おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

羅生門

2020-07-02 07:57:06 | 映画
「羅生門」 1950年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 森雅之 京マチ子
   志村喬 千秋実 上田吉二郎
   加東大介 本間文子

ストーリー
平安時代。雨が降る中で杣売りと旅法師が三日前に起こった恐ろしくも奇妙な事件を語り始める。
ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、侍・金沢武弘の死体を発見した。
そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。
杣売りは検非違使に届け出た。
旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された侍が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。
やがて、侍を殺した下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。
多襄丸は女を奪うため、侍を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、その後に女が「自分の恥を二人に見せたのは死ぬより辛いから、どちらか死んでくれ、生き残った方のものとなる」と言ったため、侍と一対一の決闘をして勝ったが、その間に女は逃げてしまったと証言し、短刀の行方は知らないという。
しばらくして、生き残っていた武弘の妻・真砂が検非違使に連れて来られた。
真砂によると、男に身体を許した後、男は夫を殺さずに逃げたという。
だが、眼の前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、思わず我を忘れて自分を殺すよう夫に訴えたが、余りの辛さに意識を失い、やがて気がついた時には、夫には短刀が刺さって死んでいた。
自分は後を追って死のうとしたが死ねなかったと証言した。
そして、死んだ夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。
巫女を通じて夫・武弘の霊は、妻・真砂は多襄丸に辱められた後、多襄丸に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように彼に言ったのだという。
そして、これを聞いた多襄丸は激昂し、女を生かすか殺すか夫のお前が決めていいと言ってきたのだという。
それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したという。
それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えて、杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言うのだが…。


寸評
世界にクロサワの名を知らしめた歴史的傑作。
夫(森雅之)がひく馬に乗ってやってくる妻の真砂(今日マチ子)の袈裟を風が揺るがすシーンや、彼女を盗賊の多襄丸(三船敏郎)が襲うシーンなどの光と影の交錯などがその評価の源なのだろうが、私はそれよりも何回見ても感心させられのが導入シーンだ。
木こり(志村喬)が森の奥に入っていくファーストシーンで、ただ歩くシーンが延々と続く。
そのことで、相当森の奥に分け入っていると言う事がわかるのだが、その間カットバックはない。
黙々と歩き続ける木こり役の志村喬の右から、正面へ、そして左側へと森の中をカメラは自由自在に移動するのだが、いったいどうして撮っているのだろうと思う。
このカメラワークを自慢したいのかと思うほど延々と続くのだが、実際そのカメラワークに感心してしまう冒頭のシーンである。

この話は元はといえば夫の目の前で妻が強姦されるというショッキングなものだ。
本来なば暗く深刻に沈み込んでしまうような内容なのに、どうしたわけかハツラツとした躍動感があり、むしろ生の謳歌を感じてしまう。
森の中の狭い空間に降り注ぐ木漏れ日の中で繰り広げられる出来事が、キャラクターごとに実にメリハリを持って描かれているからだ。
森雅之のシニカルな態度と苦渋に満ちた眼差しは印象的で、無言の目線は何年たってもまぶたに浮かべることができるスゴイ演技だったのだと思い知らされる。
三船敏郎は画面を自由奔放に動き回り、森雅之と対照的な暴れん坊ぶりを発揮している。
京マチ子は美しいし、女が生き延びるために必死で迫る形相と眼差しの厳しさをみせる。
一見か弱く見えた女が、強姦されたあとに男二人を手玉に取るように強い女に豹変する見事な演技である。
この三人の演技の確かさが見事なアンサンブルとなって観客をスクリーンに釘付けにする。
森の中だと暗くて鬱蒼としてそうなものだが、木漏れ日がまるで白昼の陽光のようにそれぞれに降り注ぐので、尚更躍動感を生み出していたのだろう。

検非違使での取り調べによる証言だから、現代で言えば強姦殺人事件の裁判劇だと言える。
そして当事者の二人と、霊魂の一人が証言するのだが、三者三様に言うことが違い自分の人格を守るために都合のいいように証言する。
事実はその証言とは違い、人間とはこんなにも自分に都合よく嘘をつくものなのかと訴える。
当事者三人だけでなく、その他の者たちも大同小異で人間は信じられないといった内容だ。
それでも最後には、人間がどんなに信じられない世の中になっても、善意は失われてはならないのだと一筋の光明をみせる。
それまでの豪雨がその時なってようやく止むことで、自然も仏もそれを祝福しているということを表していたと思う。

滝のようなものすごい雨の中にたたずむ崩れかけた羅生門のセットと共に、木漏れ日の映り込みなど脳裏に焼き付けられる多くの名シーンを有している映画だと思う。