「乱」 1985年 日本 / フランス
監督 黒澤明
出演 仲代達矢 寺尾聰 根津甚八
隆大介 油井昌由樹 加藤和夫
ピーター 植木等 田崎潤
原田美枝子 宮崎美子 加藤武
井川比佐志 野村萬斎
ストーリー
過酷な戦国時代を生き抜いてきた猛将一文字秀虎は七十歳を迎え、家督を三人の息子に譲る決心をした。
「一本の矢は折れるが、三本束ねると折れぬ」と秀虎は、長男太郎は家督と一の城を、次郎は二の城を、三郎は三の城をそれぞれ守り協力し合うように命じ、自分は三つの城の客人となって余生を過ごしたいと告げた。
隣国の領主藤巻と綾部もこれには驚いた。
しかし、末男三郎は三本の矢を自分の膝に当てて無理矢理へし折り、父秀虎の甘さをいさめた。
秀虎は激怒し、三郎と重臣の平山丹後の二人を追放した。
藤巻はその三郎の気性が気に入り、藤巻家の婿として迎え入れることにした。
一方、太郎の正室楓の方は、秀虎が大殿の名目と格式を持っていることに不満を抱き、太郎をそそのかして親子を対立させた。
実は楓の方は親兄弟を秀虎に滅ぼされた上、一の城もとりあげられているという過去をもっていた。
太郎の態度に怒った秀虎は一の城を飛び出して二の城へ向かったが、二の城の次郎とその重臣、鉄、白根、長沼の野望は一の城を手中にすることにあったため、秀虎は失意のうちに三の城へ向かわざるを得なかった。
だがここにも悲劇は待ちうけていた。
太郎と次郎が軍勢を率いて秀虎を攻めてきたのだ。
三の城は陥落、秀虎の郎党、侍女たちは全員討死し、太郎も鉄の鉄砲に狙い撃たれて死んだ。
秀虎はこの生き地獄を目の当りにして自害しようとしたが果たせず、発狂寸前のまま野をさまよい歩く。
夫の死を知った楓の方は一の城に入った次郎を誘惑、正室の末の方を殺して自分を正室にするよう懇願した。
その頃、藤巻の婿になった三郎のもとに、秀虎と道化の狂阿彌が行くあてもなくなっているという知らせが丹後から届き、三郎は即座に軍を率いて秀虎救出に向かい次郎軍と対峙した。
それを見守るのは藤巻軍と、あわよくば漁夫の利を得ようとする綾部軍だった。
寸評
緑に包まれた小高い丘の上に猪狩りを行う騎馬武者が静かに点在している。
この冒頭のシーンからして、この映画は極めて絵画的である。
ワダエミの衣装もそれに大いに貢献していた。
さらに一文字秀虎を演じている仲代達矢の大芝居が終始続いて観客を時代劇の世界へと誘う。
時代劇なればこそ仲代の演劇的な大芝居が受け入れられる。
「リア王」が三姉妹の物語であるのに対して、こちらは三兄弟の話となっている。
日本で三兄弟と言えば毛利三兄弟が思い浮かび、毛利元就の三本の矢の教えが同時に思い起こされる。
秀虎(仲代達矢)は三本の矢の教えを説くが、三男の三郎(隆大介 )は無理矢理へし折り「三本の矢でも折れる」と父を諫めるが、秀虎は自分の教えを聞かない三郎を疎ましく思う。
さらに、隠居して三人の居城を訪ね歩いて余生を送りたいというが、三郎はその甘さを非難する。
秀虎は立腹し、三郎と三郎をかばった平山(油井昌由樹)を追放してしまうのだが、ワンマンに諫言するのはいつの世でも難しい。
息子ですらそうなのだから、ましてや部下となると尚更である。
まるで同族会社におけるサラリーマン世界の縮図の様だ。
上手くいっている時は決断も早く物事がスピーディに動いていくが、上手くいかなくなるとひずみが修正されず落ちていくのも早いというのが僕のサラリーマン時代の述懐である。
口の悪い三郎が原っぱでの酒宴で父が眠りこけた時に、木を伐り日陰を作るために地面に刺してやる行為を示すことで、実は父を一番思っているのは三郎なのだとしていた。
三郎には秀虎に諫言する平山がいたのと同様に、次郎(根津甚八)には同じく諫言する鉄(くろがね)(井川比佐志)が従っていたのだが、その上を行くのが長男太郎の正室であった楓の方(原田美枝子)だ。
楓の方は一文字に滅ぼされた一族の末裔である。
太郎亡きあと次郎に取り入った楓の方は「蜘蛛巣城」における浅茅(山田五十鈴)と同様に次郎をたぶらかす。
彼女の怨念はすさまじく、父と子を争わせ、次郎の正室を殺害させ、一文字家の滅亡を冷酷なまでに画策する。
ほとんど表情を変えない冷酷な楓の方を演じた原田美枝子は山田五十鈴の浅茅と肩を並べる出来だ。
合戦シーンや城の炎上シーンなどは”流石は黒澤”と思わせるもので、このようなシーンは黒澤以外では描くことはできなかったのではないか。
これが日本映画最後の合戦シーンらしい合戦シーンを有した最後の作品となるかもしれない。
黒澤の思いは三郎の遺体に寄り添う平山によって語られる。
人間に欲望がある限り争いが起き、国境がある限り戦争はなくならない。
親兄弟ですらこのような争いが起きてしまう、人間はどうしてこんなにも愚かな生き物なのかと言っている。
人間はなどと言えるのは愚かな人間ではなく、ただひとり神だけである。
神は天から人間世界を見てそう叫んでいるのだ。
だからこの映画では上からの俯瞰シーンや見上げるシーンが多い。
それは神の目線であり、神に助けを求めるしかない人間の目線である。
