「コールド マウンテン」 2003年 アメリカ
監督 アンソニー・ミンゲラ
出演 ジュード・ロウ
ニコール・キッドマン
レニー・ゼルウィガー
ドナルド・サザーランド
ナタリー・ポートマン
フィリップ・シーモア・ホフマン
ストーリー
南北戦争末期の1864年。南軍兵士としてヴァージニア州の戦場に送られたインマン(ジュード・ロウ)は、瀕死の重傷を負って病院に収容される。
回復を待つ間、彼の脳裏に浮かぶのは、3年前に離れた故郷コールドマウンテンの情景と、出征前にただ一度だけ口づけを交わした恋人エイダ(ニコール・キッドマン)の面影だった。
彼女への愛に駆り立てられたインマンは、脱走兵として死罪に問われるのを覚悟で、故郷への道を歩み出す。
一方、その間に父のモンロー牧師(ドナルド・サザーランド)を亡くす不幸に見舞われたエイダは、裕福な環境から、明日の食べ物にも事欠く苦境に陥っていた。
そんな彼女を見かねて、隣人のサリー(キャシー・ベイカー)は、流れ者の女ルビー(レニー・ゼルウィガー)をエイダの農場に向かわせた。
ルビーの指導によって、エイダはたくましく生きる術を身につけていく。
その頃、インマンの徒歩での旅路は困難を極め、黒人奴隷を妊娠させて追放された牧師のヴィージー(フィリップ・シーモア・ホフマン)と道連れになったはいいが、一見気のいい農夫ジュニア(ジョヴァンニ・リビシ)に義勇軍に売り飛ばされてしまう。
なんとか脱走したインマンは、山羊飼いの老婆マディ(アイリーン・アトキンス)や若き未亡人セーラ(ナタリー・ポートマン)に助けられつつ、コールドマウンテンを目指す。
そしてついにエイダと再会し、二人は結ばれる。
しかし幸せな日々は束の間、インマンは義勇軍と撃ち合って死亡する。
戦争終結後、エイダはインマンとの間に生まれた娘と、ルビーの家族とで平和に暮らすのだった。
寸評
一つ一つのエピソードは感激的であり、時にはユーモアもあって面白い。
レニー・ゼルウィガ演じるルビーと、彼女のどうしようもないブレンダン・グリーソン演じる父親の関係は面白い。
ルビーは父親を見放していてののしってばかりいる。
その父親の登場シーンもあっけにとられるものであるが、実はステキな演奏が出来るようになっていた親父が、朝目覚めたときに窓の下で仲間を連れて演奏していたシーンなどでジーンとさせる。
インマンが一夜の宿として泊めてもらった未亡人のセーラが、亡き夫を思いインマンの胸でむせび泣くシーンなどは秀逸だったと思う。
インマンはセーラと子供を守るために必死に闘うが、前夜に女としての弱さを見せたセーラが、自分に乱暴しようとした男たちに怒りを爆発させ、インマンが開放してやろうとした男の仲間が逃げるところを射殺するシーンに、彼女の強さを垣間見た。
この時代の環境下で、女が赤ん坊と生きていくためには非情さと強さが必要なのだと思わせる。
南北戦争を背景としているが、登場する兵士は北軍も南軍もいい人間は登場しない。
セーラに殺される北軍の若者などは、赤ん坊を気遣う面を見せていたからまだマシな方だった。
全体として過去と現在、インマンとエイダの出来事が断片的に綴られる展開はいいと思うのだけれど、ただ見終わって何か物足りなさを感じたのは何故なんだろう。
インマンとエイダはたった一度のキスを想い出にお互いを結び付けているのだけれども、そこに至るまでの盛り上がりが希薄だから、どうも必死で彼女の元へ向かう姿や、彼を待ちつづける姿への説得力が希薄になっていたのではないか。
したがって、出会ってからのベッドシーンなどは、なにか付け足しのような感じで、感激するよりもニコール・キッドマンのお尻ってきれいだなといったような不謹慎な見方になってしまったのだと思っている。
もっとも、それは私の助平心の為だと言われれば反論の余地はないのだけれど・・・。
ダメ親父の援助もあって、この映画ではレニー・ゼルウィガが目立っていたと思う。
彼女が演じたルビーはエイダと違って上品ではないが、反面強い生命力と生活力を持っている。
エイダのメイドではないと宣言し、対等の立場を維持し、時としてエイダに指示する姿がたくましい。
野性的で、つっぱているけれどその実、芯は優しい女を好演していたし、実際の所、主演のジュード・ロウやニコール・キッドマンよりも登場する脇役人が味を出して随分と盛り上げている映画だ。
そんな見方をしてみるのも面白い作品なのかもしれない。
女は愛しい人を待ちつづけ、男はその人の元へ必死でたどり着こうとするシチュエーションで言えば、小林正樹監督の「人間の条件」の方が鬼気迫るものがあり、戦争の悲惨な一面を伝えていたと思う。(映画は9時間以上もあって仲代達矢が、テレビは連続ドラマで加藤剛が熱演していた)
一粒種の遺児を登場させ、希望のようなものを持たせて終るので、「人間の条件」のような絶望感を持ったまま映画館を出ることはないので、それはそれで「まあ、いいか・・・」なんだけれども。
監督 アンソニー・ミンゲラ
