない。言わないでヤツを逃がし、あんたの命も助けるのが仁義だ」という意味だったのではないかと思う。
ナイトクラブで新たな故買屋と待ち合わせているコーレイの元に、タバコ売りのバニー・ガールが赤いバラを渡すシーンがあるが、雰囲気だけで本筋に直接関係なく、カットされたっておかしくないシーンだと思われるが、コーレイが持ち帰ったバラを持ってボーゲルが見送っているから、赤いバラは裏切りの象徴だったのかもしれないし、もしかしたらサンティが罠を知らせようとしてコーレイに渡させたのではとの憶測も湧いてくる。
セリフの少ない、説明が少ない作品で、その事が憶測、推測を呼び、そこが面白い作品でもある。
主演はアラン・ドロンだが、目立っているのは警視マッティのアンドレ・ブルーヴィルと、ジャンセン役のイヴ・モンタンで、前者はその性格描写が面白い。
逮捕のためなら、ボーゲルの友人であるサンティ本人どころか、サンティの息子まで偽装逮捕したり、自ら故買屋に変装したりするような荒っぽいこともやるが、プライベートでは3匹の猫とだけ暮らす孤独な生活を送り、監査局長に対しては、いかなる容疑者にも無罪の可能性があると語る二面性のある人物として描かれている。
カッコいいのは後者のイヴ・モンタンで、幻想にうなされるアル中なのに、次に登場した時にはスキッとした変わり身を見せ、そして三脚で固定されたライフルを外し、自分の腕で目標物を射抜いているのだが、それはジャンセンという男のプライドを描いていたのだろう。
事を成し遂げウィスキーの匂いだけ嗅ぐとか、分け前はいらないと申し出たりしているのは、かれのプライドの誇示以外の何物でもない。
ラストの処理と言い、メルビルらしい作品だといえる。
駅では、パリ行きの夜行列車が発車寸前。
車から降りた二人の男が、列車まで懸命に走る。
しかし、二人の姿が何となくぎこちない。
よく見るとお互い手錠で繋がれているのだ--------。
この映画「仁義」は、発端からこのような犯罪ムードとサスペンスを画面いっぱいに漂わせながら展開していく。
決して会ってはならない5人の男--------。
それが運命の糸に操られて、のっぴきならない対決へと追い込まれていく。
友情を縦糸に、裏切りを横糸に、意地と仁義の男の世界が、息もつかせぬサスペンスのうちに、織りなされるのです。
「いぬ」「サムライ」「影の軍隊」と、常に厳しい規律と仁義に生きる男たちの世界を描き続けてきた、フランス映画のフィルム・ノワールの名匠ジャン・ピエール・メルヴィル監督が、オリジナル脚本を書き下ろした傑作だと思います。
外国映画にしては珍しい、日本映画のやくざものを思わせるような題名だが、原題は「赤い輪」で、一種の運命の輪とでも言うべきもので、日本流に言えば、生物が死んで生まれる過程を、永久に繰り返す意味の仏教の言葉「輪廻」にあたる概念を、メルヴィル監督は、きっと脳裡に描いていたに違いありません。
それはやはり、仏教で言う、生死と因果が限りなく続く意味の「流転」にも通じる思想で、この映画「仁義」の中でも、一つの輪のように動く5人の男の、避けようもない宿命を、人間模様として描き出したかったのではないかと思います。
そして、この映画のもう一つの大きな魅力は、豪華な俳優陣の競演ですね。
アラン・ドロン、イヴ・モンタンの二大スターが、初めて共演するというワクワクするような顔合わせに加え、「居酒屋」「サムライ」「Z」などの名優フランソワ・ペリエ、「大追跡」「大進撃」などのブールビル、それに「荒野の用心棒」「悪い奴ほど手が白い」などのイタリアの名優ジャン・マリア・ヴォロンテの三大俳優が出演と、とにかく映画ファンにとっては、たまらない豪華なキャスティングだ。
ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映画の特色は、常に"男の映画"であり、決して無駄口をたたかない"男たちの映画"であるということだ。
この口数の少ない男たちにとっては、当然、"行動"が大きな比重を占めることになる。
言葉のあいまいさを極力しりぞけて、ただひたすら正確な"行動の連鎖"の中に生きていく男たち--------。
それが、メルヴィル監督の一貫して追求している"男のイメージ"であり、同時に、それはメルヴィル監督の映画作家としての根本理念、いや心意気でもあると思います。
そして、「仁義」の男たちも、皆一様に口数が極端に少ない。
特に、アラン・ドロン演じるコレーとジャン・マリア・ヴォロンテ演じるボージェルは、寡黙、すばやく行動する、といった点で、極めて類似した性格を持っている。
意志が強く、いかなる場合でも感情を厳しく抑制し、黙々と行動する。
メルヴィル監督が描き続けてやまない、こういう"男のイメージ"には、アメリカのハードボイルドと日本的な意味での男らしさとの反映があると、私は確信的に思っています。
口数の少なさや、行動の迅速さなどで、ハードボイルド的人間と、日本の男らしい男とは共通性を持っているが、ハードボイルド的人間が、しばしば欲望全肯定的なのに対して、日本の男は、徹底して"ストイック"であるといった、本質的な違いがあると思います。
メルヴィル監督には、この二つの男の類型を総合して、彼自身の男のイメージを作り上げようとしているのだと思います。
彼がひたすら、ギャング映画に固執するのは、それが男の行動を純粋に追求し得る、最も適切なジャンルに他ならないからだ。
溢れるような言葉は、かえって人間の実態を捉えにくいものにするし、"寡黙と無表情"に貫かれた行動は、何よりも雄弁に、その人間の心情をそくそくと伝えてくるものなのだ。
「仁義」におけるアラン・ドロンとジャン・マリア・ボロンテの結びつきかたは、最も男らしい男の心情的連帯の典型なのだと思います。
この二人は、ただの一言も自分の気持ちを説明するような言葉はしゃべらないが、しかし、その結びつきの固さは、惚れ惚れするような見事さだ。
ボロンテが、刑事のブールビルが仕掛けた罠にかかったドロンを助けに駆けつけた時、ただ「逃げろ」とだけ言って、ドロンを逃がした後、刑事から「なぜ警察だと知らせなかった?」と問われて、「知らせたら、あいつは逃げずにお前を殺しただろう」と答える。
このボロンテの一言に、男を描いたこの映画の全てが凝縮されていると思う。
ドロンは、遂に自分の心情を説明するような言葉は、一言も語らず、ボロンテは、ブールビルの問に答えた一言だけ。
その一言に、ドロンとの固い結びつきと深い理解がひらめき、更には、敵であるブールビルへの思いやりが込められているのだ。
それから、この映画で印象的だったのは、イヴ・モンタンが、射撃に心を打ち込んで、アル中から立ち直り、男同士の心意気に命を捨てる、というシークエンスだ。
一つの技術が人生の"道"に繋がるという、日本的な発想を感じさせて、実に感慨深かったと思います。
作品に雰囲気がありました。