監督 黒澤明
出演 仲代達矢 寺尾聰 根津甚八
隆大介 油井昌由樹 加藤和夫
ピーター 植木等 田崎潤
原田美枝子 宮崎美子 加藤武
井川比佐志 野村萬斎
ストーリー
過酷な戦国時代を生き抜いてきた猛将一文字秀虎は七十歳を迎え、家督を三人の息子に譲る決心をした。
「一本の矢は折れるが、三本束ねると折れぬ」と秀虎は、長男太郎は家督と一の城を、次郎は二の城を、三郎は三の城をそれぞれ守り協力し合うように命じ、自分は三つの城の客人となって余生を過ごしたいと告げた。
隣国の領主藤巻と綾部もこれには驚いた。
しかし、末男三郎は三本の矢を自分の膝に当てて無理矢理へし折り、父秀虎の甘さをいさめた。
秀虎は激怒し、三郎と重臣の平山丹後の二人を追放した。
藤巻はその三郎の気性が気に入り、藤巻家の婿として迎え入れることにした。
一方、太郎の正室楓の方は、秀虎が大殿の名目と格式を持っていることに不満を抱き、太郎をそそのかして親子を対立させた。
実は楓の方は親兄弟を秀虎に滅ぼされた上、一の城もとりあげられているという過去をもっていた。
太郎の態度に怒った秀虎は一の城を飛び出して二の城へ向かったが、二の城の次郎とその重臣、鉄、白根、長沼の野望は一の城を手中にすることにあったため、秀虎は失意のうちに三の城へ向かわざるを得なかった。
だがここにも悲劇は待ちうけていた。
太郎と次郎が軍勢を率いて秀虎を攻めてきたのだ。
三の城は陥落、秀虎の郎党、侍女たちは全員討死し、太郎も鉄の鉄砲に狙い撃たれて死んだ。
秀虎はこの生き地獄を目の当りにして自害しようとしたが果たせず、発狂寸前のまま野をさまよい歩く。
夫の死を知った楓の方は一の城に入った次郎を誘惑、正室の末の方を殺して自分を正室にするよう懇願した。
その頃、藤巻の婿になった三郎のもとに、秀虎と道化の狂阿彌が行くあてもなくなっているという知らせが丹後から届き、三郎は即座に軍を率いて秀虎救出に向かい次郎軍と対峙した。
それを見守るのは藤巻軍と、あわよくば漁夫の利を得ようとする綾部軍だった。
寸評
緑に包まれた小高い丘の上に猪狩りを行う騎馬武者が静かに点在している。
この冒頭のシーンからして、この映画は極めて絵画的である。
ワダエミの衣装もそれに大いに貢献していた。
さらに一文字秀虎を演じている仲代達矢の大芝居が終始続いて観客を時代劇の世界へと誘う。
時代劇なればこそ仲代の演劇的な大芝居が受け入れられる。
「リア王」が三姉妹の物語であるのに対して、こちらは三兄弟の話となっている。
日本で三兄弟と言えば毛利三兄弟が思い浮かび、毛利元就の三本の矢の教えが同時に思い起こされる。
秀虎(仲代達矢)は三本の矢の教えを説くが、三男の三郎(隆大介 )は無理矢理へし折り「三本の矢でも折れる」と父を諫めるが、秀虎は自分の教えを聞かない三郎を疎ましく思う。
さらに、隠居して三人の居城を訪ね歩いて余生を送りたいというが、三郎はその甘さを非難する。
秀虎は立腹し、三郎と三郎をかばった平山(油井昌由樹)を追放してしまうのだが、ワンマンに諫言するのはいつの世でも難しい。
息子ですらそうなのだから、ましてや部下となると尚更である。
まるで同族会社におけるサラリーマン世界の縮図の様だ。
上手くいっている時は決断も早く物事がスピーディに動いていくが、上手くいかなくなるとひずみが修正されず落ちていくのも早いというのが僕のサラリーマン時代の述懐である。
口の悪い三郎が原っぱでの酒宴で父が眠りこけた時に、木を伐り日陰を作るために地面に刺してやる行為を示すことで、実は父を一番思っているのは三郎なのだとしていた。
三郎には秀虎に諫言する平山がいたのと同様に、次郎(根津甚八)には同じく諫言する鉄(くろがね)(井川比佐志)が従っていたのだが、その上を行くのが長男太郎の正室であった楓の方(原田美枝子)だ。
楓の方は一文字に滅ぼされた一族の末裔である。
太郎亡きあと次郎に取り入った楓の方は「蜘蛛巣城」における浅茅(山田五十鈴)と同様に次郎をたぶらかす。
彼女の怨念はすさまじく、父と子を争わせ、次郎の正室を殺害させ、一文字家の滅亡を冷酷なまでに画策する。
ほとんど表情を変えない冷酷な楓の方を演じた原田美枝子は山田五十鈴の浅茅と肩を並べる出来だ。
合戦シーンや城の炎上シーンなどは”流石は黒澤”と思わせるもので、このようなシーンは黒澤以外では描くことはできなかったのではないか。
これが日本映画最後の合戦シーンらしい合戦シーンを有した最後の作品となるかもしれない。
黒澤の思いは三郎の遺体に寄り添う平山によって語られる。
人間に欲望がある限り争いが起き、国境がある限り戦争はなくならない。
親兄弟ですらこのような争いが起きてしまう、人間はどうしてこんなにも愚かな生き物なのかと言っている。
人間はなどと言えるのは愚かな人間ではなく、ただひとり神だけである。
神は天から人間世界を見てそう叫んでいるのだ。
だからこの映画では上からの俯瞰シーンや見上げるシーンが多い。
それは神の目線であり、神に助けを求めるしかない人間の目線である。