出演 ジュード・ロウ
ニコール・キッドマン
レニー・ゼルウィガー
ドナルド・サザーランド
ナタリー・ポートマン
フィリップ・シーモア・ホフマン
ストーリー
南北戦争末期の1864年。南軍兵士としてヴァージニア州の戦場に送られたインマン(ジュード・ロウ)は、瀕死の重傷を負って病院に収容される。
回復を待つ間、彼の脳裏に浮かぶのは、3年前に離れた故郷コールドマウンテンの情景と、出征前にただ一度だけ口づけを交わした恋人エイダ(ニコール・キッドマン)の面影だった。
彼女への愛に駆り立てられたインマンは、脱走兵として死罪に問われるのを覚悟で、故郷への道を歩み出す。
一方、その間に父のモンロー牧師(ドナルド・サザーランド)を亡くす不幸に見舞われたエイダは、裕福な環境から、明日の食べ物にも事欠く苦境に陥っていた。
そんな彼女を見かねて、隣人のサリー(キャシー・ベイカー)は、流れ者の女ルビー(レニー・ゼルウィガー)をエイダの農場に向かわせた。
ルビーの指導によって、エイダはたくましく生きる術を身につけていく。
その頃、インマンの徒歩での旅路は困難を極め、黒人奴隷を妊娠させて追放された牧師のヴィージー(フィリップ・シーモア・ホフマン)と道連れになったはいいが、一見気のいい農夫ジュニア(ジョヴァンニ・リビシ)に義勇軍に売り飛ばされてしまう。
なんとか脱走したインマンは、山羊飼いの老婆マディ(アイリーン・アトキンス)や若き未亡人セーラ(ナタリー・ポートマン)に助けられつつ、コールドマウンテンを目指す。
そしてついにエイダと再会し、二人は結ばれる。
しかし幸せな日々は束の間、インマンは義勇軍と撃ち合って死亡する。
戦争終結後、エイダはインマンとの間に生まれた娘と、ルビーの家族とで平和に暮らすのだった。
寸評
一つ一つのエピソードは感激的であり、時にはユーモアもあって面白い。
レニー・ゼルウィガ演じるルビーと、彼女のどうしようもないブレンダン・グリーソン演じる父親の関係は面白い。
ルビーは父親を見放していてののしってばかりいる。
その父親の登場シーンもあっけにとられるものであるが、実はステキな演奏が出来るようになっていた親父が、朝目覚めたときに窓の下で仲間を連れて演奏していたシーンなどでジーンとさせる。
インマンが一夜の宿として泊めてもらった未亡人のセーラが、亡き夫を思いインマンの胸でむせび泣くシーンなどは秀逸だったと思う。
インマンはセーラと子供を守るために必死に闘うが、前夜に女としての弱さを見せたセーラが、自分に乱暴しようとした男たちに怒りを爆発させ、インマンが開放してやろうとした男の仲間が逃げるところを射殺するシーンに、彼女の強さを垣間見た。
この時代の環境下で、女が赤ん坊と生きていくためには非情さと強さが必要なのだと思わせる。
南北戦争を背景としているが、登場する兵士は北軍も南軍もいい人間は登場しない。
セーラに殺される北軍の若者などは、赤ん坊を気遣う面を見せていたからまだマシな方だった。
全体として過去と現在、インマンとエイダの出来事が断片的に綴られる展開はいいと思うのだけれど、ただ見終わって何か物足りなさを感じたのは何故なんだろう。
インマンとエイダはたった一度のキスを想い出にお互いを結び付けているのだけれども、そこに至るまでの盛り上がりが希薄だから、どうも必死で彼女の元へ向かう姿や、彼を待ちつづける姿への説得力が希薄になっていたのではないか。
したがって、出会ってからのベッドシーンなどは、なにか付け足しのような感じで、感激するよりもニコール・キッドマンのお尻ってきれいだなといったような不謹慎な見方になってしまったのだと思っている。
もっとも、それは私の助平心の為だと言われれば反論の余地はないのだけれど・・・。
ダメ親父の援助もあって、この映画ではレニー・ゼルウィガが目立っていたと思う。
彼女が演じたルビーはエイダと違って上品ではないが、反面強い生命力と生活力を持っている。
エイダのメイドではないと宣言し、対等の立場を維持し、時としてエイダに指示する姿がたくましい。
野性的で、つっぱているけれどその実、芯は優しい女を好演していたし、実際の所、主演のジュード・ロウやニコール・キッドマンよりも登場する脇役人が味を出して随分と盛り上げている映画だ。
そんな見方をしてみるのも面白い作品なのかもしれない。
女は愛しい人を待ちつづけ、男はその人の元へ必死でたどり着こうとするシチュエーションで言えば、小林正樹監督の「人間の条件」の方が鬼気迫るものがあり、戦争の悲惨な一面を伝えていたと思う。(映画は9時間以上もあって仲代達矢が、テレビは連続ドラマで加藤剛が熱演していた)
一粒種の遺児を登場させ、希望のようなものを持たせて終るので、「人間の条件」のような絶望感を持ったまま映画館を出ることはないので、それはそれで「まあ、いいか・・・」なんだけれども。
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